松坂屋

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松坂屋(まつざかや、英称:Matsuzakaya)は、J.フロント リテイリング傘下の株式会社大丸松坂屋百貨店が運営する百貨店屋号である。

現在の運営会社である大丸松坂屋百貨店は、2010年2月28日に(株)松坂屋が(株)大丸吸収合併して発足したもの。

「松屋」は誤表記(屋号について参照)。

沿革

祐道はのち大坂夏の陣豊臣方について戦死し、呉服店は一旦閉店となる。
  • 1659年(慶長16年)- 祐道の遺児・伊藤次郎左衞門祐基が名古屋茶屋町に呉服小間物問屋を再開。
  • 1736年(元文元年)- 呉服太物小売商に業態転換。正札販売を開始。徳川家の呉服御用達となる。
  • 1740年(元文5年)- 尾張藩の呉服御用となる。
  • 1745年(延亨2年)- 京都室町錦小路に仕入店を開設。1749年(寛延2年)新町通六角町に移転。
  • 1768年(明和5年)4月5日5月20日) - 江戸進出。上野の「松坂屋」を買収し、同店を「いとう松坂屋」と改称。
  • 1805年(文化2年)- 江戸大伝馬町に木綿問屋 亀店(かめだな)を開設。問屋兼業により価格の引き下げを図った。同店の開設に伴いいとう松坂屋は鶴店と呼称した。 
  • 1854年 - 当主治朗左右衛門の婚礼。その祝儀曲として地歌曲の『花の縁』が吉沢検校により作曲される。
  • 1875年(明治8年)- 大阪進出。高麗橋の呉服店「恵比須屋」を買収の上、新町通に「ゑびす屋いとう呉服店」を開店。
  • 1881年(明治14年)- 名古屋茶屋町角に伊藤銀行(現.三菱東京UFJ銀行)を開業。
ファイル:Matsuzakaya ueno.jpg
松坂屋東京上野古絵葉書
松坂屋CMソング「振り向けば松坂屋」誕生(作詞 永六輔、作曲 中村八大)。[2]
  • 1972年(昭和47年)- 名古屋店北館を増築(リビンザ)。大丸CBSグループに参加し共同配送等業務提携。
  • 1973年(昭和48年)- 「マツザカヤ友の会」発足。
  • 1985年(昭和60年)1月、16代 伊藤次郎左衞門会長の死去により鈴木正雄が会長に就任。同年4月、臨時取締役会で創業者一族の当時の17代 伊藤次郎左衞門(鈴三郎)社長を会長に退かせて鈴木正雄が社長に就任する。その後 1991年に再度会長就任。
  • 1991年(平成3年) - 名古屋店南館を増築。「松坂屋美術館」を開設。
  • 1997年(平成10年) 11月、鈴木正雄氏、総会屋への利益供与事件で相談役を辞任する。
  • 2003年(平成15年)- 名古屋店南館拡張。東武百貨店池袋店を抜き日本最大の百貨店となった。
  • 2005年(平成17年)- 豊富な含み資産に目を付けた村上ファンドに株式の約10%を買い占められ、経営混乱。
  • 2006年(平成18年)9月1日 - 純粋持株会社「株式会社松坂屋ホールディングス」設立。株式移転方式で持ち株会社体制に移行した。
  • 2007年(平成19年)9月3日 - 大丸との共同持株会社「J.フロント リテイリング株式会社」を設立し株式移転。松坂屋ホールディングスは上場廃止。11月1日 J.フロント リテイリングが松坂屋ホールディングスを吸収合併。松坂屋はJ.フロント リテイリングの直接子会社となる。
  • 2010年3月1日 - 株式会社大丸を吸収合併し、「株式会社大丸松坂屋百貨店」に社名変更。高槻店が、大丸京都店の分店扱いとなる。

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概要

東海地方を本拠点とし、とりわけ地元である名古屋市など中京圏では今なお最有力の百貨店である。イメージフラワーはカトレヤで、キャッチフレーズは「生活と文化を結ぶマツザカヤ」である。

