斎藤義龍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:基礎情報 武士

斎藤 義龍(さいとう よしたつ)は、戦国時代武将美濃国戦国大名道三流斎藤氏の第2代当主で美濃一色氏初代。室町幕府相伴衆

生涯

斎藤氏時代

大永7年(1527年)7月8日、初代当主・斎藤利政(秀龍・道三)の嫡男として生まれる。母は側室の深芳野。初名は利尚、高政[1]といった。 天文23年(1554年)、道三が隠居したため、美濃守護代斎藤氏の家督を継いで稲葉山城主となる[2]が、道三は義龍を忌み嫌い、次第に弟の孫四郎や喜平次らを寵愛するようになる[3]。さらに義龍を廃嫡して、正室の小見の方の腹である孫四郎を嫡子にしようとし、末弟の喜平次には名門一色氏を名乗らせた[4]ことから、両者の関係は最悪の事態を迎えた。

弘治元年(1555年)、義龍は叔父とされる長井道利と共謀して、道三を追放し、道三が寵愛する弟の孫四郎・喜平次らを日根野弘就に殺害させた。弘治2年(1556年)、長良川に道三と対戦、道三を支持する勢力は少なく、旧土岐氏の勢力に支えられて道三を討ち果たした(長良川の戦い)。尾張国から織田信長が道三を救援に来ていたが間に合わなかった。義龍と多少の戦闘をしつつ信長は撤退した。

一色氏時代

その後は、貫高制に基づいた安堵状を発給して長年の内乱で混乱した所領問題を処理し、また宿老による合議制を導入するなど、室町時代の体制を生かしながら、戦争に明け暮れていた道三の下では十分実現し得なかった守護領国制の残滓を排して、戦国大名としての美濃一色氏(斎藤氏)の基礎を築いた。後に剃髪して玄龍と号している。

斎藤道三の末子である斎藤利治が尾張の織田家に亡命し、織田信長より偏諱を与えられ長龍と改名し美濃斎藤家当主を名乗る。義龍は尾張織田家との戦闘が続くなか京都の将軍家足利義輝より一色氏を称することを許され美濃守護代家斎藤氏より改名、永禄元年(1558年)に治部大輔に任官し、永禄2年(1559年)には足利幕府相伴衆に列せられ戦国大名としての大義名分を得た。さらに南近江の六角義賢と同盟を結び、北近江浅井久政とも戦う(一色氏は織田信長の根本領地である尾張知多郡と海東郡の分郡守護や北伊勢半国守護を継承した家柄であり、義龍の目指す侵攻路は、それだったとされる)。しかし尾張国の織田信長の侵攻がより激しくなるなどの不利な条件もあり、勢力拡大には結果的に失敗した。

永禄4年(1561年)、左京大夫(左京兆)に任じられるが、同年の5月11日に急死した。享年35。後を子の龍興が継いだ。

人物・逸話

テンプレート:出典の明記

  • 実父は道三ではなく土岐頼芸であるとの説がある。母・深芳野は道三の側室となったときにはすでに頼芸の子を懐妊していたという。ただし、信憑性に乏しく、江戸時代の創作とも云われている[5]
  • 義龍は父殺しの汚名を避けるためか、足利氏の一門である一色氏を称して、一色左京大夫と名乗った[6]。義龍の母・深芳野の母方の祖父が尾張知多郡守護の一色義遠(『美濃国諸家系譜』)、あるいは深芳野の父が一色義清であるとも言われる。義龍方についた土岐氏旧臣である桑原・安藤・日根野・竹腰らは、それぞれ一色家家臣ゆかりの延永・伊賀・氏家・成吉に改名したという説もあるが、斎藤家家臣の一色家家臣団名への改姓時期は義龍没後で龍興の治世である永禄4年(1561年)である。道三の実子ではないという噂を逆手に取り、父殺しの汚名を避ける大義名分を得て、美濃国人2万を自らの指揮下に結集させる事に成功したのである[7]
  • 義龍は道三から「無能」と評されていたが、戦国大名としての器量は充分に備えていた。長良川の合戦で、道三は義龍の卓越した戦略、戦術を目の当たりにし、自身の評価が誤りであったことを認めたという。
  • 永禄2年(1559年)に織田信長が僅かな供を連れて上洛した際には、道中に火縄銃で装備した手勢を派遣して、暗殺を謀っている。結局は失敗するものの、これは記録に残る日本初の狙撃である。
  • 身長は六尺五寸(約197cm)といわれ、非常に大男であったとされている。また、持病を患っていてその持病が原因で亡くなったといわれている(一説にはハンセン病とも)。
  • 義龍は道三暗殺後に「范可(はんか)」と名乗ったという。『信長公記』によれば、「范可」とは中国・の時代に止むを得ない事情により父親を殺した人物であり、義龍は自分の境遇と重ねこの名前を使うようになったとされる[8]
  • 父・道三のような独断専行政治ではなく、義龍は「宿老」と呼ばれる重臣の意見を取り入れる合議制を設け、家臣団の不満を解消したという。
  • 近年、勝俣鎮夫は著書『戦国時代論』で道三から義龍への継承、道三の戦死までの経緯に関して、従来の説を批判している。道三の美濃国内における発給文書の少なさを指摘して、義龍の家督継承は国内政治を省みない道三の施策を批判した重臣によって行われた強制的な当主交代であり、翌年の長良川の戦いは追放された道三が家督奪還を目指して兵を挙げたものであるとする見解をしている。

菩提寺

岐阜市常在寺菩提寺とし、この寺には国の重要文化財に指定されている斎藤義龍肖像画が所蔵されている。

系譜

脚注

テンプレート:Reflist

関連作品

テレビドラマ

関連項目

テンプレート:美濃斎藤氏当主
  1. 『高木貞一氏所蔵文書』 『岐阜市史』参考
  2. 天文17年(1548年)相続説もある。道三が隠居(義龍に稲葉山城を譲り、自信は鷺山城に移る)したという話は、江戸期の軍記物にあるのみで『信長公記』や『江美濃記』などの信頼できる資料に記述がないため、道三は隠居していない説がある。 また、隠居は父道三の自発的なものではなく、家臣の信頼を得られず、領国経営が円滑に進まなかったための交代劇という見方もある。
  3. 『信長公記』によれば道三は義龍を「耄者(おいぼれ)」と断じ、孫四郎と喜平次「利口者」だから溺愛したとある。
  4. 『信長公記』より。「一色右兵衛大輔」としたとある。
  5. 当時でも義龍の父親は道三だと認めている第三者の手紙(六角義賢が1560年、家臣に宛てた書状『六角承禎条書』による)がある。
  6. また主家の一色氏も成頼が一色氏出身でその三代孫の頼栄が一色氏を名乗っている。自己の正当性を主張するためとも考えられる
  7. ただし、一連の行動を義龍ではなく旧土岐家臣が主導したとする異説も存在する。
  8. ただし、「范可」にまつわる故事の実在は確認されていない。また、義龍が「范可」を名乗るのは、実際には道三を殺す以前からである。『美江寺文書』によれば弘治元年(1555年)12月、「斎藤范可」名で同寺に禁制を出している(『美岐阜市史中世 古代・中世』)