国鉄63系電車
国鉄63系電車(こくてつ63けいでんしゃ)は、1944年(昭和19年)から1951年(昭和26年)にかけて大量に製造された運輸通信省鉄道総局・運輸省および日本国有鉄道(国鉄)の直流用通勤形電車である。
なお、この呼称は同一の設計思想に基づいて製造された電車を便宜的に総称したもので、国鉄制式のものではない。具体的にはモハ63形およびサハ78形を指すが、登場の経緯が異なるものの、ほぼ同一の構造を持つクハ79形も含まれる。
目次
概要
当初、戦時体制下の輸送力増強を目的に開発された電車であるが、21世紀現在に至るまでのJRや大手私鉄でラッシュ輸送に広く用いられている「全長20m、片側4扉」タイプの、通勤輸送向け大型車体を本格採用した最初の電車として、日本の鉄道史上画期的な存在である。
終戦直後の混乱期を背景とした輸送需要の増加に際し、在来車両の戦災損耗や老朽化による著しい輸送力不足を補い、大都市通勤輸送の主力を担った。
しかし、その登場の経緯から極めて粗悪かつ不完全な設計であり、1951年に発生して多くの犠牲者を生じさせた車両火災事故「桜木町事故」に際しては、63系の設計の欠陥が被害を拡大させる原因となった。
桜木町事故における欠陥の露呈に伴い、全ての63系は安全対策を主とした更新修繕を受けて、72系に改称された。
登場の経緯
第二次世界大戦末期の1944年、戦局も敗色濃くなる中、兵器生産へ人員を動員するための通勤輸送用として、緊急に開発された。
最初に木造車の改造(鋼体化)名義で「クハ79形」制御車が竣工し、追って「モハ63形」制御電動車および「サハ78形」付随車が製造されたが、終戦までに間に合ったのは、わずかにクハ79形7両[1]、モハ63形14両[2]、サハ78形8両にすぎなかった。本格的に量産されるのは終戦後のことであるが、1950年(昭和25年)までの間に実に688両[3]が量産され、戦後復興の一翼を担った。
製造状況の詳細については、国鉄72系電車/番号新旧対照#63系電車製造年・製造所別一覧を参照されたい。
構造
全体的には「戦争に勝つまでの間、数年保てば良い」という設計思想のもとに資材を可能な限り極限まで切り詰め、かつ極限まで輸送効率を追求した、いわゆる戦時設計である。
車両の最大長は、従来車と同じく20メートルとされたが、連結器長を縮めて車体長を19.5メートルに延長し、収容力を増加させた。また、幅1,000ミリの片開き扉が片側4か所に設置された。満員に詰め込んだラッシュ時の換気に配慮して、屋根には太い煙突状の筒に覆いを被せた形の大容量のグローブベンチレータを装備したほか、妻面幕板部にもヨロイ戸式ベンチレーターを設けた。また換気促進およびガラスの節約を目的として、側面の窓は3段に区切られ、中段は固定、下段と上段がそれぞれ開けられるように作られた。ガラスの節約のため窓の桟を増やした車両もあった。
車端部の形状も工作の簡易化のため単純な切妻構造とされた。雨樋も省略され、代わりに扉の上部に水切りを設けた。また、鋼材の節約のため外板は在来型電車より薄い1.6mm厚[4]、とされ、施工に手間がかかるうえカーバイドや酸素を消費する歪み取り措置も行われなかった。車体下部の台枠部分の外板も省略され、台枠側面を露出させている。車端貫通路の渡り板も省略された。電装品も一部が省略されたり、極めて粗悪な代用品が使用されるなどしており、特に絶縁関係の脆弱さは後に桜木町事故の原因となるなど、問題の多いものであった。
内装においても通常の車内の内張りが省略され、木造の天井には骨組みが露出しており、照明はカバーも全くつかない裸電球8個であった[5]。また最初期の車両については座席はドア脇の床に置かれるドアエンジンを覆う部分以外にはほとんど設置されず、布地も張られていなかった。さながら当時の民家同様、ほとんどバラック同然な車体であった。
