ビワハヤヒデ

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ビワハヤヒデ1990年3月10日 - )は日本競走馬種牡馬である。

1992年に中央競馬でデビューし、早くから頭角を現す。翌1993年のクラシック三冠路線ではナリタタイシンウイニングチケットと共に、それぞれの頭文字から「BNW」と呼ばれたライバル関係を築き、ビワハヤヒデは三冠のうち最終戦の菊花賞を制した。1994年には古馬(5歳以上馬)最強馬として確固とした地位を築き、天皇賞(春)宝塚記念といったGI競走を制覇。同年、半弟(異父弟)のナリタブライアンがクラシック戦線で圧倒的な強さを見せ、年末の有馬記念での兄弟対決に期待が寄せられたが、秋の天皇賞でビワハヤヒデが故障、引退したことにより実現せず終わった。通算16戦10勝。デビュー以来の15戦連続連対(2着以内)はシンザンに次ぐ中央競馬史上第2位の記録である。1993年度JRA年度代表馬および最優秀4歳牡馬、1994年度同最優秀5歳以上牡馬

競走馬引退後は種牡馬となったが、中央の重賞勝利馬を出すことはできず、2005年より功労馬として余生を送っている。

※以下、競走馬引退までの馬齢は2000年以前に使用された旧表記(数え年)で記述する。

経歴

生い立ち

パシフィカスは1990年にイギリスニューマーケットで開催されたセリ市で、日本から参加していた早田光一郎に落札された[1]。当時無名の種牡馬シャルードの仔を受胎した状態で、日本への移動後は早田が経営する早田牧場新冠支場へ運ばれ、出産を迎える予定だった。しかし当時はバブル景気の好況で欧米から続々と繁殖馬が輸入されていたため、検疫許可が大きくずれ込み、成田空港到着時には出産予定日が間近に迫っていた[2]。パシフィカスは急遽福島県の早田牧場本場に運ばれ、3月10日、イギリスからの持込馬として後のビワハヤヒデを出産。こうした経緯からビワハヤヒデは戦後の競走馬としては数少ない福島県産馬となった[注 1]

生後1カ月の頃、馬選びの代理人業を行っていた日西牧場社長・高山裕基に見初められ、高山が勧めた馬主の中島勇に購買された[3]。同年秋に中島から馬の検分を求められた後の管理調教師・浜田光正は、当時の印象について「まだ身体ができてない感じだった。体型的にも頭が大きくて、脚も太かった。規格から外れた感じだよね。ただ血統が良かったから。肌にノーザンダンサー[注 2]というのはなかなかいない。だからビワハヤヒデの体型的なものは、それほど気にしなかった」と語っている[4]。2歳秋に牧場の牧柵に激突し、右前肢ヒザ下の管骨付近の皮を10cmほど木でえぐる事故を起こす。幸いにも傷が中筋には到達しておらず大事には至らなかったが、わずかでも事故の箇所がずれて腱を損傷していたら競走生命を絶たれていたほどの怪我であり、傷痕は後々まで残った。

競走年齢の3歳に達した1992年4月1日、滋賀県栗東トレーニングセンターの浜田厩舎に入る。競走名は中島が使用する冠名「ビワ」に、「速さに秀でる」との願いを込めた「ビワハヤヒデ」とされた[5](「ハヤ」は早田牧場の「早」ともされる[1])。

戦績

3歳時(1992年)

当初は8月の小倉開催でのデビューが予定されていたが、体調を崩したことから[4]9月13日の阪神開催で初戦を迎えた。浜田は熊沢重文に騎乗を依頼したが、同じ新馬戦でデビューするダンシングサーパスへの騎乗を理由に断られ、岸滋彦を鞍上に迎えた[6]。当日は2番人気に推されると、2着に大差(10馬身以上)、タイムにして1秒7差をつけて圧勝した。続くもみじステークスもレコードタイムで勝利。その次走に浜田は京都3歳ステークスを見据えたが、「重賞を」という中島の要望を容れ、前2走から距離が200m短縮されるデイリー杯3歳ステークスに出走[6]。浜田は「前半取り残されないか」と危惧したが[6]、2着に2馬身弱をつけ、芝1400mの3歳レコードを一挙に1秒2短縮する1分21秒7のタイムで勝利した[7]

