タマモクロス

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テンプレート:Infobox タマモクロスTamamo Cross)とは、日本中央競馬会に登録されていた競走馬である。天皇賞(春・秋)宝塚記念GI競走などに優勝した。同じ芦毛馬であるオグリキャップとの芦毛頂上対決に多くの競馬ファンが沸いた。引退後は種牡馬となった。

現役時の主戦騎手南井克巳半妹エリザベス女王杯を優勝したミヤマポピーがいる。

父・シービークロスが「白い稲妻」というニックネームで親しまれていたため、「稲妻2世」や「白い稲妻」とも呼ばれた。

馬齢は当時の表記(数え年)にて記載

出生

タマモクロスの生産者であった錦野昌章は同馬を高く評価していたが、父シービークロスに対する世間の評価は低く、タマモクロス自身の線の細い外見もあいまって、下された評価額は500万円という安値であった。錦野はその低評価額で売ることを拒んだが、当時経営が逼迫していた同牧場の窮状をさらに強めることとなる。その後、タマモクロスの大成を見ずして、牧場は倒産した。

錦野はその後もあちこちを転々としながらも、タマモクロスを応援していた。しかし決して表に出ることはなかったという。そのためタマモクロス優勝時、表彰台の「生産者」の上には常に誰もいなかった。

戦績

4歳(1987年)

3月1日阪神競馬場での新馬戦南井克巳騎乗でデビューするも7着といいところがなかった。「ダートのレースのほうがゆったりとした流れが多いからよいのでは」と判断されたため、3戦目のダート戦で初勝利を挙げるも、その次に出走したレースで落馬事故に巻き込まれた[1]。その後は休養をはさみ札幌競馬場でダート戦[2]に出走するも礼文特別の2着が最高で勝てず、中央場所に戻っても2戦連続3着という成績だった。陣営は「やはり芝の方が良いのではないか」と考え、「ここで結果が出なかったら少し考えよう」[3]という半ば諦めムードで10月18日京都競馬場での400万下戦(芝2200メートル)に出走させた。すると、今までの不振が嘘のように7馬身差で勝利した。勝ちタイムは同日、同競馬場の同距離で行われた菊花賞トライアル京都新聞杯のそれより速かった。次に出走した藤森特別(芝2000メートル)では松永幹夫が騎乗したが、2着馬に8馬身差を付け勝利。この2走の勝ちっぷりから、一部マスコミから「菊花賞での関西の秘密兵器」と呼ばれたが、調教師の小原伊佐美は先を考えて「ここで無理をしたら絶対にダメになる」[4]と菊花賞には出走させなかった[5]。続く年末のGII鳴尾記念では格上挑戦ながら単勝3番人気に支持され、レースでは前半最後方を進むも直線だけでメイショウエイカンに6馬身差、やや重馬場ながらレコードタイムで勝利し、翌年の中央競馬の主役と目されるようになった。なお、この日は中山競馬が雪のため途中で中止となり、競馬場に残っていたファンがターフビジョンでこの鳴尾記念を見て度肝を抜かれたという話もあるテンプレート:要出典大橋巨泉東京スポーツ紙上にて発表していたフリーハンデでクラシック馬を上回る評価を与え、4歳馬の1位にランクした。

5歳(1988年)

1988年は、前年の4歳クラシック組が精彩を欠く[6]一方で、同期でクラシック不出走のタマモクロスは株を上げた。小原は天皇賞(春)を見据え、日経新春杯から阪神大賞典というローテーションを描いていたが、馬主サイドの「金杯は縁起のいいレースなので、ここを勝てれば活躍が約束される」という縁起担ぎを理由とした強い要望で、年明け初戦は1月5日京都競馬場のGIII・金杯(現・京都金杯)になった。この金杯では一時行き場を失くしかけたものの、馬ごみを縫うように内埒から抜け出して際どく勝利。直線だけで15頭をごぼう抜きという内容であった。続くGII阪神大賞典でも最後の直線で内をつき、前がふさがりかけるも逃げ込みを図るダイナカーペンターとの叩き合いで12年ぶりの重賞での同着勝利となった。この2つが、連勝街道時代では最も苦戦したレースであった。そして、父・シービークロスが勝てなかったGI天皇賞(春)では1番人気に支持され、ランニングフリーに3馬身差をつけ、初のGI勝利を挙げた。鞍上の南井にとっても初のGI制覇だった。続くGI宝塚記念は、前年の天皇賞(秋)を制したニッポーテイオーとの天皇賞優勝馬対決となった。1番人気こそニッポーテイオーに譲ったものの、レースでは外からニッポーテイオーを差し切り優勝した。