また当時は電装部品が不足していたため、運転台付きの電動車として計画されながら、床下に主電動機や主制御器などの電装品がない状態のまま制御車代用で運用に入った車両も多かった。さらにひどい場合は電装品どころか、運転台に装備する主幹制御器やブレーキ制御弁などの機器もないため、付随車代用の状態で運用に入った車両さえあった。それらの車両は識別のため本来の「モハ」の記号に代えて「クモハ」(制御車代用)・「サモハ」(付随車代用)と標記していた[6]。
終戦後の混乱が次第に落ち着き、資材不足が収まってゆくにつれて、内張りや座席も整備されていった。1948年(昭和23年)から座席の座面に布(モケット)を張り[7]、照明はグローブ付きに、扉は鋼製になった。1950年に63形として最後に製造された4両(63855 - 63858)は雨樋が付き、屋根の水切りと妻面幕板部のベンチレーターがなくなるなど、車体構造の面では戦前の水準まで回復した。
試験車としての63系
国鉄は1947年(昭和22年)以降、電車に関する新技術の開発に次々と取り組んだ。しかし、その当時に生産が行われていた国鉄電車は63系1系列のみであり、メーカーから続々と送り出される63系電車は、新しい技術の試験用車両としても利用されることになった。
台車
63系の標準的な台車は当初、戦前からの鉄道省標準型である鋳鋼製軸箱部と型鋼による側枠を組み合わせたペンシルバニア形軸ばね式台車のDT12(TR25)であった[8]。
太平洋戦争後、国内のベアリング工業が軍需から民需に転換したのを機に、鉄道業界にもローラーベアリングの導入が図られる。これには起動抵抗や車軸の発熱を減少させ、メンテナンス性を改善できるメリットがあった[9]。これに際し、DT12のプレーンベアリングをローラーベアリングに変更したDT13が開発される。以後このタイプが63系の標準台車となった。
また、一部のモハ63形には試験的に、扶桑金属(旧・住友製鋼所、現在の住友金属工業)製の鋳鋼台車が用いられた。ウイングバネ式のDT14[10]と、軸バネ式のDT15があったが、両者は多くの部品を共用している。DT15は、80系電車に用いられた高速型台車であるDT16の原型となった。
主電動機
当初、戦前からの標準型であるMT30[11]を搭載したが、1948年(昭和23年)頃から改良型のMT40を経てMT40A・MT40B[12]に移行している。これらは端子電圧差[13]を考慮するとMT30とほとんど差がないが、電機子軸受にローラーベアリングを採用し、独立した冷却ダクトを持つMT40の方が、ロングランや過負荷へのゆとりがあった。のちに主電動機をMT30からMT40に交換した車両もあり、これによって捻出されたMT30で戦前型国電の出力増強がなされた事例もあった。
MT40系はその後、80系電車、70系電車、72系電車の各系列にも用いられ、湘南電車の、ひいては電車列車の時代の到来の原動力となった。以後の量産電動機は中空軸平行カルダン駆動対応となったため、同系列は国鉄電車用電動機としては最後に新規設計された吊り掛け駆動対応の、そして最大の出力を備えた量産電動機シリーズとなった。
パンタグラフ
パンタグラフについては、戦前と同等のトラス構造を用いた良質な標準型であったPS11はほとんど用いられず、戦中新たに開発された簡易型であるPS13が搭載された。内側にトラスのない枠だけのラーメン構造で、下半分の部材には通常の鋼管を使わず、鋼板を折り曲げて部材を構成していた。
主軸のベアリングを平軸受とするなど極端に簡素化した粗末な構造で、当初は強度不足による歪みも頻発した。しかし、架線への追随性能に大きな問題はなく、広範に用いられた。旧形電車はもとより、新性能電車といわれる101系電車や151系電車の初期製造グループでさえも、登場当初にはこのパンタグラフを搭載していたほどである[14]。
