ボクスホール

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ファイル:Vauxhall badge - Flickr - foshie.jpg
1930年代のバッジ
ボクスホール 14
ファイル:Vauxhall Insignia Grillplate.jpg
現在のバッジ
インシグニア

ボクスホールVauxhall )は、イギリス自動車メーカーであり、米国ゼネラルモーターズ (GM)の現地法人である。

現在販売している乗用車の多くは同じくGMの子会社であるオペル車のバッジエンジニアリングであり、その展開はイギリス国内に限られている。

概要

ボクスホール[1]は19世紀中期に機械メーカーとして創業、1903年から自動車製造に参入した。

その初期には高性能スポーツカーを製造したこともあったが、1925年のGM系列入り後は実用的な量産車メーカーとなった。第二次世界大戦後は同じくGM傘下のドイツオペルとの車種共通化が進められ、現行車種は完全にオペルのバッジエンジニアリングモデルとなっている。なお、現在ボクスホールのブランドで自動車が販売されているのは、イギリスのみである。

社名・ブランド名は、創業地であるランベスの工場近くの地名に由来する。ここには13世紀ジョン王時代の軍人貴族であるファーク・レ・ブレアント(Fulk le Breant )の館跡があり、元々「ファークス・ホール(Fulk's Hall )」と呼ばれていたのが徐々に訛った。

エンブレムは旗を手にしたグリフィン像である。

現在GM社がアメリカ国外で100%資本出資する自動車メーカー(ブランド)としては他に、ドイツアダム・オペル、そしてオーストラリアホールデンがある。

歴史

創業期

ファイル:Bundesarchiv Bild 102-12207, London, Autos im Straßenbild.jpg
最初期の5hpボクスホール単気筒車。1931年、ロンドンでの記念パレードにて。後には撮影当時の最新型ボクスホールが続く

1857年実業家で技術者のアレクサンダー・ウィルソンがロンドン近郊のランベスに設立した機械メーカー、『ボクスホール・アイアン・カンパニー』(Vauxhall Iron Company )が前身。その初期には船舶用の蒸気機関ポンプなどを多く手がけていた。1892年に経営危機に陥ったのち、経営再建の過程で1897年には『ボクスホール・アイアンワークス』(Vauxhall Ironworks )と改称した。

1900年頃からガソリン自動車製造を目論み、社内の主任技術者F.W.ホッジスの設計で1903年単気筒1,000ccの小型車「5h.p.」を発表して自動車業界に参入した。その初期には堅実で丈夫な小型から中型車のメーカーとして発展する。1905年発表の「18h.p.」では、ボンネットの両肩部分に凹んだライン(フルート)を入れるデザインを取り入れ、以後1959年までの車に共通するデザインモチーフとなった。

1905年には、当時工場誘致活動があったロンドン北方ベドフォードシャーの農村ルートンに新工場を建設し、自動車生産拠点を移転した。ルートンは偶然にもボクスホールの語源であるファーク・レ・ブレアントの出た所領地であった。翌1906年、隣接する工場のあったウェスト・ハイドロリック・エンジニアリングと合併し、『ボクスホール&ウェスト・ハイドロリック・エンジニアリング・カンパニー』となったが、更に1907年には自動車生産部門を他部門から切り離す形で独立させ、『ボクスホール・モーターズ・リミテッド』となった。

ローレンス・ポメロイとボクスホールの最盛期

ファイル:191418 Vauxhall AD.jpg
Aタイプ「20hp」。ローレンス・ポメロイの出世作となった
ファイル:1912 Vauxhall Prince Henry.jpg
Cタイプ「プリンス・ヘンリー」1912年式。尖った「空力」ラジエータが外観上の特徴

1907年、わずか24歳の技術者ローレンス・ポメロイ(Laurence Henry Pomeroy 1883 - 1941年)が、製図工補という低い職階でボクスホールに入社した。

その年ボクスホールでは、イギリス王立自動車クラブ(RAC)が翌年に開催する競技会、「2000マイル・スコティッシュ・トライアル」への参加を計画し、新型車の開発を目論んだ。ところが主任技術者のホッジスは休暇エジプトへの長期旅行中であり、急遽代わりの開発者が必要になった。

