ピンク・フロイド

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テンプレート:Infobox Musician ピンク・フロイド(Pink Floyd) は、イギリス出身のロックバンドである。サイケデリック・ロックブルースフォークなどを織り交ぜたオーソドックスなロックにけだるい叙情と幻想的なサウンドを醸し出させた音楽性、大掛かりな仕掛けとスペクタクルに富んだライブ、現代社会における人間疎外や政治問題をテーマにした文学的、哲学的な歌詞で世界的に人気を博した。プログレッシヴ・ロックとしての芸術的な側面で評価を得ている。『狂気』は5,000万枚、『ザ・ウォール』は3,000万枚そして、『炎〜あなたがここにいてほしい』は2,300万枚のセールスを記録し、レコード・CD総売り上げは2億3,000万枚(2012年時点)と、商業的にも大成功を収めた。

プログレッシヴ・ロックの代表格として扱われることが多いが、クラシック音楽ジャズをバックグラウンドに卓抜したテクニックを披露する技巧派ではなく、その音楽のもつ浮遊感・倦怠感・幻想的なサウンドは、ロックのアグレッションから離れつつ、独自の緊張感と高揚に結びついている革新的なものであった。彼らの音楽性はジ・オーブKLFなどのエレクトロニカのアーティストにも大きな影響を与えている。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第51位。

来歴

黎明期

1965年、建築学校(リージェント・ストリート・ポリテクニック、現ウェストミンスター大学)の同級生であったロジャー・ウォーターズリチャード・ライトニック・メイスンの3人は現代音楽に関して論争を交わしたことがきっかけで「シグマ6」というバンドを結成した。当初はロジャーがギターを担当[1]し、前述の3人の他にクライヴ・メットカーフ(ベース)、キース・ノーブルとジュリエット・ゲイル(共にボーカル)がメンバーに加わっていた。その後、バンド名をティー・セット、アーキテクチュラル・アブダブス、アブダブスと次々に変えながら[1]活動を続けるが、行き詰りから活動休止。同年後半、ウォーターズ、ライト、メイスンの3人は旧友のシド・バレットとギタリストのボブ・クロースを誘い、バンド名をピンク・フロイド・サウンドに改めて再出発をはかる(これはバレットが好きだったピンク・アンダーソンPink Anderson)とフロイド・カウンシルFloyd Council)という二人のアメリカのブルースミュージシャンの名前から拝借したもの)。

当初はブルースのほか、ローリング・ストーンズザ・フーの曲をコピーして演奏していたが、やがて即興演奏やライト・ショーなどを導入し、独自の道を歩み出す。純粋なブルースを志向していたボブ・クロースは方向性の違いからバンドを脱退、代わってバレットがリード・ギターを担当することになる。この頃からバレットは精力的に曲作りを始め、オリジナル曲の演奏が次第に増えていった。こうしてバンドは、バレットの感性をグループの軸に据えるようになる。

なお、ボブが脱退した際に[1]バンド名をピンク・フロイド・サウンドからピンク・フロイドに改名した。バンド名を短くしたのは、当時のマネージャーの進言によるものであった。

シド・バレット時代

ピンク・フロイドは、サイケデリック・ロック全盛の時代にクラブUFOといったアンダーグラウンド・シーンで精力的にライヴ活動を展開する[2]。バンドは徐々に認知度と評価を高め、複数のレコード会社による争奪戦の末にEMIと契約を結んだ。

1967年、シド・バレット作のシングル「アーノルド・レーン」でデビュー。歌詞が下着泥棒を示唆するものであったためラジオ・ロンドンでは放送禁止に指定されたが、全英20位のヒットとなる。続くセカンド・シングル「シー・エミリー・プレイ」は全英6位のヒットを記録する。

同年、ファースト・アルバム『夜明けの口笛吹き』をリリースする。このアルバムをレコーディングしていた時、ちょうど隣のスタジオでビートルズが『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を制作していた。ピンク・フロイドのレコーディングの様子を窺いに来たポール・マッカートニーはバンドの音楽を耳にし、「彼らにはノックアウトされた」と語ったという逸話が残っている。