制御装置
63系は、戦前からの標準型であった電空カム軸制御器[15]のCS5(直列5段・並列4段・並列弱め界磁1段。弱め界磁率60%)を搭載していた。しかし一部の63系は、構造が簡素で軽量となった試作電動カム軸制御器[16]のテストベッドとして長期実用試験に供された。この結果、次世代の電動カム軸式制御器はCS10(直列7段・並列6段、並列弱め界磁1段。弱め界磁率60%、弱め界磁起動機能付き)として制式化され、1951年製作の80系や70系などに搭載、さらに翌1952年以降は弱め界磁率を60%と75%の2段構成に改良したCS10Aが完成、それらの各系列に加え本系列の改良型である72系にも搭載されるようになった[17]。このCS10では直並列切り替え時に牽引力の低下がほぼ発生しない「橋絡わたり」接続が国鉄電車用制式制御器では初めて採用[18]され、主回路制御段数の多段化と共に加速時の衝動低減に大きな効果を発揮した。
なお、運転台の主幹制御器はCS5・CS10搭載車共に、戦前以来長らく標準的に採用されてきたMC1Aを搭載する。
ジュラルミン電車
1946年に川崎車輛(現・川崎重工業車両カンパニー)で製造された63系のうち6両(モハ63900 - 63902・サハ78200 - 78202)は、外板をジュラルミン張りに変更して製造された。これは日本で初めて軽合金製外板を車体に用いた電車である。終戦による航空機需要の途絶により、航空機用材料のジュラルミンが余っていたことから試験的に製造されたものであるが、骨組みは普通鋼を用いている。なお、これらは内装材にもジュラルミンを使用していた(床板と荷物棚は木製、座席は布張り)。
外観は溶接構造ではなく戦前型電車のようなリベット留め[19]とし、クリアーのアクリル塗料を塗っただけの銀色で、アクセントに細い緑色の帯が入った。照明に蛍光灯[20]を試験的に採用したため車内も明るく、「ジュラ電」と呼ばれて注目を集めた[21]。
しかし、もともと腐食しやすいジュラルミン[22]に加え、既存の63系同様に粗悪な絶縁素材を使っていたために電装品からの漏電による電蝕症状が進行し、数年程度使った時点で車体が著しく劣化した[23]。このため1950年には車体に鋼製車と同様の塗装が施されたものの、1954年(昭和29年)の72系への形式再編に際し、全金属化の試作も兼ねて6両とも試作全金属形車体(普通鋼外板)に改造された。
63系電車の私鉄導入
太平洋戦争中の酷使や戦災の結果、多数の電車が損耗し、一方で買い出し客を中心に輸送需要が増加したことで、戦後の私鉄各社は著しい輸送力不足に苦しんだ。
1946年から、運輸省(鉄道軌道統制会。のち鉄道車輌統制会)の統制の下、大手私鉄に運輸省標準型電車としてモハ63形を割当供給し、その代わりに中小型車を地方中小私鉄に譲渡(供出)させることになった。その際、モハ63形電車の割当てを受けたのは東武鉄道、東京急行電鉄(小田原線→現・小田急電鉄、厚木線→現・相模鉄道)、名古屋鉄道、近畿日本鉄道(南海線→現・南海電気鉄道)、山陽電気鉄道の各社線[24]で、1948年までに合計120両が統制会の手を通じて各社に供給された。
統制会を通して割り当てられた63形電車は、名目上、国鉄が一括発注し、各私鉄に割り当てる形をとったため国鉄番号を持つが、国鉄に車籍編入されたことはない。それ以外に直接私鉄が発注し、国鉄番号のない車両が計4両あった。
東武鉄道
統制会より40両の割り当てを受け(うち2両は国鉄番号なし)、6300系(モハ6300形・クハ300形)の呼称を与えられる。のち名古屋鉄道から14両を譲受した。1952年に7300系と改称。1959年(昭和34年)以降新造車体への載せ替え改造を受けた。 テンプレート:Main
東京急行電鉄
