ジョン (イングランド王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:基礎情報 君主

ジョン(John, 1167年12月24日 - 1216年10月18日または10月19日)は、プランタジネット朝第3代イングランド王(在位:1199年 - 1216年)。イングランド王ヘンリー2世アリエノール・ダキテーヌの末子。ヘンリー2世が幼年のジョンに領土を与えなかったことから、欠地王と呼ばれる。また、領地を大幅に失ったため失地王とも呼ばれることがある。

概要

兄であるリチャード1世が戦いに明け暮れ長くイングランドを留守にしたため、イングランド王の勢力を削ごうとするフランスフィリップ2世にそそのかされて王位簒奪を夢見ていた。本来なら王位につく可能性は少なかったが、1199年にリチャード1世が中部フランスで戦死してから状況が一変する。リチャードは即位当初、弟ジェフリー(ジョフロワ、ジョンには兄にあたる)の遺児アーサー(アルテュール)を王太子になぞらえていた。しかしその後アーサーはフィリップ2世に臣従してフランスの宮廷で育ち、さらにリチャードの臨終時にはまだ12歳であったため、リチャードは最終的に遺言でジョンを後継者に指名。前王の重臣ヒューバート・ウォルターをはじめとする、フィリップ2世の干渉を憂慮したイングランド国内の諸侯もアーサーを排除し、結局ジョンがイングランド王を継承したのである。

王位に就いたジョンは、フランス国内の領土をめぐってフィリップ2世をはじめとするフランスの諸侯と対立した。1203年、アーサーがジョン支持派に暗殺されるとアーサーの後見人を自負するフィリップ2世との全面戦争に突入するが、その戦いにことごとく敗れ、1214年までにフランスにおけるイギリス領をほとんど喪失した。また1208年には、ヒューバート・ウォルター亡き後に空位となっていたカンタベリー大司教の任命をめぐって、ローマ教皇インノケンティウス3世が推したスティーヴン・ラングトンを拒否するなど教皇と対立した。当初は多くの諸侯がジョンを支持したが、1209年に教皇はジョンを破門し、さらに教皇やラングトンの切り崩しが徐々に功を奏すると、ジョンは1213年に謝罪して教皇に屈した。その時一旦イングランド全土を教皇に献上し、教皇から与えられる形で国王に返還された。

こうした外交政策の失敗の後、軍役代納金・課税をめぐってイングランド国内の諸侯から反発を招き、1215年に国王が貴族や聖職者の権利を認めるという形でマグナ・カルタが成立した。しかし、教皇インノケンティウス3世による王権侵害でわずか2ヶ月で廃棄された。マグナ・カルタの廃棄宣言に不満を持つ貴族たちは、フィリップ2世の長男ルイの支援を得て反乱を起こした。戦乱の中、1216年10月にジョンは赤痢により死去した。

生涯

領地無し

父王ヘンリー2世は王妃アリエノール(エレアノール)と不仲になり、幼少期に母親からの愛情を受けることが少なかった末子のジョンを最も愛した。1169年、ヘンリー2世はフランス王ルイ7世との協約で、大陸の所領をジョン以外の3人の息子に分割した。当時まだ2歳にもならなかったジョンはその分与から除外され、父ヘンリー2世はジョンに“領地の無いやつ”(John the Lackland, フランス語ではJean sans terre)とあだ名をつけ憐れんだ。1173年、ジョンはモーリエンヌ伯の娘と婚約するが(この姫は後に亡くなり婚約は消滅)、その際ヘンリー2世は、征服して間もないアイルランド以外にも、大陸領土内のシノン、ルーダン、ミルボーの3つの城を幼いジョンに与えようとして次男の若ヘンリー王の、また1184年にはアキテーヌ公領を与えようとして三男リチャードの離反を招いた。1177年にジョンは10歳でアイルランド卿を継承するが、その後も実地を統治出来なかった。1188年以降の父王と兄リチャードの争いでは、当初は父についていたが、兄の勝利が確実になると寝返って、父王を大いに失望させその死因になったとも言われる。

