選帝侯
選帝侯(せんていこう、テンプレート:Lang-de-short)は、神聖ローマ帝国において、ドイツ王ないしローマ王(すなわち神聖ローマ皇帝)に対する選挙権(選定権)を有した諸侯のことである。選挙侯(せんきょこう)または選定侯(せんていこう)ともいう。
目次
名称について
選「帝」侯とは言うが、法的には彼らが有するのはドイツ王の選挙権であって、皇帝の選挙権ではない。ドイツ王であることは事実上神聖ローマ帝国の君主ではあるが、さらに皇帝として即位し戴冠されなければ皇帝ではないからである。このため、「選挙侯」とも呼ばれるが、研究者によっては「選定侯」と呼ぶ者もいる。「選定」との語は、当時のドイツ王の選挙手続において「選挙」(Wahl)と「選定」(Kur)が法的に区別されており、選帝侯が担ったのは後者であったことによる。なお、1508年にマクシミリアン1世が教皇に戴冠されることなく皇帝を称し、以降選帝侯に選出された者が皇帝となるようになった。
また、選帝「侯」というものの、ここでいう「侯」は侯爵ではなく諸侯のことであり、実際の位は王、公、宮中伯、辺境伯、大司教などである。
歴史
この選挙は、1198年から1806年まで行われた。1198年、ローマ教皇インノケンティウス3世はヴェルフ家及びホーエンシュタウフェン朝のドイツ王位争いについて、ライン川流域の4人の選帝侯、すなわちマインツ大司教、ケルン大司教、トリーア大司教、ライン宮中伯の賛同が不可欠であると定めた。なお、ライン宮中伯の選帝権はバイエルン公と交代で行使された。
1257年以来、選帝侯会議は上記の4人とザクセン公、ブランデンブルク辺境伯の合計6人によって占められ、これに1289年、ボヘミア王が加わって7選帝侯となった。1356年にカール4世が発した金印勅書によって、この顔ぶれとその特権が法的に確定した。
選帝侯の一覧
金印勅書で指定された7選帝侯
聖界諸侯
- マインツ大司教→レーゲンスブルク大司教
- ドイツ大書記官長。1356年の金印勅書で皇帝選挙の主催者とされ、選帝侯の筆頭に位置づけられると、以後 Erzkanzler durch Germanien は「ドイツ大書記官長」から「神聖ローマ帝国の宰相」を指す語となった。1803年にレーゲンスブルク大司教と改称。
- トリーア(トリール、トリエル)大司教
- ガリア=ブルゴーニュ大書記官長。1801年、ライン左岸のフランス(ナポレオン)への割譲により選挙権を失う。
- ケルン大司教
- イタリア大書記官長。15世紀までは、選出された国王をアーヘンで戴冠した(以降はマインツ大司教が戴冠)。1801年、ライン左岸のフランス(ナポレオン)への割譲により選挙権を失う。
世俗諸侯
- ボヘミア(ベーメン)王
- 献酌侍従長(シェンク)。ボヘミア王自身国王選挙によって選出される王であったが、1526年にフェルディナント1世が王となり、1544年に世襲の王国とした。このため、以降ハプスブルク家に保有され(ただし三十年戦争およびオーストリア継承戦争の際に一時ハプスブルク家が王位から追われたことがある)、1806年の帝国消滅を迎えた。
- ライン宮中伯(ライン・プファルツ伯、ファルツ伯とも)→バイエルン公
- シュヴァーベン、ライン川沿岸地域における国王代理。家令(トゥルッフゼス、ダピファー)。1623年、フリードリヒ5世が三十年戦争に敗れてドイツを追われ、遠縁にあたるバイエルン公マクシミリアン1世に選帝侯位を奪われた。1648年、ヴェストファーレン条約の結果、戦争以前にライン宮中伯の保持していた選帝侯位はバイエルン公のものとなり、フリードリヒ5世の子・カール1世にはライン宮中伯位と第8の選帝侯の地位を与えられた。1777年にバイエルン選帝侯のヴィッテルスバッハ家が断絶すると、カール4世フィリップ・テオドールはバイエルン選帝侯位をも継承した。これによりバイエルンとライン宮中伯の両ヴィッテルスバッハ家は統合され、ヴェストファーレン条約の規定によりライン宮中伯としての選帝侯位は消滅した。以降、1806年の帝国消滅までバイエルン公が保持した。
- ザクセン公(ザクセン=ヴィッテンベルク公)
- ザクセン法地域における国王代理。侍従武官(マーシャル)。1697年から1763年までポーランド王を兼ねた。
- ブランデンブルク辺境伯
- 財務侍従官(ケメレール、カメラリウス。)1618年よりプロイセン公国と同君連合、1701年にプロイセン公は王に昇格した。
金印勅書以降に選帝権を与えられた諸侯
すべて世俗諸侯である。
- ライン宮中伯(ライン・プファルツ伯)
- 1623年に選帝権を奪われたが、1648年にヴェストファーレン条約で選帝権を回復した。但しこの選帝権は新設のものと扱われ、しかもバイエルン公と同君連合した時点で失われると定められていた。1777年、上記のバイエルンとの同君連合により消滅した。
- ブラウンシュヴァイク=カレンベルク公(ハノーファー選帝侯)
- 1692年に選帝権を獲得した。1714年以降イギリス王位を保持した。
- バーデン辺境伯