統制会より20両が割り当てられ(うち2両は国鉄番号なし)、1800形となり、小田原線(→小田急電鉄)に14両、厚木線(→相模鉄道)に6両が投入された。厚木線配置の車両は1947年に相模鉄道に移籍し、のちに改番されて3000系となった。 (小田原線→)小田急電鉄では、その後、名古屋鉄道から6両を譲受し、1800形に編入した。1957年以降車体新製による更新を受けて形態を一新、のち秩父鉄道に譲渡され800系として使用されたが、1990年までに廃車されている。 テンプレート:Main
名古屋鉄道
統制会より20両が割り当てられ、3700系(初代)となるも、名古屋本線に当時存在した急カーブ(枇杷島橋梁付近)が通過できず、運行可能な区間に制約(栄生以東に限定)があったため十分に活用できなかった。この結果、従来車の車両限界に合わせた運輸省規格型車両の割当て(3800系20両。1954年までに71両新製)を優先的に受けて、その見返りとして1948年に同車を東武鉄道(14両)と小田急電鉄(6両)へ譲渡した。なお、名鉄線に独自の20m4扉車が登場したのはそれから30年以上も後の1979年(地下鉄直通車の100系)のことであり、本線系では未だに20m4扉車を本格的に使用していない。 テンプレート:Main
近畿日本鉄道
統制会より20両が割り当てられ、モハ1501形となった。南海線に配置され、南海電気鉄道が分離独立した際に全車同社に承継された。全車近畿車輛製で、自社の親会社への納入ということで、南海の戦前の車両と同じシャンデリア風の車内灯[25]を装備し、通風器をガーランド型2列とするなどの特別仕様となった。600Vの大電流に対応し、また在来車との混用の必要性から通常のCS5ではなく、ALF単位スイッチ制御器を装備した。1959年以降、一部が制御車に改造され、使用機器が1521系とED5201形電気機関車に引き継がれている。1968年までに全廃された。 テンプレート:Main
山陽電気鉄道
統制会から20両が割り当てられた。63系唯一の標準軌仕様。初期車6両は剥き出しの天井のままであったが、それ以降の14両は天井にジュラルミン板を張って納入され、原番号が63800番台であったことから800形800 - 819となる(のち700形700 - 719に改称)。当時の山陽電鉄には神戸市内に併用軌道区間(路面走行区間)があり、本形式も1968年(昭和43年)の神戸高速鉄道開業まで道路上を走行した。20m級の大型電車が併用軌道を走行したのは前代未聞のケース[26]であった。のち1957年(昭和32年)の西代車庫火災による焼損をきっかけとした車体新造による2700系への更新、もしくはその構体を生かしたままでの更新改造を受けたが、いずれも既に全車が廃車されている。 テンプレート:Main
- 私鉄割当車の番号については、国鉄72系電車/番号新旧対照#モハ63形私鉄割当車番号を参照されたい。
以下は統制会の割当を受けずに63系(類似タイプを含む)を導入した鉄道会社
西武鉄道
1953年に63系の事故廃車3両を国鉄から譲受、1956年(昭和31年)に同一仕様1両を自社製造。詳細は西武401系電車を参照。20m級の大型電車が入線可能となり、1957年(昭和32年)以降導入の車両は20m車が標準となった。
相模鉄道
太平洋戦争後の一時期、当時の東急小田原線に運行委託していた経緯から、大東急分離後の小田急電鉄経由で7両を譲受した。これらは3000系の一部となり、のちに車体更新が実施された。7両のうち1両は事故車であった。
三池鉄道
三井三池炭鉱専用鉄道(福岡県大牟田市・熊本県荒尾市)では上記の私鉄(いわゆる電鉄)各社とは異なり、通勤客車として63系の同形車5両(ホハ201 - 205)が1948年に自社発注され、投入された。専用線車両であるため炭鉱関係者・家族の通勤通学輸送に限定され、一般営業運転には用いられなかったが、長期に渡って原形を保ち、1980年代に至っても、更新改造以前の63系に酷似した形態を残した貴重な存在であった。1984年(昭和59年)、従業員輸送が廃止になるまで使用された。
