マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)
テンプレート:基礎情報 君主 マクシミリアン1世(Maximilian I, 1459年3月22日 - 1519年1月12日)は、ハプスブルク家出身のオーストリア大公、神聖ローマ皇帝(在位:1493年 - 1519年)。ハプスブルク家の隆盛の基礎を築いたことから、マクシミリアン大帝と称される。また武勇に秀で立派な体躯に恵まれ、芸術の保護者であったことから、中世最後の騎士とも謳われる。ハプスブルク家ならではの多民族国家の姿が、マクシミリアン1世の時代に生み出されていった。
皇帝フリードリヒ3世と皇后エレオノーレの長男で、その名はポエニ戦争で活躍した2人のローマ人、ファビウス・マクシムス(Fabius Maximus)とスキピオ・アエミリアヌス(Scipio Aemilianus, 小スキピオ)にちなむ。
生涯
少年時代
ポルトガル王家出身(ドゥアルテ1世の娘)の母エレオノーレの影響を受け、明るく伸びやかな性格に育つ。陰気な父フリードリヒ3世にはあまり似なかった。言語面での発達が遅く、5歳まで言葉を喋れなかったという。エレオノーレの期待を一身に背負い成長するが、母はマクシミリアンが8歳のときに亡くなった。また結婚直前まで妹クニグンデの侍女であるロジーナ・クライクに思いを寄せていたとされる。
ブルゴーニュ公
経済力を手に入れたいハプスブルク家と、自身がローマ王の座につくという野望を抱くシャルル突進公[1]の利害が一致し、マクシミリアンはシャルル突進公の娘でブルゴーニュ公国唯一の後継者マリーと婚約した。しかし双方の政治的思惑もあり、なかなか結婚に至らなかった。
1477年、シャルル突進公はナンシーの戦いで戦死し、ブルゴーニュ国内は大混乱に陥った。国内では貴族が権利の拡大を画策し始め、さらにフランスもブルゴーニュに侵攻した。孤立無援のマリーは婚約者マクシミリアンに結婚(=救援)を要請し、1477年8月19日、ガンの聖バボ教会で挙式した。
マクシミリアンはフランドル及びブラバントから兵を召集したが[2]、軍事展開上必要なスイス傭兵を確保出来ず、南ドイツからも傭兵を募り[3]、スイス式の武装と戦陣の展開の訓練を施した。1479年8月、ギネガテの戦いで歩兵の密集方陣を採り[4]、ルイ11世のフランス騎士団を撃破してフランドルの領土を確保したが、これがハプスブルク家とフランス王家の確執の始まりとなった。
マリーと共に公国内の各地を歴訪したマクシミリアンは、当時辺境の地であったウィーンと比較し、フランドルの繁栄に驚かされた。彼はフランドルの文化や制度に影響を受け、懸命に学んだという。当初、マリーとは上流階級の教養語であったラテン語でコミュニケーションを取っていたが、安定な統治のために間もなくマリーからフランス語を、宮廷付きの婦人から現地語のフラマン語を学び、それぞれの言語を母国語のように理解し、読み書き出来るようになった。マクシミリアンは後に反乱に遭ったものの、おおむね好意的に受け入れられ、統治にも卓越した能力を示した。
政略結婚ではあったものの、マリーとは共に狩りに出かけたり、互いの言語を教え合ったりと非常に仲睦まじかったといわれており、フィリップとマルグリット(マルガレーテ)の2子(次男フランソワは夭折)に恵まれた。しかし1482年3月にマリーは落馬事故により死亡した。彼女は「フィリップとマルグリット2人を公国の相続人に指定し、嫡男フィリップが15歳に達するまでは夫マクシミリアンをその後見人とするものである」という遺言状に記し、家臣には夫マクシミリアンに仕えるよう言い残した。
しかしマリーの死後、フィリップが公位を継承してマクシミリアンが摂政になると、公国内の各地で反乱が起こった。以後マクシミリアンはガンをはじめとするブルゴーニュ内の反ハプスブルク派の都市や諸侯、フランス王(ルイ11世と次代のシャルル8世)との間で旧ブルゴーニュ所領を巡る戦争を続けることになった(これは1493年5月に締結されるサンリス協定まで続いた)[5]。また1482年12月に締結されたアラスの和議により2歳の娘マルグリットはフランス王太子シャルル(後のシャルル8世)と婚約させられ、フランスで養育されることとなった。
