斯波義銀

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斯波 義銀(しば よしかね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将本姓源氏斯波氏(武衛家)15代(最後)当主[1]尾張守護斯波義統の嫡男。弟に毛利秀頼(異説有り)、津川義冬幼名は岩竜丸。織田信長に服属後は、尾張守護であった斯波氏を称することを憚り津川[2] 義近(つがわ よしちか)と改めた(実弟の津川義冬も同様)。入道して三松軒[3] と号した。斯波大蔵(長男、早世)、津川近利(次男)、津川辰珍(三男)、津川近治(四男、別名:親行)、女子(長女、信長の甥である織田信重妻)など四男二女がいる。

出自

尾張守護。斯波氏の宗家の当主は代々左兵衛督または左兵衛佐に任ぜられ、そのため兵衛府の唐名である武衛家と称されており、義銀は義統が守護に在職している時期は若武衛、義統死後は武衛と称された。

生涯

尾張守護

父の義統は、尾張守護ではあったが実権がなく、尾張下四郡を支配する守護代織田信友の傀儡となっていたが、天文23年(1554年)に義銀が手勢を率いて川狩りに出かけている隙を衝かれて、信友とその家臣で尾張小守護代の坂井大膳によって殺害されてしまった。これを知った義銀はすぐさま織田信長に命じ、信友を討たせた。しかし尾張守護代である信友が消えることにより、以後信友よりもさらに斯波家を傀儡として利用することとなる信長が勢力を得ることとなった。

その後、義銀は信長の庇護を受け、一時は信長が内外の目をそらすため、信長の画策により、義銀を守護に奉じて、三河国吉良氏駿河国今川氏など、足利氏一門の守護同士の盟約が図られるなど、義銀は信長の傀儡として利用され続けた。

この同盟の締結時に、義銀は石橋氏(足利氏御一門)石橋義忠の戸田館において吉良氏吉良義昭と対面したが、互いに足利一門最高の格式を誇る家柄同士であったことから席次を巡って争ったという。この時のことについて、『信長公記』によれば、同盟締結のため、斯波・吉良両氏の軍勢が約束の地として定めた上野原に到着し、互いに一町ほどの距離を置いてものものしく人数を立て備えたという。参会の場では両勢の一方には吉良義昭が、その一方には義銀がそれぞれ陣前に床几を据えていたというが、両人ともに一歩も動かなかったという。実は対面の席次のことで争いがあり、双方とも譲らなかったため、対面は相互に十歩程度前へ出て顔を合わせただけで、格別の挨拶の品もなく終了したという。

追放

しかし、当初は吉良氏と席次を争っていた義銀も、斯波氏の権勢を取り戻そうと吉良氏と結んで信長の追放を画策するようになった。義銀は尾張に御座所を構えていた足利御一門の石橋義忠吉良義昭今川義元、河内の服部友貞と通じ、今川の軍勢を海上から引き入れようとしたのである。

しかし、この密議は信長に知られるところとなり、義銀は尾張を追放され、大名としての斯波武衛家は滅びた。のちに上洛した信長により、武衛家の京屋敷は、将軍・足利義昭の居城として利用された。

後半生

その後、河内国畠山高政の庇護の下、キリシタンに入信したといわれる。のちに信長と和解し、その際に名を津川義近と改めた。娘の一人を信長の弟・織田信包の長男に嫁がせ、織田家との縁を深め、織田政権下でも織田家親族中の貴種として遇された。

本能寺の変の後は、弟の津川義冬が信長の子の織田信雄の家老となっていたため、その下に義近もいたようで、義冬が信雄に殺害された後、小牧・長久手の戦いにおいてはその居城であった松ヶ島城を守ったが、羽柴秀吉に降伏しその臣下となる。

秀吉政権の下では足利義昭や山名豊国とともに御伽衆となり、当初は外交面で活躍し、東北に分家が点在する斯波家(大崎氏最上氏など)の当主として伊達政宗など東国大名との折衝にあたった。しかし小田原征伐で降った後北条氏北条氏直の赦免を秀吉に嘆願した行為が増長であるとして秀吉の怒りを買い、失脚した。のちに赦免されたものの、その後は政治的な影響力を回復することはなかった。天正17年(1589年)3月には聚楽第で発生した落書き事件に細川昭元尾藤知宣と共に巻き込まれて一時捕縛されることとなった。 慶長5年(1600年)死去。法名は衛陽院殿龐山蘊公大居士。万治元年(1658年)当時は妙心寺大嶺院に位牌及び臂鷹(鷹狩)の画像があったという。

逸話

没落後も足利一門中の第一の家門の当主として知られており、天正年間に徳川家康山名禅高(豊国)を供に義銀の屋敷を訪れた際、禅高の義銀への応対があまりにも慇懃過ぎるほどであったらしく、後に禅高は家康より「義銀は管領の家の生まれと言えども足利の分家に過ぎない。お前(禅高)は新田家の嫡流にして、そう遠くない昔までは数ヶ国を治める太守であったではないか。何故、足利の分家に(新田のお前が)そのように卑屈になるのだ」と苦言を呈されている(家康も新田氏の分家を自称していた)。

子孫

長男の大蔵は早世した(法名は法性院殿覚山元了大居士)。次男津川近利徳川家康秀忠に仕え、幕臣となった。三男津川辰珍[4]細川氏に仕え、豊前国小倉藩藩士となり、細川氏の熊本藩転封に従った。『妙解院殿忠利公御代於豊前小倉 御侍帳並び軽率末々共に』に、「千二百五十石 源 津川四郎右衛門」と「五百石 源 津川数馬」が見られる。両者の子孫は熊本藩士として続いた。

また織田有楽斎の娘を妻とした末子の津川近治(親行とも)は豊臣秀頼に仕え大坂の陣で戦死した。

また「武衛系図」には見られないが、加賀藩士人持組津田氏の祖で大聖寺城城代の津田義忠(津田正勝)は斯波義近(斯波義銀・津川義近)の子という[5]。津田家は10,000石の禄を食む加賀藩の家老職として代々続き、明治にいたって男爵を授けられ華族に列した。その際に姓を津田から斯波に復して政府に出仕した。

偏諱を与えた人物

斯波義銀 時代
  • 斯波統(むねかね、叔父(父・義統の弟))


津川義近 時代

脚注

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関連項目

参考文献

  • 今谷明藤枝文忠編 『室町幕府守護職家事典〔下〕』 新人物往来社、1988年。
  • 谷口克広 『尾張・織田一族』 新人物往来社、2008年。
  • 『歴史と旅 増刊「守護大名と戦国大名」』 秋田書店、1997年。
  • 松本寿三郎 『肥後細川家侍帳』 細川藩政史研究会、1977年。
  • 続群書類従』 「武衛系図」。


テンプレート:斯波氏歴代当主
  1. 「武衛系図」では(清和天皇から数えて)24代目とされているが、義銀の父と祖父が同家系図から漏れており、正しくは26代目にあたる。
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  3. 実はキリシタンで三松軒とは「サンショ」という洗礼名のことだともいわれる
  4. 足利義輝の遺児を称する熊本藩客将尾池義辰より偏諱を受けたものとみられるが、確定事項ではない。なお、細川氏に仕えたのは津川兄弟の方が先だったことが、『肥後細川家侍帳』より分かる。
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