私鉄各社の対応と与えた影響
63系は、当時日本最大級の電車の一つであったが、上記の私鉄各社のうち、戦前から63系同等の大型・大出力電車を導入していたのは南海のみで、その他の鉄道は、導入路線の地上施設の規格向上(カーブ半径の緩和、プラットホーム幅削減や障害物撤去、架線電圧の昇圧、あるいは変電所の増強など)を行わなければ63系を走らせることができなかった。
低規格路線の多かった名古屋鉄道は早期に63系の使用を断念したが、その他各社は苦心の末に63系を走行させる条件を整えた。その結果、著しい輸送力増強が実現されることになる。
特に63系の大量導入で実績を上げた東武鉄道は、1953年(昭和28年)に63系(7300系)同様の4ドア20m車体を持つ大型通勤電車7800系(当初7330系)を導入する。これは1961年(昭和36年)までに164両も製作されて、高度成長期初期の通勤輸送の主力となった。以後東武鉄道では、主力通勤電車は20m4ドア車体を基本とするようになる。また小田急・南海では1960年代以降本格的に20m4扉車体の通勤電車を開発し、相模鉄道ではやや遅く、1977年(昭和52年)以降、20m4扉車体の電車を主力にするようになったが、いずれも63系に合わせた車両限界となっていたため、導入への障壁は低かった。
結果として63系電車の私鉄割り当ては、ラッシュ輸送における「扉数の多い大型電車」の優位性を各鉄道会社に認識させるきっかけとなったと言える。また、63系が走行可能となった路線では同様な大型電車が容易に運転可能となり、長期的に見ても輸送力増強に大きくプラスとなった。このような経緯もあり、20m・片側4扉構造の車体は、国鉄(JR)のみならず大手私鉄通勤電車の標準構造となっている。
もっとも、戦災で在籍車を多数喪失したために窮余の策として本系列を受け入れた山陽電気鉄道は、63系では明らかに輸送力過大であり、以後多扉20m車を導入していない[27]
桜木町事故がもたらした63系の消滅
63系電車の極限まで簡易化された戦時規格の構造は極めて安全性に欠けるものであった。新製早々に漏電で全焼する事故が相次いでいた中、1951年4月24日には京浜線(現・根岸線)桜木町駅付近で、切断事故によって垂下していた架線に接触した63系電車の先頭車モハ63756が、短絡を直接の原因とする火災を起こし、可燃性が高くしかも旅客の脱出が困難という車体構造の欠陥によって、多数の焼死者を出す大惨事となった。この事故は「桜木町事故」と呼ばれ、国鉄戦後五大事故の一つとされている。「ロクサン形電車」の名は新聞等でも盛んに報道され、「欠陥電車」「粗悪電車」の代名詞として当時の大衆にも知れ渡ることになる[28]。
この事故の教訓から、即座に3段窓中段の可動化や、ドアコックの設置、連結面側の貫通路の整備など、非常時の脱出が可能な構造への緊急改造が実施された。また、電装関係も徹底的な改善・改修が行なわれた。電動車は「63形」のネガティブで悪いイメージを避けてモハ73形(制御電動車)に改称され、運転台を撤去した中間電動車はモハ72形となった。クハ79形制御車、サハ78形付随車も同様の改造を受けたが、この2形式に関しては「63形」とは離れた番号ということから改称はされていない。また電装品不足から非電装のまま就役した「クモハ」「サモハ」はそれぞれ両形式に編入され、クハ79形100番台およびサハ78形300番台となった。なお、1950年度新製車であるモハ63855 - 63858については、後の72系新製車と遜色のない設備を持っていたため上記のような改造は施されずに番号の改称のみが行われ、モハ73形400番台となった。