12月13日に迎えた3歳王者戦・朝日杯3歳ステークスでは、単勝オッズ1.3倍という圧倒的な1番人気に支持された。レースでは道中中団から最終コーナーにかけて進出したが、直線ほぼ並ぶ形で抜け出したエルウェーウィンにハナ差競り負け、2着と敗れた。初の敗戦を喫してシーズンを終えたが、当時の規定では外国産馬であるエルウェーウィンに翌年のクラシック競走への出走権はなかったため、クラシック路線に向けての最有力馬という評価は確かなものであった[6]

4歳時(1993年)

騎手交替

4歳となった翌1993年初戦には、東京優駿(日本ダービー)を見越して同場開催の共同通信杯4歳ステークスに出走[6]。単勝オッズは再び1.3倍の本命となったが、先行したマイネルリマークを捉えきれず、前走に続いてハナ差で敗れた。調整途上での惜敗でもあり、浜田はこの敗戦を大きく捉えることはなかったが[6]、馬主の中島は不満を抱き、騎手の交替を要求。浜田は中島と数度会談して留保を求めたが最終的にこれを認め[8]、岸はビワハヤヒデから降ろされることになった。岸は共同通信杯の敗戦と降板について、「完全に油断負けです。相手をナメてはいけないということを、ビワハヤヒデから教わりました。クラシックでの乗り方などもいろいろ考えていたのですが、(このレースで)負けたのだから、降ろされることは覚悟していました[9]」と述懐している。

浜田は新たな騎手として「天才」と称される武豊を勧めたが、中島は「武もキャリアが浅いから危ない」とこの提案を退け、「ベテランの騎手」を要望した[10]。模索のなかで関東のトップ騎手である岡部幸雄の名が挙がったが、浜田、中島ともに岡部との面識はなく依頼は難航した。しかし中島が粘り強く直接依頼を続けた結果、三顧の礼に応える形で岡部はビワハヤヒデへの騎乗を承諾した[10]。なお、岡部は当時ビワハヤヒデに対して「早熟のマイラー[注 3]ではないか」という印象を抱いており、また、クラシック戦線においては朝日杯5着のニホンピロスコアーに期待を寄せていたことから、この時点での騎乗は「一度乗って感触を確認する」というものに過ぎなかった[5]

岡部との初コンビとなった若葉ステークス皐月賞トライアル)では単勝オッズ1.3倍の人気に応え、岡部が鞭を振るうことなく2着に2馬身差をつけ楽勝。この後、岡部の他の有力騎乗馬が相次いで故障し、コンビ継続が決定した[11]

春二冠の惜敗

クラシック初戦・皐月賞(4月18日)では、前哨戦の弥生賞を制したウイニングチケット柴田政人騎乗)に次ぐ2番人気に支持された。レースでは先行集団を見る形で道中を進み、最終コーナーで2番手まで進出。最後の直線では伸びきれないウイニングチケットを尻目に半ばで抜け出したが、後方から両馬の動きを窺っていた武豊騎乗のナリタタイシンが大外から一気に追い込み、ビワハヤヒデはゴール直前でクビ差かわされ2着に終わった。岡部は「相手の馬が強かった。しょうがない。ただ、直線でもう少し馬体が合っていたら、結果は違っていたかも……。馬が正直に走りすぎて2000メートル以上走っているよ」などと敗戦の弁を述べた[12]。浜田は後にこの競走を振り返り、「あの瞬間はあっけにとられて、呆然としてしまいましたよ。坂上でウイニングを競り落としたところで、よし勝ったと。それが、手の中に入った瞬間、ポロッとこぼれ落ちちゃったんですからね。それにしても、こちらが乗ってもらおうと思って、結局やめてしまった武君にやられたんだから、皮肉なものですね」と語っている[13]