秋シーズンは、「カイ食いが細いタマモクロスなら、調教だけでも仕上がるだろう」[4]という小原の考えによりぶっつけで臨んだ天皇賞(秋)で、地方競馬出身の雄・オグリキャップとの初対決となった。両馬とも当年は無敗であり、また2頭とも芦毛であることから、多くの競馬マスコミが「芦毛頂上決戦」(当時)と扱い大きな話題となった。オグリキャップは毎日王冠1着からの参戦であったのに対し、タマモクロスは東京競馬場ぶっつけ初出走、かつ2000mは距離が短いのではないかという前評判から、1番人気はオグリキャップに譲る形となった。レースでは、タマモクロスがこれまでと異なり、マイペースで逃げるレジェンドテイオーの直後につけるという先行策に打って出た。スローペースとタマモクロスの気性面の成長を織り込んで採用したこの作戦は功を奏し、粘り込みを図るレジェンドテイオーを最後の直線で交わすと、待機策を採ったオグリキャップの強襲を1馬身4分の1振り切り優勝、勝ち抜け制度がなくなった天皇賞において、史上初の天皇賞春秋連覇となり、また重賞連勝記録もそのオグリキャップとメジロラモーヌが記録していた「6」に並んだ[7]。その後、日本代表として出走したジャパンカップでは1番人気に推され、直線では先頭に一度立ったものの差し返されペイザバトラーの2着、引退レースの第33回有馬記念でも1番人気だったが、レース前からささやかれた不調のためか、最後方から残り3ハロンのスパートだけに賭けた競馬となり、オグリキャップの2着に敗れた。結局、オグリキャップとは天皇賞(秋)・ジャパンカップ・有馬記念で3度対決して2勝1敗。芦毛対決として昭和時代最後の競馬界を盛り上げた。この有馬記念を最後に引退した。同年のJRA賞において、年度代表馬・最優秀5歳以上牡馬最優秀父内国産馬(部門名は当時)のタイトルを獲得した。

競走成績

年月日 競馬場 競走名


オッズ
(人気)
着順 騎手 斤量 馬体重 距離馬場 タイム
上がり3F
タイム
勝ち馬/(2着馬)
1987 3. 1 阪神 4歳新馬 11 6 6 3.5(2人) 7着 南井克巳 55 456 芝2000m(良) 2:07.1 (40.6) 1.8 アイチマツシマ
3. 21 阪神 4歳新馬 10 7 8 3.7(2人) 4着 南井克巳 55 444 ダ1800m(重) 1:56.3 (40.7) 0.7 シルクマリア
4. 11 阪神 4歳未勝利 12 6 7 3.0(2人) テンプレート:Color 南井克巳 55 446 ダ1700m(稍) 1:48.3 (38.7) -0.1 (ビューティフル)
5. 10 京都 4歳400万下 15 3 4 11.2(6人) - 南井克巳 55 440 芝2000m(良) 競走中止 - トサノアサカゼ
6. 28 札幌 4歳上400万下 8 6 6 11.7(7人) 6着 田原成貴 55 446 ダ1800m(良) 1:55.6 (38.9) 3.0 ホッカイセイザン
7. 11 札幌 礼文特別 400万 9 5 5 18.0(7人) 2着 安田富男 55 444 ダ2000m(良) 2:07.1 (38.4) 0.2 ヒロノハヤテ
9. 19 阪神 能勢特別 400万 9 4 4 4.8(3人) 3着 南井克巳 55 442 ダ1800m(良) 1:55.0 (39.1) 0.3 アルファビバーチェ
10. 4 阪神 4歳上400万下 11 1 1 2.0(1人) 3着 南井克巳 55 444 ダ1700m(良) 1:47.9 (37.6) 0.6 マルカスキー
10. 18 京都 4歳上400万下 16 5 10 9.6(5人) テンプレート:Color 南井克巳 55 440 芝2200m(良) 2:16.2 (36.0) -1.2 (ナチノパーソ)
11. 1 京都 藤森特別 400万 14 4 5 1.7(1人) テンプレート:Color 松永幹夫 56 442 芝2000m(稍) 2:03.0 (36.3) -1.3 (メイショウヒエン)
12. 6 京都 鳴尾記念 テンプレート:Color 13 4 5 5.8(3人) テンプレート:Color 南井克巳 53 450 芝2500m(稍) 2:33.0 (35.8) -1.0 (メイショウエイカン)
1988 1. 5 京都 金杯(西) テンプレート:Color 16 7 13 2.2(1人) テンプレート:Color 南井克巳 56 452 芝2000m(稍) 2:03.7 (35.9) -0.1 (ハローポイント)
3. 13 阪神 阪神大賞典 テンプレート:Color 7 5 5 1.7(1人) テンプレート:Color 南井克巳 56 452 芝3000m(稍) 3:12.1 (35.3) 同着 ダイナカーペンター
4. 29 京都 天皇賞(春) テンプレート:Color 18 4 8 4.4(1人) テンプレート:Color 南井克巳 58 448 芝3200m(稍) 3:21.8 (37.1) -0.5 ランニングフリー
6. 12 阪神 宝塚記念 テンプレート:Color 13 2 2 3.0(2人) テンプレート:Color 南井克巳 56 444 芝2200m(稍) 2:13.2 (36.0) -0.4 ニッポーテイオー
10. 30 東京 天皇賞(秋) テンプレート:Color 13 6 9 2.6(2人) テンプレート:Color 南井克巳 58 452 芝2000m(良) 1:58.8 (34.9) -0.2 オグリキャップ
11. 27 東京 ジャパンC テンプレート:Color 16 3 5 3.2(1人) 2着 南井克巳 57 450 芝2400m(良) 2:25.6 (35.5) 0.1 ペイザバトラー
12. 25 中山 有馬記念 テンプレート:Color 13 7 11 2.4(1人) 2着 南井克巳 57 448 芝2500m(良) 2:34.0 (35.0) 0.1 オグリキャップ