この改造による形式番号の変更については、国鉄72系電車/番号新旧対照#63系電車の体質改善改造にともなう改番を参照されたい。
この工事は1951年から1954年の間に国鉄工場・民間車両メーカーを総動員して行われ、旧63系電車は、新たに72系電車(73系電車とも称する)のグループに再編された。この改造が終了した時点で、営業運行に供せられる63系は消滅した。わずか3年で700両にも及ぶ大量の戦時型車両の体質改善工事が完了したことは、桜木町事故が国鉄と運輸省に与えた衝撃の大きさを物語っている。
ただし、モハ63形が完全に過去の形式となるには、それ以降もしばらくの時間を要した。これは1949年に発生した三鷹事件の先頭車であったモハ63019が帳簿上在籍し続けていたためである。この車両は事件の証拠物件として東京地方検察庁から保全命令が出されたため廃車手続きができず、三鷹電車区の片隅に鉄骨剥き出しの車体だけが保管されていたが、裁判が終了し、保全命令の解除された1963年(昭和38年)12月に除籍となり解体された。これをもって、ようやく63系は名実ともに消滅した。
72系に更新されて以降は国鉄72系電車の項に併せて記述する。
廃車
製造から、1953年改番までに廃車となった車両を掲げる。戦災による廃車はわずか5両であるが、粗製乱造がたたって戦後の事故による廃車が多い。
- モハ63形(事故20両)
- 63024(1949年 - 横浜線淵野辺で土砂崩れにより大破) - 西武鉄道に譲渡
- 63035(1948年 - 中央線国分寺で追突大破)
- 63052(1948年 - 阪和線山中渓で火災全焼)
- 63056(1948年 - 吉祥寺で架線断線により全焼) - 小田急電鉄に譲渡
- 63057(1951年 - 三鷹事件被災車) - 西武鉄道に譲渡
- 63082(1949年 - 常磐線綾瀬で漏電全焼) - 小田急電鉄に譲渡
- 63085(1949年 - 日国工業で火災全焼)
- 63087(1948年 - 事故)
- 63125(1949年 - 京浜線大宮で信号所に衝突大破)
- 63168(1949年 - 下十条電車区で漏電全焼)
- 63188(1948年 - 常磐線綾瀬で漏電全焼)
- 63225(1950年 - 総武線平井で落雷全焼)
- 63286(1949年 - 事故)
- 63293(1948年 - 事故)
- 63470(1951年 - 事故) - 西武鉄道に譲渡
- 63580(1950年 - 横須賀線逗子 - 鎌倉間で米軍トラックと衝突全焼)
- 63622(1950年 - 宮原電車区で漏電全焼)
- 63677(1949年 - 横須賀線久里浜で落雷全焼)
- 63693(1950年 - 総武線平井で落雷全焼)
- 63756(1952年 - 桜木町事故被災車)
- サハ78形(戦災3両+事故2両)
- クハ79形(戦災2両)
- 79005(1946年 - 戦災・1945年4月13日、池袋電車区で焼失)
- 79009(1946年 - 戦災・1945年5月24日、蒲田電車区で焼失) - 復旧オハ71 123
保存車
クモヤ90005に改造されていたモハ63638が、復元のうえ、名古屋市港区のリニア・鉄道館で展示されている。
脚注
参考文献
- 沢柳健一・高砂雍郎『決定版 旧型国電車両台帳』1997年 ジェー・アール・アール刊 ISBN 4-88283-901-6
- 『国鉄電車のあゆみ―30系から80系まで―』1968年 交友社刊 p72 - 81
- 交友社『鉄道ファン』
- 1963年1月号(通巻19号)モハ63形特集
- 1963年2月号(通巻20号)吉川文夫 国電・ア・ラ・カルト 私鉄のロクサン
関連項目