これを知り、元々自動車開発に強い関心を持っていて、エンジン技術の独学を重ねてもいたポメロイは、「自分に開発を任せてもらえれば、(30hp足らずだった3リッターの)従来型エンジンを上回る40hpを出してみせる」と社の上層部に申し出た。するとホッジスの不在に苦慮していた重役陣は(常識では考えがたい起用であったが)、過去に特別な実績もなかった新入社員の大胆な自薦を受け入れた。

ポメロイが突貫作業で設計した3リッター直列4気筒エンジンは、サイドバルブ方式だが排気効率の向上を考慮しており、高回転にも耐えられるように、クランクベアリングを各ピストン間全てに備えた高剛性の5ベアリング仕様であった(この周到な基本仕様が、排気量変更やシリンダーヘッド変更などによる、約20年に渡ってのエンジン改良を可能とした)。更に、圧縮比異常燃焼を起こさないぎりぎりのレベルまで上げられた。ポメロイは当時からいち早く高圧縮比エンジンの優位性を確信しており、異常燃焼リスクは誘因となる過熱の頻度を考慮すれば問題にはならないと割り切ったのである。果たしてこのエンジンは完成後最初のベンチテストで、実際に同排気量の従来型に比し、大幅に強力な38hpの出力を発生した。

ポメロイの4気筒を搭載した新型車Aタイプ「20h.p.」(車名は当時の英国での課税基準20hp級に属することによる)は、1908年の「スコティッシュ・トライアル」においてトラブル皆無で総合優勝を獲得したほか、1910年には60hpまで強化されて流線型ボディを載せたレコードブレーカー仕様が100マイル/h(約160km/h)を突破するなど、メーカーの名を上げる非常な成功を収めた。ポメロイはこの実績によって大抜擢され、1912年から1919年の退社までチーフエンジニアを務めることになる。

ファイル:VintageVauxhall.jpg
Eタイプ「30/98」
「ヴェロックス」の愛称を持つ直線的オープンボディ。30/98に架装されたボディ形式でも特に評価が高い。なお同時期のDタイプはホイールベース以外酷似した外見で判別困難
ファイル:Vauxhall 30-98 Wensum Tourer r.jpg
「30/98」後期の特装車「ウェンサム・ツアラー」(1924年
ボートをそっくり模したユニークなスタイルで愛好家から珍重されるモデル

以後ポメロイが手がけた車輛の多くは20h.p.の改良発展型で、1910年のCタイプ「プリンス・ヘンリー」(3 - 4リッター)、1912年のDタイプ25h.p.(4リッター)、1913年のEタイプ「30/98」(4.5リッター、のちOHVヘッド化後4.2リッター)などが該当する。これらは何れも20h.p.の4気筒エンジンを強化・拡大して搭載しており、パワーに対してメインのリア・ドラムブレーキのキャパシティに難があったことを除けば、当時のイギリス製中型車で最良レベルの自動車であった。

「プリンス・ヘンリー」と「30/98」はレース出場を念頭に設計されたスポーティモデルで、強力なエンジン(例えば30/98は初期形でも90hpを発生し、この時代では異例のハイパワーであった)と、当時としては優れたコーナリング性能によって、1910年代 - 1920年代のレースやヒルクライムで膨大な回数の勝利を収め、名声を高めた。

「プリンス・ヘンリー」は1910年、ドイツで開催された「プリンツ・ハインリヒ・トライアル」で好成績を収めた記念にその名(プリンツ・ハインリヒの英語読み)で呼ばれるようになったモデルである。「30/98」は、プリンス・ヘンリーの大排気量化によって急造された特注車が出自で、改良を受けながら1927年までの長期に渡って生産され(しかしその総生産台数は586台に過ぎない)、エドワーディアン期(エドワード朝時代・1910年前後)からヴィンテージ期(1920年代)における屈指の傑作スポーツカーとして、後世に至るまで高く評価されている。その最終形は最高出力120hpを発生し、最高速度はノーマルで85マイル/h以上、レーシング仕様では100マイル/hに達したと言われる。

