畠山昭高
畠山 昭高(はたけやま あきたか、天文3年(1534年)- 元亀4年6月25日(1573年7月23日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。河内下半国及び紀伊守護。畠山政国の3男で高政、政尚の弟。初名は政頼(まさより)、秋高(あきたか)。官位は左衛門督。
生涯
兄・高政を補佐して三好長慶と争う。後に高政から家督を譲られ当主となったと目されており、足利義秋(のち足利義昭に改名)の一字を貰いうけ秋高と名乗った。なお、後に将軍になった義昭から「昭」の字の偏諱を重ねて与えられ昭高と改名したといわれるが、疑義が呈されている。
13代将軍足利義輝に相伴衆として近侍していたが、永禄の変において義輝が殺害されると、弟の義秋がいる近江の矢島御所に仕えた。矢島御所においては高政の重臣である安見宗房と共に義秋の将軍就任に尽力した。
永禄11年(1568年)に足利義昭が織田信長と共に尾張から上洛してくると、河内の高政もこれを支持する。高政は幕府を再興した義昭と信長に河内半国守護を認められた。しかし翌年、兄が重臣の遊佐信教によって紀伊に追放されると、新当主として擁立される。
元亀2年(1571年)には、河内の上半国の守護に任じられていた三好義継が反乱を起こし松永久秀と共に河内の畠山方の諸城を攻撃すると、宗房と共にこれに抵抗する。しかし遊佐信教が三好氏と同調する気配を見せたため、昭高は信長の妹を妻とし、織田氏の援軍を得て信教を倒そうとした。元亀3年(1572年)閏1月4日には、信教による昭高暗殺未遂が発生した(『多聞院日記』)。しかし、天正元年(1573年)、足利義昭と信長の対立が激化すると義昭方に付いたため(『顕如上人御書札案留』)、信長の後ろ盾を失い信教に殺された。信教は昭高の死後復帰を図った高政を退けるも、昭高の義兄である信長によって滅ぼされた(高屋城の戦い)。
その後河内は信長の家臣である佐久間信盛の統治下におかれ、畠山氏の旧臣の多くも信盛の指揮下におさまり、紀伊において命脈を保つのみとなる。しかし畠山氏の家督は甥の畠山貞政に継承され、江戸時代にも高家として存続した。
関連項目
外部リンク
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