引退後

種牡馬として北海道静内町アロースタッドに繋養された。現在まで中央競馬のGI馬こそいないものの、マイソールサウンドカネツクロス、桜花賞で1番人気に推されたダンツシリウスなどの多数の重賞馬を輩出した。日経賞を勝ったウインジェネラーレはタマモクロス産駒として初の種牡馬入りを果たした。

2003年4月10日腸捻転のためアロースタッド内で死亡。当時19歳であった。北海道新ひだか町の桜舞馬公園(オーマイホースパーク)に、タマモクロスの墓碑がある。死亡の翌年の2004年10月にはJRAゴールデンジュビリーキャンペーンの「名馬メモリアル競走」の一環として「タマモクロスメモリアル」が同年の天皇賞(秋)施行日の東京競馬場にて行われた。

おもな産駒

母の父として

競走馬としての特徴

父シービークロスと同じく最後方から進み、切れ味で勝負する追込馬で、極度にズブいところも父譲りであった。しかしそのズブさゆえ、切れ味があるのに長い距離もこなせた。 タマモクロスは食が細く、とくにレースに出走してストレスがたまると食欲が落ちた。そのため、調教師の小原いわく連勝を続けるなかでも体調が万全だったレースはほとんどなかった。また神経質で環境に敏感なところがあり、そのため関東でのレースが続いた1988年の秋は陣営はタマモクロスの管理にとくに気を使っていた。

エピソード

  • 爆笑問題太田光はタマモクロスのレースを生で観戦した感想として「地面からエネルギーを吸収しているかのような力強い走りだった」と評している[8]。また、漫画『みどりのマキバオー』の主人公ミドリマキバオーのモデルはタマモクロスだと作者のつの丸が発言している[9]
  • 第8回ジャパンカップで2着に敗れたときに日本競馬のレベルアップが伺える記述として「(1983年の第3回で)キョウエイプロミスが2着に来た時は意外な好走と言うことで(競馬ファンが)大騒ぎしていたが、今年(1988年)はタマモクロスが2着に沈んだ。と言うことで(優勝できずに)口惜しがり、大騒ぎとなった」と書かれていた[10]
  • 現役時から噛み付き癖があり、種牡馬入りしたあともそれは改善されなかった。そのためタマモクロスがいる牧場のパドック柵には「危険、噛み付きます」という注意書きの札が掛けられていた。

血統表

タマモクロス血統グレイソヴリン系 / 4代内アウトクロス

シービークロス
1975 芦毛
*フォルティノ
Fortino
1959 芦毛
Grey Sovereign Nasrullah
Kong
Ranavalo Relic
Navarra
ズイショウ
1968 芦毛
*パーソロン
Partholon
Milesian
Paleo
キムラス *タークスリライアンス
*ロイヤルディール

グリーンシャトー
1974 栗毛
*シャトーゲイ
Chateaugay
1960 栗毛
Swaps Khaled
Iron Reward
Banquet Bell Polynesian
Dinner Horn
クインビー
1966 鹿毛
*テューダーペリオッド
Tudor Period
Owen Tudor
Comice
コーサ *ヒンドスタン
*ミスチャネル F-No.21-a

主な近親

半妹ミヤマポピーエリザベス女王杯、父カブラヤオー)がいる。

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

参考文献

  • 阿部珠樹「タマモクロスVSオグリキャップ 時代を分けた2頭の芦毛 1988(昭和63)年秋」『優駿 1995年12月号 サラブレッド・ヒーロー列伝<レース編>12』日本中央競馬会、1995年

外部リンク

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  1. この影響で怖がりな性格になったという説がある。
  2. 当時、札幌競馬場には芝コースがなかった。
  3. 負けたら障害戦に転向することも考えられていた。
  4. 4.0 4.1 月刊『優駿』2012年11月号 日本中央競馬会
  5. 藤森特別から菊花賞へは連闘での出走が必要であった。
  6. 二冠馬サクラスターオー第32回有馬記念で故障し、後に死亡。東京優駿(日本ダービー)優勝馬メリーナイスセントライト記念勝利以降、勝利から遠のいていた。
  7. このJRA重賞連勝記録は1994年ヒシアマゾンも記録し、タイ記録に4頭が並ぶ状況となったが、2000年テイエムオペラオーが重賞8連勝を記録したことで破られた。
  8. 『爆笑問題の死のサイズ 新聞の死亡記事で読み解く、20世紀人物列伝』扶桑社(2000年6月)
  9. 『みどりのマキバオー大本命ブック』集英社(1997年9月)
  10. 月刊『優駿』1989年1月号 日本中央競馬会