フランドル兵を失ったマクシミリアンは本格的にランツクネヒトの徴募と育成を行なうことになったが、スイス式の密集方陣を展開する戦法は従来の騎士による布陣や軍事展開に対して有利であった為、諸国のスイス人傭兵やランツクネヒトへの需要が高まり、騎士の時代は終焉を遂げることになった。
ローマ王・神聖ローマ皇帝
1486年、神聖ローマ帝国の後継者ローマ王に選出された。ただし、ここでの「神聖ローマ帝国」とは、父フリードリヒ3世が中央集権化をドイツ語民族総体レベルで推進する意図をもって「ドイツ国民の」と形容しており、すでに世界帝国的な意味は持たなくなっていた。
ドイツ諸候の賛同を得られない場合、ローマ王は戦費を自費で賄わなければならなかった[6]。戦争を継続していたマクシミリアンは軍事費としてネーデルラントにビール税など新しい税を課したが、この一方的な増税は、古くから封建制や中央集権化と対立し、地方自立主義を堅持するフランドルの州や都市には受け入れがたいものであった[7]。不満を抱いた市民たちに、フランスが密かに接近して反旗を唆したことで1488年2月、ガン、ブリュージュ、イープルを首班とする親仏派のネーデルラント諸都市はマクシミリアンをフランスへ引き渡すべく彼の身柄を拘束し、ブリュージュの商人の屋敷に幽閉した。
マクシミリアンは父フリードリヒ3世に助けを求め、同年5月にローマ王救出の帝国軍が派兵された。マクシミリアンは自由の身となりネーデルラントを後にした。帝国軍は諸都市への攻囲を行ったが、マクシミリアンの信任を得ていたフィリップ・フォン・クレーフェが諸都市側に寝返って善戦したため、諸都市を陥落させるには至らなかった。「ローマ王救出」という当初の目的が達成され駐留の意義を失った帝国軍は、同年8月頃から撤収を開始し、10月にフリードリヒ自身もネーデルラントから撤退した。この戦いで市民や商人が最も手強い相手となり、彼らと対立して窮地に追い込まれたマクシミリアンは異なる文化の統治の難しさを経験した。これ以降、彼は他の各地で商人たちを積極的に味方につける施政を摂るようになった。
オーストリアに帰国した後、1489年に一族のチロル領主ジークムント大公とマクシミリアンの妹クニグンデの婿でバイエルン公アルブレヒト4世との間に紛争が持ち上がった。マクシミリアンは血縁でもある両者の仲介を行ったが、紛争の原因はジークムントが領地を抵当にバイエルン公から莫大な借金をしながら返済しないことであった。1490年3月にマクシミリアンが借金ごとチロルを継承し、紛争は和解した。マクシミリアンはアルプスに囲まれた街インスブルックに都を置き、借金を返済のための経済改革に着手した。当時のチロルは法律も整備されず、貴族が勝手に税金を取るなど、宮廷内部の汚職や腐敗が蔓延し、ジークムント自身も放蕩の限りを尽くしていた。マクシミリアンは6年間でチロルの腐敗を一掃し、借金を返済した。その手助けをしたのが商人たちで、中でもフッガー家のヤーコブ・フッガーには銀の採掘権を与えた。引き換えに莫大な収益を上げ、そこから惜しみなく芸術へつぎ込まれた。また、チロルの鉱山から産出される豊かな資源を利用して、インスブルックに武器工場を建てた。
1490年、マクシミリアンはフランスを挟撃するためブルターニュ公国の継承権を持つアンヌ公女と婚約し、代理人を派遣して結婚式を挙げた[8]。更にハンガリーに制圧されていたオーストリア諸都市の奪回を進め、同年8月ハンガリー軍からウィーンを解放した。しかし父フリードリヒ3世の命により対ハンガリー政策に専念せざるを得なくなり、アンヌとの正式な結婚は先送りにされた。
