三韓征伐

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三韓征伐(さんかんせいばつ)は、神功皇后新羅出兵を行い、朝鮮半島の広い地域を服属下においたとされる戦争を指す。神功皇后は、仲哀天皇の后で応神天皇の母である。経緯は『古事記』『日本書紀』に記載されているが、朝鮮中国の歴史書にも関連するかと思われる記事がある。新羅が降伏した後、三韓の残り二国(百済高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるためこの名で呼ばれるが、直接の戦闘が記されているのは対新羅戦だけなので新羅征伐と言う場合もある。吉川弘文館の『国史大辞典』では、「新羅征討説話」という名称で項目となっている。ただし三韓とは馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那加羅)・辰韓(後の新羅)を示し高句麗を含まない朝鮮半島南部のみの征服とも考えられる。

概要

テンプレート:節stub テンプレート:See

日本書紀紀年論にみられるごとく年代はいまだ確定していない。そのため、神功皇后の活躍、三韓征伐のあった年代および、その史実の妥当性についての研究が続いている。倭国が新羅をはじめ朝鮮半島に侵攻した記録は、朝鮮の史書『三国史記』新羅本紀や高句麗における広開土王碑文などにも記されており、2011年には新羅の朝貢国であったと記されている梁職貢図が新たに発見されている。

紀年については、『日本書紀』は百済三書を参照または編入している[1]。百済三書の年月は干支で記しているので60年で一周するが、『日本書紀』の編者は日本の歴史の一部を2周(2運)繰り上げて(120年)書いているとされており、三書もそれに合わせて引用されているので、当該部分の記述も実年代とは120年ずれていると考えられる[1]井上光貞によれば、日本書紀の編纂者は神功皇后卑弥呼に比定したこともあって、干支を2運繰り上げたとしている[1]。また、百済記は早くから暦を導入しており、紀年は正確とみられている[1]テンプレート:See also

香椎宮託宣と仲哀天皇

以下、日本書紀の記載について概説する。

仲哀8(199)年9月条に仲哀天皇は神功皇后とともに熊襲討伐のため儺県(ナガアガタ[2]、現在の福岡博多[3]にあった奴国)の香椎宮を訪れる。そこで、神懸りした神功皇后から神のお告げを受けた。託宣では熊襲よりも宝のある新羅を攻めよとされた。しかし、仲哀天皇は、これを信じず、高い丘にのぼり、海を見ても、そんな国は見えないとして、神になぜ欺くのかといった。神はなぜそのように誹るのか、汝はその国を得ることはできないが、汝の子がそれを成すだろうと述べた。仲哀天皇は託宣を聞かずに熊襲征伐を行うが、敗北し、撤退した。さらに翌200年年2月、筑紫の香椎宮で崩じた。皇后らはこれを「神の託宣を聞かなかったためだ」と嘆いた。遺体は武内宿禰により海路穴門を通って豊浦宮でされた。『天書紀』では熊襲の矢が当たったと記されている。

神功皇后の新羅征討

夫の仲哀天皇の急死(200年)後、神功皇后201年から269年まで政事を執り行なった。仲哀9(200)年3月1日に神功皇后は齋宮(いはひのみや)に入って自らを神主となり、まずは熊襲を討伐した。その後に住吉大神神託で再び新羅征討の託宣が出たため、対馬の和珥津(わにつ)を出航した。お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗百済も朝貢を約したという。

渡海の際は、お腹に月延石鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせた。月延石は3つあったとされ、長崎県壱岐市月讀神社京都市西京区月読神社福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納。また、播磨国風土記逸文には、播磨で採れた顔料の原料である赤土(あかに)を天の逆矛(あまのさかほこ)や軍衣などを染めたとあり、また新羅平定後、その神を紀伊管川(つつかわ)の藤代(ふじしろ)の峯に祭ったとある[4]

皇后は帰国後、筑紫宇美応神天皇を出産し、志免でお紙目を代えた。また、新羅を鎮めた証として旗八流を対馬上県郡峰町に納めた(木坂八幡宮)。

神功皇后が三韓征伐の後に畿内に帰るとき、自分の皇子(応神天皇)には異母兄にあたる香坂皇子忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだが、神功皇后軍は武内宿禰武振熊命の働きによりこれを平定したという。

以上が『古事記』・『日本書紀』に共通する伝承の骨子であり、日本書紀には、新羅に加えて高句麗・百済も服属を誓ったこと、新羅王は王子を人質にだしたことが記される。

神功皇后 摂政5年(205年または325年)年3月7日に新羅王の使者として、汗礼斯伐(うれしほつ)、毛麻利叱智(もまりしち)、富羅母智(ほらもち)らが派遣され、人質として倭国に渡った微叱旱岐(みしこち)の妻子が奴婢とされたので返還を求めるとしてきた。神功皇后はこの要求を受け入れ、見張りとして葛城襲津彦を新羅に使わすが、対馬にて新羅王の使者に騙され微叱旱岐に逃げられた。怒った襲津彦は、毛麻利叱智ら三人の使者を焼き殺し、蹈鞴津(たたらつ。釜山南の多大浦)から上陸し、草羅城(くさわらのさし。慶尚南道梁山)を攻撃して捕虜を連れ帰った。このときの捕虜は、桑原、佐備、高宮忍海の四つの村の漢人の祖先である。

神功46年以降

神功46年以降は『百済記』が構文されている。[5] 神功46年(246年または366年)3月1日、斯摩宿禰を卓淳國に遣す。卓淳王の末錦旱岐は、百済の久氐(くてい)、弥州流(みつる)、莫古(まくこ)らが日本に朝貢したいと斯摩宿禰に伝えた。斯摩宿禰は、爾波移(にはや)と卓淳人の過古(わこ)を百済に遣した。百済の肖古王(近肖古王)は喜んだ。王は財宝を贈り、また蔵をみせて、これらを朝貢したいと爾波移に告げ、のち志摩宿禰らは日本へ帰還した。翌年4月、百済は日本に朝貢した。

