太原雪斎

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テンプレート:基礎情報 武士 太原 雪斎/太原 崇孚(たいげん せっさい/たいげん そうふ[1])は、戦国時代武将政治家臨済宗僧侶禅僧)で今川家の家臣。諱は崇孚

父は庵原城主・庵原政盛(左衛門尉)。母は興津横山城主・興津正信の娘。父方の庵原氏駿河庵原(現在の静岡市清水区)周辺を治める一族。母方の興津氏横山城を本拠に海運を掌握し海賊水軍)も率いていた。両家とも今川氏の譜代の重臣。今川義元に仕えて義元の家督相続に尽力。相続後は義元を補佐して内政・外交・軍事に敏腕を発揮して今川家の全盛期を築き上げた。 また後奈良天皇から宝珠護国禅師を諡された[2]

生涯

義元の幼少時代

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主君の今川義元

雪斎が義元と初めて出会ったのは大永2年(1522年)頃のこととされる[3][4]。はじめ雪斎は九英承菊(きゅうえいしょうぎく)と名乗って、駿河富士山麓の善得寺に入寺し、幼名を芳菊丸といった義元の教育係を務めた[3]。後に京都五山建仁寺で修行をしていた。この頃から秀才として将来を嘱望されていたと言われる。この噂を聞いた主君の今川氏親から帰国して今川家に仕えるよう要請されるが、一説にはこの要請を2度までも断ったと伝えられる。享禄3年(1530年)、建仁寺の師である常庵龍崇によって芳菊丸が得度の儀式(薙髪染衣)を行い、承芳と名を改める。2人はさらなる修行のため、大永5年(1525年)と天文2年(1533年)の2度にわたって上洛し、善得寺から建仁寺へ、さらに妙心寺へと移った[4]。この頃に承芳は道号「栴岳」を与えられ栴岳承芳と名乗り、承菊はそののちに太原崇孚(雪斎)に改めたとされている。

今川家では大永6年(1526年)に氏親が死去し、義元の同母兄である氏輝が跡を継ぎ、母の寿桂尼が後見した[3]天文4年(1535年)、善得寺の住持であった琴渓承舜の7回忌法要のため駿河に戻り、再び善得寺に入る。

義元の家督相続

文5年(1536年3月17日、氏輝が死去、為和の日記や武田家臣の日記『高白斎記』などに拠れば同日に氏輝の後継的立場にあった次弟の彦五郎も死去している。継嗣が無かったため、氏親の3男で義元の異母兄である玄広恵探と栴岳承芳こと義元の家督争いが起こる。この時、雪斎は義元の家督相続に尽力し、花倉館に籠城した玄広恵探を攻め、自刃に追い込んだとされる[5][4]花倉の乱)。このため、還俗して家督相続を実現させた義元は雪斎を厚く信頼し、政治・軍事における最高顧問として重用する。

雪斎の活躍

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弟子とされる徳川家康

雪斎は義元を政治・軍事の両面で全面的に補佐した。義元も雪斎を厚く信任して手厚い庇護を与えた[6]。天文6年(1537年)、雪斎は氏親の時代から悪化していた甲斐武田信虎との関係改善に務め、義元の正室に信虎の長女・定恵院を迎え、信虎の嫡子・晴信三条公頼の娘・三条の方(今川家の遠縁)を周旋して、両家の間に甲駿同盟を成立させた[6][7][4][8]。だがこのため、これまで同盟関係にあった相模北条氏綱との関係が悪化し、氏綱は駿河東部に侵攻し、同地を占領した[7]河東の乱)。雪斎はこれに対して拙速を避け、天文14年(1545年)に関東管領の山内上杉憲政を誘い込んで武田晴信と共同して河東に出兵し、同地を取り戻している[7][9][10]

天文15年(1546年)10月、織田信秀が西三河に侵入して松平広忠が救援を要請してきたのを機会に、雪斎は大軍を率いて西三河に介入する[11]。天文16年(1547年)、今川軍を率いて三河田原城を攻めて、同城を落とした[12][13]。天文17年(1548年)3月19日、三河小豆坂で尾張織田信秀と戦い、織田軍を破って西三河の支配権を得た[13][11][12]第2次小豆坂の戦い)。天文18年(1549年)11月、三河安祥城を攻めて織田信広を捕縛し、織田信秀と交渉を重ねて、織田家に奪われていた人質の松平竹千代(のちの徳川家康)を今川氏のもとへと取り戻している[13][9]。この時の人質交換は笠寺(現在の愛知県名古屋市南区)で行なわれた[9][14]

天文19年(1550年)6月に義元の正室・定恵院が死去し、今川家と武田家の婚姻関係が絶えた。このため天文21年(1552年)11月に義元の長女・嶺松院を晴信の嫡子・義信の正室として嫁がせて同盟・婚姻関係を保持した[10][15][16]

天文23年(1554年)3月には甲斐の武田晴信、相模の北条氏康に働きかけ、甲相駿三国同盟の締結に尽力した。この同盟に際し、現在では後世の創作との説が有力であるが、武田晴信、北条氏康、主君の今川義元の三家の当主を駿河の善得寺で会合させたとの伝説もある。この同盟に伴い、義元の嫡子・氏真に氏康の娘・早川殿が嫁ぐ。これにより、今川家は三河など西方面への作戦に兵力を集中することが可能になった。[12][10][7]甲相駿三国同盟#善得寺会盟の真偽)。