またロングホイールベースのツーリングカーであるDタイプのうち、第一次世界大戦中に生産された1,998台はイギリス陸軍省に納入され、軍用スタッフカーとして西部戦線をはじめ、バルカン半島中近東に至る各地の戦場指揮官車・連絡業務等に用いられ、その信頼性を実証することになった。第一次大戦で軍用に用いられた乗用車では名車ロールス・ロイス・シルヴァーゴーストが著名であるが、イギリスの軍用乗用車の主力はボクスホールであった。1916年8月、イギリス国王ジョージ5世ソンムの激戦の最中に戦場を巡察した際には、臨時の御料車としてフランダース泥濘地を踏み越え、1917年12月には、オスマン帝国軍を破ったイギリス陸軍のアレンビー将軍を乗せてエルサレム市街に入城し、1918年の第一次大戦終戦直後には、ライン川を渡ってドイツ領内に踏み入った最初の戦勝国側車両となった。

GMによる買収

ファイル:Vauxhall Ten Saloon 1938.jpg
1938年型テン
外見こそ平凡だが、当時の英国製小型車では最先端技術のモノコック構造や独立懸架を採用した。ボンネット肩にはボクスホールのアイデンティティ「フルート」が刻まれる
ファイル:Vauxhall Big 6 ca 1939 in Hertfordshire.jpg
1939年型ビッグシックス
当時の最上級モデルでイギリスではアッパーミドルクラスに当たる。英米の折衷のような、個性に乏しい保守的6ライト・サルーンだが、既に三角窓を備える

しかし、比較的高価なモデルを少量生産するボクスホールの経営は元々不安定で、第一次世界大戦後には外国企業の参入などによる市場競争激化の影響を受け、経営不振に陥った。1922年からは量産型の中型車を生産するなど、マス・プロダクションへの志向を見せるようになるが経営状況の困難さは変わらず、1925年には257万5,000ドルアメリカの大手自動車メーカーであるゼネラルモーターズ (GM) に買収された。

GMは第一次世界大戦後、ヨーロッパへの大規模な進出を進めていた。しかし当時のイギリスでは輸入自動車に対する30%超の高額課税政策「マッケンナ・デューティ」が行われており、同時にイギリス独特の自動車税制から、高速向けなショートストローク・エンジンを搭載した大排気量車への自動車税も高かった(イギリス車が後年まで低速型のロングストローク・エンジンを主流としたのも、この税制対策が理由である)。これでは大排気量ショートストロークエンジンが主流のアメリカ車を単純に輸入するのは得策といえず、GMはイギリスメーカーの買収を図って現地生産を行おうとしたのである(GMは当初オースチンを550万ドルで買収しようとしたが失敗していた)。こうして外資企業となったボクスホールであったが、実際にはGMの影響を受けながらも、イギリスの国情に合致した独自車種の開発・生産が続けられた。

1930年、GMのイギリスにおける販売部門のトップであったイギリス人チャールズ・ジョン・バートレットがボクスホールの社長に就任した。バートレットは1953年まで社長職を務め、穏健な労使協調路線のもと業績を拡大、会社をマス・プロダクションメーカーへと発展させた。

1930年代には1.2リッターから3.2リッターまでのワイドレンジに生産モデルを広げる一方、1931年からはシボレー・トラックを国産化した2トン積トラック「ベドフォード」を生産開始して商用車部門に進出、以後「ベドフォード」ブランドの商用車群は、ボクスホールの経営を下支えする重要部門となった。戦前最盛期の1938年には年産6万台に達し、イギリスにおける量産自動車メーカーの一つになっていた。

ファイル:Churchill VII.jpg
チャーチル歩兵戦車

この間には、アメリカのGM本社で開発された新技術が続々と移入された。シンクロメッシュ・ギアボックス(1931年)、ノー・ドラフト・ベンチレーション(いわゆる「三角窓」を用いて隙間風を防いだ換気システム 1933年)、前輪独立懸架(トーションバー・デュボネ式 1935年)、モノコック構造(1937年)、油圧ブレーキ(1937年)などは、該して技術面で保守的なイギリス車の中では極めて早い採用例であった。

