六角定頼
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六角 定頼(ろっかく さだより)は、戦国時代の武将、守護大名。室町幕府管領代、近江守護。南近江の戦国大名。六角高頼の次男。
生涯
永正元年(1504年)、京都にある相国寺慈照院に僧侶として入り、吉侍者と称された。しかし兄の氏綱が永正3年(1506年)に細川氏との戦いで重傷を負い、永正15年(1518年)に早世したため、定頼が還俗して家督を相続することとなった。室町幕府10代将軍足利義稙の近侍として仕え、細川政賢を破るという武功を挙げている。後に義稙が追放されると12代将軍足利義晴の擁立に細川高国と共に貢献し、天文15年(1546年)に義晴からその功績により管領代に任命され、さらに従四位下に叙されることとなった。
また、一方で足利将軍家の後ろ盾として中央政治にも介入し、三好長慶とも戦っている(江口の戦い)。さらに北近江の領主・浅井久政が暗愚で家臣団の統率に齟齬をきたしているのを見て、浅井家に侵攻して事実上従属下に置くなど、六角家の全盛期を築き上げた。
天文21年(1552年)1月2日に死去。享年58。後を嫡男の義賢が継いだ。
人物
- 先進的な手法で、内政にも手腕を発揮した。大永3年(1523年)には日本の文献上では初めてという家臣団を本拠である観音寺城に集めるための城割を命じた。これは後世の一国一城令の基になったと言われている。
- 織田信長が行ったことで有名な楽市楽座を創始したのも定頼である。定頼は、経済発展のために楽市令を出して商人を城下に集め、観音寺を一大商業都市にまで成長させた。信長は後にこれを踏襲して、楽市を拡大したのである。
- 子女の多くを大名家に嫁がせるなど外交戦略も巧みで、さらに足利将軍家の後ろ盾になることで、当時では中央政治をも左右するほどの勢力を持っていた。