佐藤義則
テンプレート:Infobox baseball player 佐藤 義則(さとう よしのり、1954年9月11日 - )は、北海道出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者。愛称は「ヨシ」。テンプレート:Byから、東北楽天ゴールデンイーグルス一軍投手コーチ。テンプレート:By5月27日から7月1日までは、一軍監督代行を兼務していた。
目次
経歴
アマチュア時代
奥尻島の奥尻中学校卒業後、函館有斗高校に進む。エースとしてテンプレート:By夏の甲子園南北海道予選決勝に進出するが、苫小牧工に0-2で惜敗し甲子園出場を逸する。卒業後は日本大学に進学。当時の日大は低迷期にあり、東都大学リーグでは、テンプレート:By秋季リーグ後に二部降格(1季のみ)も経験する。しかしテンプレート:By秋季リーグでは8勝4敗の好成績をあげ、シーズン78奪三振(東都大学リーグでは円子宏の83奪三振に次ぐ当時第2位)を記録した。また同年の第5回日米大学野球選手権大会日本代表に選出されている。一部リーグ通算62試合登板、22勝21敗、防御率2.48、242奪三振。大学同期には和泉貴樹(日立製作所-日大監督)らがいる。同年秋のドラフト会議で阪急ブレーブスの1位指名を受け入団した。
プロ時代
1年目のテンプレート:Byに7勝を挙げて新人王に選出され、日本シリーズにも登板する。2年目のテンプレート:Byには初めてオールスターゲームに出場し、シーズン13勝を記録したが、ヤクルトスワローズとの日本シリーズではベンチ入りするも故障のため登板がなく、山口高志の故障離脱もあって山田久志や今井雄太郎の負担を増すこととなった。
テンプレート:Byには腰痛のため一軍登板がなく、一時期任意引退扱いとなったが、翌テンプレート:Byからリリーフ投手として復活。テンプレート:Byに先発投手に復帰した。テンプレート:Byに21勝で最多勝利のタイトルを獲得。パ・リーグでの20勝投手はテンプレート:Byの斉藤和巳まで現れず、プロ野球界では昭和時代最後の20勝投手でもあった。
テンプレート:Byには最優秀防御率のタイトルを獲得し、テンプレート:By、それまで12年連続で開幕投手を務めていた山田久志に代わってプロ入り11年目で初の開幕投手を務めた。しかし、このシーズンはわずか7勝に終わっている。テンプレート:Byオフに阪急がオリックスとなった後も、山沖之彦、星野伸之らとともに投手陣の中心として先発の一角を担った。
テンプレート:By7月12日に出身地の奥尻島が北海道南西沖地震およびそれに伴う火災と津波によって壊滅的被害を受けた翌日にオールスターゲームに選出され、7月21日の第2戦に登板し2回4奪三振を記録した。なお、この震災で叔母を亡くしており、すぐにでも故郷へ帰りたい気持ちをこらえての力投だった。
テンプレート:Byには今度は自身の所属するオリックス・ブルーウェーブの本拠地である神戸が阪神・淡路大震災に襲われ、一時は試合開催も危ぶまれる大被害を受けた。この年は8月26日の対近鉄バファローズ戦(藤井寺球場)でNPB史上最年長[1]でのノーヒットノーランを達成。チームは「がんばろうKOBE」を合言葉に一丸となって結束し、最終的にはテンプレート:By以来、11年ぶりのリーグ優勝を果たす。ヤクルトスワローズと対戦した日本シリーズでは経験を買われて第1戦に登板したが、敗戦投手となった。
翌年パ・リーグ連覇を果たした後の日本シリーズでも登板がないなど、衰えが顕著となり、テンプレート:Byシーズンを最後に、44歳で現役引退した。
落差の大きな独特の変化球は「ヨシボール」と呼ばれた。このボールは、指が短くてフォークボールが投げられない佐藤が「人差し指と中指で挟めないなら親指と人差し指で挟もう」という考えで編み出したものである。
また、時速140km/h台の速球を引退まで投げ続けることができた。
引退後
テンプレート:Byに、オリックスの二軍投手コーチへ就任した。出身地の奥尻島では、現役時代の背番号にちなんで、平成11年(1999年)11月11日に「佐藤義則野球展示室」を開設した。
テンプレート:By限りでオリックスを退団すると、テンプレート:Byには、Jスポーツの野球解説者とデイリースポーツの野球評論家を務めた。
テンプレート:Byからテンプレート:Byまで、阪神タイガースで一軍投手コーチを担当。テンプレート:Byには、星野仙一が監督の下で、チーム18年ぶりのセントラル・リーグ優勝に貢献した。
テンプレート:Byに北海道日本ハムファイターズの二軍投手コーチへ就任。翌テンプレート:Byには、一軍投手コーチとして投手陣の整備に尽力したが、同年のシーズン終了後に退団した。