神功皇后49年(249年または369年)3月には神功皇后が、将軍荒田別(あらたわけ)及び鹿我別(かがわけ)を卓淳国へ派遣し、新羅を襲撃しようとするが、兵の増強が進言され、百済の将軍木羅斤資沙沙奴跪(ささなこ)と沙白(さはく)・蓋盧(かふろ)らに合流を命じて、新羅を破った。比自[火+保](ひじほ)、南加羅、喙国(とくのくに)、安羅(あら)、多羅(たら)、卓淳、加羅の七カ国を平定した。さら西方に軍を進めて、比利(ひり)、辟中(へちゅう)、布弥支(ほむき)、半古(はんこ)の四つの邑は抵抗もなく降伏した。

神功51年(251年または371年)3月、百済は久氐を派遣し、日本に朝貢した。

神功52年(252年または372年)9月10日、百済王は、百済と倭国の同盟(済倭同盟)を記念して神功皇后へ七子鏡と七枝刀を献上した。なお、七支刀に彫られた「泰■四年」を太和4年とする説がある。この場合、百済が朝貢していた東晋の年号太和4年とされるが、こちらの説の場合には秦の文字を太と書き換えねばならず疑問視する声もある。[6]。また西晋の泰始4(268)年だという説もあり。こちらは秦の文字が合致するのでこちらを主張する学者も存在する。

葛城襲津彦の新羅征討

神功皇后 62年(262年または382年)、葛城襲津彦を遣わして新羅を撃たせる。

百済記』によれば壬午(382)年、新羅は日本に奉らなかったため、日本は沙至比跪(さちひこ、襲津彦)を派遣し新羅を討伐した。しかし、沙至比跪は新羅の美女に心を奪われ矛先を加羅に向け、加羅を滅ぼす。加羅国王己早岐、児白久至らは、百済に亡命する。加羅国王の妹既殿至は、大倭(やまと)の天皇に直訴すると、天皇は怒って、木羅斤資(もくらこんし)を使わし沙至比跪を攻め、加羅を戻した。また、沙至比跪は天皇の怒りが収まらないことを知ると石穴で自殺したともいう[7]

葛城襲津彦については、神功代以降も、次のような記録がある。 テンプレート:See

  • 応神14年 百済の弓月君が誉田天皇に対し、百済の民人を連れて帰化したいけれども新羅が邪魔をして加羅から海を渡ってくることができないことを告げる。天皇は襲津彦を加羅に遣わして百済の民を連れ帰るように命令するが、三年、音沙汰もなくなった。
  • 応神16年8月、天皇は平群木菟宿禰的戸田宿禰に「襲津彦が帰ってこないのはきっと新羅が邪魔をしているのに違いない、加羅に赴いて襲津彦を助けろ」といって、加羅に兵を派遣した。新羅の王はその軍勢に怖じけづいて逃げ帰った。そして襲津彦はやっと弓月氏の民を連れて帰国した。
  • 仁徳天皇41年3月、 紀角宿禰に無礼をはたらいた百済王族の酒君(さけのきみ)を、百済王が襲津彦を使って天皇のところへ連行させる。

その他の記録

続日本紀』には、来新羅使(752年6月)の前で神功皇后説話を聞かせて立腹させたという記事もある。

テンプレート:要出典範囲が、『先代旧事本紀』は偽書であることが確定している。

八幡愚童訓

テンプレート:See also 13世紀末から14世紀初頭に成立した八幡神の縁起書である八幡愚童訓[8]甲本には、 テンプレート:Squote とあり、新羅・百済・高麗の「三箇ノ大国」として記されている。

太平記

テンプレート:See also 南北朝末期の『太平記』巻三十九「神功皇后攻新羅給事(しらぎをせめたまうこと)」では、『八幡愚童訓』と同じように神の加護で新羅征討をなしとげたとあるが「三韓の夷(えびす)」という語が新たに登場し、その三韓は同時代の高麗と理解されている[9]

各国史書による関連記録

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「三韓」および新羅について

テンプレート:See also 新羅は紀元前2世紀末から4世紀にかけて存在した辰韓の後継国家とされる。辰韓は馬韓弁韓とあわせて三韓とよばれる。なお『日本書紀』および唐[10]では、百済、新羅、高麗(高句麗)の三国を三韓と呼ぶ。

辰韓秦韓とも呼ばれ、中国の秦朝の労役から逃亡してきた秦人の国といい、言語も秦人(中国人)に類似していたといわれる(『晋書』辰韓伝[11]および『北史』新羅伝[12])。従って、辰韓(秦韓)の民は、中国からの移民とされるが[13]、中国政府系の研究機関中国社会科学院は、辰韓を中国の秦の亡命者が樹立した政権で、中国の藩属国として唐が管轄権を持っていたとしており、議論になっている[14]

概史・年表

テンプレート:節stub 以下、各国史書に基づき、三韓征伐に関する、新羅倭国百済ほかの歴史を概説する[15][16]なお、年代は計算によっても異なるので、三韓征伐を現時点で特定できない以上、新羅と倭国はじめ関係諸国の史書における記録を網羅する。

