ライン川

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テンプレート:Infobox 河川

ライン川(ラインがわ、:Rhy / テンプレート:Lang-de-shortテンプレート:Lang-nl-shortテンプレート:Lang-fr-shortテンプレート:Lang-en-shortテンプレート:Lang-la-short)は、ヨーロッパを流れる

スイスアルプストーマ湖に端を発し、ボーデン湖に入りドイツフランスの国境を北に向かう、ストラスブールを越えてカールスルーエの少し南からドイツ国内を流れ、ボンケルンデュッセルドルフクレーヴェなどを通過しオランダ国内へと入ったあと2分岐し、ワール川レク川となりロッテルダム付近で北海に注いでいる。

全長1,233キロ。そのうちドイツを流れるのは698キロである。ドイツにとっては特に重要な川であり、ライン流域を主軸のひとつとしてドイツ史は展開していった。また、ドイツ語名詞には男性名詞と女性名詞があるが、河川のほとんどは女性名詞であるのに対し、ライン川、マイン川ネッカー川などごく少数の川だけはは男性形であらわされる。そのこともあって、ドイツ人はこの川を「父なる川」と呼んでいる。ドナウ川とともに、外国の船が自由に航行する国際河川の一つ。

概要

下流地域は川幅が広く流れが穏やかなため、水運が盛んである。バーゼルから河口までのライン川流域圏はブルーバナナ(「太平洋ベルト」の西欧版)の一部を成す。また、産業革命の中心地のひとつとなったルール工業地帯もライン川とルール川に挟まれる形で位置しており、その充実した内陸水路と豊富な地下資源によって発達した。

ライン川流域のマインツからコブレンツの間は「ロマンティック・ライン」と呼ばれ、川辺に立つ数々の古城中世の香りを醸し出している。城がこのように狭い地域に立ち並ぶ様は非常に珍しく、その理由は川を行き来する船から通行税を取るために、領主たちがこぞって城を建てたためで、いわば城は税関であった。先を急ぐ観光旅行の場合はその内のリューデスハイムからザンクト・ゴアール間のおよそ2時間の船旅を利用する。ハイネの詩「なじかは知らねど…」で有名なローレライの岩山は「ロマンチック・ライン」のシンボルとして有名である。この流域はユネスコ世界遺産に登録されている。

なお、ライン川本流にあるは、スイスシャフハウゼンにあるライン滝だけである。

地理

ライン川は、源流域、アルペンライン、ボーデン湖、高ライン、上ライン、中ライン、下ラインといったいくつかの地域に分けられる。トーマ湖から流れ出るライン源流はフォルデルライン(前方ライン)と呼ばれ、70km下流のライヘナウで、南のラインヴァルトホルン山から流れてくるもう一つの源流、ヒンターライン(後方ライン)と合流する。ここまでがライン川の源流域といえる。トーマ湖からライヘナウまでの70kmで標高差は1700mあり、ここまでの流れは非常に激しい。

ライヘナウで合流してからはラインはほぼ北に流れ、リヒテンシュタインおよびオーストリアスイスの国境を一部なした後、ボーデン湖へと流れ込む。ここまでのラインをアルペンラインと称する。

いったんボーデン湖に流れ込んだライン川は西へと向きを変え、シュタインから流れ出しバーゼルへと向かう。バーゼルまでの区間を高ラインという。この区間の中央部に位置するスイスのシャフハウゼンには、ライン本流唯一の滝であるライン滝がある。

バーゼルで、ライン川は再び向きを北へと変える。バーゼルからは流れも穏やかになると同時に水量も増え、ここから河口までは3000t級の船の往来ができる。そのため、バーゼルはスイス唯一の国際貿易港となっており、スイスの貿易のかなりの部分がこの港を通して行われる。

バーゼルからはライン川はフランスドイツの国境をなしたのち、マインツマイン川と合流する。ここまでが上ラインと呼ばれる。マイン川をさかのぼると、1992年に開通したライン・マイン・ドナウ運河によってドナウ川へと水路がつながっており、この三河川を使用すれば北海から黒海まで河川のみで行くことも可能である。

マインツからボンまでは中ラインと呼ばれる。この地域は丘陵に囲まれた中を流れ、特にマインツからモーゼル川の合流するコブレンツまでの間は風光明媚なことで知られ、多くの観光客が訪れる。中ラインの中ほどには難所として知られたローレライがある。

