彦根城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox

彦根城(ひこねじょう)は、日本滋賀県彦根市金亀町にあった日本の城である。江戸時代および1869年明治2年)の版籍奉還後から1871年(明治4年)の廃藩置県まで彦根藩の役所が置かれた。天守、附櫓及び多聞櫓は国宝、城跡は国の特別史跡かつ琵琶湖国定公園第1種特別地域である。

概要

江戸時代初期、現在の滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、鎮西を担う井伊氏の拠点として置かれた平山城(標高50m)である。山は「金亀山(こんきやま)」との異名を持つため、城は金亀城(こんきじょう)ともいう。多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城であった。

明治時代初期の廃城令に伴う破却を免れ、天守が現存する。天守[1]と附櫓(つけやぐら)及び多聞櫓(たもんやぐら)の2棟[2]が国宝に指定されるほか、安土桃山時代から江戸時代のなど5棟が現存し、国の重要文化財に指定されている。中でも馬屋は重要文化財指定物件として全国的に稀少である。一説では、大隈重信の上奏により1878年(明治11年)に建物が保存されることとなったのだという。

天守が国宝指定された四城の一つに数えられる[3]姫路城とともに遺構をよく遺している城郭で、1992年(平成4年)に日本の世界遺産暫定リストに掲載されたが、近年の世界遺産登録の厳格化の下、20年以上推薦は見送られている。

滋賀県下で唯一、城郭建築が保存された(歴史・沿革を参照)。

歴史・沿革

江戸時代

ファイル:Genkyuen03s3000.jpg
玄宮園から天守を望む

徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。佐和山城は石田三成が改築した後は「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」の一つともいわれたが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌い[note 1]、湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していたが、関ヶ原の戦いでの戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去した。その後直継が家督を継いだが、幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝徳川家康と相談して彼の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に浮かぶ彦根山(金亀山、現在の彦根城の場所)に彦根城の築城を開始した。

築城には公儀御奉行3名が付けられ、尾張藩越前藩など7か国12大名(15大名とも)が手伝いを命じられる天下普請であった。1606年(慶長11年)2期までの工事が完了し、同年の天守完成と同じ頃に直継が入城した。1616年(元和2年)彦根藩のみの手により第3期工事が開始された。この時に御殿が建造され、1622年(元和8年)すべての工事が完了し、彦根城が完成した。その後、井伊氏は加増を重ね、1633年(寛永10年)には徳川幕府下の譜代大名の中では最高となる35万石を得るに至った。

なお、筆頭家老・木俣家は1万石を領しているが、陣屋を持たなかったため、月間20日は西の丸三重櫓で執務を行っていた。これは、徳川統治下の太平の世においては、城郭というものがすでに軍事施設としての役目を終えて、その存在理由が、権勢の象徴物へと変じたためであり、江戸幕府の西国への重要な備えとしての役割を担う彦根城も、彦根藩の各組織の管轄で天守以下倉庫等として江戸時代の大半を過ごした。

1854年安政元年)に天秤櫓の大修理が行われ、その際、石垣の半分が積み直された。向かって右手が築城当初からの「牛蒡積み」、左手が新たに積み直された「落し積み」の石垣である。

幕末における幕府の大老を務めた井伊直弼は、藩主となるまでをこの城下で過ごしている。直弼が青春時代を過ごした屋敷は「埋木舎(うもれぎのや)」として現存している[4]

明治時代

明治に入り各地の城が廃城令で破壊・売却されていく中、彦根城も例外ではなかった。しかし、明治11年10月、明治天皇巡幸で彦根を通過した際に城の保存を命じたため破却は逃れたという。その際、巡幸に随行していた大隈重信が城の破却中止を天皇に奉上したという説と、天皇の従妹にあたるかね子(住持攝専夫人)が奉上したという説がある。