1491年、フランス王シャルル8世がブルターニュへ侵攻、首都レンヌを包囲し、孤立したアンヌに結婚を迫った。同年12月6日アンヌはシャルル8世と結婚し、1492年2月15日ローマ教皇インノケンティウス8世がシャルルとアンヌの結婚の追認とシャルルとマクシミリアンの娘マルグリットとの離婚を特赦したため、マクシミリアンはアンヌとの婚姻によるブルターニュとの同盟を断念した。マクシミリアンは娘の帰国を要求し何ヶ月間もフランスと交渉を続けたが、マルグリットをフランスの侯爵と縁付かせ、彼女の婚資をフランスへ併合しようという目論みのため、交渉は平行線をたどった。マクシミリアンは自分と娘が世に笑い者にされた屈辱とフランスのあざとさに激怒し、開戦した[9]。
1492年10月、ネーデルラント叛乱軍の首魁フィリップ・フォン・クレーフェが帝国の将軍アルブレヒト・フォン・ザクセンに降伏し、ネーデルラント諸都市に対するハプスブルク家の統治が確立した。同年12月、マクシミリアンはマルグリットの婚資としてフランスに併合されていたブルゴーニュ自由伯領(フランシュ=コンテ)に侵攻、翌1493年3月にはブルゴーニュ自由伯領のほぼ全域を奪還し、フランス側の譲歩を引き出すことに成功した。
1493年5月23日、サンリスの和約が締結され、マルグリットのフランスからネーデルラントへの帰国とブルゴーニュ公の遺領分割が決定された。この時からハプスブルク家とフランス王家の長きにわたる対立が決定的になった。
1493年8月、父の死に伴い神聖ローマ皇帝に選出された。大空位時代以降、皇帝位は諸家の間を変遷していたが、これ以後はハプスブルク家による世襲が確定していく。しかし、マクシミリアンのローマ訪問はヴェネツィア共和国の反対により阻止されたため、トリエントで帝位についた。マクシミリアンはローマでの教皇による戴冠を経ずに帝位についた最初の皇帝となり[10][11]、これを機にカトリックを後ろ盾とする皇帝の権威はローマと教皇から離脱することになった。彼はミラノ公国のスフォルツァ家の公女ビアンカと再婚し、ミラノを事実上の支配下に置いた。イタリア進出を図ったが、そのためにフランス王シャルル8世の野心が引き起こしたイタリア戦争に巻き込まれることとなった。
1495年、ヴォルムスにて帝国議会を召集し、イタリア戦争の戦費の援助を諸侯に要請した。皇帝の窮状を見たマインツ大司教(選帝侯)ベルトルト・フォン・ヘネベルクをはじめとする聖俗の諸侯は、帝国と皇帝権力の分離を要求し、マクシミリアン1世はこれに抵抗するも妥協を余儀なくされ、永久ラント平和令発布、帝国最高法院、帝国統治院の設置、帝国議会の整備などの内政改革が行われた。以後、神聖ローマ帝国は中央集権的ではなく領邦国家の連合としての道を歩むことになる。
1496年、フランス国王シャルル8世の動きを封じるため、2人の子フィリップ美公とマルグリットをカトリック両王の子女と結婚させた(後述)。
1508年、ローマでの戴冠を妨害したヴェネツィアに対し攻撃を開始する(フリウリ戦争)。戦争は膠着したが、マルグリットによりフランス、教皇、スペインによるカンブレー同盟(対ヴェネツィア同盟)が成立した。しかしフランスがヴェネツィアとの戦いに勝利し、同盟内で突出し始めると、教皇をはじめ他の同盟国イングランドやスイスが反発し、これに対抗する動きが出た[10]。
1511年、教皇主導の対仏同盟、神聖同盟を結成する。しかし翌年ヴェネツィアは同盟を脱退し、フランスと同盟を結ぶ。
1512年、「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という言葉を使用し、神聖ローマ帝国の版図がもはやドイツ語圏及びその周辺に限られること、世界帝国の建設という目的の放棄を明確にした。
1513年、イングランド王ヘンリー8世と連合し、ギネガテの戦いでフランスを撃破する。しかし戦況は国によって勝敗が錯綜し、同盟は最終的に瓦解した。しかし1516年にブリュッセルで和議を締結、さらにその2年後にヴェネツィアとも和睦が成立した[10]。