1189年イザベル・オブ・グロスターとの婚姻によりグロスター伯領を受け継ぎ、さらに兄リチャード1世よりノッティンガム他6州を与えられた。

陰謀

リチャード1世が第3回十字軍に出陣した際はフランスに留まるよう指示されたが、勝手にイングランドに戻り留守中の統治に関与した。リチャード1世がドイツで幽閉されると、フランス王フィリップ2世と提携しイングランド王位を狙ったが、重臣や諸侯の支持を得られず果たせなかった。

この事件は、後世大きく脚色されてさまざまな物語が作られ、ロビン・フッド伝説にも取り入れられた。

即位

1194年にリチャード1世がイングランドに戻ると、一旦抵抗の姿勢を見せたもののまもなく屈服し和解した。1199年に兄がアキテーヌで亡くなると、ジョンはすぐにノルマンディーからイングランドに渡りイングランド王として戴冠した。一方、一時は後継者とされていた甥のブルターニュ公アルテュール(アーサー)はアンジュー伯領を確保して王位を主張したが、ヒューバート・ウォルターを始めとするイングランドとノルマンディの諸侯は、フランス王と親しかったアルテュールよりジョンを支持した。リチャードの臨終に際し遺言を聞いた母のアリエノールもアキテーヌを押さえてジョンを支持している。

大陸領土喪失

1200年にジョンはイザベル・オブ・グロスターと離婚、既に婚約者のいたイザベラ・オブ・アングレームと再婚した。イザベラの婚約者ユーグ9世・ド・リュジニャンは封建主人であるフランス王にこれを訴えたため、1202年にフィリップ2世はジョンを法廷に呼び出した。イングランド王はフランス領においてフランス王の封建臣下であるが、これまで法廷に呼び出されたことはないためジョンは拒絶したが、フィリップ2世はこれを理由にジョンの全フランス領土を剥奪することを宣言し、ノルマンディー以外のこれらの領土をアルテュールに与えた。このため、フィリップ2世・アルテュール対ジョンの戦争となった。

当初ジョンは劣勢だったが、1203年にアルテュールがポワチェにいたジョンの母アリエノールを捕らえようとした際、ジョンは迅速に対応し逆にアルテュールを捕らえた。幽閉されたアルテュールはまもなく消息不明となったため、人々はジョンがアルテュールを殺したと考え、ブルターニュの諸侯はフランス王を頼ってジョンに反旗を翻した。ジョンはフランスにおける人望を既に失っており、フランス王の攻勢の前にノルマンディ・アンジュー・メーヌ・トゥレーヌ・ポワトゥーはほとんど抵抗せずに降伏した。わずかにアキテーヌの中心地であるガスコーニュのみがジョンの下に残った。これはアキテーヌは元々諸侯の力が強く、彼らは強力なフランス王より弱体化したイングランド王の支配を好んだためとされる。

教皇との争い

1205年カンタベリー大司教ヒューバート・ウォルターが亡くなると、修道士達が選んだ候補とイングランド王と司教が推薦した候補とが共にローマに行きカンタベリー大司教の座を争ったが、教皇権の強化を狙っていたローマ教皇インノケンティウス3世は両者とも認めず、代わりに枢機卿のラングトンを任命した。ジョンはこれを認めずこれを支持する司教たちを追放し教会領を没収したため、1207年にインノケンティウス3世はイングランドを聖務停止(interdict)とし、1209年にジョンを破門した。

ジョンはこれを無視し、逆に没収した教会領の収入で軍備増強を計っていたが、1213年になるとインノケンティウス3世はさらにフランス王のイングランド侵攻を支持し、これに呼応して諸侯の反乱が計画されたため、ジョンはイングランドをローマ教皇に寄進し教皇の封建臣下となることにより破門を解かれた。

ブーヴィーヌの戦い

大陸領土を失ったジョンは、ウェールズアイルランドスコットランドへの影響力の強化に努め一時的に成果を挙げている。さらに、大陸領土奪回のために海軍を整備し、フランス王と対立する甥の神聖ローマ皇帝オットー4世フランドル伯フェランと提携を深めたが、大陸領土喪失による収入減に加えて軍事力強化を図ってイングランドに重税をかけたため、諸侯・庶民の不満は高まった。