テンプレート:Byに、プロ野球マスターズリーグの札幌アンビシャスへ加入。また、株式会社スーパーエージェントとマネジメント契約を結んだ。
テンプレート:Byには、札幌テレビ・STVラジオ・サンテレビ・Jスポーツで解説者として活動した後に、10月から東北楽天ゴールデンイーグルスの一軍投手コーチに就任した。
テンプレート:By12月7日に、野球殿堂入り候補者名簿(プレーヤー部門)へ掲載[2]。楽天のコーチとしてヘッド格の立場になったテンプレート:By[3]には、テンプレート:Byから一軍監督へ就任した星野の下で、球団初のパ・リーグ優勝と日本シリーズ制覇に貢献した。
テンプレート:Byには、5月26日に星野が持病の腰痛で休養したため、星野に代わって当日の対東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)を指揮(試合は1対4で敗戦)[4]。その後の診断で星野が腰椎椎間板ヘルニアと胸椎黄色靭帯骨化症を発症していることが判明したため、楽天球団では翌5月27日に、星野の休養と佐藤の監督代行就任を発表した[5]。翌5月28日の対読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)では、監督代行として4対0で初勝利[6]。7月2日、球団は二軍監督の大久保博元を一軍監督代行とすることを発表、佐藤は一軍投手コーチ専念することになった[7]。
プレースタイル・人物
投手コーチとしては、井川慶、ダルビッシュ有、武田久、田中将大などを球界を代表する投手に育て上げるなど、育成の手腕を高く評価されている。2006年の日本ハム春季キャンプでは、一軍監督のトレイ・ヒルマンに対して、投手陣の投げ込みや走り込みの大切さを説いたとされる。楽天への入団が決まった直後には、日本ハム時代の教え子であるダルビッシュが、当時楽天に在籍していた田中将大に対して電話で「ヨシさん(佐藤)の言うことは間違いない」というアドバイスを送った[8]。
詳細情報
年度別投手成績
テンプレート:By2 | 阪急 オリックス |
20 | 13 | 5 | 1 | 0 | 7 | 3 | 1 | -- | .700 | 474 | 109.2 | 104 | 11 | 50 | 2 | 5 | 75 | 4 | 0 | 48 | 47 | 3.86 | 1.40 |
テンプレート:By2 | 33 | 26 | 12 | 3 | 1 | 13 | 8 | 1 | -- | .619 | 814 | 194.0 | 176 | 22 | 73 | 1 | 6 | 114 | 3 | 0 | 88 | 78 | 3.62 | 1.28 | |
テンプレート:By2 | 26 | 17 | 11 | 1 | 0 | 10 | 6 | 2 | -- | .625 | 696 | 155.1 | 177 | 22 | 65 | 1 | 4 | 92 | 1 | 0 | 85 | 74 | 4.29 | 1.56 | |
テンプレート:By2 | 30 | 18 | 4 | 0 | 0 | 4 | 13 | 0 | -- | .235 | 615 | 135.2 | 135 | 30 | 81 | 0 | 4 | 93 | 2 | 1 | 98 | 88 | 5.84 | 1.59 | |
テンプレート:By2 | 39 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 2 | 13 | -- | .667 | 351 | 82.2 | 68 | 7 | 47 | 2 | 1 | 64 | 6 | 0 | 24 | 23 | 2.50 | 1.39 | |
テンプレート:By2 | 33 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 8 | 16 | -- | .111 | 240 | 54.2 | 48 | 8 | 28 | 2 | 2 | 52 | 0 | 0 | 29 | 25 | 4.12 | 1.39 | |
テンプレート:By2 | 33 | 28 | 17 | 4 | 0 | 17 | 6 | 1 | -- | .739 | 886 | 210.1 | 177 | 19 | 106 | 2 | 6 | 136 | 2 | 0 | 85 | 82 | 3.51 | 1.35 | |
テンプレート:By2 | 35 | 34 | 23 | 2 | 3 | 21 | 11 | 0 | -- | .656 | 1146 | 260.1 | 279 | 29 | 105 | 3 | 7 | 188 | 7 | 0 | 136 | 124 | 4.29 | 1.48 | |