テンプレート:国鉄の旧形電車リスト- ↑ 資料により25両計画または33両以上計画とされるが、戦局の悪化により、79002, 79004, 79005, 79009, 79012, 79016, 79024, 79025の8両のみ出場(79024は終戦直後の1945年9月に出場)し、残りは工事が中止された。さらに、79005と79009が戦災により焼失(後に79009はオハ71 123として復旧)した。
- ↑ 電装品の確保がままならず、全車が付随車代用の「サモハ」として竣工している。
- ↑ 後述する私鉄割当車を含めると合計804両となる。
- ↑ これは戦前より気動車の外板の標準厚であった。
- ↑ 盗難防止のため、金網がかぶせられていた。
- ↑ 当時は運転台のない中間電動車の概念が存在せず、電動車には必ず運転台が設置されていたため、「制御電動車」を示す「クモハ」の記号は制定されていなかった。国鉄旧形電車の車両形式#制御車代用車、付随車代用車に関する特別措置も参照されたい。
- ↑ それまでにも布の張られた車両はあったが、テント布や質の悪いレザー、麻袋生地などあり合わせの材料が多かった。
- ↑ 初期の木造電車からの改造車の一部には球山形鋼を側枠に使用するイコライザー式台車であるTR11を装着する車両もあったが、それらはのちに交換されている。
- ↑ 当時の冶金技術においては、ローラーベアリングはプレーンベアリングに比してメンテナンス性と連続運用時の発熱低減という点で勝ったものの、重量増と、クリアランス確保不足による信頼性不足という点で劣り、またコストもかかるため、トータルにするとそれほど変わらないか、ローラーベアリングのほうが劣ったともされている。にもかかわらず国鉄が本格的に採用したのは、車両の性能や整備性と言うよりも、終戦によって破綻状態となった国内のベアリング工業を支える意味が強かったとする説もある。日本製ローラーベアリングおよびボールベアリングの性能が安定水準に達したのは1950年代後半以降であった。もちろん、現代においてはその優秀性はプレーンベアリングとは比べるべくもない。
- ↑ 当初の形式名はTR37で、メーカー形式はFS-1。南海電鉄がクハ2801形最終増備車に採用したF-24の同等品である。
- ↑ 端子電圧675V時定格出力128kW/780rpm(全界磁)。
- ↑ いずれも端子電圧750V時定格出力142kW、定格回転数870rpm(全界磁)。
- ↑ 戦前は架線電圧が直流1,500Vの場合でも、実際に架線から電車が集電する段階での電圧降下を10%と見込んで実効値を直流1,350Vとし、これに合わせて主電動機の端子電圧も2個直列で1個あたり675Vとして取り扱っていた。これに対し、戦後は実効値でも1,500Vとして取り扱えるようになったため、MT40A以降は私鉄並みに架線電圧1,500V・端子電圧750Vに変更された。MT30→MT40系では電機子や界磁の磁気回路設計にはほとんど変更がなく、実効性能はほぼ同等であったため、運用上は同一に取り扱えた。なお、発電/回生制動常用のカルダン駆動車では、私鉄を含め、再び主電動機を端子電圧675V、あるいは4個直列前提で340Vとして設計するようになったが、これは高回転型モーターで高速域からの電制時に過電圧で失効するのを防ぐには、端子電圧に約10%程度のマージンを確保する必要が生じたためである。
- ↑ 同世代の大手私鉄の電車にも多用され、一部はそれらが地方私鉄に譲渡されたものがそのまま搭載され続け、近年まで見ることが出来た。極端な例では、1993年製のVVVF車である相鉄9000型の第2編成に、手持ち品のPS13が搭載されていた例がある。
- ↑ 電磁弁制御による空気圧駆動シリンダを用いてカム軸を回転させ、主回路を構成する抵抗群の回路を切り替えるスイッチを動作させる。アメリカのゼネラル・エレクトリック社製PCの技術的系譜にあるシステム。
