甲相駿三国同盟

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甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)とは、天文23年(1554年)に結ばれた、日本の戦国時代における和平協定のひとつである。甲相駿はそれぞれ甲斐相模駿河を指し、この時それぞれを治めていた武田信玄北条氏康今川義元の3者の合意によるもの。締結時に3者が会合したという伝説(後述)から善徳寺の会盟(ぜんとくじのかいめい)とも呼ばれている。同盟の名としては、それぞれの国をあらわす甲、相、駿の順番は定まってはおらず、文献・研究者・機関などによっては順番が異なる。

同盟締結の背景

戦国期には地位権力としての戦国大名の確立にともに大名権力による国内統一が行われ、大名領国の拡大に伴い領国同士の境界紛争が生じ、戦争や和睦や同盟といった外交関係がもたれるようになった。甲斐・駿河・相模の三国においても守護武田氏や今川氏、後北条氏による大名領国が形成され、領国間に存在する国衆などを通じて境界紛争や和睦など外交関係をもつようになっていた。

戦国大名同士の同盟は藤木久志によれば攻守軍事協定・相互不可侵協定・領土協定・婚姻の4つの要素から成立し、甲相駿三国においても戦争・和平を繰り返しながらそれぞれの要素を満たして同盟関係の成立に至り、東国情勢に大きな影響を及ぼした同盟として機能した。

戦国期武田氏の外交関係

甲斐国では応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱を契機に守護武田信満が没落したため国衆が台頭し、守護武田家内部の内訌と有力国衆の抗争、関東情勢の影響が複雑に関係し、有力国衆は駿河今川氏や相模後北条氏、信濃国衆ら国外勢力と結び乱国の様相を示していた。信虎期には甲斐国内の統一が達成され、信虎は天文6年(1537年)には娘(於豊)が今川義元に嫁いだことで駿河今川氏との同盟が成立したほか(甲駿同盟)、信濃諏訪氏や上野の関東管領山内上杉氏(当主は上杉憲政)、武蔵扇谷上杉氏と同盟を結び信濃佐久・小県方面への侵攻を志向していたが、両上杉氏と同盟したため後北条氏とは敵対関係にあった[1]

天文10年(1541年)に武田家では信虎嫡子の晴信(信玄)による信虎の駿河今川家への追放が起こり、晴信へ当主交代する。晴信は翌天文11年に信濃諏訪氏との同盟を手切とし、諏訪侵攻を行った[2]。さらに晴信は天文13年(1544年)に相模北条氏との和睦を進め、翌天文14年には今川・北条間の第二次河東一乱を調停し、今川・北条に山内上杉氏を加えた三者間での和睦を成立させる。その後、後北条氏と山内上杉氏の和睦は崩壊し再び敵対関係に入り、河越城の戦いで後北条氏は大勝を収める。

天文22年には信玄娘の黄梅院が北条家に嫁ぐなど武田と今川・北条三者の間では和睦と婚姻が行われ三国同盟の下準備が整い、一方で武田氏は信濃の領国化(信濃侵攻)を本格化させたため信濃国衆は山内上杉氏を頼り、天文16年の佐久郡志賀城攻めを機に山内上杉氏との関係は険悪化していく。

今川氏との同盟関係は晴信への当主交代後も継続され、天文19年(1550年)に義元正室であった信虎娘が病死するが、天文21年には義元娘が晴信嫡男義信に嫁いだことで同盟は回復する。

武田氏が晴信期に外交方針を転換し今川・北条との同盟関係に転じた背景には信濃侵攻の本格化が指摘され、信濃侵攻においては守護小笠原氏や北信国衆村上氏との抗争が激化し、天文17年(1548年)の上田原の戦いにおいて武田氏は大敗している。こうした経緯から武田氏は今川・北条との同盟関係により信濃侵攻を安定して進められるようになり、越後の長尾景虎(上杉謙信)との抗争が激化していく(川中島の戦い)。

なお、甲斐においては後北条領国の相模に接する郡内地方には譜代家老の小山田氏、今川領国の駿河に接する河内地方には御一門衆の穴山氏がおり、それぞれ甲相・甲駿関係において取次を務めるなど大名間に存在する国衆として重要な役割をになっている。

甲相関係においては小山田氏が主に取次を担当しているが、宿老で晴信初期に諏訪郡代を務めている板垣信方、晴信側近の駒井高白斎向山又七郎らが外交に携わっているほか、甘利信忠の関与も可能性が考えられている。なお、小山田氏は後北条氏の軍役帳である『小田原衆所領役帳』にも向山又七郎とともに名が記載されており、後北条氏から取次給を得ていたと考えられている。

甲駿関係においては一門の穴山氏が担当しているが、ほか板垣信方や駒井高白斎の関与が確認されている。

北条氏(後北条氏)

相模小田原の北条氏は室町幕府の有力な家臣である伊勢氏の出身であり、足利一門である今川氏と近しい関係にあった。初代の伊勢新九郎(北条早雲)は今川氏の一門たる家臣として、大きな功績を残した武将でもあった。後に堀越公方の治める伊豆に侵入した結果、今川氏親の後ろ盾もあって独立、戦国大名化した経緯から、今川氏とは友好な関係にあった。