テンプレート:By2 | 21 | 20 | 13 | 4 | 4 | 14 | 6 | 0 | -- | .700 | 648 | 162.0 | 144 | 19 | 34 | 3 | 4 | 105 | 6 | 0 | 53 | 51 | 2.83 | 1.10 | |
テンプレート:By2 | 27 | 20 | 9 | 1 | 0 | 7 | 8 | 3 | -- | .467 | 634 | 147.1 | 164 | 19 | 47 | 3 | 5 | 90 | 7 | 1 | 79 | 77 | 4.70 | 1.43 | |
テンプレート:By2 | 25 | 25 | 14 | 5 | 1 | 13 | 10 | 0 | -- | .565 | 820 | 195.2 | 176 | 22 | 70 | 4 | 10 | 112 | 4 | 0 | 76 | 70 | 3.22 | 1.26 | |
テンプレート:By2 | 28 | 25 | 7 | 1 | 0 | 9 | 13 | 0 | -- | .409 | 749 | 165.2 | 195 | 21 | 71 | 4 | 2 | 105 | 1 | 0 | 106 | 92 | 5.00 | 1.61 | |
テンプレート:By2 | 17 | 17 | 7 | 0 | 0 | 7 | 7 | 0 | -- | .500 | 473 | 108.2 | 111 | 18 | 41 | 1 | 2 | 83 | 7 | 1 | 63 | 58 | 4.80 | 1.40 | |
テンプレート:By2 | 28 | 7 | 1 | 0 | 0 | 3 | 8 | 8 | -- | .273 | 326 | 70.1 | 83 | 4 | 32 | 1 | 3 | 62 | 5 | 0 | 33 | 33 | 4.22 | 1.64 | |
テンプレート:By2 | 21 | 13 | 5 | 1 | 1 | 9 | 5 | 3 | -- | .643 | 472 | 115.0 | 100 | 17 | 35 | 0 | 4 | 86 | 3 | 0 | 44 | 41 | 3.21 | 1.17 | |
テンプレート:By2 | 21 | 21 | 6 | 2 | 0 | 9 | 8 | 0 | -- | .529 | 597 | 142.0 | 123 | 10 | 55 | 0 | 2 | 99 | 3 | 0 | 62 | 56 | 3.55 | 1.25 | |
テンプレート:By2 | 20 | 19 | 5 | 1 | 0 | 8 | 8 | 0 | -- | .500 | 552 | 130.1 | 126 | 14 | 42 | 2 | 2 | 93 | 5 | 0 | 54 | 51 | 3.52 | 1.29 | |
テンプレート:By2 | 16 | 15 | 2 | 1 | 0 | 4 | 2 | 0 | -- | .667 | 365 | 86.1 | 82 | 7 | 29 | 0 | 4 | 57 | 2 | 0 | 39 | 37 | 3.86 | 1.29 | |
テンプレート:By2 | 10 | 6 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | -- | .333 | 151 | 30.2 | 39 | 3 | 21 | 0 | 2 | 21 | 4 | 0 | 21 | 19 | 5.58 | 1.96 | |
テンプレート:By2 | 10 | 9 | 0 | 0 | 0 | 4 | 3 | 0 | -- | .571 | 197 | 43.1 | 50 | 5 | 22 | 1 | 0 | 22 | 1 | 0 | 23 | 21 | 4.36 | 1.66 | |
テンプレート:By2 | 8 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 38 | 8.2 | 11 | 1 | 1 | 0 | 0 | 6 | 0 | 0 | 5 | 5 | 5.19 | 1.38 | |
通算:21年 | 501 | 335 | 141 | 27 | 10 | 165 | 137 | 48 | -- | .546 | 11244 | 2608.2 | 2568 | 308 | 1055 | 32 | 75 | 1755 | 73 | 3 | 1251 | 1152 | 3.97 | 1.39 |