当初、ピンク・フロイドはバレットのワンマン・バンドであった。しかし、過度のLSD摂取によってバレットの奇行が目立ち始め、バンド活動に支障をきたし始める。翌1968年には、彼の役割を補う形でデヴィッド・ギルモアが加入し、一時的にフロイドは5人編成となる。バレットはライヴには参加せず、曲作りに専念してもらおうとの目論見だったが、それすら不可能となるほどバレットは重症だった。

音楽性の変化

結局、バレットは1968年3月にバンドを脱退。フロイドはウォーターズ、ライト、メイスン、ギルモアの4人で再スタートすることになった。バレット脱退後、当初はシングル向けの楽曲も数曲作ったが、バンドは方針を転換してサイケデリック・ロックから脱却し、より独創性の高い音楽を目指すようになる。また、シングルもイギリスでは1968年発表の「It would be so nice」(ライト作)以降はリリースしなくなった。彼らはそれまでの直感的な即興音楽ではなく、建築学校出身の強みを生かした楽曲構成力に磨きをかけていった。こうして発表された1968年のセカンド・アルバム『神秘』は、約12分のインストゥルメンタル曲であるタイトル曲「神秘」を収録している。

1969年発表の『モア』は、バルベ・シュローダー監督の映画『モア』のサウンド・トラックとして制作された。この頃バンドはテレビ映画などのサウンド・トラックも担当していた。スタンリー・キューブリックが1968年に発表した映画『2001年宇宙の旅』ではフロイドに音楽制作の依頼が来ていたという話が伝わっている。

続く1969年発表のアルバム『ウマグマ』は2枚組で、ライブとスタジオ・レコーディングで構成されている。当時バンドは精力的にライブ活動を繰り広げており、そのライブ・パフォーマンスの一端が窺える。スタジオアルバムは、バンドメンバー4人のソロ作品である。当時バンドはライブで『The Man/The Journey』なる組曲を演奏しているが、この組曲は既に発表されている曲を組み合わせたものであり『ウマグマ』収録のスタジオ・テイクの一部も組み込まれている。

1970年には『原子心母』を発表。本作は全英1位を記録し、批評家筋からも絶賛されるなど音楽的、商業的に成功を収める。タイトル曲は収録に前衛音楽家のロン・ギーシンを招き、オーケストラを全面的に取り入れた23分にわたるロック・シンフォニーである。本作以降、フロイドはプログレッシヴ・ロックを代表するバンドとして認知されるようになる。

続く1971年発表の『おせっかい』は、セールス面では前作『原子心母』に及ばなかったがバンドが音楽的に大きく飛躍するきっかけとなった作品である。23分を越える大作「エコーズ」が収録されている。バンドはこの「エコーズ」の誕生をもって「初めてバンドがクリエイティビティを獲得した」と認識している。1971年8月には初来日し、音楽フェスティバル「箱根アフロディーテ」などでコンサートを披露した。

ロックのスターダムへ

1971年11月に『おせっかい』ツアーが終了すると、バンドは次のアルバム制作に取り掛かった。制作に先立ちウォーターズは、新作のアルバムのテーマとして「人間の内面に潜む狂気」を描くことを提案する。バンドはこのアイデアを元に組曲を作り上げ、それは翌1972年年1月のコンサートから「A Piece for Assorted Lunatics」というタイトルで披露された。これが後に大ヒットアルバムとなる『狂気』である。バンドは1972年1月からイギリスを皮切りにコンサート・ツアーを開始、1972年3月には2回目の来日を果たしている。こちらでも『狂気』の組曲が披露された。

ファイル:DarkSideOfTheMoon1973.jpg
1973年のピンク・フロイドのステージ。右からギルモア、セッション・サックスプレイヤーディック・パリー、メイスン、ウォーターズ、ライト