しかし、天文6年(1537年)に今川家の後継者争い(花倉の乱)に乗じて、武田氏と今川氏が婚姻同盟を結ぶことになると、(早雲の後を継いだ)氏綱は兵を挙げて駿河東部に侵攻し(河東一乱)両氏と衝突。のちに講和に応じ和平への道を選んだが、緊迫した情勢は続いた。

天文15年(1546年)、北条氏は河越夜戦の勝利によって武田・今川の連携を後ろ盾としていた両上杉氏古河公方を駆逐し関東での支配圏を少しずつ広げていた。その後和睦成ったとはいえ今川氏との緊張は続いたが、関東支配のためには武田氏や今川氏との関係悪化は不利益との判断から、両氏との同盟締結への道を模索していた。

今川氏

駿河府中の今川氏は、今川氏輝が北条氏との同盟関係を重視し、武田氏とは敵対していた。

しかし天文5年(1536年)、氏輝の死去によって後を継いだ今川義元は、家督相続に際して、天文6年(1537年)に武田氏と婚姻することで外交方針を転換した。このため北条氏との対立を招き、富士南麓の領土紛争に発展した北条氏との関係は、講和によってひとまずの沈静をみた。

その一方で今川氏は遠江三河へ進出し、尾張織田氏とも対立、天文17年(1548年)の小豆坂の戦いなど大規模な軍の衝突も起きていた。

このように東と西に敵を持つことは戦略上好ましくないと考えた義元は、武田・北条両氏との関係修復の上、新たな盟約を結ぶことを求めた。

婚姻同盟の締結

それぞれの利害関係から合意にいたった三国の同盟は、当主である武田信玄、北条氏康、今川義元の娘がお互いの嫡子に嫁ぐ婚姻同盟として成立した。

このように三国の盟約が実現された。

同盟の効果

同盟締結による三者の利益は明らかで、

武田氏では、信濃における覇権を確固たるものにするため、天文22年(1553年)から始まる川中島の戦いで越後国上杉氏との数次にわたる争いが本格的になった。この合戦では、甲相同盟により同じく北武蔵において上杉と対決していた北条と相互に兵を出し、今川氏からも援軍が派遣されている。不利な点は、今川氏と北条氏が三河から下総までを支配しているため、日本海側に領地を獲得しない限り直接海に出られない、又交易出来ないということである。

北条氏では、今川氏との友好関係を取り戻し、北武蔵侵攻において武田氏とは上杉謙信という共通の敵を持つことで甲相同盟により後背の憂いをなくし、上杉を名目上の主と仰ぐ、佐竹・宇都宮・長野・里見などに対して関東の平定を押し進めることが可能となった。不利な点は上洛する道を今川氏と武田氏に塞がれていることが挙げられる。ただし北条氏はそもそも上洛を志向していないという説が有力である。

今川氏では、新たに影響を及ぼした三河の経営など、領内の支配体制を確立しつつ、戦略面においては争う相手を織田氏のみに絞ることが容易になった。

武田氏の太平洋沿岸への進出が事実上不可能であること、北条氏が将来上洛を企画しても陸路では難しいことを考慮すると、三国同盟は今川氏が最も得をすると考えられる。(そもそも働きかけているのは今川家の太原雪斎である。)

善得寺会盟の真偽

甲相駿三国同盟は別に「善得寺会盟(善得寺の会盟、善徳寺の会盟、または会盟を会談)」と呼ばれることがある。また「善得寺会盟」を出来事、甲相駿三国同盟を外交状態と、区別して表記されることもある。が、「善得寺会盟」自体の史実性は否定されている場合も多い。

この同盟の功労者として今川氏に仕えた太原雪斎の名がよく挙げられている。雪斎は善得寺で修行していたことがある僧で、主君今川義元に武田氏・北条氏との同盟の重要性を説き、武田信玄と北条氏康をも説得したとされる。

そして、三者の会談の場として、権力から中立である寺院がふさわしく、自身とも縁が深い善得寺を斡旋した、というものである。

この三者会談は小説や歴史ドラマなどにも取り上げられることが多く、武田信玄、北条氏康、今川義元の三人が実際に顔を合わせて盟約について話し合った様子が描かれている。有名なものでは、NHK大河ドラマ『武田信玄』で、三人が富士山の見る方角について和やかにかつ敵愾心を持って会談する場面がある。

しかし、このように戦国大名が直に対面する機会は全体から見ると非常に希であること、この「会盟」の出典が北条側の軍伝のみであり「会盟」の記録に誤った部分があること、またこの時期の武田氏は、すでに上杉氏との争いで予断を許さない状況にあり、信玄の出席に現実味がないことなどから、「善得寺会盟」なる逸話は創作であるとされるのが一般的である。