第二次世界大戦中は軍需向けに25,000台のベドフォード・トラック、2,500台の軍用乗用車を生産したほか、自社で設計・開発した38t重戦車の「チャーチル歩兵戦車」5,600両以上を生産した。このためボクスホール工場はドイツ軍による爆撃の被害を受けてもいる。

戦後のオペル化

ファイル:Vauxhall Velox ca 1953 in Hertfordshire.jpg
1953年型ヴェロックス
1951年から1957年まで生産された戦後モデルであるが、鈍重な形態と多用された米国風のクロームメッキがアンバランスである
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1960年頃のヴェロックス・エステート
GM式の米国調が著しいスタイル。車体後部をフリアリー社によって改装された正規版のエステートモデル
ファイル:Vivahc.jpg
ヴィーヴァ
市場でのヒット作となったが、構造はドイツ製のオペル・カデットとほとんど変わるところがない

第二次世界大戦後のボクスホールは、終戦翌年の1946年から乗用車生産を再開したが、以後1960年代初頭までのモデルは、1.5リッター級4気筒と2.3~2.6リッター級6気筒の2系統に絞られた。何れもアメリカ車の影響著しい若干派手目のデザインと、保守堅実なメカニズムとを兼ね備えた、当時のイギリスにおける典型的な実用車であった。しかしブリティッシュ・フォードやBMCなど上位メーカーの台頭に押され、メーカーとしての存在感の薄さは否めない傾向にあった。

イギリス国内の大衆車市場において、ミニやフォード・アングリアに対抗しうる最量販モデルとなる1リッタークラスの小型車が、ボクスホールには長年にわたって欠落していた。これを補うため、1963年からは1056ccの小型車「ヴィーヴァ」を生産開始したが、これは同じGM傘下のドイツのオペルが前年から生産していた小型車「カデット」に若干改変を加えただけのモデルであった。これをきっかけに、GMは国際的な生産モデル共通化の傾向を強め、ヨーロッパ市場では生産台数が一番大きく開発能力が高かったオペルを開発拠点とするようになる。

1970年以降はオペル追随の動きが顕著になり、ボクスホールの完全な自社開発モデルは全てのカテゴリーにおいて消滅した。オペル車との共通化はボディシェルの共用化から始まり、徐々に内外の全体的な共通化が進められ、1990年代には車種名も統一され(ただし、オペル・スピードスター/ボクスホール・VX220のような例外もある)、現在は実質的にオペルのイギリス向けバッジ・エンジニアリングの状態となっている。

同じくGM傘下にあった日本いすゞ自動車SUVロデオ/ミューや、商用車ファーゴ、GMと提携関係にあったスズキ軽トラックキャリイをベドフォードブランドで販売していたことがある。

車種一覧

ほとんどがオペルと共通であるが、VXR8のオペル版は存在せず、逆にオペル・GTのボクスホール版は存在しない。

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モータースポーツ

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BTCCに参戦するアストラ

古く「20h.p.」、「プリンス・ヘンリー」「30/98」に代表されるローレンス・ポメロイ設計の各車が第一次大戦前後のレース界に残した戦績はモータースポーツ史に残る歴史的な活躍と言えるものであるが、近年では英国ツーリングカー選手権(BTCC)に1993年から継続参戦。2007年現在もアストラで参戦している。

日本においても全日本ツーリングカー選手権(JTCC)の1994年シーズン、キャバリエで参戦していたこともある(同年シーズン途中でオペルブランドに変更)。

このほか、最近までフォーミュラ・ボクスホールというジュニア・フォーミュラを行っていた。他にも、ジム・ラッセル・レーシングスクールに長年協賛するなど、若手レーシングドライバーの育成に力を入れていた。

フォーミュラ・ボクスホール出身の主なドライバー

脚注

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外部リンク

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  1. 日本では「ボクソール」、「ボグゾール」、「ボックスホール」、「ヴォクスホール」等とも表記、発音されることもある。(因みに英語版ウィキペディアのテンプレート:Interlang項目上の発音は「ˈvɒksɔːl(ヴォクソール)」である)