1515年、ウィーンでの会談でハンガリー王国を治めるヤギェウォ家との二重婚姻(ウィーン二重結婚)を決定し、孫フェルディナント1世に始まるハプスブルク君主国の成立を方向づけた。こうして神聖ローマ帝国が弱体化する一方で、ハプスブルク家は隆盛を極めることになった。
1519年、ヴェルスで病没した。インスブルックの宮廷教会内に霊廟を準備していたが、24,000グルデンの借金を理由に滞在を拒否されており、遺言により遺体は母エレオノーレが眠るヴィーナーノイシュタットの聖ゲオルク教会に埋葬された。しかし心臓だけはブリュージュ(ブルッヘ)の聖母教会にある最愛の妻マリーの墓に共に埋葬された。
結婚政策
「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」の言葉が示すとおり、ハプスブルク家は婚姻により領土を拡大してきた。その最も成功した例はマクシミリアンの時代であった。
- 自身の結婚によりブルゴーニュ自由伯領、ネーデルラントを獲得した。
- 子フィリップとマルグリットをそれぞれカスティーリャ=アラゴン王家の王女フアナとアストゥリアス公(王太子)フアンと二重結婚させた。マルグリットの夫フアンらの早世により、イベリア半島の大部分と、ナポリ、シチリアを獲得した。フィリップは早世するが、その子カールはのちにスペイン王(カルロス1世)と神聖ローマ皇帝(カール5世)を兼ね、ハプスブルク家隆盛の基礎を築いた。スペインはアメリカ大陸を征服し、日の沈まない帝国を築いた。
- 孫フェルディナント(後の皇帝フェルディナント1世)とマリアをハンガリーのヤギェウォ家の子女と結婚させた(ウィーン二重結婚)。マリアの夫ラヨシュ2世は1526年にモハーチの戦いで戦死し、この結婚を取り決めたウィーン会議(1515年)の決議に従い、ラヨシュの姉アンナの夫であるフェルディナントがハンガリーとボヘミアの王位を継承した。
文化的功績
- 1498年、旅から旅への日々を過ごしていたマクシミリアンは、やがて楽団を同行させるようになり、旅先での儀式はもちろん、旅の途中でも演奏をさせた。旅の楽団のメンバーは、後に作られたウィーンの王宮礼拝堂の聖歌隊に参加させ、宮廷礼拝堂少年聖歌隊と創設したが、これがウィーン少年合唱団の前身となった。
- アルブレヒト・デューラーを庇護した。
- 帝国の領土内に郵便制度を導入した。
人物
- 武勇に秀で、ギネガテの戦いでは自らも下馬して勇戦し、大砲を撃つのが好きだった。
- 文化や技術の面でも様々な民族から優れたものを取り込み、帝国全体に拡げていった。しかし、各民族の文化を尊重し、言語を統一したりはしなかった。
- ラテン語、ドイツ語、フランス語、フラマン語、スペイン語、イタリア語、英語、チェコ語、ハンガリー語、スロベニア語と、領土内の様々な言語を学び、語学力に長けていた。いくつもの言葉で書かれたマクシミリアンのサイン入りの文書が現存しており、白王伝には「王が民衆と同じ言葉で語ると、民衆はとても満足し、王に特別な愛情を抱いた」と述べている。
マクシミリアン1世の血統(ハプスブルク家) | |||
父 神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世 |
オーストリア公エルンスト | オーストリア公レオポルト3世 | オーストリア公アルブレヒト2世 |
ヨハンナ・フォン・プフィルト | |||
ヴェルデ・ヴィスコンティ | ベルナボ・ヴィスコンティ | ||
レジーナ・デッラ・スカラ | |||
ツィンバルカ・マゾヴィエツカ | マソフシェ公シェモヴィト4世 | マソフシェ公シェモヴィト3世 | |
エウフェミア・オパヴスカヤ | |||
アレクサンドラ・アルギルダイテ | リトアニア大公アルギルダス | ||
ユリヤニヤ・トヴェリスカヤ | |||
母 エレオノーレ・フォン・ポルトゥガル |
ポルトガル王ドゥアルテ1世 | ポルトガル王ジョアン1世 | ポルトガル王ペドロ1世 |