---|
- 各年度の太字はリーグ最高
- 阪急(阪急ブレーブス)は、1989年にオリックス(オリックス・ブレーブス)に球団名を変更
タイトル
表彰
記録
- 初記録
- 初登板:1977年5月11日、対クラウンライターライオンズ前期7回戦(西京極球場)、3回表1死に2番手として救援登板、4回2/3を無失点
- 初奪三振:同上、4回表に基満男から
- 初先発・初勝利・初完投勝利:1977年5月21日、対日本ハムファイターズ前期8回戦(阪急西宮球場)、9回1失点
- 初完封勝利:1977年9月4日、対ロッテオリオンズ後期9回戦(明治神宮野球場)
- 初セーブ:1977年10月6日、対近鉄バファローズ後期13回戦(岡山県野球場)、9回表2死に3番手として救援登板・完了、1/3回無失点
- 節目の記録
- 1000投球回:1985年5月15日、対近鉄バファローズ6回戦(阪急西宮球場)、5回表3死目に達成
- 1500投球回:1987年8月27日 対近鉄バファローズ19回戦(阪急西宮球場)、7回表2死目に達成
- 1000奪三振:同上、8回表にベン・オグリビーから ※史上74人目
- 100勝:1988年4月30日、対ロッテオリオンズ4回戦(阪急西宮球場)、9回4失点(自責点2)完投勝利 ※史上95人目
- 2000投球回:1991年4月28日、対近鉄バファローズ4回戦(藤井寺球場)、2回表2死目に達成 ※史上69人目
- 1500奪三振:1993年7月9日、対福岡ダイエーホークス14回戦(グリーンスタジアム神戸)、5回表に浜名千広から ※史上35人目
- 150勝:1994年4月19日、対千葉ロッテマリーンズ1回戦(グリーンスタジアム神戸)、9回完封勝利 ※史上39人目
- 2500投球回:1995年8月15日、対千葉ロッテマリーンズ17回戦(グリーンスタジアム神戸)、3回表1死目に達成 ※史上39人目
- 500試合登板:1998年9月26日、対福岡ダイエーホークス26回戦(グリーンスタジアム神戸)、9回表2死に2番手として救援登板・完了 ※史上69人目
- その他の記録
- ノーヒットノーラン:1995年8月26日、対近鉄バファローズ19回戦(藤井寺球場) ※史上61人目
- オールスターゲーム出場:7回 (1978年、1984年、1985年、1988年、1989年、1993年、1994年)
背番号
- 11 (1977年 - 1998年)
- 75 (1999年 - 2000年、2002年 - 2004年)
- 81 (2005年 - 2007年)
- 71 (2009年 - )
関連情報
著書
- 『大人の野球:不惑のノーヒットノーラン』(ベストセラーズ、2001年、ISBN 4-584-12008-0)
書籍
- 『佐藤義則 一流の育て方:ダルビッシュ有・田中将大との1600日』(永谷脩著、徳間書店、2010年11月 ISBN 978-4-19-863071-3)
- 『超一流の育て方:楽天イーグルス投手コーチ・佐藤義則とエースの5年間』(改題・大幅加筆・再編集、KADOKAWA(中経の文庫)、2013年12月、ISBN 9784046000866)
解説者としての出演番組
- PRIDE&SPIRIT 日本プロ野球
- STVアタックナイター
- サンテレビボックス席
- J SPORTS STADIUM - オリックス戦のみ
その他の出演番組
- 『プロフェッショナル 仕事の流儀「まっすぐ戦う、勇気を持て プロ野球東北楽天ゴールデンイーグルス投手コーチ・佐藤義則」』(2012年4月23日、NHK総合)
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:東北楽天ゴールデンイーグルス テンプレート:東北楽天ゴールデンイーグルス歴代監督 テンプレート:Navboxes
テンプレート:阪急ブレーブス1976年ドラフト指名選手- ↑ 2006年に中日の山本昌が更新
- ↑ 「平成23年 第51回競技者表彰委員会 野球殿堂入り候補者名簿」発表 - 日本野球機構オフィシャルサイト
- ↑ 星野監督 来季は「ヘッド格は佐藤で仁村は野手のチーフ」 - スポーツニッポン
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 佐藤監督代行が初白星 観戦三木谷オーナー「監督も安心すると思う」スポーツニッポン2014年5月日28配信
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 永谷脩『渡り鳥、佐藤義則を酔わせる投手とは?』 Sports Graphic Number 718号