  • 新羅初代王赫居世居西干の時代(在位:紀元前57年 - 4年)
    • 紀元前50年、倭人が侵攻してくるが、赫居世王の説得に応じて倭軍は撤退する。また重臣に、もとは倭人の瓠公がいた[15]
  • 2代王南解次次雄の時代(在位:4年 - 24年)
    • 14年には倭人が兵船100艘余りで攻め寄せ、海岸の民家を略奪した[15]。これに対して六部の精兵を派遣したところ、手薄になった首都を楽浪軍に攻められた。しかし、流星が楽浪軍の陣に落ちたため、彼らは恐れて引き上げたという。さらに六部の兵を送って追撃させたが、賊軍が多いので追撃は中止となった[15]
  • 第4代新羅王の脱解王の時代(在位57年-80年
  • 脱解王は倭国から東北一千里の多婆那国の王の子といわれ[15]、この多婆那国は竜神信仰を持っていたことや交易関係などから、日本列島の丹波国に比定される事が多い[17]、脱解王の出身氏族である昔氏は倭国と交易していた倭人の氏族とされる[18]
  • 第5代新羅王の婆娑尼師今の時代(在位80年-112年
    • 倭国に服属した新羅王(波沙寐錦、はさむきむ)のことを指すともいわれる[20]。また、414年に建てられた広開土王碑の第三面二行に「新羅寐錦」とあり、中原高句麗碑では、高句麗を「大王」、新羅王を「東夷之寐錦」としていることから、「寐錦」は、新羅の固有の君主号ともいう[21]法興王11年(524年)の建立とされる蔚珍鳳坪碑法興王は「寐錦王」として現れている。また、同時に連なっている高官に「葛文王」の表記が見られることから、6世紀初頭当時の新羅が絶対的な「王」による一元的な王権の支配下にあったわけではなく、寐錦王と葛文王という二つの権力の並存であったとする説もある[22]。なお、法興王の前代の智証麻立干(500-514年)の時代に国号を新羅、君主号を王に定た[15]
  • 第6代新羅王の祇摩尼師今の時代(在位:112年 - 134年)
    • 121年2月に大甑山城(釜山広域市東莱区)を築いた。同年4月に倭人が東部海岸に侵入した[15]
    • 翌年123年3月に倭国と講和した[15]
  • 第8代新羅王の阿達羅尼師今の時代(在位:154年 - 184年)
    • 158年、倭人が来訪する[15]
    • 173年5月、倭の女王卑彌乎が新羅に使者を送る[15]。しかしこれは、『三国志』東夷伝倭人条からの造作で、かつ干支を一運遡らせたとする説もある[23]
  • 第9代新羅王の伐休尼師今の時代(在位:184年 - 196年)。
    • 193年6月には倭人が飢饉に見舞われ、食を求めて1千余人が新羅に流入した[15]
  • 第10代王奈解尼師今 の時代(在位:196年 - 230年)
    • 208年夏4月、倭人が国境を侵す[15]。奈解王は将軍利音に反撃させた。
  • 第11代王助賁尼師今の時代(在位:230年 - 247年)
    • 232年4月に倭人が首都金城に攻め入った[15]。王も出陣して倭人を壊滅させ、騎馬隊を派遣して首級1千をあげた。
  • 233年5月、倭人が東部国境に侵入[15]。同7月、将軍の昔于老沙道で倭軍を撃退、倭人の兵船を焼き払う。
  • 第12代王沾解尼師今の時代(在位:247年 - 261年)
    • 249年夏4月、倭人が于老を殺害[15]
      • 応神天皇14年(283年)、弓月君百済から来て、天皇に奏上した。「私の国の百二十県の民が帰化を求めていますが、新羅人が阻むため、みな加羅国に留まっています。」天皇は葛城襲津彦を遣わして、加羅国の弓月の民を召したが、三年を経ても襲津彦は帰らなかった[16]
  • 第14代の王儒礼尼師今の時代(在位:284年 - 298年)
    • 285年(応神天皇16年)、天皇は平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)、的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)を加羅に遣わした。天皇は精兵を授けて、「襲津彦が帰らないのは、きっと新羅が邪魔をしているからだ。お前達は速やかに赴いて新羅を撃ちその道を開け。」と命じた。木菟宿禰らは精兵を進めて新羅の国境に臨んだ。新羅王は恐れて、その罪に服した。二人は弓月の民を率いて襲津彦と共に倭国に帰ってきた[24][16]
    • 287年4月、倭人が一礼部[25]に来たり、集落に放火し、1千人を捕虜にして立ち去った[15]
    • 292年、倭兵が沙道城(慶尚北道浦項市)を陥落させようとしたので一吉飡の大谷に命じて救援させたが、倭軍が攻略した[15]
    • 294年、倭兵が長峯城を攻略した[15]。また、沙道城を改築して沙伐州(慶尚北道尚州市)の有力な80余家を移住させ、倭に備えたという。
    • 297年、伊西国[26]に攻められ首都金城(慶州市)を包囲されるが、竹葉軍の助力で防衛に成功した[15]。なお、この伊西国と日本のイツツヒコ王国との間に関係があったともされる[27]
  • 第15代の王基臨尼師今の時代(在位:298年 - 310年)
  • 第16代の王訖解尼師今(在位:310年 - 356年)
    • 312年国王が王子の通婚を要求[15]。王子ではないが、阿飡(6等官)の急利[29]の娘を嫁として送った[15]
    • 323年、新羅が朝貢に参じる[16]
    • 329年、新羅が朝貢を怠る。9月、砥田宿禰と賢遺臣を派遣して詰問すると、新羅は貢納を果たした[16]
    • 344年、倭国は再び通婚を要求。しかし、新羅側は娘は嫁に行ったとして断った[15]
    • 345年、倭国は怒り、国書を送って国交断絶[15]
    • 346年、倭国は風島を襲撃し、さらに進撃して首都金城を包囲攻撃した[15]。訖解尼師今は出撃しようとしたが、伊伐飡の康正の進言によって倭軍の疲弊するのを待ち、食料が尽きて退却する倭軍を追撃して敗走させたとする[30]。この時の倭群をイツツヒコ王国として、この遠征失敗により弱体化した同王国を打倒したことが「三韓征伐」とする主張もある[31]が、上記のように、新羅側の記録に倭軍侵攻の記録が残っている。
  • 新羅17代王奈勿尼師今の時代(在位:356年 - 402年)
    • 356年奈勿尼師今が即位。新羅の実質上の建国年とも。
    • 362年(または364年)、神功皇后元年、対馬より半島に至り、新羅王都に到る。新羅王は抵抗することなく降伏し、「馬飼部」となることを宣言し、毎年の男女を貢ぐと誓約した[16]
    • 364年4月、倭軍が侵入[15]。数千体の草人形に服を着せて兵器を持たせて吐含山(標高746m)の麓に並べ、1千人を斧峴(慶州市南東部?)の東に伏兵としておき、倭軍に不意討ちをかけて撃退したとする[32]
    • 365年5月、新羅が朝貢を怠ったため征伐[16]。率いる兵が少ないため砦へ篭って防戦に努めていたが、新羅軍の虚を突いて壊滅させ、四方の村民を捕虜として連れ帰る。
    • 391年倭が海を渡って百済(百残)・加羅新羅を破り、倭国の臣民となした[33]。秋7月、高句麗王好太王が4万兵で百済北の国境を攻め、石峴など10余りの城を落とした。冬10月、高句麗、百済の關彌城を落とす。百済王が11月、狗原の行宮にて死去した[34]
    • 392年正月に高句麗は新羅に使者を送ってきた。新羅は高句麗を恐れ、王族の伊飡(2等官)大西知の子の実聖(後の実聖尼師今)を人質として差し出した。
    • 393年5月に倭軍が侵入し首都金城(慶州市)を包囲されたが、倭軍の退却中に騎兵200を送って退路を塞ぎ、歩兵1千を送って独山(慶尚北道慶州市)付近で挟撃させ、倭軍を大敗させた[15]
    • 397年、百済の阿莘王は王子腆支を人質としてに差し出し服属した。
    • 399年百済高句麗との誓いを破って倭と和通したため[33]、高句麗王は百済を討つため平譲に侵攻した。同じ頃、新羅は倭軍が国境を越えて城を攻略し民を奴客となし、首都を囲んでいるため、高句麗に救援を求めた。新羅の長が自ら使者として高句麗王に拝謁し「多くの倭人が新羅に侵入して城を落とし首都を囲んでいる」と窮状を訴え、高句麗の臣下になる事を願い出たので、大王は救援することにした[33]
    • 400年、高句麗は倭の侵攻を受けていた新羅に歩騎五万を派遣し、新羅を救援する[33]。このとき新羅の首都は倭軍の侵攻を受けていたが、高句麗軍が迫ると、倭軍は退き任那加羅まで後退を始め高句麗軍は後を追った[33]。ところが、倭傘下の安羅軍などが逆を突いて、新羅の首都を占領した[33]。新羅は奈勿尼師今の王子未斯欣を人質として倭に差し出し服属した[15]
    • 404年帯方界で倭軍の攻撃を受けるが高句麗は撃退した。

倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事

413年から478年まで、倭国の倭の五王は、東晋朝貢し、朝鮮半島南部での倭国の支配権の国際的承認を求めた[35]438年に倭王讃を継承した弟の珍が倭国王となり、同年4月に宋の文帝は珍を安東将軍倭国王とした[36]

451年、珍の後を継いだ済は、宋の文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号された。478年、済の後を継いだ子の興が没し王と成っていた興の弟の武は、宋の順帝から「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭王」に叙任された[37]テンプレート:Main

その他の史料との関連

4世紀の倭の朝鮮半島進出は、広開土王碑七支刀などの考古物や中国朝鮮の文献など、全く別の史料によって実証されており研究がすすめられている。

4世紀後期頃から倭国ヤマト王権)が朝鮮半島南部へ進出したことを示す文献史料・考古史料は少なからず残されているため、三韓征伐神話を根拠として用いずとも4世紀後半以降の倭の朝鮮半島進出は史実として立証されている。

中国・朝鮮の史書との関連

中国史書(『宋書』など)の記述は、倭国が朝鮮半島南部の小国家群に対して支配力を及ぼしていた傍証であり、朝鮮側の史書『三国史記』からも度重なる倭の侵攻や新羅や百済が倭に王子を人質に差し出していたことが知られる(倭・倭人関連の朝鮮文献)。また、韓国南部の旧加羅(任那)地域の前方後円墳の発掘で倭国産の遺物が出ていることも証拠の1つとなる。

『三国史記』『三国遺事』といった朝鮮側の史料には、「オキナガタラシヒメあるいは倭女王の来襲(『三国史記』には卑弥呼の遣使は記載されている)」という記述は見られない。ただし、『三国史記』には新羅に倭兵が攻め込んだという記事が頻出するため、記紀に伝わる新羅征伐の伝承それ自体は、格別不審な伝承ではない。また『日本書紀』にある新羅王子の人質の件に関しては、5世紀初頭の、王子未斯欣の人質と、新羅王の部下朴堤上による王子奪還(王子は新羅に逃れたが朴堤上は倭国側によって処刑された)事件と合致することが指摘されている[38]

広開土王碑

テンプレート:Main 広開土王碑文には、4世紀末に倭が朝鮮半島に進出して百済や新羅を臣従させ、高句麗と激しく戦ったことが、高句麗側の視点から記録されている。

李進熙は、1972年に好太王碑改竄説を主張し、広開土王碑碑文は大日本帝国陸軍大日本帝国の半島進出を正当化するために碑に手を加え改竄したとしたが、2005年(平成17年)6月23日に墨本が中国で発見され、さらに2006年(平成18年)4月には中国社会科学院の徐建新により、1881年(明治14年)に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表され[39]、これにより改竄・捏造説は完全に否定された[40][41]