昭和時代

  • 1934年(昭和9年)、築城以来徳川幕府の要の役割を果たしていた彦根城には桜が植えられていなかった。これを憂いた彦根町会議員の吉田繁治郎が観光のシンボルとしてソメイヨシノの苗木1,000本を城内に植樹した。[5]
  • 1944年(昭和19年)、井伊家から彦根市へ、彦根城およびその一帯が寄付される。
  • 1945年(昭和20年)、8月15日夜に連合国軍が彦根市を夜間爆撃する予定であったが、同日正午に終戦の詔勅によって大日本帝国の降伏が発表され、爆撃は行われなかった[6]
  • 1951年(昭和26年)、「彦根城跡」として国の史跡に指定、天守等6棟が重要文化財に指定された。
  • 1952年(昭和27年)、前年重要文化財に指定された6棟のうち、天守(1棟)と附櫓及び多聞櫓(1棟)の2棟が国宝に指定された。
  • 1956年(昭和31年)、「彦根城跡」が特別史跡に指定された。
  • 昭和の修理
    • 1957年(昭和32年)~1960年(昭和35年)、天守、附櫓及び多聞櫓の修理、
    • 1960年(昭和35年)~1962年(昭和37年)、西の丸三重櫓と二の丸佐和口多聞櫓の解体修理。
    • 1965年(昭和40年)~1968年(昭和43年)、馬屋などの解体修理。
  • 1963年(昭和38年)、馬屋が重要文化財に指定された。
  • 1987年(昭和62年)、彦根市市制50周年として御殿が復元され、「彦根城博物館」として藩政時代の調度品・武具などが展示されている。

平成時代

  • 1993年(平成5年)7月1日1996年(平成8年)12月、天守・附櫓および多聞櫓の屋根の葺き替えと壁や漆の塗り替え、木材の腐食部分補修、唐破風飾金具の金箔押し直し、西の丸三重櫓と続櫓の屋根の葺き替えと壁の塗り替えなどの修理が行われた。
  • 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(50番)に選定された。
  • 2007年(平成19年)、国宝・彦根城築城400年祭が行われた。
  • 2012年以降、堀に自転車(多くは盗難自転車)を投棄される被害が相次いでおり、問題となっている[7][8][9][10]

世界遺産登録へ向けて

  • 1992年(平成4年) - 暫定リスト登録。
  • 2007年(平成19年) - 「彦根城の世界遺産登録を推進する方策を考える懇話会」を作り、推薦書の作成などを進める。
  • 2009年(平成21年) - 「彦根城世界遺産登録推進委員会」に改称。

登録への課題に

  • 既に世界遺産に登録されている姫路城との違いを明確にし、姫路城とは異なった顕著な普遍的価値がある事の立証。
  • 彦根城の城郭・庭園・周辺の景観等の保存整備の推進。

などが挙げられている。

構造

城の形式は連郭式平山城。また、現存例の少ない倭城築城の技法である「登り石垣」が良好な形で保存されている。この石垣は天秤櫓の向かって右が牛蒡積み、向かって左が落し積みとなっている。なお、城の北側には玄宮園楽々園という大名庭園が配されており、これらは「玄宮楽々園」として国の名勝に指定されている。また、玄宮園、楽々園は松原内湖に面していたし、入江内湖も望める絶景であった。

地理特性

湖と山の間、5キロメートルほどの狭い平地に立地する彦根は、中山道北陸道(俗に北国街道ともいう)が合流し、水陸からに至る東国西国の結節点であり、壬申の乱672年(白鳳元年))・姉川の戦い1570年(元亀元年))・賤ヶ岳の戦い1583年(天正11年))・関ヶ原の戦い1600年(慶長5年))など、古来、多くの合戦がこの地域で行われた。 戦略拠点としてその点に注目され、織田信長は佐和山城に丹羽長秀を入れ、ほど近い長浜城羽柴秀吉に与えている。 また、豊臣秀吉徳川家康はそれぞれ譜代筆頭の石田三成井伊直政を、この地に配置している。

建築

彦根城の建築物には、近江の名族京極高次が城主を務めた大津城からの天守を始め、佐和山城から佐和口多門(非現存)と太鼓櫓門、小谷城から西ノ丸三重櫓、観音寺城からや、どこのものかは不明とされているが太鼓門、などの移築伝承が多くある。 建物や石材の移築転用は縁起担ぎの他、コスト削減と工期短縮のために行われたもので、名古屋城岡山城姫路城福岡城など多くの城に同様の伝承が伝わっている。

時代劇の撮影などでも使われる天秤櫓は、長浜城から移築したといわれている[11]。この天秤櫓は、堀切の上の掛橋を渡った突き当たりにあたる、長い多聞の左右の端に2重2階の一対の隅櫓を構え、あたかも天秤ばかりのような独特な形をしている。

通し柱を用いず、各階ごとに積み上げられた天守は、3層3階地下1階の複合式望楼型で「牛蒡積み(ごぼうづみ)[12]」といわれる石垣で支えられ、2重目以上の窓はすべて華頭窓を配し、最上階には実用でない外廻り縁と高欄を付けている。各重に千鳥破風、切妻破風、唐破風、入母屋破風を詰め込んだように配置しており、変化に富む表情を見せる。大津城天守(4重5階)を3重に縮小して移築したといわれ[13]昭和の天守解体修理(1957年(昭和32年)- 1960年(昭和35年))のときに、天守の用材から転用されたものと見られる部材が確認されている[note 2]