バンドは『狂気』制作と並行して、1972年2月下旬から再びバーベッド・シュローダー監督の映画『La Vallée』のサウンド・トラックも担当。フランスに赴き約2週間で『雲の影』を完成させた。こちらは全米46位を記録し、ウォーターズ作の「フリー・フォア」がシングル・カットされている。

1973年3月、コンセプト・アルバム狂気』を発表。本作はウォーターズが歌詞を全面的に担当した初めて作品となった。また、フロイドのアルバムに歌詞が掲載されたのはこの『狂気』が初めてだった。発売と同時に、シングル・ヒットした「マネー」とともに初の全米1位を記録するなど全世界で大ヒットを記録、音楽的にも商業的にも大成功を収める。こうして、ピンク・フロイドは一躍スターダムにのし上がった[3]

これ以後、フロイドを取り巻く環境は一変する。コンサートの観客数は大幅に増え、客層も変わっていった。このことはバンドのメンバー、特にウォーターズを大いに苛立たせることになり、1973年にコンサートツアーを終えると、バンドは長期休暇に入った。

1974年に入り、バンドは『狂気』に続くアルバムのレコーディングを開始する。当初は、楽器を一切使わずにワイングラスや輪ゴムなどの日用品を使って演奏する組曲「Household Objects」の制作を試みたが結局は断念した。

その後、6月にフランス、11月にイギリスでコンサートツアーを行った。新曲「Shine on you crazy diamond」「You've gotta be crazy」「Raving and drooling」などが披露され、次のアルバムではこの3曲を収録することが決まりかけていたが、これらの新曲を披露したコンサートを収録した海賊盤『British Winter tour』なるアルバムが大いに売れてしまったため「You've gotta be crazy」と「Raving and drooling」の収録は見送られた[4]

新たなアルバム作りは困難を極めた。『狂気』の成功で注目を集めたことによる重圧、『狂気』でやりたいことをやりつくしたという満足感、メンバーの個人的問題(ウォーターズ、メイスンがそれぞれ離婚の危機を抱えていた)などが原因であった。

1975年、難産の末の2年ぶりの新作となる『炎〜あなたがここにいてほしい』を発表。大ヒットアルバム『狂気』に続く作品ということで注目されたが、セールス面では伸び悩んだ。しかし、最終的には全米・全英ともに1位を記録。これ以後、フロイドが発表するスタジオ・アルバムはいずれも大がかりなコンセプト・アルバムの体裁をとるようになる。

ロジャー・ウォーターズ時代

バンドは次第にロジャー・ウォーターズのイニシアチブが強くなっていく。1977年発表の『アニマルズ』はコンセプトアルバムであるが、全5曲中4曲がウォーターズ単独の書き下ろしであり、ウォーターズがリード・ボーカルを担当した。サウンド面でも、それまでの幻想的な音創りは影を潜め、よりストレートなロック・サウンドとなっていった。歌詞はウォーターズ独特の社会風刺が全面的に扱われている。

『アニマルズ』発表後のツアー「Pink Floyd : In The Flesh」はヨーロッパ北米を跨り、当時のフロイドでは最大級のコンサート・ツアーとなった。このツアーの最終日である7月6日のカナダモントリオール公演で、ウォーターズは前列で大騒ぎしていた観客に激怒し、演奏途中でツバを吐き掛けるという行為に及んだ。この自らの行為が発想の引き金となって、コンサート終了後ウォーターズは次のアルバム制作に没頭する。一方、他のメンバーはそれぞれのソロ活動を開始し、デヴィッド・ギルモアは1978年に『デヴィッド・ギルモア』を発表してヒットを記録する。

1979年11月、2枚組アルバム『ザ・ウォール』を発表。シングル「アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール(パート2)」とともに大ヒットを記録した。2枚組全26曲のうち、数曲を除きウォーターズが単独で作詞・作曲を行っている。共同プロデューサーとしてアリス・クーパーのプロデュースなどで知られるボブ・エズリンが招かれ、アルバムのレコーディングには多数のセッション・ミュージシャンが招かれている。