ボンから下流になると丘陵は姿を消し、広々とした平野の中を流れるようになる。ここから河口までを下ラインと呼ぶ。この下流域には、ケルンデュッセルドルフを中心とするルール地方の諸都市といった大都市が集中し、工業地帯となっている。なかでもルール地方西端でラインに面するデュースブルクはルールの玄関口となっており、ヨーロッパ最大の内陸港となっている。

ルールを過ぎるとライン川は西へと向きを変え、オランダに入る。オランダ領ではライン川はいくつもの支流に分かれ、網の目のようにオランダ南部に水路を広げる。もっとも大きな支流はワール川である。河口近くのゼーラント州付近のライン川はしばしば大氾濫を起こしたが、1953年の大洪水を機にデルタ計画と呼ばれる大河川改修プロジェクトが計画され、1986年に完成した。河口近くにはロッテルダムがあり、ユーロポートはラインの河川水運と北海や大西洋の海運の結節点として、ヨーロッパ最大の港となっている。

レース(オランダ)におけるライン川の流量(m³/s)
1930年から1997年の平均データ)[1]

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歴史

かつては古代ケルト族が上流から下流の広範囲で住居していた。後にキリスト教布教も含んだローマ帝国の軍隊が駐在した。ドルイド教に固持し、改宗を拒んだケルト人は代々の住処を追われ、西進せざるを得なかった一派もいたというテンプレート:要出典

さらに、ゲルマン・ローマ人混血を繰り返しゲルマン化したケルト人(スエビ族?)のグループもいた(アレマン人バイエルン人フランケン人フランク人とは区別される)など)。

また、ガイウス・ユリウス・カエサルガリア戦争で、このライン川を防衛線(リーメス)とするべく転戦し、その基礎を整えた。ガリア戦記では「レヌス川(Rhenus)」と記載されている。この国境としての役割はローマ帝国時代に北帝国崩壊後、長い間ゲルマン世界を形成する上で重要不可欠な要素のひとつとなっていた。

それはゲルマン人たちがこの川に、 "Vater Rhein" 「父なるライン」という呼び名をつけるほどであった。右岸と比べて左岸(西側)の方に現在でも大きな都市が多いのは、左岸の方が古くからローマ帝国領として栄えていた名残である。

同時に9世紀前後に、イスラエル王国が消滅し、移住したユダヤ人アシュケナジム)がかつて定住した記録がある。中世から近世にかけては、ライン川は物流の大動脈であったが、近隣の小領主が領域ごとに通行税を取り立てるなどの阻害要因もあった。

17世紀後半、自然国境説を口実に領土拡大を目指したフランス国王ルイ14世による侵略戦争の結果、西岸に位置するドイツのアルザス地域がフランスに併合されることとなってはじめて自然国境としての役割が復活する。

また、軍事的な役割も大きく、第一次世界大戦までドイツ・フランス両軍の国境防衛ラインの役割を果たしてきた。第一次世界大戦が終結するとフランス側はマジノ線、ドイツ側はジークフリート線を建設し、ライン川は軍事的役割を失った。

一方、19世紀に入るとライン川の安定航行を求める声が高まり、19世紀初頭にはフランス、オランダ、プロイセンバイエルンバーデンヘッセンナッサウのライン沿岸7カ国によってストラスブールにライン水運中央委員会が設立され、これによって協定が結ばれて円滑なライン川の航行が行われるようになった。この委員会は参加国消滅後も後継国家によって引き継がれ、また新規参加もあって、21世紀に入っても存続している。

現在のライン川付近は、スイスとリヒテンシュタインオーストリアフォアアールベルク州の一部、およびドイツ、ドイツとフランスの自然国境となっている。

流域にある主な都市

テンプレート:Flagicon スイス

テンプレート:Flagicon フランス

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主な支流

流域延長について

ライン川については1932年に初めて1320キロと記載された事典が出版されており、ケルン大学の学者が20世紀初頭の事典に1230キロとあるのに気づき、自分で分析したところ1233キロ前後であるとの結論を得た。百と十の位を書き間違えたうっかりミスが原因で、誤った数字が定着したとみられる[2][3]

脚注

  1. GRDC - Rhine Basin Station: Rees
  2. ライン川、90キロ短かった? 2010年3月29日6時52分配信・時事通信テンプレート:リンク切れ
  3. 「ライン川、本当は90キロ短かった――1932年の事典が記載ミス」『朝日新聞』2010年4月1日付朝刊、第13版、第9面。

関連項目

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