- ↑ 東洋電機製造CS100A(直列6段・並列5段、短絡渡り、逆回転)、日立製作所CS101(直列6段・並列5段、短絡渡り、一方向回転)・CS102(直列7段・並列6段、橋絡渡り、一方向回転)、川崎重工業CS103(直列6段・並列5段、短絡渡り、一方向回転)の3社4種。1948年から1951年にかけて本系列で運用試験を実施した。
- ↑ この間、1949年設計の80系1次車では起動時の衝動改善策としてCS5に弱め界磁起動機能を付加したCS5Aが搭載されており、この機能の付加改造はCS5改として既存のCS5搭載車に対しても1951年以降広く実施されている。
- ↑ なお、国鉄制式の電車・気動車としては1931年に2両が試作された電気式気動車であるキハニ36450形に搭載された単位スイッチ式制御器が「橋絡わたり」の初採用例となる。
- ↑ ジュラルミンはその材料としての特性上、溶接が全く不可能で、現在の航空機でも鋲接が使用されている。
- ↑ 20Wのものが8本、計160W。
- ↑ 1946年(昭和21年) ジュラルミン合金製モハ63形・サハ78形電車6両を製造 - 川崎重工業
- ↑ 使用材料については正確な記録がないため不詳であるが、第二次世界大戦中に日本で製造された航空機用ジュラルミンはいずれも耐食性が低く、飛行艇などでは耐食性を要求する部分に限って通常のアルミ合金を使用するなどの対応を行っていた。
- ↑ ただし63系ジュラルミン電車の腐食対策そのものに問題があったことも確かで、同様に航空ジュラルミンを流用したオロ40 98 - 102は外板塗装など鋼製車両と同等の耐食が施してあったため良好な状態を保っていた。
- ↑ これら以外に、京阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄と京阪電気鉄道)新京阪線(後の阪急京都本線)および近畿日本鉄道名古屋線が受け入れ条件を満たしているとして、統制会から割り当て受け入れの打診を受けたが、前者は新京阪線で発生した余剰車を神宝・京阪の各線に転用することが車両限界や架線電圧の相違からほぼ不可能で、供出車の捻出が困難であったことなどから、後者は最小半径100mの善光寺カーブをはじめ本線上に急曲線区間が存在し入線は困難として、いずれも受け入れを拒否している。
- ↑ 63系は通常裸電球装備である。
- ↑ 軌道法の規定では併用軌道区間での列車編成長は30m以内(車体長14m程度の路面電車2両連結を想定したもの)とされ、それ以上については所轄大臣の特認を要する。その意味では、20m級大型電車の併用軌道上での連結運転は法の想定外の事態であった。もっとも、以後は京阪電気鉄道京阪線・近畿日本鉄道奈良線・京王帝都電鉄京王線などで30m制限を大幅に超過する列車の併用軌道運行が特認されており、山陽でも最終的に19m級車による3両編成が特認されている。
- ↑ 当時の山陽電気鉄道は、車体幅2.4m、車体長15m級の小型車を主力として運行しており、しかも軌道法準拠で開業した明石以東は架線電圧600Vであったため、63系導入に際しては架線電圧の1,500Vへの昇圧および集電装置のトロリーポールからパンタグラフへの変更、それに電力消費量の増大に伴う電気設備の全面的改修・増強と、プラットホームなどの構築物の改築や移設などによる限界拡大工事を同時に行うという、新線開業に匹敵する大工事を実施する必要があった。このことは以後の同社の発展に大きく資するものであったが、車体幅2.8m、車体長20m級4扉車体を持つ本形式による2両編成は輸送力が過大であったため、次の820形(800形820番台車)で17m級に逆戻りし、神戸高速鉄道経由での阪神電気鉄道・阪急電鉄との相互乗り入れの関係もあって以後は20m級車の新造は実施しておらず、700形も大半について19m級2・3扉車体を備える2700系への更新を実施している。
- ↑ 「皆殺し電車」「殺人電車」「ロクでなし電車」とも揶揄された。