バンド内ではウォーターズの独裁化が進み、『ザ・ウォール』のセッション途中でウォーターズがリチャード・ライトを解雇するなど、メンバー間の亀裂は深くなる一方であった。ライトは1980年から翌年にかけて行われたツアーにサポート・メンバーとして参加したが、すでに正式なメンバーでなくなっていたため同ツアーで発生した莫大な赤字に対する支払いを被らずにすんだ。

『ザ・ウォール』ツアーでは、演奏途中から観客席と舞台の間に実際に壁を構築し、それがクロジーング・ナンバー「Outside The Wall」の直前で完全に崩れ去るという大規模な演出で話題を呼んだ[5]。また、アルバムのコンセプトを具現化した映画『ピンク・フロイド ザ・ウォール』がアラン・パーカー監督の下で制作され、1981年に公開された。

1983年発表の『ファイナル・カット』は、"A Requiem For The Post War Dream by Roger Waters"(ロジャー・ウォーターズによる戦後の夢へのレクイエム)というサブタイトルから伺えるように、ピンク・フロイド名義ではあるが実質的にはウォーターズのソロ作品である。ウォーターズ以外のメンバーであるデヴィッド・ギルモアとニック・メイスンはレコーディング・セッションではウォーターズに乞われたときにしか動かないという状態だった。

当初『ファイナル・カット』に伴うコンサート・ツアーも行う予定だったが、ウォーターズがこれを中止させた。このためピンク・フロイドは活動停止状態となり、メンバーはそれぞれのソロ活動を行うことになる。すでに脱退していたライトもソロ・プロジェクトを立ち上げた。

1984年、ギルモアは『狂気のプロフィール』を、ウォーターズは『ヒッチハイクの賛否両論』を発表し、アルバムに伴うコンサートツアーも行った。しかし、両者のアルバムの売り上げ並びにコンサートの観客動員は芳しいものではなく、空席の目立つ観客席を前に演奏することが多かった。ギルモアのコンサートはわずかに黒字を確保したが、ウォーターズは(エリック・クラプトンという大物が居たにも関わらず)チケットを売り切ることが全く出来ず、大幅な損失を被ってしまった。

1985年6月、ウォーターズはマネージャーであるスティーブ・オラークとの契約を破棄しようとした。しかし、オラークはウォーターズの意に反し、引き続きピンク・フロイドの仕事を続けたため、ウォーターズはギルモアとメイスンの同意を取り付けようとするが両者は拒否、結局ウォーターズは同年12月に「ピンク・フロイドは創造性を使い切った」との理由でバンドを脱退した。ウォーターズにとっては、ピンク・フロイドはもはやその存在価値を無くしていた。ウォーターズは、リーダーである自分が脱退することでバンドの解散を意図していたが、ギルモアはフロイドの活動継続を決めた。

デヴィッド・ギルモア時代

ウォーターズは脱退後、映画『風が吹くとき』のサウンド・トラックを担当した。これはウォーターズ自身のアルバム制作のためのヒントとなり、1984年の『ヒッチハイクの賛否両論』に続くソロ・アルバムの制作につながった。ウォーターズはプロデュースをボブ・エズリンに依頼したが、エズリンはギルモア主導のピンク・フロイドの新作プロデュースのためにこのオファーを断り、ウォーターズの怒りを買った。

ギルモアはメイスンと共にピンク・フロイドの「解散」に強く反対してグループの存続を主張しており、ウォーターズの脱退を受け、自ら指揮を執って新生ピンク・フロイドを立ち上げた。ギルモアは多数の外部ミュージシャンを招聘してアルバム制作に取り掛かった。ウォーターズはこのピンク・フロイドの活動継続に激怒して訴訟を起こす。ギルモアは訴訟への対応を余儀なくされたが、『ザ・ウォール』に関する権利をウォーターズに譲ること、ステージでの「豚」のオブジェクトの使用禁止、楽曲使用に伴う収入の20パーセント強をウォーターズに支払うことなどを条件に両者は和解した。この両者の対立はマスコミやファンの注目の的となり、「ローリング・ストーン」誌のピンク・フロイド特集号はその年の同誌の売り上げナンバー・ワンとなった。