一方、ジョンが教皇の封建臣下になったため、フランス王によるイングランド侵攻への教皇の支持は撤回された。フランス王は代わりに、かねてから反抗しているフランドル伯を攻めたが、イングランド海軍の援軍によりフランス王軍は船舶の大半を失って撤退した。

好機到来と考えたジョンはオットー4世らと謀って、フィリップ2世を南北から挟撃する計画を立てた。ジョンがフランス南部に進撃し、同時にドイツ・フランドル軍がフランドルからフランスに侵入するというもので、1214年に入るとジョンはギュイエンヌから侵攻し、ポワチエアンジューを回復したが、オットー4世はドイツ諸侯の動員に手間どり進軍が遅れた。この間にフィリップ2世は王太子ルイを南部に派遣したため、ジョンは戦線を支えきれずギュイエンヌに撤退してしまった。こうして、南部の負担が少なくなったフィリップ2世率いるフランス王軍と皇帝連合軍が1214年7月27日にフランドルのブービーヌで会戦し、数で劣るフランス軍が皇帝連合軍を打ち破った(ブーヴィーヌの戦い)。

これによりフィリップ2世の優位は確定し、ジョンは占領地を全て放棄して撤退を余儀なくされた。連合軍に参加したフランドル伯・ブローニュ伯は捕虜となり、オットー4世はフリードリヒ2世に皇帝位を奪われることになる。

マグナ・カルタ

イングランドに戻ったジョンを待っていたのは、諸侯から庶民にいたるまでの不満であり、強圧を持ってこれを抑えようとしたジョンに対して諸侯は結束して反抗し内戦状態となった。しかしジョンを見限るものが多く、1215年6月15日にラニーミードにおいてマグナ・カルタ(大憲章)を認めることで和解した。

まもなくジョンは教皇に働きかけ、マグナ・カルタの破棄・反乱諸侯の破門を命じてもらい反撃に転じたが、諸侯はフランス王太子ルイを担ぎ、一時はルイがロンドンを占拠するまでになった(第一次バロン戦争)。しかし、1216年10月にジョンが赤痢で病死すると、諸侯は息子のヘンリー3世を支持したため、ルイは撤退を余儀なくされた。

妻と子供

最初の妻とのイザベル・オブ・グロスター間に子供はなく、1200年に離婚。王妃とは認められなかった。

2度目の妻イザベラ・オブ・アングレームとの間に2男3女をもうけた。イザベラはジョンと死別後、かつての婚約者ユーグ10世と再婚した。

他に庶子が多数記録されている。

評価

無能・暴虐・陰謀好き・裏切り者・恥知らずと評され、大陸領土喪失・甥殺しによる信望の喪失・教皇への屈服とイングランドの寄進・重税・諸侯の反乱と失政が続き、唯一評価されるのは「強制されてマグナ・カルタを認めイギリスの民主主義の発展に貢献した」ことのみと、在位当時から後世の評価まで徹頭徹尾評判の悪い王である。近年ではその反動から、海軍の育成やリヴァプールの建設、スコットランド・ウェールズ・アイルランドへの支配の道筋を付けたという点で再評価する声も出てはいるが、イングランド史上最悪の君主という暗君の評価は覆りそうもない。

しかしながら国内における司法・行政には一定の成果を収めており、単なる暗愚な君主という評価は一面的であるという見方もある。また兄リチャードの十字軍遠征・その帰りの虜囚からの身代金と、莫大な出費が嵩んだ後に即位したことも困難な治世の原因となった。

俗説

  • あだ名のLacklandは、元々幼いころ領地をもらえなかったことから付いたものだったが、対仏戦争の敗北で広大な大陸領土を失ったため、人々の記憶に残ることになった。このため日本語では「失地王」とも訳されている。

関連項目

外部リンク

テンプレート:Sister

テンプレート:イングランド王 テンプレート:ノルマンディー公

先代:
リシャール
メーヌ伯
1199年 - 1203年
次代:
 
先代:
リシャール1世
アキテーヌ公
1199年 - 1216年
アリエノールと共同統治
(1199年 - 1204年)
次代:
アンリ2世
テンプレート:Link GA