三越高島屋などを凌ぎ日本一の売上を誇る百貨店であった時期も存在する。現在の三菱東京UFJ銀行(旧東海銀行)の前身の一つである伊藤銀行や「名古屋の帝国ホテル」と呼ばれた名古屋観光ホテル、名古屋商工会議所など各企業・団体の設立にも関連した、近代の名古屋における有名企業である。

業界他社に先駆けてエレベーターガール、制服の完全洋装化を採り入れた。

地元市民の高齢層では松坂屋のことを「伊藤様」と呼ぶ人もいるほど、愛知県では他店よりも松坂屋が格上の百貨店であるという認識が非常に強く、松坂屋の外商部と取引があることが一種のステイタスとみなされる場合もある。

2010年に百貨店開業から数えて100周年、2011年に「いとう呉服店」創業から数えて400周年を迎えた。

屋号について

三重県にある「松阪市」と混同して、しばしば松阪屋と誤表記される(の違い)。また、マークが松阪商人三井家の家紋と酷似している事も一因である。

もともとこの百貨店の屋号は創業者・伊藤蘭丸祐道の苗字から採ったいとう屋であった。この伊藤蘭丸祐道の祖先は織田信長の小姓をしていたとされる。

「松坂屋」のそもそもの由来は、1707年に伊勢松坂(現・松阪市)出身の商人・太田利兵衛が今日の上野店の前身となる呉服店を開業、自分の出身地名から松坂屋と名付けたことによるもの。当時の松坂は木綿松阪木綿)の主要な供給地で、呉服の原料として縁があった訳である。

1767年、いとう屋が松坂屋を買収した際、江戸の屋号はそのまま「松坂屋」を使用したが、これは既に江戸市中に松坂屋の名前が知れ渡っていたため、本来の「いとう屋」に変更するよりも得策と判断したからである(同様の例に、横浜発祥の松屋がある)。大阪進出の際も同様の理由により買収した「ゑびす屋」をそのまま使用したが、全店舗で屋号を統一する事となった際に全国チェーンを睨んだ結果、東京で使用されてきた「松坂屋」が採用される事となり、現在に至る。

松坂屋お家騒動

第二次世界大戦後会社の命運を分ける二つのお家騒動が勃発した。

最初のお家騒動は1980年に当時社長であった伊藤鈴三郎が兄に当たる16代伊藤次郎左衞門会長と鈴木正雄の共謀により解任させられた宮廷革命と称されるものである。

これは伊藤鈴三郎体制下による拡大路線の反動で発生した札幌松坂屋の失敗や業績が芳しくなかった横浜野沢屋の救済で本体の悪影響を及ぼしたという点が表向きの理由ではあるが、16代次郎佐衛門会長が息子の伊藤洋太郎にいち早く後継者としたい意図に鈴木正雄が乗ったことが定説である。

第二のお家騒動は宮廷革命と同様に鈴木正雄によるものであった。1985年4月、名古屋の松坂屋本店で開かれた臨時取締役会で、16代伊藤次郎左衞門会長の死去によりわずか3カ月前に副社長から会長に就任したばかりの鈴木正雄が社長に収まり、松坂屋創業以来370年余りの歴史の中で起こりえなかった創業家の伊藤洋太郎(17代伊藤次郎左衞門)社長が代表権のない会長に棚上げされる人事が電撃的に決まる。鈴木本人は「私は工作などしていない。皆に推された」と否定したが、腹心の役員らと連携し自らが実権を握る事実上のクーデターであり、松坂屋のお家騒動として全国的に注目された。その後も1991年に再度会長就任、1993年から相談役と鈴木は実権を握り続けるが、1997年11月総会屋への利益供与事件で辞任する。 [3] [4] [5] [6]

松坂屋ホールディングス設立〜経営統合

2005年から2006年にかけて、優良資産に目を付けた村上ファンドが松坂屋の大株主となり、一時経営を揺さぶられた。そのため、機動的かつ柔軟な経営判断ができる体制を構築するとともに、グループ各社の採算性と事業責任の明確化を図ることを目的として、株式移転により「株式会社松坂屋ホールディングス」(松坂屋HD)を設立し、純粋持株会社体制へ移行した。

しかし、移行してから1年も経たないうちに大丸との経営統合を発表。そして松坂屋HD発足からちょうど1年後の2007年に共同持株会社「J.フロント リテイリング株式会社」 (JFR) が設立されると、松坂屋HDはJFRに吸収合併され、役目を終えることとなった。