- 1803年に選帝権獲得。1806年に神聖ローマ帝国が消滅したため、以下の4諸侯が選帝権を行使することはなかった。
- ヴュルテンベルク公
- 1803年に選帝権を獲得。
- ヘッセン=カッセル方伯
- 1803年に選帝権を獲得。なお、1806年に神聖ローマ帝国が消滅するため選帝侯という地位も失われたが、ヘッセン=カッセルのみはヘッセン=ダルムシュタット大公よりも格上であることを示すため、1866年にプロイセンに併合されるまでヘッセン選帝侯の称号を保持し続けた。
- ザルツブルク公
- もとザルツブルク大司教が選帝権をもったが、1803年に世俗化され、ハプスブルク家のトスカーナ大公フェルディナント3世が選帝侯となった。
宮内官
選帝侯はそれぞれ、名義上帝国宮中の官職を持っており皇室の一員とされた。3人の聖界選帝侯は全員、大書記官長(テンプレート:Lang-de, テンプレート:Lang-la)の官位を持っており、マインツ大司教はドイツ大書記官長、トリーア大司教はガリア=ブルグント大書記官長、ケルン大司教はイタリア大書記官長の官位をそれぞれ持っていた。 それ以外の選帝侯については以下に保持した宮中職位とそれを示す個別の紋章の一覧を記す。
紋章 | 帝国官位 | ドイツ語 | ラテン語 | 選帝侯 |
---|---|---|---|---|
献酌長官 | Erzmundschenk | Archipincerna | ボヘミア王 | |
40px | 大膳職長官 | Erztruchseß | Archidapifer | ライン宮中伯 1623年まで |
バイエルン大公, 1623年 - 1706年 | ||||
ライン宮中伯, 1706年 - 1714年 | ||||
バイエルン大公, 1714年 - 1806年 | ||||
40px | 式部長官 | Erzmarschall | Archimarescallus | ザクセン公 |
40px | 侍従長官 | Erzkämmerer | Archicamerarius | ブランデンブルク辺境伯 |
40px | 内帑長官 | Erzschatzmeister | Archithesaurarius | ライン宮中伯, 1648年 - 1706年 |
ブラウンシュヴァイク=カレンベルク公(ハノーファー選帝侯), 1710年 - 1714年 | ||||
ライン宮中伯, 1714年 - 1777年 | ||||
ハノーファー選帝侯, 1777年 - 1814年 | ||||
旗手長官 | Erzbannerträger | Archivexillarius | ハノーファー選帝侯, 1708年 - 1710年、1714年 - 1777年 |
選帝侯の意義
選帝侯は次第に力をつけ、ホーエンシュタウフェン朝の血統が絶えた後は、小貴族をドイツ王に据えて自らの勢力を安定させようとしたが、結果としてプロヴァンス伯やボヘミア王(とりわけオタカル2世)のドイツ国内での勢力拡大を押しとどめるべき存在が居ない、という問題が浮上した。特にボヘミア王のオーストリアやシュタイアーマルクの領有権獲得はかなり強引なものであった。
これを押しとどめるべくドイツ王に選ばれたカール4世は金印勅書を出して、7選帝侯制度を法制化した。この時には「バイエルンのヴィッテルスバッハ家」とルドルフ1世以来3人の皇帝を輩出したハプスブルク家を牽制するために選帝侯にしなかった。しかし、カール4世の娘婿のハプスブルク家のルドルフ4世がこれに対してオーストリア大公を詐称し、これをカール4世に飲ませて、選帝侯と同じ地位を得た。オーストリア大公は選帝侯ではないが、ハプスブルク家がボヘミア王を兼任したことから選帝侯になってしまう。のちに神聖ローマ皇帝はハプスブルク家の事実上世襲となるが、ドイツにおける宗教改革におけるザクセン選帝侯や三十年戦争におけるザクセン選帝侯とファルツ選帝侯のようにハプスブルク家を動揺させる選帝侯も現れた。三十年戦争のウェストファリア条約は「神聖ローマ帝国の死亡診断書」と言われたが、太陽王ルイ14世のころにフランスが盛んに神聖ローマ帝国を侵略するとレオポルド1世は選帝侯位を有力諸侯に授けることで帝国の糾合を図った。19世紀のナポレオン戦争のころには、中堅諸侯には選帝侯位の大盤振る舞いが行われ、選帝侯は12にまで増加した。ともあれ、ドイツの領邦君主らにはフランスやオスマン帝国などの外圧に耐え、その「神聖ローマ帝国と称したゲルマン的連合体」の安定のためには一定の力を持った皇帝が必要であった。選帝侯は当初は事実上のハプスブルク家の帝位世襲を容認しながら、その権力を行使して皇帝権拡大を防止するという方策を選択し、のちにドイツの中堅諸侯のステータスに形骸化した。
帝国が実質的にはヴェストファーレン条約で死んだと言われながらもそののち150年にわたって存続し、しかもその間フランスなどの脅威にさらされながらも小国の寄せ集めであり続け、しかも宗教戦争が三十年戦争を最後に全く発生しなかったのは、選帝侯たちの慎重な綱渡りの結果なのである。