5月30日に迎えた日本ダービーでは、皐月賞で4着に敗れたウイニングチケットが前走に続き1番人気、次いでビワハヤヒデ、ナリタタイシンの人気順だったが、オッズはそれぞれ3.6倍、3.9倍、4.0倍と拮抗し、「三強対決」の様相を呈した[14]。スタートが切られると3頭はそれぞれ中団から後方に位置。第3コーナーから最終コーナーにかけて、岡部ビワハヤヒデは前へ進出しつつ荒れた状態の馬場内側を避け、外向きに進路を取った。しかし直後につけていた柴田ウイニングチケットは、他馬が避けた内側の最短距離を通り、一気に先頭に立った。最後の直線でビワハヤヒデは逃げるウイニングチケットを追走し徐々に差を詰めたが、半馬身およばず皐月賞に続いての2着となった。3着には追い込んだナリタタイシンが入った。岡部は競走後のインタビューで「4コーナーでウイニングチケットについていきたかったが、動けなかった。瞬発力の差だ。それに内ラチ沿いは荒れていて、入る自信がなかった。ビワの状態もよかったけど、パドックではウイニングが一番良く見えたし、(柴田は)自信があったから入れたんだろうね。直線ではよく差を詰めたけど、かわせるとは思えなかった」などと述べた[14]。浜田は馬場状態の良いところを通らせた岡部の判断に理解を示しつつ「それよりも大欅(注:第3コーナー手前)のあたりから4コーナーまでの、300メートルがレースを左右したと思いますよ。岡部君は大欅のところから馬を外に出したんですが、前にいたドージマムテキが急にバテて下がったため、せっかく外に行ったものを、また内に入らざるを得ないというロスがあったんです。あれが何にしても痛かった」と回顧している[15]

菊花賞制覇 - 年度代表馬となる

日本ダービーの後、他の有力馬は休養に入る夏の間もビワハヤヒデは栗東に残り調教が続けられた。秋に入り本格的な調教が始まるに当たり、浜田は厳しい坂路調教で鍛えられた前年の二冠馬ミホノブルボンに倣い、従来の坂路2本を週6日というスケジュールを、水・金・日曜日は3本に増やすというものに変更した[16]。当初ビワハヤヒデは苦しがる様子を見せ、3本追いの3本目には馬場入りを嫌がり動かなくなってしまうこともあったが、やがて調教タイムが如実に向上するなど成果が現れていった[16]。また、ビワハヤヒデは物音に対して臆病な面があったことから、耳覆いのついた赤いメンコ(覆面)を着用していたが、浜田と岡部の話し合いにより外されることが決まり、耳の部分に徐々に穴を開けていき2週間で完全に取り外された[16]

デビュー以来初めて素顔での出走となった秋初戦・神戸新聞杯では、2番手追走から直線では鞭を使われることなく抜け出し、2着ネーハイシーザーに1馬身半差で勝利した。11月7日に迎えた三冠最終戦の菊花賞では、春の「三強」のうちナリタタイシンが前哨戦を前に発症した肺出血の影響から不調で、京都新聞杯を勝ってここに臨んだウイニングチケットとビワハヤヒデの一騎打ちと見られた[17]。当日は初めてウイニングチケットを抑えての1番人気に支持される。レースでは道中は3番手を進み、最終コーナー手前で早々に先頭に立つと、最後の直線では後続を突き放し、ステージチャンプに5馬身差をつけて優勝。クラシック最後の一冠を獲得した。走破タイム3分4秒7は芝3000メートルの日本レコード(当時)[17]。ビワハヤヒデと共に、浜田、中島もこれがGI競走初制覇であった。浜田は後にこの競走について「涙は出ませんでした。とにかくうれしかった。やるべきことはすべてやって、その結果が出たわけですから」と振り返っている[18]

年末にはグランプリ競走・有馬記念に出走。8頭のGI優勝馬が揃ったなか、ビワハヤヒデは初めての古馬(5歳以上馬)との対戦ながら1番人気に支持された。レースでは菊花賞と同様に最後の直線入口で先頭に立ったが、前年の有馬記念から1年ぶりの出走であったトウカイテイオーに残り200メートル付近でかわされ、半馬身差の2着となった。トウカイテイオーの前年のシーズンにおいて主戦騎手を務めており、振った馬に敗れる結果となった岡部は「自分の思い通りの競馬ができたし、勝ちパターンに持ちこめたが、直線で横を見たらトウカイテイオーが凄い手応えで並んできた。テイオーに負けたのは仕方ない。来年はお返ししないと」と語った[19]。なお、トウカイテイオーは翌年故障し、結果としてこれが最後の出走となった。