七支刀

テンプレート:Main 神功52(252または372)年9月10日、百済王は、百済と倭国の同盟(済倭同盟)を記念して神功皇后へ七子鏡と七枝刀を贈った。

なお、七支刀に彫られた「泰■四年」を太和4年とする説がある。この場合、東晋太和4年とされる[6]。但し。この場合には秦の文字と太の文字が異なるために疑問視する声もある。 また七支刀に彫られた「泰■四年」を西晋の泰始4(268)年若しくは宋の泰始4(468)年だという説もあり。こちらは秦の文字が合致するのでこちらを主張する学者も存在する。

山尾幸久は、裏面では百済王が東晋皇帝を奉じている[42]ことから、369年に東晋の朝廷工房で造られた原七支刀があり、百済が372年正月に東晋に朝貢して、同年6月には東晋から百済王に原七支刀が下賜されると、百済では同年にこれを模造して倭王に贈ったと解釈している[43][6]。また、当時の東晋では、道教が流行しており、七支刀の形態と、その百兵を避けることができるとする呪術力の思想があったとする[44][6][45]。浜田耕策は百済王が原七支刀を複製して、刀を倭王に贈るという外交は、当時、百済が高句麗と軍事対立にあったため、まず東晋と冊封関係を結び、次いで倭国と友好関係を構築するためだったとしている[6]

職貢図

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2011年に発見されたの『梁職貢図』[46]には、新羅が「あるときは韓に属し、あるときはに属した」と、新羅が倭の属国であったと記されている。『梁職貢図』は、後に元帝(孝元皇帝)として即位する蕭繹が、荊州刺史を務めていた526年から539年までの間に作成されたとされ、新羅が倭国に属していた時期は、これより前の年代になる。なお、蕭繹は、梁に朝貢する諸国の外国使節の風貌を荊州や梁の首都建康(現在の南京市)で調査し、また裴子野469年530年没)の方国使図を参考にした[47]

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関連史蹟・神社・関連伝承

神功皇后による三韓征伐に関する神社、史蹟、関連伝承は、多数ある[48]

住吉神社・住吉大社

対馬

  • 海神神社 - もとは「木坂八幡宮」と呼ばれていた。
  • 厳原八幡宮神社 - 社伝によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途、対馬の清水山に行啓し、この山は神霊が宿る山であるとして山頂に磐境を設け、神鏡と幣帛を置いて天神地祇を祀った。

福岡県周辺

兵庫県

明田新羅神社

  • 新羅神社 - 兵庫県姫路市四郷町明田(あけだ)にある。由緒には、神功皇后が凱陣を祝い、征討国の一である新羅の名をとったとある[50]。また異説には、「皇后御帰陣の時、異国の王子をここに預かり置き給ひ後、その王子を祭る」とある[51]。また、『飾磨郡誌』には、「皇后御帰陣の時、新羅から連れ帰った人々をこの地に止め、食するため、葦原を与えその地を開いて食田とし、中央に社をたて、皇后を祭った」とある[52]。祭神は、神功皇后、応神天皇、足仲彦命。拝殿には三韓征伐が刻まれた瓦がある。

鶏足寺と『峯相記』伝承

テンプレート:See also 『峯相記』によれば、鶏足寺は、峯相山にかつあった寺院で、皇后の連れ帰った新羅の王子が開創したと伝わる[53]。 伝承によれば、「皇后が新羅の王子を連れ帰ることにした。王子は皇后に渡海を無事に終えて日域(日本のこと)に着けば、伽藍を建てたいと願い出たが、仏法の是非のわからない皇后は明答しなかった。皇后は帰国後、西域の不安に備えて副将軍の男貴尊を播磨にとどめおき、王子を預けた。その後、王子は、峯相山に草庵をつくって、千手陀羅尼を唱えた」とある[53]。この副将軍男貴尊とは、播磨国一宮である伊和大明神の祭神オホナムチ大国主)を指すとされる[54]。また、この『峯相記』伝承における仏教伝来と神功皇后伝承との関連について、神功皇后が戦利品として新羅の仏教を持ち帰ったとする見方もある[55][54]

この新羅王子については、日本書紀に記載される微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)やアメノヒボコとの関連が指摘されているが[54][55]、この伝承の形成にあたっては宋代の988年賛寧によって編纂された『宋高僧伝』での新羅王族出身の僧侶の伝記が取り入れられたともされる[54]

解釈・研究史

720年に完成した『日本書紀』には「三韓征伐」によって朝鮮は日本の従属国に入ったと記録されている。『日本書紀』の記述は[56]江戸時代に入ると国学研究の中で三韓征伐、およびそれを大義名分の一つとした文禄・慶長の役を肯定的にとらえる論説(山鹿素行武家事紀』など)がある。

戦前戦中を通じて、小学校で配布された国定教科書などで三韓征伐は史実として教育された。

津田左右吉は実証的歴史学の観点から、記紀を研究したが、1939年(昭和14年)に津田が『日本書紀』における聖徳太子関連記述についてその実在性を含めて批判的に考察したことについて、蓑田胸喜三井甲之らが不敬罪として攻撃した[57]。政府は、1940年(昭和15年)2月10日に『古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』『日本上代史研究』『上代日本の社会及思想』の4冊を発禁処分にした[58]。同年に文部省の要求で早稲田大学教授も辞職させられた。津田と出版元の岩波茂雄出版法違反で起訴され、1942年(昭和17年)5月に禁錮3ヶ月、岩波は2ヶ月、ともに執行猶予2年の判決を受けた。津田は控訴したが、1944年(昭和19年)に時効により免訴となった。これは津田事件ともいわれるが、この裁判について津田自身は「弾圧ではない」と後に述べており、事件の実態について研究がすすめられている[59]