新生ピンク・フロイドは1987年に『』を発表、大掛かりなツアーを敢行してピンク・フロイドの復活を印象付けた。ウォーターズも同年にソロアルバム『RADIO K.A.O.S.』を発表した。ウォーターズは『鬱』並びに新生フロイドを「フロイドの真似事をしただけのニセモノ」と手厳しく非難した。両者は同時期にアルバムを発売し、アメリカ・ツアーではいくつかの都市で両者がバッティングすることもあったが、観客動員や注目度ではフロイドの圧勝に終わっている。

フロイドのコンサートは各地でソールド・アウトを記録して多数の追加公演が組まれ、1989年まで続く長丁場となった。1988年には3度目の来日公演も果たしている。

ウォーターズは、1990年にベルリンの壁が崩壊したのを受けて『ザ・ウォール』の再現コンサートをベルリンで行うことになった。こちらにも多数のミュージシャンが集まっての一大イベントとなった。これは評判を呼び、『ザ・ウォール〜ライブ・イン・ベルリン』としてライブ盤とビデオが発売されている。

1992年、ウォーターズはソロアルバム『死滅遊戯』を発表する。これはウォーターズ得意のコンセプト・アルバムであり、批評家からも高い評価を受けたもののセールス面ではゴールド・ディスクにとどまる。当時「200万枚売れたらツアーをやる」と公言していたが、結局このときは実現しなかった。

ピンク・フロイドは1993年秋頃に再始動し、1994年に『対(TSUI)』を発表。収録曲「孤立」はグラミー賞ベスト・ロック・インストゥルメンタル部門を受賞。そして再び大規模なコンサート・ツアーに出る。全112公演で、ツアーの総費用は2億ドルに及ぶものだった。このツアーでは『狂気』組曲を1975年以来19年ぶりに演奏し、このライブの模様を収めた『P.U.L.S.E』もリリースしたが再び沈黙に入る。

ピンク・フロイド側とロジャー・ウォーターズ側は決定的に対立し、インタビューでウォーターズとギルモアがお互いを非難しあうことが多かった。しかし1990年末より、両者の間の距離は少しずつではあるが縮まり始めていった。

2000年になって、1979年発表の『ザ・ウォール』に伴うツアーの模様を収録したライブ・アルバムザ・ウォール・ライヴ:アールズ・コート1980-1981』を発売。

2001年にはベスト・アルバムエコーズ〜啓示』をリリース。ウォーターズを含めた4人で選曲が行われ、ピンク・フロイドにとって初と言ってもいいベスト盤となった。全英・全米ともに2位を記録し、相変わらずの人気を示した。メンバーの和解による再結成の期待が高まったが、再びバンドとしての活動が無い時期が続く。

2003年、長年ピンク・フロイドのマネージャーを務めたスティーヴ・オラークが死亡。ウエスト・サセックスのチチェスター大聖堂で行われた葬儀の際、ギルモア、メイスン、ライトが「デブでよろよろの太陽」と「虚空のスキャット」の2曲を演奏する。

「LIVE 8」での再結成から現在

2005年7月2日に行われたアフリカ貧困撲滅チャリティー・イベント「LIVE 8」において、ウォーターズを含めた4人によるラインナップで再結成を果たし[6]、復活ライブを披露[7]。同イベントでも屈指の反響を得た。この一時的な再結成の後には、1億ポンド(約200億円)で全米ツアーを行わないかというオファーもあったが、ギルモアがこれを断ったことにより実現しなかった[8]

同年、イギリスの「ロックの殿堂」入りを果たす[9]。授賞式にはギルモアとメイスンが参加。ウォーターズは滞在先のローマから衛星中継で参加。ライトは目の手術のため不参加。

2006年7月7日、かつてのリーダーであったシド・バレットが死去[10]。メンバーから追悼のコメントが寄せられた。バレット死去に際して再結成の噂も聞かれたが[11]、こちらも実現しなかった[12]

