織田信広

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テンプレート:基礎情報 武士 織田 信広(おだ のぶひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将織田信秀の子。織田信長の庶兄。

生涯

生誕から信秀存命中まで

信秀の長男であるが、生母が側室という立場から家督の相続権はなかったらしく、母親の出自も不明である。一般にも「信長の兄」とは認識されておらず、織田弾正忠家の一族扱いであった。生年は不詳だが、信長が10代前半の頃には既にそれなりに軍事的にも重要な役割を任されており、ある程度は年が離れていたと推測される。また『信長公記』の記述から、織田信時は同母弟でないかと見られている。

天文17年(1548年)3月に起こった第二次小豆坂の戦いでは先鋒を務める[1]。しかし小豆坂を登る時に今川先鋒の松平勢と鉢合わせしてしまい、応戦するも劣勢に立たされた為に信秀本隊が陣を張る盗木の付近までひとまず退き、本隊と合流して松平勢を退ける。その勢いに乗り信秀らは攻勢に出るも今度は今川の伏兵の岡部長教らが本隊を突いた事により総崩れとなり大敗を喫する。この敗北により織田軍は安祥城へと敗走を余儀なくされ、信秀は安祥城の守備を信広に任せて尾張へと帰還した。

天文18年(1549年)3月に安祥城の守備を任されていた信広は今川義元の配下の太原雪斎率いる今川・松平連合軍2万の侵攻を受け追い詰められるが深入りした先鋒の本多忠高を討ち取り、浮き足だった今川軍に対して城より打って出て撃退に成功する(第三次安城合戦)。しかし同年11月、再度雪斎に城を攻められた際には平手政秀などが援軍に遣わされるも耐え切れず安祥城は陥落。今度は生け捕りにされてしまう(第四次安城合戦)。後に、織田家の人質となっていた松平竹千代(徳川家康)との人質交換という形で織田家へ送還される。三河支配の橋頭堡たる安祥城の陥落に加えて、この人質交換の交渉により、織田家の三河における求心力は大きく後退する結果となった。

謀反

弘治2年(1556年)、信広は美濃稲葉山城斎藤義龍と組んで謀反を画策する。この頃、信長は美濃からの兵が来れば自ら清洲より出陣し、後詰めに信広が清洲城に入り居留守役の佐脇藤右衛門が信広の応対に出てくるのが常となっていた。信広はこれを利用して清洲城の北に義龍が布陣して撃退するべく信長が出陣した時にいつも通り後詰めとして清洲入りし、応対に出てくるであろう佐脇を殺害して清洲城を乗っ取り、成功すれば狼煙を上げて清洲城の信広と義龍とで信長を挟撃するという作戦を立てる。

しかしながらこの計画は事前に信長に漏れ、清洲城から義龍を迎え撃つ為に出撃した際に佐脇に決して城を出ない事と、町人に惣構えで城戸をさし堅め信長帰陣までいかなる人間も入れぬようにと厳命していた。この時に限って佐脇に入城を頑なに拒まれた上に警戒体制の城下の様子を見て信広は謀叛の失敗を悟り慌てて兵を返し、いつまでも狼煙が上がらぬこと、で義龍も信広が清洲城の乗っ取りに失敗したことを察し、戦わず美濃へと引き上げた。それから信広は叛意を露にして信長と敵対し、小規模な戦闘をたびたび起こしたがいずれも退けられ、程なくして降伏した。この時、信長は信広を赦免している[2]

上洛後

以後は二心無く信長に仕え、当時はまだ信長の息子たちも幼かったこともあり、信秀直系で一番の年長者ということもあって織田家連枝衆の中ではまとめ役的な存在であったという[3]。織田家が上洛を果たした永禄12年(1569年)から元亀元年(1570年)頃まで京都に常駐して信長の庶兄という立場から室町幕府公家との折衝役を任され、山科言継吉田兼見一条内基らと交友を持った[4]。元亀元年(1570年)の比叡山焼き討ち、元亀3年(1572年)の岩村城救援などにも参戦した。天正元年4月7日1573年5月18日)には、織田家と不和になっていた足利義昭と信長の名代として交渉に臨み、和議を締結させている[5]

天正2年(1574年)、最後の伊勢長島一向一揆攻めに参加する。海陸からの兵糧攻めに耐えかね、9月29日長島願証寺が降伏して退去しようとしたが、信長はこれを受け入れず、一揆勢が船で逃げようとするところに一斉攻撃をかけた。一揆の総指揮をとっていた願証寺顕忍三位法橋は弾丸に倒れたが、一揆兵は捨て身の反撃に出て本陣に突入、その際に大木兼能佐々宗淳の外祖父)と一騎打ちとなり、信広は討ち死にしたという。

子孫

織田家の公的な家譜によれば、信広には男子はなく、娘は一人で信長の養女として丹羽長秀に嫁いでいる。信憑性は薄いものの、異説によれば、このほか信州佐久郡武石に居住した武石五郎信興という男子がおり、娘には織田信正の正室恭姫、六角氏正統の六角義郷八幡山秀綱の母千代君(『招提寺内興起後聞併年寄分由緒実録』)があるという。千代君の子である秀綱は織田家正統の後継者となった織田秀信の養子となったとされる。この場合、秀綱が織田家を継承したとすると、女系ではあるが信広の血統に織田家の正統が移り、祖父・父の兄弟順で兄系が弾正忠家の嫡流を継ぎ、相応に正当性のある措置となることから、義郷、秀綱兄弟が実在したとすると、この養子縁組も行われていた可能性が高い(ただし、一般に信正は織田家の婿養子であるため、信長庶子と言うのは飛躍した想像による可能性も高い)。

脚注

註釈

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出典

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参考文献

書籍
史料
  1. 『三河物語』。
  2. 『信長公記』巻首19段、「三郎五郎殿御謀叛の事」
  3. 谷口克広『信長の親衛隊』 中公新書(1998年)
  4. 『言継卿記』、『兼見卿記』など。特に吉田兼見は信広が病気の際に見舞いに訪れるなど親しい間柄であった。
  5. 『信長公記』、『言継卿記』