戦後史学はマルクス主義の影響を受けた唯物史観の擡頭により、戦前戦中の皇国史観は排除され、津田による説話論も見直され、神功皇后の存在は後世に再構成されたものとされた。また津田左右吉による分析は「津田史観」ともいわれ、戦後主流となり、皇国史観記紀を批判または否定するために援用されることがあった。津田自身はそうした潮流について誤解があるとし、また皇室天皇制)を批判するために津田の学説が政治的に利用されることについて津田は批判しており、天皇制と民主主義は矛盾しないと主張している[60]。津田自身は近代的な実証史学を展開したのであり、記紀を「否定」する動機がなかったといわれる[61]

津田左右吉と新羅征討説話論

津田左右吉は1948年に刊行された『日本古典の研究』において、新羅征討を中心とする神功皇后についての記紀の記載を、後世になって添加されたものが多く、日本が新羅を一時圧服したのは事実ではあるが、神功皇后伝説自体は「事実の記録または伝説口碑から出たものではなく、よほど後になって、恐らくは新羅征討の真の事情が忘れられた頃に、物語として構想せられたもの」としたうえで、伝説の成立時期を6世紀の継体朝や欽明朝とした[62][63]

直木孝次郎による再検討

直木孝次郎は津田の分析を継承して、昭和34(1959)年4月に「神功皇后伝説の成立」を『歴史評論』に104号に発表した[64]

直木は、4世紀末に倭国が新羅を攻撃した歴史的事実と、神功皇后による新羅征討の伝承が一致することや、また津田の継体朝や欽明朝成立説では説明できないことが少なからず存在することを指摘したうえで[65]、6世紀以降、特に推古天皇以降の史実との関係が深いことから、この頃に伝承が形成されたとしている[66]

高句麗の戦争伝承との関連

直木は、応神天皇期に大和政権が新羅を圧倒したことは事実また定説であり、神功皇后伝説と史実が無関係と論ずることはできないが、新羅征伐の記事に高句麗との戦争が記載されていないことに着目して、次のように考察した[67]。倭国が高句麗と戦争したことは広開土王碑文などから史実であるが、だとすれば、記紀における新羅征討の箇所で、高句麗について記載がない、またはほとんど問題とされていないことは不自然である[68]。4世紀末に倭国が新羅侵攻を行ったことは事実であるが[68]、当時の倭国の最大の強敵は高句麗であったし、4世紀末から5世紀初頭における半島進出が伝承として記載されるのであれば、「建国まもない弱小の新羅に対する勝利よりも、強大勇武な高句麗との決戦の物語が伝承されるのが当然ではなかろうか」とし、新羅征討のみが伝承されたことと、高句麗との決戦が伝承されなかったことに着目し[68]、三韓征伐の記述が成立した背景について、直木は、「5世紀末期以来、新羅が強大になり、日本の半島支配が動揺してきたため、日本の半島における支配権、とくに新羅に対する優越性を歴史的に基礎づける必要」が出て来たとした[69]

神功皇后の実在性

また、神功皇后の実在性について、神功皇后は仲哀天皇の死後、政治軍事の実権を握り、応神天皇を出産したあとも、政権の中心にあったと記録されているが、推古天皇の即位以前にこのような女帝が登場する例がないことなどから、推古時代以降の女帝をモデルとして構想されたのではないかという説を提唱した[70]。また、神功皇后自らが軍を指揮している点については、7世紀中葉に斉明天皇が百済救援と新羅攻撃のために北九州に出征したことが唯一の例であり、不自然であるとも指摘している[71]

このように直木は、新羅打倒について6世紀以来、朝廷内部に存した願望が原動力となって、新羅征討の物語になったとする[62]。また、日本による新羅支配の正当性を根拠づけるためにも、征討に際して出征する将士の士気を鼓舞するために、対新羅関係の険悪となった推古朝および斉明・天智朝の現実の要求が、物語の形成を促進したとし、津守氏と住吉神社や香椎宮など様々な伝承が加えたと主張している[62]。三韓征伐説話は、新羅が日本へ朝貢していたことや、日本が朝鮮半島で闘った記憶、女帝・斉明天皇が新羅遠征のために筑紫朝倉宮まで行幸した故事を元に、創作・脚色されたものしている(上田正昭直木孝次郎説)[72]

この直木による仮説と解釈については、井上光貞が同昭和34年に刊行された『真説日本歴史 二巻 万葉の世の中』の座談会において批判した[73]。その後、藤間生大、米沢康、岡本堅次、吉井良隆、二宮正彦、塚口義信の研究が続いた。

新羅の「蕃」視

田村圓澄は神話の造作時期を天武 - 持統期とし[74]、当時の新羅は倭国への従属から抜け出し新羅王と倭王が対等であったが、日本は律令国家を構築する中で倭を日本に、倭王を天皇に変更し、対する新羅王、新羅を「蕃」と規定、その一環として三韓征伐が造作されたと主張する[74]

鈴木英夫は『日本書紀』編纂時の新羅「蕃国」視によって、「在安羅諸倭臣」は百済王の統制に服し、倭王権の派遣軍は百済の「傭兵」的性格を帯びていたと主張し、その事実が誇張・拡大されて「任那日本府」の存在や倭王権の「官家」たる百済・「任那」の従属を核とする内容の中国王朝の史書『宋書、梁書』にある記述が成立したと主張する[75]

なお、この他国を「蕃国」視する意識の成立に関しては、堀敏一は『日本書紀』が朝鮮諸国の「朝貢」を記しているが、中華意識では到来するものすべてを朝貢と認識すると指摘する[76]山内弘一はこのような天下的世界認識は中華文明を同様に受容した新羅にも存在したことを指摘している[77]

梁職貢図の発見

2011年、失われていた梁職貢図が発見された。同書には新羅について韓や倭の属国であったと記載されており、三韓征伐に一定の裏づけを与えるものとなっている。

当時の国力の国際比較

また武光誠は、4世紀から5世紀にかけての新羅と百済は、高句麗倭国に比べて、国力も領土も弱小であったことに注意すべきであるとしている[78]。当時の新羅の領域は北九州と同程度で、百済も新羅の二倍程であった[78]。また、新羅にとって、自国と同程度の広さの北九州と中国・四国・近畿地方を領土とする大和朝廷は脅威であった[79]