同年、ギルモアの新作発売に伴うソロ・ツアーにライトが参加。また、ウォーターズのツアーにメイスンが数回参加した。5月31日には、ギルモアのロンドン公演にメイスンがゲスト出演。ギルモアからウォーターズにもゲスト参加の要請があったが、ウォーターズは自身のツアー・リハーサルに専念するとの理由で参加しなかった。

同じく2006年、『P.U.L.S.E』のDVD化(『驚異』という邦題が付けられた)に伴い、ギルモア、ライト、メイスンの3人が揃って発売記念イベントに参加。

2007年5月4日ロンドンアビー・ロード・スタジオで行われたストーム・ソーガソンの本の出版記念パーティーにギルモア、ライト、メイソンの3人が駆けつける。

同年5月10日、「アーノルド・レーン」のプロデューサーを務めたジョー・ボイド主催のシド・バレット追悼コンサート“Madcaps Last Laugh”がロンドンで行われる。クリッシー・ハインドロビン・ヒッチコックジョン・ポール・ジョーンズらと共にウォーターズ、ギルモア、ライト、メイスンが出演する。ウォーターズはショー前半のトリでジョン・カーリンを伴い「フリッカーリング・フレイム」を演奏。後半のトリにギルモア、ライト、メイスンの3人がカーリン、オアシスのベーシストのアンディ・ベルを伴い「アーノルド・レーン」を演奏する。最後に出演者全員で「バイク」を演奏したがウォーターズは現れず、4人の共演は実現しなかった[13]

2008年8月26日、「音楽界のノーベル賞」と言われるポーラー音楽賞を受賞する[14]スウェーデンストックホルムで行われた授賞式にウォーターズ、メイソンの2人が参加。2人はカール16世グスタフ国王から盾と花束を渡され、賞金100万クローナが贈られた。メイソンは、賞金について「メンバー間で分けて、それぞれ寄付する」とコメント。

同年9月15日、リチャード・ライトが65歳で死去[15]。9月19日付タイムズによるとライトは2007年12月にと診断されていた。

2010年7月、チャリティー・イベントでウォーターズとギルモアが共演[16]。さらに、チャリティー・イベントでの再結成も予定されていたが、会場の問題でキャンセルされたと報じられた[17]

2011年5月12日、ロンドンのO2アリーナでのウォーターズのツアー「The Wall Live」のステージにギルモアとメイソンが出演し、久々に3人揃っての演奏が実現した[18]

同年5月20日、ピンク・フロイドと契約を更新したEMIが「Why Pink Floyd…?」と題された世界的なリリース・キャンペーンを行うと発表[19]9月28日のリリースを皮切りに、3回に分けた大々的なリリースを展開する。各アルバムのリマスター盤、ボックスセット、ベスト・アルバム、コレクターズボックスなどの様々な形態で発売される[20]

2014年7月7日、スタジオ録音としては20年ぶりとなるアルバム『The Endless River』を、同年10月にリリースするとバンドのオフィシャル・サイトで公式発表[21]。 1993〜94年にギルモア、メイスン、ライトらで行われた『The Division Bellセッションアンビエントインストゥメンタル・ミュージックをベースに作成される。

エピソード

  • ピンク・フロイドほか数多くのアーティストのアルバム・ジャケットを手掛けているデザイン・チーム「ヒプノシス」のリーダーであるストーム・ソーガソンは、ウォーターズとバレットの高校時代からの仲間である。
  • シド・バレットの後釜のギタリストとしてジェフ・ベックを加入させるという話があった。実際にジェフ・ベックにコンタクトが取られたが、折り合いが付かず、デヴィッド・ギルモアが加入することになった。選ばれた理由は「ウマが合ったから」とのこと[22]
  • 1971年の初来日の際には、箱根で開催された野外フェスティバル「箱根アフロディーテ」のトリとして登場し、日が暮れて霧が立ち込める中で幻想的なライヴを披露した。このライブは、現在でも伝説のひとつとして語り草になっている。また、楽器をチューニングする音をオリジナルの「前衛音楽」と勘違いした観客が歓声を送ったというエピソードがある。
  • ロジャー・ウォーターズ曰く、バンド内では常に「建築家のロジャーとニック」vs「音楽家のデイヴとリック」という構図になっていたらしい。
  • ウォーターズの母親、メイスンの両親は共産党員だった。2人は大学時代に学生運動反核運動に精を出したが、メイスン自身はそれほど左翼思想に傾倒することはなかった[23]
  • 初期の頃はシド・バレットのルックスなどもあり、ややアイドル的な扱いを受けていた。メンバー全員で肩を組んで歩く姿や、笑顔で踊っている模様を収めた映像や写真が残されている。ニック・メイスンは当時を振り返り「最悪だったよ」と述べている。