翌1月に発表された当年のJRA賞表彰では、菊花賞のタイトルに加えてGI競走における3度の2着などの安定した成績が評価され、安田記念、天皇賞(秋)を制したヤマニンゼファーを抑えての年度代表馬に選出された。一方、この結果には「この程度の成績で年度代表馬か」という旨の批判的な意見もあった[20]。なお、最優秀3歳牡馬には朝日杯3歳ステークスに優勝した半弟のナリタブライアンが選出された。

5歳時(1994年)

一強化と半弟ナリタブライアンの台頭

1994年は2月の京都記念から始動し、過去最高の負担重量となる59kg、初めて経験する稍重馬場といった懸念を払拭し、2着に7馬身差をつけて圧勝した[21]。次走の天皇賞(春)[注 4]では、ウイニングチケットが休養中、トウカイテイオーと前年度優勝馬のライスシャワーが回避と、出走馬の層が薄くなった中で圧倒的な1番人気に支持された。レースではスローペースに堪えきれず掛かる[注 5]様子を見せながらも最後の直前で抜け出し、2番人気のナリタタイシンの追い込みを待ってからスパートを掛けるという余裕を見せ、同馬に1馬身余りの差を付け優勝[22]。GI2勝目を挙げた。この前週にナリタブライアンが4歳クラシック初戦の皐月賞をレコードタイムで制していたことから、民放のテレビ実況を行った杉本清はゴール前で「兄貴も強い、兄貴も強い、弟ブライアンについで兄貴も強い」と伝えた[23]。これについて杉本は「気の早いマスコミは『三冠か』などと騒ぎ出してなんとなく弟一色に傾いていたので、『いや、兄貴も強いんだぞ』という気持ちが出ました」と述べている[23]

続く春のグランプリ・宝塚記念では前走の顔触れからナリタタイシンも抜け、「どれが相手だか分からないようなメンバー」(浜田[24])となり、2着アイルトンシンボリに5馬身差、2分11秒2という芝2200メートルの日本レコードタイムで優勝した。この2週間前に行われた日本ダービーでは、ナリタブライアンがやはり5馬身差の圧勝を演じており、競走後、兄弟対決について水を向けられた浜田は「今のビワハヤヒデなら何とかなるんじゃないか……。いや、これ以上は勘弁してくれよ」と語った[25]

夏は前年と同様に栗東トレーニングセンターで過ごしたが、当年は記録的な猛暑となり、馬房の前に氷を吊すなどの暑さ対策が施された[26]。そうした中、浜田がビワハヤヒデの秋の予定についてオールカマーから天皇賞(秋)、有馬記念という路線を進むことを発表。当時欧米やオセアニアから数々の強豪を招いていた国際競走のジャパンカップを回避するという内容について、浜田は「昨年の有馬記念では口惜しい思いをしました。また、ともに順調にいけば、有馬記念でナリタブライアンとぶつかることになるでしょう。だから是非、有馬記念をこの秋のピークに持っていけるようにしたい。(中略)最近の傾向を見ていると、ジャパンカップと有馬記念という2つのレースをともに万全の体調で迎えることは非常に難しいように思うんです」と説明した[27]。しかしこの決定は、特に天皇賞出走について一部に「勝負付けの済んだ相手と走り、未知の強豪から逃げている」という旨の批判を招き、作家の石川好は競馬会の広報誌『優駿』に「日本最強馬の動向」と題した抗議文を特別寄稿した[28]。また、同誌で国際欄を担当していた石川ワタルは、ジャパンカップへの展望記事でこの回避を「退散」と表現し[29]、後に「今はもうそんなことは思っていない」としながら、当時は「日本最大のレース・ジャパンカップをあえて逃げるなんて、そんな及び腰では、そのうち良くないことが起こるだろう。勝負の世界では、弱気になったら負けなんだ」と感じたとしている[30]。一方、こうした出来事を受けて同誌が「有力馬のGI回避説」について読者からの意見を募集すると、回避に賛成する意見が48%、そもそもファンに口出しする権利はないとする意見が25%、回避に反対する意見が22%であった[31]。浜田は後にジャパンカップ回避は中島の意向だったと明かし、「(天皇賞は)昔の賞典競走だから。昔の人間にとっては、やっぱり天皇賞は大きいよ」と述べている[26]