実際には、太原雪斎の働きかけによって武田氏・北条氏それぞれの重臣が協議を行い、当主の合意が得られた結果、と考えられている。

外交情勢の変化と三国同盟の崩壊

永禄年間には三国を巡る外交情勢にも変化が生じ、今川氏は尾張国内を統一し台頭していた織田信長と対立し、永禄3年(1560年)には桶狭間の戦いにおいて義元が討死し氏真が当主となるが、今川領国は三河において松平氏(徳川家康)の自立を招くなど動揺を招いた。

一方、武田氏は永禄4年9月の第四次川中島の戦いを契機に川中島四郡の支配を安定させ、上杉氏との抗争は続くものの北信を巡る戦いは収束していた[3]。武田氏は永禄初年頃より織田氏との外交関係をもっており、信長は永禄8年(1565年)9月に将軍足利義昭を擁立し上洛を行っている。信長は今川の当敵であったものの同年に信玄庶子の美濃国衆を通じて高遠領主諏訪勝頼(武田勝頼)との婚姻が成立している。同年10月には、武田家において氏真妹を室とする信玄嫡男の義信が謀反を企てたとして幽閉され、永禄10年(1567年)に自害する事件が発生する(義信事件)。義信事件の背景には武田家中における外交方針の対立があったと考えられている。

氏真は同年6月に甲斐への塩止めを敢行しており、11月には氏真の要請によって義信の妻が今川家に帰され、さらに武田氏の当敵にあたる越後上杉氏との同盟関係を模索している。武田氏は徳川氏などに今川領国の分割を持ちかけており、甲駿同盟は手切に至り崩壊していると見なされている。

翌永禄11年(1568年)、武田氏は徳川氏と共同で駿河今川領国への侵攻を開始する(駿河侵攻)。武田氏は北条氏にも今川領国の割譲を持ちかけているが、伊勢宗瑞(北条早雲)の代から今川氏との友好関係(今川氏の支援がなければ早雲の出世も不可能であり、両家は言わば義兄弟に近い関係であったという)があった氏康は駿相同盟を重んじて、娘婿・氏真を保護すべく駿河に援軍を出した。これにより武田・北条間の甲相同盟も崩壊する。

氏康は嫡孫北条氏直が氏真の後の今川の家督を継ぐ形式を整え、駿河支配の名目を整えた。北条氏は武田氏を攻囲するため越後上杉氏との同盟をもちかけ(越相同盟)、翌永禄12年(1569年)に武田氏は牽制のため北条領国への侵攻を行ったほか(小田原城包囲、三増峠の戦い)、信長・将軍義昭を通じて上杉氏との和睦を図るなど(甲越和与)、三国同盟の崩壊後は将軍義昭・信長政権など中央情勢と連動して展開していくことになる。


他の軍事同盟との比較

三国同盟は不可侵条約であるとされているが、共同での軍事行動も幾つか確認されている。

  • 天文23年(1554年)に、今川は信濃国で戦う武田に家臣の一宮宗是等を援軍として派遣している。
  • 永禄3年(1560年)から4年の上杉輝虎の小田原攻撃時(小田原城の戦い)に、今川武田両家は北条に援軍を出し、勝利に貢献した。
  • 永禄4年(1561年)第四次川中島の戦いの際、北条今川両家は武田に援軍を出している。詳細は定かでない。
  • 永禄6年(1563年武蔵国松山城攻撃の際、武田北条両家は連合軍を組織し、城を陥落させた。
  • 永禄6年(1563年)上野国厩橋城攻撃の際、武田北条両家は連合軍を組織し、城を陥落させた。

研究史

戦国期外交の政治的意義については1980年代から研究が展開され、1990年代には三国同盟の形成や機能、解体過程に関する研究が発表され、成立・展開については磯貝正義小和田哲男久保田昌希柴辻俊六らの論考があり、解体過程でも多くの論考が発表されている。

また、三国同盟に関する研究は東国地域史の視点に拠るところが大きかったが、2000年代には同盟崩壊後の武田氏の駿河侵攻や西上作戦は畿内における織田信長・将軍足利義昭の動向と連動している点が指摘され、解体過程については畿内政治史の観点や神田千里の提唱した戦国期「天下」論の観点からも注目されている。

脚注

  1. 信虎期の外交政策については丸島和洋「武田信虎の外交政策」柴辻俊六編『武田信虎のすべて』(新人物往来社、2007年)
  2. 武田氏は天文9年に諏訪頼重・佐久郡の村上義清と共同で小県出兵を行い海野棟綱を駆逐していたが(海野平合戦)、関東管領の上杉憲政は天文10年7月に棟綱を支援して出兵し、諏訪頼重は武田・村上氏に無断で上杉憲政と和睦しており、晴信による諏訪侵攻の背景には武田氏がこれを盟約違反と認識したことがあると考えられている(平山優『川中島の戦い』)。
  3. なお、上杉氏との川中島の戦いにおいては将軍足利義輝による仲介が行われており、第四次川中島の戦いの行われた永禄4年に義輝は上杉政虎(謙信)に対して前信濃守護小笠原長時の帰国支援を命じる形で川中島への介入を認めており、武田氏の外交が畿内情勢と関係して展開されている点が注目される。

参考文献

  • 丸島和洋「信玄の拡大戦略 戦争・外交・同盟」『新編武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年

関連項目

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