メンバー

第一期: 1967-1968 『夜明けの口笛吹き』

第二期: 1968 『神秘』

  • シド・バレット
  • ロジャー・ウォーターズ
  • リチャード・ライト
  • ニック・メイスン
  • デヴィッド・ギルモア David Gilmour (ギター、ボーカル)

第三期: 1968-1979 『モア』〜『ザ・ウォール』

  • ロジャー・ウォーターズ
  • リチャード・ライト
  • ニック・メイスン
  • デヴィッド・ギルモア

第四期: 1980-1985 『ファイナル・カット』

  • ロジャー・ウォーターズ
  • ニック・メイスン
  • デヴィッド・ギルモア
※リチャード・ライトはロジャー・ウォーターズに首を宣告されたのだが、サポート・メンバーとして「ザ・ウォール・ツアー」に参加している。

第五期: 1986-1987 『鬱』

  • ニック・メイスン
  • デヴィッド・ギルモア
※リチャード・ライトはゲスト・ミュージシャンとしてアルバム「鬱」に参加(契約上の都合により正式メンバーとしてクレジット出来なかったためで、実質的には復帰を果たしていた)。ただし、後にギルモア自身が明かしたところによると、「鬱」は実質的にはギルモアのソロアルバムに近く、メイスン、ライトはほとんど関わっていないと言う。

第六期: 1987- 『光』〜『PULSE』

  • リチャード・ライト
  • ニック・メイスン
  • デヴィッド・ギルモア

再結成: 2005 LIVE 8

  • ロジャー・ウォーターズ
  • リチャード・ライト
  • ニック・メイスン
  • デヴィッド・ギルモア

ディスコグラフィー

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アルバム

発売年 タイトル(邦題) タイトル(原題) 全英順位 全米順位 全米売上
1967年 夜明けの口笛吹き The Piper At The Gates Of Dawn 6 131 -
1968年 神秘 A Saucerful Of Secrets 9 - -
1969年 モア More 9 153 -
1969年 ウマグマ Ummagumma 5 74 1,000,000
1970年 原子心母 Atom Heart Mother 1 55 500,000
1971年 ピンク・フロイドの道(コンピレーションアルバム) Relics 32 152 -
1971年 おせっかい Meddle 3 70 2,000,000
1972年 雲の影 Obscured By Clouds 6 46 500,000
1973年 狂気 The Dark Side Of The Moon 2 1 15,000,000
1973年 ナイス・ペア(コンピレーションアルバム) A Nice Pair 21 36 500,000
1975年 炎〜あなたがここにいてほしい Wish You Were Here 1 1 6,000,000
1977年 アニマルズ Animals 2 3 4,000,000
1979年 ザ・ウォール The Wall 3 1 23,000,000
1981年 時空の舞踏(コンピレーションアルバム) A Collection Of Great Dance Songs 37 31 2,000,000
1981年 ワークス〜ピンク・フロイドの遺産(コンピレーションアルバム) Works - 68 -
1983年 ファイナル・カット The Final Cut 1 6 2,000,000
1987年 A Momentary Lapse Of Reason 3 3 4,000,000
1988年 光〜PERFECT LIVE!(ライブ・アルバム) Delicate Sound Of Thunder 11 11 3,000,000
1992年 シャイン・オン(ボックスセット) Shine On - - 1,000,000
1994年 The Division Bell 1 1 3,000,000
1995年 P.U.L.S.E Pulse 1 1 2,000,000
2000年 ザ・ウォール・ライヴ:アールズ・コート1980-1981 Is There Anybody Out There? : The Wall Live 1980 - 1981 15 19 1,000,000
2001年 エコーズ〜啓示 Echoes : The Best Of Pink Floyd 2 2 4,000,000
2007年 スタジオ・ワークス Oh, By The Way - - -