店舗

名古屋店
1611年「いとう呉服店」創業(本町)。
1659年 呉服小間物問屋を開業(茶屋町 中区丸の内二丁目5番10号 現.アイリス愛知)。
1910年「株式会社いとう呉服店」を創立。栄町に進出(中区栄三丁目4番5号 現.スカイルの位置)。ルネサンス風の3階建て洋館。 
1925年 名古屋 南大津町(現在地)へ移転。

名古屋市中区三丁目16番1号

(名古屋市営地下鉄名城線矢場町駅5・6番出口)

店舗面積86,758m²[7]

本店。松坂屋の旗艦店で、大丸との経営統合後は本店の呼称は使われなくなった。本館・南館・北館の3館で構成され、北館はかつて阪急東宝グループの映画館エンゼル東宝が入っていた共同ビルのため、現在でも店舗設置者に阪急阪神東宝グループが含まれる。
2003年の南館増床以降は店舗面積が日本一となったが、2014年近鉄百貨店あべのハルカス本店(100,000m²)にその座を譲った[8]
2011年春から大規模改装工事が行われ、翌2012年4月28日に第1期分が完了した[9][10]。南館では2011年9月14日、4階に「松坂屋写真室」がオープンし、証明写真や出張撮影を含む各種記念写真を取り扱っている。さらに、翌2012年3月2日に、銀座店と大丸各店で展開されているヤングレディスファッション売場「ufufu girls(うふふガールズ)」を2階に開設、また4月21日にH&Mが「国内最大の店舗面積」を唱って、1階と地下1階に出店した。なお、本館・南館・北館の外観はそれぞれ異なっており、南館はさらに、先にオープンした久屋大通沿いと、増床による大津通沿い(新・南館)で外観が全く異なっている(新・南館の外観は本館・大津通沿いの外観に似せてデザインされた)。
名古屋市内の主要百貨店として、名鉄百貨店本店・丸栄名古屋三越(栄店、星ヶ丘店)・ジェイアール名古屋タカシマヤと共に4M1Tと並び称される。長年にわたって市内の百貨店で最も売上の多い店舗として君臨したが、2011年3月の月間売上高において初めてジェイアール名古屋タカシマヤに逆転を許した。
名古屋パルコが隣接しており、パルコがJ.フロント リテイリングの子会社となった以降は、名古屋パルコとクリアランスセールのコラボレーションを全国に先行して行っている。
ギフトショップ
安城ギフトショップ 安城市三河安城本町一丁目29番地
半田ギフトショップ 半田市山代町一丁目106番地1


豊田店
2001年開店:愛知県豊田市西町六丁目85-1 T-FACE

(名鉄三河線豊田市駅・愛知環状鉄道新豊田駅間)店舗面積18,220m²。

豊田そごうの後継として開業。
上野店
1768年 松坂屋買収。「いとう松坂屋」

東京都台東区上野三丁目29番5号

東京において江戸時代から現在まで同一の場所で続く百貨店は、日本橋三越と当店だけ。

1830年 「東都名所上野広小路之図」に記載される。
1855年 安政の大地震 直ちに再建。
1868年 彰義隊官軍による上野戦争 官軍の本営になった
1907年 上野店を「合資会社松坂屋いとう呉服店」に改組。座売りを陳列式建売りに改め、呉服に加え、雑貨、家庭用品なども扱い始めた。
1917年[11] 新本館(6,600m²)完成。
1923年 関東大震災により全焼。1か月後に仮営業所、2か月後には仮店舗を立ち上げた
1929年 本館再建。エレベーター10基設置。わが国初のエレベーターガールを配置。民間初の自動交換式電話を設置。
1930年1月1日 地下鉄広小路駅と地下売場が直結。
1931年 お子様ランチが登場。
1957年 南館(地下3階、地上7階)を増築。売場面積は本館と合わせて、35,213m²に達した。
2014年3月 南館の営業終了(予定)。南館は取り壊した上で23階建の複合ビルに建て替え、メインテナントとしてパルコTOHOシネマズが入居する方針[12]
2017年秋 新南館開業予定。
静岡店
1932年開店:静岡市葵区御幸町10番地の2
JR静岡駅前 静岡駅北口から横断地下道で直結
店舗面積25,452m²。本館と北館で構成。
1971年 本館全面建替え完成
1996年9月には北館が完成し、同市最大の百貨店になった。売上高は1997年度は、347億円を計上したが、近年は長引く消費不振により減少傾向にあり、2011年度は229億円まで落ち込んでいる。
ギフトショップ
富士ギフトショップ 富士市永田町二丁目51番地の2
高槻店
1979年開店:大阪府高槻市紺屋町2番1号