故障 - 引退

秋緒戦のオールカマーではウイニングチケットと有馬記念以来の対戦となったが、同馬に1馬身3/4差をつけて勝利。しかし浜田が「478kg、悪くても476kgで走らせるつもりだった[26]」という馬体重は470kgと細化しており、競走後の岡部の表情も沈んだものだった[32]。天皇賞に向けての調教過程においても体重は戻らず[26]、10月30日の天皇賞当日も前走と同じ馬体重で出走した。当日は単勝オッズ1.5倍の1番人気に支持されたが、岡部は「パドックで跨った瞬間、いつもと違うと感じた」としている[32]。スタートが切られると常の通り先行したが、最終コーナーから最後の直線にかけて一度も先頭に立つことなく、ネーハイシーザーの5着に敗退、生涯で初めて連対を外す結果となった。さらにコースから引き上げる最中に岡部が下馬[33]。競走後、左前脚に屈腱炎の発症が認められ、全治1年以上と診断された[33]。岡部は「道中は脚の異常は感じなかったが、反応がすごく悪かった。ボキッといかなかっただけよかったよ」と回顧し[33]、浜田は「ハヤヒデは鋼鉄ではできていない、とは言ってたけど、やっぱり馬は馬か。これで"ハヤヒデ神話"は終わったわ」と語った[33]

競走の3日後の11月2日、同じく天皇賞で屈腱炎を発症したウイニングチケットに続く形で、浜田からビワハヤヒデの引退が発表された[5]。これにより有馬記念で期待されたナリタブライアンとの兄弟対決も実現せず終わった。この4日後に行われた菊花賞で、ナリタブライアンは史上5頭目のクラシック三冠を達成。実況の杉本清は最後の直線で「弟は大丈夫だ」という言葉を数回挿みながらその模様を伝えた[34]。春のGI2連勝が評価され、翌1月にはJRA賞最優秀5歳以上牡馬に選出。16日には京都競馬場で引退式が執り行われ、菊花賞のゼッケン「7」を着けファンに競走生活最後の姿を見せた[5]

競走馬引退後

競走馬引退後は中島の個人所有で、幼駒のビワハヤヒデを中島に勧めた高山裕基が経営する日西牧場で種牡馬となった。「馬に負担を掛けたくない」という中島の意向で交配頭数を抑える方針をとったが[35]、それでも3年目まで66、54、60と数を集め、相手の全体的な質では後に種牡馬入りしたナリタブライアンに劣ったものの、早田牧場の馬を中心に一級の繁殖牝馬とも交配された[36]。初年度産駒の育成が進むに連れ、馬産地では「ビワハヤヒデの仔は走る」と評判が立ち、4年目の交配相手は70頭とさらに増加したが[37]、1998年よりデビューした産駒から、中央競馬の重賞勝利馬は出なかった。主な産駒には、日経新春杯2着、京都競馬場・2400mのコースレコードを樹立したサンエムエックスなどがいる。