このように外交と軍事の活躍が目立つ雪斎であるが、天文14年(1545年)に高僧を招いて駿府に臨済寺を開寺し、自らは2世住持となり、天文19年(1550年)には京都妙心寺の第35代住持に就任するなど、僧侶としても活躍している[6]。雪斎の時代に駿河では善徳寺と清見寺を中興し、今林寺や承元寺、葉梨長慶寺、庵原一乗寺が、遠州では定光寺が、三河では太平寺が興され、妙心寺派の普及がなされている[17]

天文22年(1553年)、今川家の分国法である今川仮名目録33か条の追加21箇条の制定に寄与する[16]。また臨済宗を中心とした領内における寺社・宗教の統制や、在来商人を保護する商業政策なども行ない、今川氏の最盛期に大きく貢献した。中国の史書である歴代序略を印刷している。

最期

弘治元年(1555年)閏10月10日、駿河長慶寺にて死去した[14][18]。享年60[3]

人物像

今川義元の右腕として手腕を発揮し、今川氏の発展に大きく寄与したことから「黒衣の宰相」「名補佐役」「軍師」などと現在では評価されている。『今川分限帳』では「執権」と評している。このように雪斎の手腕は今川義元の全盛期を築き上げた人物として後世には見られていた[19]。そのため『甲陽軍鑑』では雪斎の死後、山本勘助が「今川家の事、悉皆坊主(雪斎)なくてはならぬ家」と評したとしている。また家康も「義元は雪斎和尚とのみ議して国政を執り行ひし故、家老の威権軽ろし。故に雪斎亡き後は、国政整はざりき」と評したという[20]。雪斎の死後、5年を経ずして義元は桶狭間の戦い織田信長に敗れて討死するが、もし雪斎が生きていたら今川家が衰退することはなく、義元が討死することはなかったとみる現代の歴史家・作家は非常に多い[18][17]

なお、庵原一族の庵原忠胤武田信玄の家臣・山本勘助の義母(父の後妻)の親族と見られており、雪斎と勘助は縁戚関係にあった可能性もある[2]

人質時代の徳川家康の学問・軍学の師とする説も存在しており、小和田哲男が支持している[21]。しかし雪斎の駿府不在時期と重なり、異論・反論も多く、雪斎を家康の師匠としている『朝野旧聞褒藁』の記述も疑問視されている。

雪斎は『御屋形対諸宗礼之事』という義元の太守としての心得を遺している。これによると雪斎は有徳の僧侶であれば形式などくだらないものにこだわらないで尊敬する事、禅師・上人などの号に奢って堕落する高僧を非難するなど、合理主義者としての素養を伺わせる一文がある[17]

脚注

注釈

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出典

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参考文献

書籍
史料
  • 『甲陽軍鑑』
  • 『今川分限帳』
  • 『朝野旧聞褒藁』
  • 『御屋形対諸宗礼之事』

関連作品

テレビドラマ
漫画
  • センゴク外伝 桶狭間戦記 - 武家に生まれながら、あえて僧として育てるように託された主人公の義元の中に戦国大名として時代を生き抜くに相応しい非凡な才能があることを見出し、それまでの自らの僧の立場・心境を逸脱してまで、義元を導き生き方を決定付けた重要な登場人物として描かれた。もうひとりの主人公である若き日の織田信長にとっても、生涯で初めての超えるべき巨大な敵として描写されている。
小説

関連項目

  • 一般的には「すうふ」で通っているが、近年の研究では「そうふ」と読むのが一般的である。小和田哲男『今川義元』(2004年)、有光友學『今川義元』(2008年)など参照
  • 2.0 2.1 川口素生『戦国軍師人名事典』P76
  • 3.0 3.1 3.2 3.3 川口素生『戦国名軍師列伝』P91
  • 4.0 4.1 4.2 4.3 歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P293
  • 川口素生『戦国名軍師列伝』P92
  • 6.0 6.1 6.2 川口素生『戦国名軍師列伝』P93
  • 7.0 7.1 7.2 7.3 川口素生『戦国名軍師列伝』P94
  • 川口素生『戦国軍師人名事典』P77
  • 9.0 9.1 9.2 歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P295
  • 10.0 10.1 10.2 歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P296
  • 11.0 11.1 歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P294
  • 12.0 12.1 12.2 川口素生『戦国軍師人名事典』P78
  • 13.0 13.1 13.2 川口素生『戦国名軍師列伝』P95
  • 14.0 14.1 川口素生『戦国軍師人名事典』P79
  • 泉秀樹 著『戦国なるほど人物事典』PHP研究所、2003年、p.107
  • 16.0 16.1 泉秀樹 著『戦国なるほど人物事典』PHP研究所、2003年、p.108
  • 17.0 17.1 17.2 泉秀樹 著『戦国なるほど人物事典』PHP研究所、2003年、p.109
  • 18.0 18.1 川口素生『戦国名軍師列伝』P96
  • 歴史群像『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』P292
  • 泉秀樹 著『戦国なるほど人物事典』PHP研究所、2003年、p.114
  • 小和田哲男『今川義元:自分の力量を以て国の法度を申付く』、ミネルヴァ書房、2004年9月。