テレサ・ロレンソ | |||
フィリッパ・オブ・ランカスター | ランカスター公ジョン・オブ・ゴーント | ||
ブランシュ・オブ・ランカスター | |||
レオノール・デ・アラゴン | アラゴン王フェルナンド1世 | カスティーリャ王フアン1世 | |
レオノール・デ・アラゴン | |||
レオノール・デ・アルブルケルケ | アルブルケルケ伯サンチョ | ||
ベアトリス・デ・ポルトゥガル |
マクシミリアン1世の母方の祖父はポルトガル王ドゥアルテ1世である。他方、マリーの父方の祖母イザベルはドゥアルテ1世の妹であった。従って、マクシミリアン1世とマリーは又従兄妹の関係である。
関連資料
- 『白王伝』(Der Weisskunig) - マクシミリアン1世の生涯を表した木版挿絵入り書籍。1775年刊行。ウィーン美術史美術館所蔵
- 『マクシミリアン1世の凱旋』- 偉大さを誇示するために架空の行進を描いた、ハンス・ブルクマイアー作の連作版画。1526年発表。サンフランシスコ美術館所蔵
- 江村洋『中世最後の騎士―皇帝マクシミリアン1世伝』中央公論社、1987年 - 日本国内で出版されている唯一の伝記。
脚注
参考文献
- R・バウマン 『ドイツ傭兵の文化史』菊池良生 訳、新評論、2002年。
- 『スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年。
- E・ツェルナー『オースリア史』リンツビヒラ裕美 訳、彩流社、2000年。
- 堀越孝一 『ブルゴーニュ家ー中世の秋の歴史』<講談社現代新書>講談社、1996年。
- 三浦灌利『図説西洋甲冑武器事典』柏書房、2000年。
- T・ライトナー『ハプスブルクの女たち』関田淳子訳、新書館、1996年。
関連項目
- ハプスブルク家人物一覧
- ヨハン・ホイジンガ
- フリューテッドアーマー(マクシミリアン式甲冑)
- 黄金の小屋根
外部リンク
- サンフランシスコ美術館「マクシミリアン1世の凱旋」がサイト上で閲覧可能。
- ウィーン美術史美術館「白王伝」の一部がサイト上で閲覧可能。
- 東京藝術大学コレクション展「ドイツ・ネーデルラントの近世版画―マクシミリアン1世の時代を中心に―」
- インスブルックの霊廟(英語)
先代: フリードリヒ3世 |
ドイツ王(ローマ王) 1486年 - 1519年 |
次代: カール5世 |
上オーストリア大公 チロル伯 1490年 - 1519年 | ||
先代: ジークムント |
内オーストリア大公 シュタイアーマルク公 ケルンテン公 1490年 - 1519年 | |
先代: マリー |
ブルゴーニュ公(名目上) ブルゴーニュ伯 ブラバント公 リンブルク公 ルクセンブルク公 フランドル伯 エノー伯 ホラント伯 1477年 - 1482年 マリーと共同統治 |
次代: フィリップ美公 |
- ↑ 堀越、p.257-259
- ↑ これらの部隊は条件付きでしか召集出来ず、戦争が終結した後には召集を解除しなければならなかった(R.バウマン、p.49-50)
- ↑ これがランツクネヒトの始まりといわれる。但し、この名称が用語として定着するのは1480年代半ばである(R.バウマン、p.50)
- ↑ マクシミリアンや幾人かのフランドル諸侯は、この戦いで一時的にではあるが戦列に加わって歩兵を鼓舞した。その後の戦争でもしばしば彼らは自ら隊列に加わったが、当時の貴族騎士と歩兵の社会的な隔たりを考慮すれば革新的なことだった(R.バウマン、p.51-52)
- ↑ 『スイス・ベネルクス史』p.226
- ↑ 三浦、p.156
- ↑ 『スイス・ベネルクス史』p.223-224
- ↑ T.ライトナー、p.83-84
- ↑ T.ライトナー、p.85-86。
- ↑ 10.0 10.1 10.2 『オースリア史』p.206-207
- ↑ それまで神聖ローマ皇帝はローマで教皇により戴冠される習わしであった。