2003年以降は産駒がなく、2005年をもって種牡馬を引退[38]。以後は日西牧場で功労馬として余生を過ごしている。

競走成績

年月日 競馬場 競走名


オッズ
(人気)
着順 騎手
距離(馬場) タイム
(上り3F
タイム
勝ち馬/(2着馬)
1992. 9. 13 阪神 3歳新馬 14 3 4 6.9(2人) テンプレート:Color 岸滋彦 53 芝1600m(良) 1.38.3(不明) -1.7 (テイエムシンザン)
10. 10 京都 もみじS 10 7 8 2.3(1人) テンプレート:Color 岸滋彦 53 芝1600m(良) テンプレート:Color(不明) -0.2 シルクムーンライト
11. 7 京都 デイリー杯3歳S テンプレート:Color 9 8 8 1.7(1人) テンプレート:Color 岸滋彦 54 芝1400m(良) テンプレート:Color(不明) -0.3 (テイエムハリケーン)
12. 13 中山 朝日杯3歳S テンプレート:Color 12 6 7 1.3(1人) 2着 岸滋彦 54 芝1600m(良) 1.35.5(35.5) 0.0 エルウェーウィン
1993. 2. 14 東京 共同通信杯4歳S テンプレート:Color 9 1 1 1.3(1人) 2着 岸滋彦 57 芝1800m(良) 1.48.7(34.9) 0.0 マイネルリマーク
3. 20 中山 若葉S OP 8 8 8 1.3(1人) テンプレート:Color 岡部幸雄 56 芝2000m(良) 2.00.9(35.7) -0.3 (ケントニーオー)
4. 18 中山 皐月賞 テンプレート:Color 18 8 18 3.5(2人) 2着 岡部幸雄 57 芝2000m(良) 2.00.3(35.4) 0.1 ナリタタイシン
5. 30 東京 東京優駿 テンプレート:Color 18 4 7 3.9(2人) 2着 岡部幸雄 57 芝2400m(良) 2.25.6(36.3) 0.1 ウイニングチケット
9. 26 阪神 神戸新聞杯 テンプレート:Color 9 1 1 1.6(1人) テンプレート:Color 岡部幸雄 56 芝2000m(良) 2.02.9(35.0) -0.2 ネーハイシーザー
11. 7 京都 菊花賞 テンプレート:Color 18 4 7 2.4(1人) テンプレート:Color 岡部幸雄 57 芝3000m(良) テンプレート:Color(34.5) -0.9 ステージチャンプ
12. 26 中山 有馬記念 テンプレート:Color 14 8 13 3.0(1人) 2着 岡部幸雄 55 芝2500m(良) 2.31.0(35.3) 0.1 トウカイテイオー
1994. 2. 13 阪神 京都記念 テンプレート:Color 10 6 6 1.2(1人) テンプレート:Color 岡部幸雄 59 芝2200m(稍) 2.16.8(37.0) -1.1 (ルーブルアクト)
4. 24 阪神 天皇賞(春) テンプレート:Color 11 8 11 1.3(1人) テンプレート:Color 岡部幸雄 58 芝3200m(稍) 3.22.6(36.5) -0.2 (ナリタタイシン)
6. 12 阪神 宝塚記念 テンプレート:Color 14 8 13 1.2(1人) テンプレート:Color 岡部幸雄 56 芝2200m(良) テンプレート:Color(35.0) -0.8 アイルトンシンボリ
9. 18 中山 オールカマー テンプレート:Color 8 8 8 1.2(1人) テンプレート:Color 岡部幸雄 57 芝2200m(重) 2.14.5(35.4) -0.3 (ウイニングチケット)
10. 30 東京 天皇賞(秋) テンプレート:Color 13 2 2 1.5(1人) 5着 岡部幸雄 58 芝2000m(良) 1.59.1(35.1) 0.5 ネーハイシーザー

※タイム欄のテンプレート:Colorはレコード勝ちを示す。

主な産駒

評価・特徴

競走馬としての特徴・評価

3歳から5歳まで一線での活躍を続け、短距離の1400mから長距離の3000mまで4度のレコード勝利を挙げた実績から「万能の名馬」(吉沢譲治[39])とも評されるが、岡部幸雄はビワハヤヒデについて「本質的には優れた中距離馬」であったと評している[32]。また、ライターの山田康文は、ビワハヤヒデの「天賦の才」はスピードであり、長距離で活躍するスタミナは鍛錬により後天的に備わったものであるとしている[37]

中央競馬史においては、ビワハヤヒデは1988年の年度代表馬タマモクロスから始まり、オグリキャップメジロマックイーンと続いた「芦毛の王者」の系譜に連なるとされ[18][22]、その引退により「芦毛の時代」が終わりを迎えたとされている[40]。岡部は歴代の名馬との比較について、「中長距離では(岡部が騎乗した)七冠馬シンボリルドルフに次ぐ存在か」との質問に対して「それぐらいに思ってる」と述べ、また有馬記念で敗れたトウカイテイオーとの上下を問われ、「テイオーは確かに強いときはビワ以上のものを感じた」としつつ、「コンスタントに走れるのはとにかく強み」としてビワハヤヒデを上位に挙げた[32]。また競走生活晩年を振り返り「あの年に無理をさせず、十分な夏休みを与えていれば、天皇賞で故障することもなく、翌年はチャンピオンホースになれていたんじゃないかと確信している。(中略)兄弟対決になってもブライアンをねじ伏せられた可能性も低くはなかっただろう[41]」と、不慮の引退を惜しんだ。