全世界通算売上枚数 2億1000万枚

  • 順位はアメリカがビルボードチャート、イギリスがオフィシャルUKチャートによる最高位。
  • 売上はRIAA(全米レコード協会)による認定枚数。

シングル

  • 1967 アーノルド・レーン/キャンディー・アンド・ア・カレント・バン
  • 1967 シー・エミリー・プレイ/黒と緑のかかし
  • 1967 アップルズ・アンド・オレンジズ/絵の具箱
  • 1968 イット・ウッド・ビー・ソー・ナイス/夢に消えるジュリア
  • 1968 青空のファンタジア/ユージン、斧に気をつけろ
  • 1979 アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール(パート2)/ワン・オブ・マイ・ターンズ
  • 1983 ノット・ナウ・ジョン/ザ・ヒーローズ・リターン
  • 1987 幻の翼/理性喪失
  • 1987 現実との差異/ラン・ライク・ヘル(ライヴ)
  • 1988 理性喪失/抹消神経の凍結
  • 1994 テイク・イット・バック/天の支配(ライヴ)
  • 1994 運命の鐘/キープ・トーキング

※本国イギリスでのリリースのみ。

映像作品

日本公演

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8月6日,7日 箱根アフロディーテ、9日 大阪フェスティバルホール
3月6日,7日 東京都体育館、8日,9日 大阪フェスティバルホール、10日 京都府立体育館、13日 札幌中島スポーツセンター
3月2日,3日 日本武道館、4日,5日,6日 国立代々木競技場第一体育館、8日,9日 大阪城ホール、11日 名古屋レインボーホール

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 シンコーミュージック刊「ピンク・フロイド 吹けよ風・呼べよ嵐」(立川直樹著)より。
  2. 当時、クラブUFOでサイケデリックサウンドに興じていたバンドにはプロコル・ハルムザ・ムーヴトゥモロウなどがいた。
  3. 狂気』は、ビルボードアルバムTOP100に741週間連続(約15年)でランクインした。この記録は、現在も破られていない。
  4. この2曲は後のアルバム『アニマルズ』にタイトルが変更された上で収録されている
  5. ただし規模が大きすぎて経費手間が掛かりすぎ、実際にこの演出が行われたのは全世界で4都市のみの公演に留まった。
  6. ピンク・フロイド、ロジャーを加え再結成
  7. ピンク・フロイド、「シド・バレットに捧ぐ」
  8. ピンク・フロイド、200億円のオファーを断る
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  19. http://www.emimusic.jp/intl/pinkfloyd/
  20. ピンク・フロイド、最新リマスタリング・シリーズ、9月に世界発売
  21. http://www.pinkfloyd.com/news/index.php 'THE ENDLESS RIVER'
  22. シンコーミュージック刊『ピンク・フロイド・ファイル』p.97
  23. シンコーミュージック刊『ピンク・フロイド・ファイル』p.24

関連文献

  • 立川直樹著『ピンク・フロイド One of these days』新興楽譜出版社(現・シンコーミュージック)
  • 立川直樹著『ピンク・フロイド 吹けよ風・呼べよ嵐』新興楽譜出版社(現・シンコーミュージック)
  • カール・ダラス著、広河訳『ピンク・フロイド Bricks in the wall』CBS・ソニー出版(現・ソニー・マガジンズ)
  • ニコラス・シャフナー著、今井晴幹訳『神秘 ピンク・フロイド』JICC出版局(現・宝島社)
  • アンディ・マベット著、山崎智之訳『ピンク・フロイド全曲解説』シンコーミュージック

関連項目

外部リンク

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