JR京都線高槻駅より徒歩1分

店舗面積20,642m²。運営上は大丸京都店の分店。競合相手として西武高槻店があげられる。

過去に存在した店舗

直営店

ファイル:Matsuzakaya Ginza branch (2007.9.11).jpg
銀座店(2007年9月)。向かって右側に、大丸との経営統合を知らせる懸垂幕が懸けられた
  • 銀座店
1924年開店。2013年6月30日閉店。
中央区銀座6-10-1 店舗面積25,352m²。本館と別館で構成。
銀座地区最古参で、初めて土足入店を試みた百貨店だった。
「J.フロント リテイリング」の登記上の本店だが、事務所は八重洲二丁目。
閉店理由は建物の老朽化による建て替えで、隣接するビルなどと一緒に再開発を実施。地上13階、地下6階建てのオフィスと商業施設が入居する複合ビルを開発する事になり、2014年4月2日に工事着工した[13]。商業エリアについては、J.フロント リテイリングが森ビル住友商事などと共同で、専門店を主体とする施設を共同で運営していくとしている[14]。竣工は2016年11月の予定。
公式ホームページでは「一旦営業を終了しました」と記載されており、完全閉店ではないことを匂わせる記述であるが、J.フロント リテイリングは、新商業施設に百貨店の直営売場は設けない方針である事を明らかにしている[15]
  • 市川店(上野店分店)
1977年 開店。1999年8月22日 閉店。
千葉県市川市市川1-5-17 道口ビル(JR総武線市川駅北口 千葉街道沿い)
同ビルには2000年3月1日 オリンピック市川店が開店。
1999年以降 隣地に「市川ギフトショップ」として移転するも2008年閉店。現在は「外商市川出張所」及び「市川学生服プラザ」として営業。
市川市市川1-3-18 明治安田生命市川ビル2階。
ファイル:Nagoya Terminal Building.jpg
名古屋駅店(現在は解体)
  • 名古屋駅店
1974年 開店。2010年8月29日 閉店。
名古屋市中村区名駅1-1-2 名古屋ターミナルビル。店舗面積16,521m²。
呼称は「ナゴヤエキ店」。地元では「駅店」「名駅店」とも呼ばれた。
JR東海による同ビル建替え構想の浮上に伴い、新ビルへの再出店に向けJR東海と交渉を続けたものの売り場面積などの条件が折り合わず、ターミナルビル解体工事の着手に合わせるため、2010年に撤退した。当初、新ビルが開業する2017年前後の経営環境によっては再出店の可能性も残すとしていたが、バブル崩壊後のセントラルタワーズ百貨店誘致問題をめぐりJR東海との間に軋轢が生じた経緯もあるためか、最終的に今回も両者が手を組むことはなかった。同時に、同地区への再出店もしないことを正式に決定した。
なお、松坂屋の再出店計画の断念を受けて、松坂屋に代わる新ビルへのテナントとしてジェイアール名古屋高島屋ヨドバシカメラ三省堂書店などが入居する予定である。詳細はJRゲートタワーを参照の事。
1971年4月10日年 開店-2010年1月31日 閉店。
愛知県岡崎市康生通西3-15-4 岡崎ショッピングセンター クレオ