他方、その存在感についてライターの谷川善久は「真のスターの座につけないまま競走馬生活を閉じ[42]」「いつもレースの中心にいながら、決して物語の中心にはいなかった[42]」と述べ、また須田鷹雄は「語るべき物語の無い馬[43]」と評している。自身の作品にビワハヤヒデを数多く取り上げた漫画家のよしだみほは「実績の割に評価が低くなってる気がする」と述べた上で「ハヤヒデは結果的に勝ってたとかいうんじゃなくて、こいつは負けないだろうという雰囲気を漂わせつつ、本当に勝っちゃうんだから強い馬だったのは間違いないはず。そういうオーラをもってる馬って、あまりいないからね」と称えている[44]。また、評論家の井崎脩五郎は「どんな状況でもよく頑張るというのが、ビワハヤヒデの特筆すべきところ」とした上で「堅実で、波瀾万丈でないぶん地味な印象を与えがちなビワハヤヒデは、ナリタブライアンが三冠を獲ったことによってなおいっそう、立ち位置が一歩下がってしまった感があるが、『15戦連続連対』はもっと大威張りしていい勲章なのだ」と賞している[45]

顔の大きさ

身体上の特徴では、顔が大きいことがしばしば取り上げられ、チャームポイント、あるいは揶揄の対象となった。アナウンサーの杉本清は、ビワハヤヒデが初めてメンコを外した神戸新聞杯について「これには驚きました。何に驚いたって、デカい顔にです」と振り返り、当時仲間と「写真判定になったら得するのではないか」と言い合っていたと明かしている[46]。また、ライターの阿部珠樹は「岡部騎手を乗せたビワハヤヒデを見ると、騎手の胴体よりも馬の顔の方がはるかに大きく、長く、思わず笑わずにはいられなかった」としつつ、ビワハヤヒデに女性ファンが多かったことについて「その顔がもたらすおっとりした雰囲気のせいもあっただろう」と述べている[2]。一方、高山裕基は幼駒の頃のビワハヤヒデについて「黒目が大きくて、いかにも賢そうに感じた」と振り返り、「後にターフの人気者となってから、ハヤヒデは顔がデカイなどと言われたけれど、そんなことはない。白い分、大きく見える。それだけのことだと思う」と、顔が大きいという見方を否定している[3]

なお、浜田はかつて「顔の大きい馬は競走馬として駄目だ」という自説を述べたことがあり、その理由として「顔が大きいと頭が前に下がり、前脚の出方が不十分になり、姿勢が窮屈になり、フォームのバランスが崩れる」という論理を展開していた[47]。ビワハヤヒデを語る際にこの説を引いた大川慶次郎は、それでも高い能力を見せたことについて「たぶん、内蔵されているエンジンが他の馬とは違って、一級品なのだと思います。それで、あれだけの実績を挙げられたのだと思います」と述べている[47]

血統表

ビワハヤヒデ血統グレイソヴリン系Nasrullah5×5=6.25%(父内))

*シャルード
Sharrood
1983 芦毛
Caro
1967 芦毛
*フォルティノ
Fortino
Grey Sovereign
Ranavelo
Chambord Chamossaire
Life Hill
Angel Island
1967 鹿毛
Cougar Tale of Two Cities
Cindy Lou
Who's to Know Fleet Nasrullah
Masked Lady

*パシフィカス
Pacificus
1981 鹿毛
Northern Dancer
1961 鹿毛
Nearctic Nearco
Lady Angela
Natalma Native Dancer
Almahmoud
Pacific Princess
1973 鹿毛
Damascus Sword Dancer
Kerala
Fiji Acropolis
Riffi F-No.13-a

父シャルードはビワハヤヒデの活躍を受けて日本に輸入されたが、他に目立った活躍馬を出すことはなかった。高山裕基は、ビワハヤヒデはシャルードよりも祖父カロの影響が強く出たのではないかとしている[35]。4代父グレイソヴリンを祖に持つ「グレイソヴリン系」の種牡馬は「早熟な短~中距離馬の血統」という定評があったが、血統研究家の吉沢譲治は「その既成概念を新種牡馬で登場したトニービンと共に、180度くつがえしたのがビワハヤヒデだった」と評し、菊花賞以降の飛躍は母の父ノーザンダンサーの影響によるものではないかとしている[36]