彦根城は、戦のための城で、壁の鉄砲穴も、外からは見えない様に作られており、敵が中に攻め入っても、階段をのぼってくる敵を、上から突き落せるように急な角度(62度)になっている。はしごのような階段はただ上の小さな掛かりが掛かっているだけであるので、敵が登らんとすれば、蹴って階段を落とす構造となっている。

文化財

国宝
  • 天守
  • 附櫓及び多聞櫓(1棟)
重要文化財
  • 天秤櫓
  • 太鼓門及び続櫓(1棟)
  • 西の丸三重櫓及び続櫓(1棟)
  • 二の丸佐和口多聞櫓
  • 馬屋

観光

テンプレート:節stub

所在地
滋賀県彦根市金亀町1-1
利用情報
日本100名城スタンプラリーのスタンプは、彦根城表門券売所に設置されている。
屋形船(内堀を観光船で巡る)
山崎御門前←→玄宮園前船着場

交通

鉄道
  • JR東海JR西日本 東海道新幹線 米原駅から車で約20分、もしくは、東海道本線に連絡。
  • JR西日本 東海道本線琵琶湖線彦根駅から徒歩約15分。駅前大通りを真っ直ぐ西に向かい、護国神社にあたったら護国神社を囲むように回り込みいろは松の通りを通ってクランクを抜け内堀に突き当たったら左に折れれば正門の木橋がある。足が不自由な人には人力車がある。お城には登れずとも城下町が残っているのと、彦根城天守閣を見上げることの出来る箇所が何箇所かある。
自動車道

舞台となった作品

映像

以下の作品以外にも、映画やテレビドラマの撮影地として頻繁に使われている。東映京都撮影所京都映画撮影所から場所が近いことから、姫路城とともに時代劇のロケが頻繁に行われている。江戸城の代わりとして用いられる事が多い姫路城に対して、それより小規模な本城は無名の小城という設定での撮影が多い。

文学

井伊直弼が藩主の座に就くまでに先の藩主やその候補者の多くが夭折(ようせつ)していることから、神秘的な物語の舞台に採り上げられることが多い。なお、国宝・彦根城築城400年の開催を機に、小説を対象に2007年(平成19年)、舟橋聖一文学賞が創設された。

その他

参考画像

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

参考文献

テンプレート:Reflist

関連項目

テンプレート:Sister

外部リンク

テンプレート:現存天守

テンプレート:日本100名城
  1. 京極高次が建てた大津城天守を移築したもの。
  2. 「附櫓及び多聞櫓」を1棟に数える。
  3. 国宝指定の現存天守を持つ4箇所の城郭、姫路城松本城彦根城犬山城を指す。
  4. 昭和60年度から6年間にわたって修復を受けた。
  5. 広報ひこね第1262号4ページ 2012年3月1日
  6. 前月には中堀と外堀の間にある馬場町が空襲をうけた(彦根空襲)が城は被害を受けることはなかった。
  7. 自転車の盗難急増 彦根城中堀へ投棄も、城内で啓発活動:滋賀彦根新聞(2013年3月8日)
  8. 憤懣本舗「城の堀に大量の自転車が…」:毎日放送(2013年2月25日)
  9. 彦根城の堀に相次ぎ自転車投棄 計115台、愉快犯か:日本経済新聞(2013年2月10日)
  10. ひこにゃんも困った 彦根城の堀に自転車投棄115台、彦根市が告発:産経新聞(2013年2月10日)
  11. 内藤信成時代の長浜城大手門。
  12. ごぼうのように細長い大小の自然石を土塁の中に差し込み、石を積んでいく野面積みの一種である。外観は野面積みの一種だが、細長い石を縦横に組み合わせた組み木のような石積みで、非常に堅固である。四角く切った石を積んだ石垣と違い、見た目は無骨だが崩れにくく、非常に頑丈な石垣である。(「石垣の積み方」も参照。)
  13. 天守がややずんぐりしているのはそのためであるという。
  14. 彦根城の「世界遺産登録」 鎌倉にも抜かれ置いてけぼり…:産経新聞(2012年11月24日)
  15. 彦根城、敵は自転車? 世界遺産登録目指し20年:産経新聞(2012年11月8日)


引用エラー: 「note」という名前のグループの <ref> タグがありますが、対応する <references group="note"/> タグが見つからない、または閉じる </ref> タグがありません