  • 四日市店
1991年 開店-2001年5月31日 閉店。
三重県四日市市安島1-3-31 アムスクエア 近鉄四日市駅西口。
松坂屋撤退後暫くアムスクエア単独で営業していたが、2002年7月-2004年11月は空きビルとなっていた。
2005年3月12日 三井不動産グループにより「ララスクエア四日市」が開業。アピタ四日市店、109シネマズなどが入居。
ファイル:Takashimaya osaka01 2048.jpg
高島屋東別館
(松坂屋大阪店~1966)
ファイル:Tenmabashi station Osaka JPN 001.jpg
京阪シティモール
(松坂屋大阪店~2004)
  • 大阪店
1875年 第1大区高麗橋1丁目(現・中央区高麗橋1丁目)の呉服店「恵比須屋」を買収の上、第3大区新町通3丁目(現・西区新町3丁目)に「ゑびす屋いとう呉服店」設置。
1909年 「ゑびす屋いとう呉服店」を閉鎖。
1923年 南区日本橋筋3丁目(現・浪速区日本橋3丁目)に「松坂屋いとう呉服店大阪店」を開店。
1938年 大阪店増改築工事竣工(現・高島屋東別館)。
1964年4月 京阪電鉄、松坂屋、竹中工務店の3社の出資による京阪ビル(株)を設立、京阪天満橋駅の上部と隣接地に地下4階、地上8階の京阪ビルディングの建設を発表[16]
1966年10月1日、東区京橋2丁目(現・中央区天満橋京町)に移転。
1960年代前半に入って、大阪市内で市電の廃止や距離の短縮などと引き換えに、地下鉄に整備が進むようになった。さらに旧大阪店に直結する市電が難波―日本橋が廃止になったり、守口から阿倍野に至る市電も日本橋一丁目どまりとなっただけではなく、そんな堺筋の地下鉄にも大阪店近辺には駅が開設されないばかりか、地下鉄完成後には市電も廃止された。このような交通環境の悪化で業績を好転させるのは不可能であると[17]判断。そこで、新大阪店の候補地を大阪城の北西部に当たる京阪天満橋駅の地下化および駅ビル建設に伴い、鉄道利用客の需要を見込んだ。しかし、そもそもが淀屋橋延伸のための地下化であり、移転時、天満橋のターミナル性はすでに低下し始めた後だった。開業当初、結婚式場をはじめ、海外旅行サロン、文化催事場、スポーツ用品センターなどを導入しながら他店との差別化を図ったり、1966年10月1日の新聞広告には、「創業360年。新幹線をネットで結ぶマツザカヤがいよいよ躍進-きょう10時天満橋に新大阪店がオープン、全フロアに若さあふれる魅力商品と新感覚のたのしい売り場設備をととのえました。大阪へお出かけの節は、ぜひお立ち寄り下さい」というふれこみであった。立地は「桜の通り抜け」や毎年7月に開催される天神祭の花火大会でも有名な大川沿いに位置し、ガラス張りの休憩室や飲食店からの展望を売りとしていた。都心から外れた落ち着きの有る店という評判も有ったものの、いわゆる展望スポットとしての集客力には欠けた。それは、天満橋周辺は商業地域というよりも、オフィス街という性格上、周辺に人をよびこむことができなかったばかりか、総面積は市内の主要百貨店と比べ狭く、また川沿いの立地が災いし、売場の増床も事実上不可能だった。その売り場面積の推移でみていくと1966年の開店時に20564平方メートルであったのに対し、1967年5月の第一次増床では25864平方メートル、1969年12月の第2次増床では30750平方メートル。大阪店では開店3年目にして1万坪(33000平方メートル)に近い規模になったものの、百貨店業界における規模では当時第6位にとどまっていた[18]
そんな中、1973年、1976年にそれぞれ、ファッション部門の強化、1986年から1988年にかけてもキタ・ミナミの両商業地に対抗すべく全館改装を行っていた。1987年から1988年は地下1階、地下2階にある食品フロアを改装し「グルメ館」として生まれ変わらせている。まず、1987年11月12日に地下2階の生鮮食品フロアがオープン。デイリーの目玉として、当日水揚げされた鮮魚を即売する「朝網・昼網コーナー」を全国で初めて導入し、健康志向に対応した料理研究家の店「トキノ」や「chicken左衛門」、地中海風味のスパゲティ、グラタンが人気の「メアリーポピンズ」などのユニークなショップを開設した。続いて1988年3月17日には地下1階の和洋酒、缶詰、菓子のフロアを一新したことで「グルメ館」は全面開業となった。洋菓子タウン、味の名店街、デイリーフーズプラザ、リカーワールド、軽食街、催事場の6つのゾーンに分けられ、ゆっくり歩きながら個性的な品々を選べるようになったことから、噴水効果も大きくなり大阪店の売上増大に貢献していただけではなく、のちにこの「グルメ館」の成功から名古屋店などにも導入されるようになった[19]
1996年、長堀鶴見緑地線京橋 - 心斎橋間の開通により、多くの人が心斎橋に流れた。これを受け、1997年から1999年にかけて食料品フロアを生鮮品、話題の食材を強化した「食彩館」といった展開を図ったり、女性ファッションフロアの特化[20]20代から40代の女性客をターゲットに地上8階、地下3階のうち5フロアを女性中心の売り場に改装し、1998年4月8日に新装開店した[21]。また、若者向けに改装し増客を図ろうとしただけではなく、人気テナントの導入や業態転換、有力テナントとして大型書店のジュンク堂書店、CD、音楽、映像ソフト専門店のHMVを7階に導入するなどという方針がとられたが、失敗に終わったとされる。移転後にはこれまで幾多の改装などを行うなどの努力をしてきたにも関わらず、実を結ぶことはできなかった。その原因は、梅田を中心とするキタ、心斎橋・なんばを中心としたミナミといった大阪市内の二大商業地域に人口が集中していたことはおろか、1995年度の来店客数であった725万人から減少が続き2002年度には670万人まで落ち込んだために集客力の低下に歯止めをかけられなかった。そこで、岡田邦彦社長(当時)は、閉鎖の理由を「競合店が次々とでき、今後、商圏を大きく奪われる。投資しても回収が見込めない状況だ」としていた[22]。だが、以前から松坂屋側が京阪電気鉄道側に対し、撤退を含めて検討したい要望がだされていたのをきっかけに、この時点で閉店が正式に決定となったのである。
2004年5月5日 閉店。 移転後ただの一度も黒字化を果たせない店舗となった。
閉店後の5月26日に、松坂屋は、所有している土地、建物の売却を京阪側に働き掛け、そこで京阪側は「価格次第では買収したい」と前向きに協議を進めていた。この京阪ビルディングは京阪グループと松坂屋が共同で建設した経緯があり、松坂屋が建物の約三割、土地の約一割弱を所有していた。閉店前の3月に、すでに松坂屋跡を専門店ビルに転換することをすでに発表済みで、松坂屋の所有権を買収することによって、京阪の自社グループの裁量でテナント誘致をすすめられる利点があるとみられていた[23]