専門外の学者による異説

比較文学・文化学者である上垣外憲一は、『日本書紀』の記述中朝鮮半島関係の造作は特に著しいとして[80]、その理由は『日本書紀』編纂が白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗戦したことを背景にしていると指摘している[80]

また、上垣外はここでいう「倭国」を、下関にあった新羅系の国であったイツツヒコ王国とした[81]上で、朝鮮史書『新羅本紀』に依って、344年2月に通婚(婚姻による同盟)を新羅王に断られた倭国が激怒し、翌345年、国交を断絶し、346年には大規模な新羅侵攻を行い、慶州の金城を包囲したとしている[81]。イツツヒコ王国は新羅軍によって敗れ、配下にあった出雲王国も離反し、没落・消失したとした[81]。さらに上垣外は、神功皇后による新羅征討とは、まずはこの弱体化した下関のイツツヒコ王国の打倒戦争であったとしている[81]

脚注

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参考文献

関連項目

  • 1.0 1.1 1.2 1.3 井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』中公文庫、2007年,278-279頁,「百済記」については特に382-384頁
  • 儺はナ、ダとも読む。[1]
  • 日本書紀(二)、岩波文庫,131頁
  • 風土記日本古典文学大系2,秋本吉郎校注、岩波書店,1958年(1991年第35版),482-483頁。
  • 日本書紀(二)、岩波文庫,2001年,173頁
  • 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 浜田耕策「4世紀の日韓関係」第1回日韓歴史共同研究2005年。財団法人日韓文化交流基金、第1回日韓歴史共同研究報告書で閲覧可能(2012年2月閲覧)。また 九州大学 21世紀COEプログラム(人文科学)「東アジアと日本:交流と変容」HP#第3回「東アジア諸国家とその形成過程の比較研究」領域横断ゼミ・研究会(2005/03/29)#浜田耕策「七支刀銘文の語るもの」
  • 以上、日本書紀神功62年条百済記からの注釈
  • 日本思想大系』「寺社縁起」の巻に収録
  • 村井(1999)
  • 『旧唐書』百済伝
  • 辰韓在馬韓之東、自言秦之亡人避役入韓、韓割東界以居之、立城柵、言語有類秦人、由是或謂之為秦韓。(辰韓は馬韓の東に在り、苦役を避けて韓にやって秦の逃亡者で、韓が東界の地を割譲したので、ここに居住したのだと自称している。城柵を立て、言語は秦人に類似しているので、あるいはこれを秦韓とも言う。)
  • 「新羅者、其先本辰韓種也。地在高麗東南、居漢時樂浪地。辰韓亦曰秦韓。相傳言秦世亡人避役來適、馬韓割其東界居之、以秦人、故名之曰秦韓。其言語名物、有似中國人。(新羅とは、その先は元の辰韓の苗裔なり。領地は高麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。辰韓または秦韓ともいう。相伝では、秦時代に苦役を避けて到来した逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と言う。その言語や名称は中国人に似ている。)」『北史』新羅伝
  • 水谷千秋『謎の渡来人秦氏』2009年、文春新書 36頁
  • 東北工程:百済・新羅も「中国史の一部」=中国社会科学院朝鮮日報 2007年6月4日。東北工程参照。
  • 15.00 15.01 15.02 15.03 15.04 15.05 15.06 15.07 15.08 15.09 15.10 15.11 15.12 15.13 15.14 15.15 15.16 15.17 15.18 15.19 15.20 15.21 15.22 15.23 15.24 15.25 15.26 15.27 15.28 15.29 『三国史記』第1巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫372〉、1980年。新羅本紀
  • 16.0 16.1 16.2 16.3 16.4 16.5 16.6 岩波文庫「日本書紀」二(1994年、2001年第八版)。
  • 上垣外2003 p.70。ほか但馬国、肥後国玉名郡とも比定される。
  • 上垣外2003 p.73
  • 『三国史記』第1巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫372〉、1980年、訳注
  • 日本書紀』巻九・神功皇后摂政前紀。岩波文庫「日本書紀」(二),151頁注釈,(1994年、2001年第八版)。岩波文庫版『日本書紀』によれば、「波沙」は婆娑尼師今のことで、「尼師今」は王号で、すなわち「波沙」と「婆娑」は同一かとしている
  • 李成市 『東アジア文化圏の形成』 山川出版社〈世界史リブレット 7〉、2000年
  • 李成市『東アジア文化圏の形成』、山川出版社<世界史リブレット17>、2000年。『朝鮮史』 武田幸男編、山川出版社<新版世界各国史2>、2000。および学習院大学東洋文化研究所 Web版『学東叢刊3 蔚珍鳳坪碑』参照
  • 景初2年(238年)記事。井上訳注1980、p.61.註9
  • 秦氏参照。黒板勝美,国史大系編修会編 『国史大系. 第1巻 上』 吉川弘文館、1966年。p276 また、秦の遺民説は、『後漢書』辰韓伝、『三国志魏書』辰韓伝、晋書に記述が存在している。
  • 一礼部を「一利郡」と解して慶尚北道星州郡星州面に比定する説がある。(→井上訳注1980 p.66)