近親

脚注

注釈

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出典

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参考文献

  • 光栄出版部(編)『名馬列伝 ビワハヤヒデ』(光栄、1995年)ISBN 978-4877192327
  • 杉本清『三冠へ向かって視界よし - 杉本清・競馬名実況100選』(日本文芸社、1995年)ISBN 978-4537024838
  • 市丸博司(編)『サラブレッド怪物伝説・平成版 - ヒーローたちの夢の蹄跡』(廣済堂出版、1997年)ISBN 978-4331652497
  • 木村幸治『調教師物語』(洋泉社、1997年)ISBN 978-4896912920
  • 『忘れられない名馬100 - 関係者の証言で綴る、ターフを去った100頭の名馬』(学研、1997年)ISBN 978-4056013924
  • 大川慶次郎『大川慶次郎が選ぶ「個性派」名馬18頭』(ザ・マサダ、1999年)ISBN 978-4915977992
  • 渡辺敬一郎『最強の名馬たち - 「競馬名勝負」真実の証言』(講談社、1999年)ISBN 978-4062097123
  • よしだみほ『よしだみほの20世紀の100名馬』(ワニブックス、2000年)ISBN 978-4847013744
  • 岡部幸雄『勝負勘』(角川書店、2006年)ISBN 978-4047100602
  • 『優駿』1994年9月号(日本中央競馬会)
  • 『優駿』1994年11月号(日本中央競馬会)
  • 『優駿』1995年1月号(日本中央競馬会)
  • 『優駿』1995年8月号(日本中央競馬会)
  • 『優駿』1998年8月号(日本中央競馬会)
  • 『優駿』2000年11月号(日本中央競馬会)
  • 『優駿』2002年11月号(日本中央競馬会)
  • 『週刊100名馬 Vol.29 ビワハヤヒデ』(産経新聞社、2001年)

外部リンク

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  1. 1.0 1.1 『優駿』2002年11月号、p.59
  2. 2.0 2.1 『週刊100名馬 Vol.29 ビワハヤヒデ』p.4
  3. 3.0 3.1 『忘れられない名馬100』pp.176-177
  4. 4.0 4.1 『名馬列伝ビワハヤヒデ』p.88
  5. 5.0 5.1 5.2 5.3 『週刊100名馬 Vol.29 ビワハヤヒデ』p.11 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "100meiba2"が異なる内容で複数回定義されています
  6. 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 6.5 『名馬列伝ビワハヤヒデ』pp.89-90
  7. 『週刊100名馬 Vol.29 ビワハヤヒデ』p.13
  8. 木村(1997)p.15
  9. 『優駿』2002年11月号、p.61
  10. 10.0 10.1 渡辺(1999)pp.205-208
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  13. 渡辺(1999)pp.218-219
  14. 14.0 14.1 『週刊100名馬 Vol.29 ビワハヤヒデ』pp.18-19
  15. 渡辺(1999)p.227
  16. 16.0 16.1 16.2 渡辺(1999)pp.230-231
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  18. 18.0 18.1 『週刊100名馬 Vol.29 ビワハヤヒデ』p.37
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  20. 『週刊100名馬 Vol.29 ビワハヤヒデ』p.8
  21. 『週刊100名馬 Vol.29 ビワハヤヒデ』p.26
  22. 22.0 22.1 『週刊100名馬 Vol.29 ビワハヤヒデ』p.29
  23. 23.0 23.1 杉本(1995)pp.29-30
  24. 『名馬列伝ビワハヤヒデ』p.94
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  29. 『優駿』1994年11月号、p.31
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  31. 『優駿』1995年1月号、p.174
  32. 32.0 32.1 32.2 32.3 『週刊100名馬 Vol.29 ビワハヤヒデ』p.35
  33. 33.0 33.1 33.2 33.3 『週刊100名馬 Vol.29 ビワハヤヒデ』p.33
  34. 杉本(1995)p.96
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  37. 37.0 37.1 『週刊100名馬 Vol.29 ビワハヤヒデ』p.49
  38. テンプレート:Cite web
  39. 『優駿』1998年5月号、p.52
  40. 『優駿』2000年11月号、p.27
  41. 岡部(2006)p.130
  42. 42.0 42.1 『サラブレッド怪物伝説・平成版』p.54
  43. 『名馬列伝ビワハヤヒデ』p.104
  44. よしだ(2000)p.74
  45. 『週刊100名馬 Vol.29 ビワハヤヒデ』p.39
  46. 杉本(1995)pp.181-182
  47. 47.0 47.1 大川(1999)p.137


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