閉店後の跡地は、建物の外観はもとより、エレベーターやエスカレーターなどの設備がかなりの老朽化が進んでいたため、京阪により大規模な改装工事を行い、2004年11月25日に地下2階の食品売り場である「デリスタ」が先行オープンし、その後2005年5月27日に「京阪シティモール」がオープンした。

  • くずは店
1972年4月1日年 開店-2004年3月31日 閉店。
大阪府枚方市楠葉花園町15-1 くずはモール
閉店後、建物はくずはモール西館となっていたが、くずはモールの増床リニューアルに伴い2012年6月末で閉鎖され、解体された。
  • ギフトショップ
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松坂屋京都仕入店(現在は解体)
  • 京都仕入店
1745年室町姉小路に開設。1749年、現在の新町六角通下ル(京都市中京区)に移転。この界隈が呉服の問屋街であることから、呉服を仕入れるために設けられた店舗であるといえる。1902年に建てられた建物は、昔ながらのたたずまいを見ることができた。染織デザインの研究所(京都事業所)となった後2010年8月末で閉鎖され、2012年に解体。
跡地には三井ガーデンホテル京都新町 別邸2014年3月25日にオープンした。このホテルでは京都仕入店のファサードイメージを再生させたデザインを外観に、旧建物の梁を内装に、それぞれ取り入れている[25]