  • 伊西古国とも。慶尚北道清道郡とも。
  • 上垣外2003,110-113頁によれば、伊西国はのち、日本の下関のイツツヒコ王国と連合したとする。上垣外、同書107頁では、イツツヒコはこの伊西(イソ、イソゴ)国の王族に関連があったとする見解を提出している。
  • 新羅本紀・基臨尼師今10年(307年)条に「復国号新羅。」とあるが、基臨尼師今までの新羅本紀においては、始祖赫居世居西干即位紀において「徐那伐」と号し(紀元前57年)、第4代脱解尼師今金閼智を得たとき(64年)に「鶏林」と号したことが見える。第17代奈勿尼師今の時代に前秦に朝貢してからは「新羅」が国際的に通用する国号となったと見られているが、第22代智証麻立干の時代にも国号を「新羅」と定めたという記事が見える。
  • ただし、急利はこの直前の訖解尼師今2年(311年)1月に阿飡の位に上がると同時に政務と軍事の統括を任されている。王の即位後すぐに有力者に政務と軍事とを委任する場合には伊伐飡(1等官)の官位に引き上げられることが多い。→儒礼尼師今2年(285年)2月条、味鄒尼師今2年(263年)正月条など。また、急利は314年1月に伊飡(2等官)に引き上げられている。
  • 三国史記』新羅本紀 第十六代 訖解尼師今
  • 別節参照。上垣外2003,137頁
  • 大平裕はこの年の侵攻を神功皇后による新羅征討に相当するとした。『日本古代史 正解』講談社,2009年,184頁。
  • 33.0 33.1 33.2 33.3 33.4 33.5 好太王好太王碑参照
  • 『三国史記』「百済本記」
  • 平林章仁『神々と肉食の古代史』吉川弘文館、2007年,44頁
  • 『宋書』文帝紀
  • 『宋書』夷蛮列伝
  • 日本古典文学大系『日本書紀』の注
  • テンプレート:Cite news
  • 徐建新「好太王碑拓本の研究」東京堂出版、2006
  • 好太王碑 最古の拓本発見 旧日本陸軍入手のものと一致 「改竄論争に終止符」『読売新聞』 2006年4月12日12面
  • 「聖音(又は晋)や「旨」の文字を銘記
  • 『古代の日朝関係』(塙選書)1989年
  • 『古代の日朝関係』(塙選書)1989年
  • ほか、福永光司『道教と古代日本』昭和62年、人文書院。佐伯有清『古代史演習 七支刀と広開土王碑』1977、吉川弘文館
  • 2011年に欠落の少ない張庚『諸番職貢圖巻』が発見された。
  • 榎一雄「梁職貢図について」『東方学』第二十六輯、1963年、東方學會。榎一雄「滑国に関する梁職貢図の記事について」『東方学』第二十七輯、1964年、東方學會。榎一雄「梁職貢図の流伝について」(鎌田博士還暦記念会編『歴史学論叢』所収1969年9月)。榎一雄「職貢図巻」『歴史と旅』1985年(昭和60年)1月号。『榎一雄著作集』第7巻「中国史」、汲古書院、1994年1月)
  • 神功伝説を参照
  • 御津の歴史たつの市観光協会 御津支部
  • 『兵庫県神社誌中巻』、『姫路市史』第二巻、昭和45年,194-195頁
  • 播磨鑑、播磨名所巡覧図絵、古跡便覧。『姫路市史』第二巻、昭和45年,195頁
  • 『姫路市史』第二巻、昭和45年,195-196頁
  • 53.0 53.1 「峯相記」『姫路市史』第二巻、昭和45年,196頁
  • 54.0 54.1 54.2 54.3 「14世紀播磨の寺社縁起にみる新羅」井上舞、神戸大学リポジトリ、「海港都市研究4」2009年3月71頁
  • 55.0 55.1 山口真琴「播磨ナショナリズムと神功皇后伝説―『峯相記』序説」プロブレマティーク―,Ⅲ<文学/教育3>,2002年
  • 『読売新聞』2004年2月6日
  • 蓑田胸喜「津田左右吉氏の大逆思想」。石井公成「聖徳太子論争はなぜ熱くなるのか」(『駒澤大学大学院仏教学研究会年報』40号、2007年5月)
  • 裁判の経過は向坂逸郎 編『嵐のなかの百年 学問弾圧小史』(勁草書房、1952年)や家永三郎『津田左右吉の思想史的研究』(岩波書店、1988年)の第五編「記紀批判への刑事弾圧と津田の対応」に詳しい。
  • 新川登亀男・早川万年編『史料としての『日本書紀』 津田左右吉を読みなおす』勉誠出版、2011年。[2]
  • 津田左右吉「建国の事情と万世一系の思想」雑誌『世界』第4号、1946年(昭和21年)。津田左右吉を参照。
  • 新川登亀男・早川万年編『史料としての『日本書紀』 津田左右吉を読みなおす』勉誠出版、2011年。[3]
  • 62.0 62.1 62.2 直木(1988)
  • 直木(1988),76-77頁
  • のち「日本古代の氏族と天皇」昭和39年、塙書房、および、「古代日本と朝鮮・中国」講談社学術文庫、昭和63年に所収
  • 直木(1988),77頁
  • 直木(1988),100-101頁
  • 直木(1988),78頁
  • 68.0 68.1 68.2 直木(1988),79頁
  • 直木(1988),83頁
  • 直木(1988),84-5頁
  • 直木(1988),85頁
  • 直木孝次郎『神話と歴史』(2006年吉川弘文館)
  • 「古代日本と朝鮮・中国」講談社学術文庫、昭和63年,105頁
  • 74.0 74.1 田村(2006)
  • 鈴木(1991)
  • 堀敏一 『東アジアのなかの古代日本』
  • 山内(2003)
  • 78.0 78.1 武光誠『日本と朝鮮はなぜ一つの国にならなかったのか』新人物文庫,2010年,21頁
  • 武光,同書、22頁
  • 80.0 80.1 上垣外(2003)
  • 81.0 81.1 81.2 81.3 上垣外憲一「倭人と韓人」講談社学術文庫,2003年,135-137頁(原本は「天孫降臨の道」1986年、筑摩書房)