提携店

  • 株式会社札幌松坂屋
1974年6月8日 開店。(100%出資子会社) 札幌市中央区南4条西4丁目1。
アカシアの花白くいま開く松坂屋というキャッチフレーズのもと、道内一の歓楽街すすきのに出店し、すすきのを夜の街から昼の街へと変えるとして話題となったが 目論見ははずれ大幅な赤字が続いた。
1979年4月 イトーヨーカ堂と合弁により「ヨークマツザカヤ」に社名変更。
1994年3月 松坂屋グループを離脱。「ロビンソン百貨店」札幌店となる。
2009年3月26日 全館ファッションビル「ススキノラフィラ」としてリニューアル。
地下食料品売り場はイトーヨーカ堂が入居している。
  • 山形松坂屋
1956年(昭和31年)11月 地元商店街の出資により「丸久」として開業。
山形市七日町2-7-2(羽州街道 山形市100円循環バス「七日町大沼前」現.セブンプラザ)。
1971年 松坂屋と業務提携
1973年 隣地へ移転(山形市七日町2-7-10)。「丸久松坂屋」に社名変更。
当時のイメージキャラクターは江原真一郎・中原ひとみ一家で市内には江原家ファミリーの印刷されたはがきが配布された。
1980年「山形松坂屋」に社名変更。 
2000年 閉店。
2002年6/29 東邦エンタープライズ運営の「ナナビーンズ」
1-3階 民間フロア、4-8階 公共フロア。ビジネスホテル「ステイ・イン七日町」併設。[26]
  • 横浜松坂屋
1864年「野澤屋呉服店」創業。横浜市中区弁天通。
1910年11月1日 「野澤屋」百貨店開業。横浜市中区伊勢佐木町1-5。
1968年 松坂屋と共同配送を開始。商品券の交換など、元来松坂屋とは友好関係を築いていた。
1974年(昭和49年)資本提携により「ノザワ松坂屋」に社名変更。
横浜駅西口の繁栄と伊勢佐木町の地盤沈下が重なり、業績は年々低迷。遂に、グリーンメーラーとして知られた横井英樹が株式買い占めを行い、乗っ取り騒動となる。この時松坂屋がホワイトナイトとして防戦買いに協力した結果、松坂屋が筆頭株主となった。
1977年 松屋横浜店の撤退に伴い、松屋の土地建物を買収して西館として運営し、野澤屋以来の店舗(本館)との間に連絡橋を架設。「横浜松坂屋」に社名変更。
2008年(平成20年)10月26日 閉店。2010年(平成22年)店舗解体。 
2012年(平成24年)2月8日 大丸コム開発運営の「カトレヤプラザ伊勢佐木」としてオープン。

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プロ野球横浜大洋ホエールズ・横浜ベイスターズを長年応援し、1998年日本シリーズ優勝時には大型のクジラの模型が飾られた。また、店頭では異例ともいえる「神奈川新聞」優勝号外の再発行・再配布が行われた。
フォークソングデュオの「ゆず」が無名時代、長年店頭で路上ライブを行っていた。2003年第54回NHK紅白歌合戦に出場した時は、横浜松坂屋本館前より生中継を行った。
2004年本館建物が横浜市指定の横浜歴史的建造物に認定。エスカレーターの装飾やエレベーターのアナログ時計式階数表示機、食堂の窓などが昔のまま残され、横浜に唯一現存した戦前に建設されたデパート建築であったものの、建物の老朽化が著しくなったのに加え、売り上げの減少が続いていたことから、2008年10月26日をもって閉店(百貨店事業の終了)、解体。跡地には、大丸コム開発が運営する新たな商業施設カトレヤプラザ伊勢佐木として、2012年2月8日開業した[27]
JRAエクセル伊勢佐木場外勝馬投票券発売所)に賃貸している西館は営業を継続[28]。なお2009年1月1日をもって「株式会社横浜松坂屋」は松坂屋本体に吸収合併された。
昭和のはじめ頃には自前の送迎バス桜木町駅前から運行していたことがあった。
戦後、野澤屋のシンボルフラワーにはチューリップが用いられ、包装紙等にもチューリップをモチーフにした意匠が用いられた。
2009年の開国博Y150期間中には、1階玄関付近の一部が観光案内所として使用された。
  • その他
扇屋(千葉)、ほていや百貨店(上田)とも商品提携をしていたが、2社ともジャスコグループ(現イオングループ)入りし関係は解消されている。

海外店舗

松坂屋百貨公司(香港

不動産大手恒隆グループとの合弁会社。恒隆は白洋舎とも業務提携。センターには和民なども出店している。
  • 銅鑼灣(コーズウェイベイ)店 
百德新街(パターソン・ストリート)恒隆中心(ハンルン・センター)内 1975年4月開店。1998年8月31日閉店。6,200m²。
  • 金鐘(アドミラリティ)店 1981年9月開店。小型店1,020m²。[29]
香港返還前後の家賃高騰により1998年全面撤退。

パリ松坂屋

Galeries Lafayette, 40 boulevard Haussmann Paris France
パリ オスマン地区 ギャラリー・ラファイエット百貨店内(65m²)
1978年3月 日本人観光客向け「免税書類作成手続き委託契約」によりカウンター開設。
2005年8月31日 契約満了により撤退。[30]

ロサンゼルス松坂屋テンプレート:要出典

松坂屋美術館

松坂屋名古屋店南館7階にある美術館1991年、南館のオープンに伴い開館した[31]。所蔵品は保有していないが[32]、国内外の様々なジャンルの展覧会を開催している。

また、同フロアには松坂屋史料室があり、こちらは松坂屋の歴史に関する展覧会を開催している。

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

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提供番組

外部リンク

テンプレート:日本の大手百貨店

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  1. 中小企業基盤整備機構
  2. この曲はTBSラジオ森本毅郎・スタンバイ!のスタンバイトークファイルのCMで使用されており、かつてはCBCラジオの提供番組「カトレヤミュージック」(放送終了)でインストゥルメンタルで聴くことができ、関東でも日本テレビ目方でドーン!NNN昼のニュースNNNライブオンネットワークNNNニュースプラス1皇室日記に提供していて、これらの番組でも聴くことができた。
  3. 「元松坂屋社長」『四国新聞社』2007年12月12日号[1]
  4. 「創業家を棚上げした剛腕」総合情報誌 『ザ・ファクタ』2008年2月号[2]
  5. 「松坂屋元社長、創業家排除」『四国新聞社』2007年12月12日号[3]
  6. 「松坂屋元社長、創業家排除」『47NEWS』2007年12月12日号[4]
  7. 「ハロー名古屋」の語呂合わせでもある。
  8. 産経ニュース- 日本最大級の売り場が開業 ハルカスの近鉄百貨店本店2014年2月22日、2014年4月9日閲覧
  9. 2009年12月23日 日本経済新聞 中部経済面(大規模改装について記載)
  10. 2010年1月14日 中日新聞(同上)
  11. 1916年開店という説もある。 (読売新聞2013年10月29日 夕刊15面広告)
  12. 株式会社大丸松坂屋百貨店 松坂屋上野店南館の建替えについて - J.フロント リテイリング・2013年8月26日
  13. テンプレート:Cite web
  14. テンプレート:Cite web
  15. 週刊東洋経済』2014年4月26日号71ページ。
  16. 松坂屋100年史 松坂屋発行2010年 121ページ
  17. 松坂屋100年史 松坂屋発行2010年 121ページ
  18. 松坂屋70年史 132ページ
  19. 松坂屋100年史 松坂屋発行2010年 188‐189ページ
  20. 松坂屋100年史 松坂屋発行2010年 255ページ
  21. 読売新聞大阪版 朝刊1998年3月11日 10ページ
  22. 読売新聞 大阪版 朝刊2003年10月22日9ページ
  23. 読売新聞大阪版 朝刊2004年5月27日 8ページ
  24. テンプレート:Cite web
  25. テンプレート:Cite web
  26. 山形コミュニティ新聞社
  27. ヨコハマ経済新聞(2012年2月8日閲覧)松坂屋跡の新商業施設「カトレヤプラザ伊勢佐木」開店で長蛇の列
  28. テンプレート:PDFlink
  29. 日興リサーチセンター「香港―経済・産業・主贅企業の概要」1993年12月 http://www.wako.ac.jp/souken/touzai95/tz9504hyo2.html
  30. 川端基夫「日本小売業の多国籍化プロセス」2005
  31. テンプレート:Twitter
  32. テンプレート:Cite web