柏レイソル
テンプレート:告知 テンプレート:サッカークラブ テンプレート:Infobox 柏レイソル(かしわレイソル、Kashiwa Reysol)は、日本の千葉県柏市をホームタウンとする[1]、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。
概要
1940年に創部された日立製作所本社サッカー部(1970年に日立製作所サッカー部へ改称)が前身となり[1]、1995年にJリーグへ加盟した[1]。運営会社は株式会社日立柏レイソルである[1]。ホームタウンは千葉県柏市であるが[1] が、東葛地域の我孫子・鎌ケ谷・流山・野田・松戸の5市、印旛地域の印西・白井の2市をホームタウン活動エリアに設定[2] し、サッカースクールやホームゲームでのホームタウンデーなどを行っている[2]。
チーム名はスペイン語の「レイ(Rey)」(王)と「ソル(Sol)」(太陽)を合わせた造語で、「太陽王」を意味する[1]。ホームスタジアムは日立柏サッカー場である[1](詳細は当項目を参照)。マスコットは「太陽の王子」をイメージした「レイくん」である[1]。
歴史
Jリーグ昇格前
テンプレート:Main 前身の日立製作所サッカー部は、日本サッカーリーグ(JSL)が創設された1965年から参加した8チームのうちの1つ。JSLリーグ戦で1回、JSLカップで1回、天皇杯で2度、それぞれ優勝した。
1990年にプロリーグ(Jリーグ=1993年創設)参加を表明。1992年4月、運営会社となる株式会社日立スポーツを設立[1]。1993年、日立FC柏レイソルとクラブ名称を変更し[1]、フジタ(現:湘南ベルマーレ)、ヤマハ(現:ジュビロ磐田)と共にJリーグ準会員に承認された。
1993年、当時ブラジル代表のカレカを獲得。ジャパンフットボールリーグ(JFL)は5位の成績でJリーグ昇格はならなかった。
1994年10月23日、 JFL最終節でNTT関東サッカー部に勝利したことで2位が確定し、Jリーグ昇格を決めた。カレカはこの最終節のゴールを決めた他、チーム最多の19得点を挙げた。
1995年-2005年(Jリーグ・J1)
1995年、1stステージは最終戦でそれまで10連敗していたホームで勝利をあげたが最下位(14位)。1stステージ終了後のゼ・セルジオを監督から解任し、7月の2ndステージからはアントニーニョが監督に就任。1stステージ優勝の横浜Mに2戦2勝するなど2ndステージは5位(年間成績は12位)。
1996年、柏レイソルへクラブ名称を変更[1]。また、ニカノール・デ・カルバーリョが監督に就任。エジウソンや両サイドバックが激しく動く攻撃的なサッカーを展開、12連勝を達成するなど、年間5位の成績。
1997年、二カノール体制2年目。1stステージは,優勝争いに加わり3位であったが、2ndステージは10位に終わった。なお、エジウソンがW杯出場を目指し,2ndシーズン途中に退団。また、シーズン終了後にニカノールが監督を退任。
1998年、監督に西野朗が就任。また、7月にブルガリア代表のフリスト・ストイチコフが加入した。
1999年、西野2年目。横浜Fから薩川了洋、平塚から洪明甫を獲得した一方、2ndステージ前にストイチコフが退団した。リーグ戦は年間3位の成績。また、ナビスコカップで優勝し、クラブ初タイトルを獲得。
2000年、西野3年目。1stステージは4位。2ndステージは終盤まで優勝を争い、最終節の勝った方が優勝という鹿島との直接対決でスコアレスドローとなり優勝を逃す。 年間では最多の勝点を獲得したものの、1st/2ndステージ勝者[注 1] が年間1位/2位となるため、総合3位でシーズンを終えた。勝ち点1位のチームが優勝を逃したことはチャンピオンシップの結果によって数例あるが、チャンピオンシップそのものの出場を逃したのはこれが唯一のケースである。
2001年、1stステージが6位、2ndステージが7位。なお、7月に西野を解任して、スティーブ・ペリマンが後任の監督に就任した。
2002年、1stステージは7連敗を喫するなど14位。8月にペリマンを解任し、マルコ・アウレリオが監督に就任。2ndステージは9位。
2003年、1stステージが9位、2ndステージが11位(年間成績は12位)。シーズン終了後にマルコ・アウレリオが退任した。
2004年、日立製作所サッカー部OBの池谷友良がコーチから監督に昇格したが、1stステージは15位の成績。1stステージ終了後に池谷が退任し、早野宏史が後任監督に就任したが、2ndステージも15位。J1年間最下位に終わったが、J1・J2入れ替え戦で福岡に勝利し、J1に残留した[注 2]。
2005年、韓国代表のFW崔成国やクレーベルらを獲得(崔は7月31日付でレンタル移籍を終了)。なお、4月23日のホームで行われた名古屋戦では、試合後一部サポーターが相手サポーターを暴行し処分される騒ぎが起こった。その後、低迷打破のため、元ブラジル代表FWフランサを獲得し、元東京Vのラモス瑠偉をコーチに起用した。
10月15日、アウェーの浦和戦で、2人の退場者を出すなどし、0-7で大敗。11月26日、ホームの東京V戦に5-1と大勝したが、年間16位の成績。
J1・J2入れ替え戦は甲府に、第1戦はアウェーで1-2、第2戦はホームで2-6と連敗し、Jリーグ ディビジョン2(J2)降格が決まった。[注 3]。早野は天皇杯(G大阪戦)を前に監督を辞任し、山形や川崎の元監督の石崎信弘が監督に就任。
2006年(J2)
- チームスローガン : 「タフネス」
明神智和がG大阪、波戸康広・土屋征夫が大宮、玉田圭司が名古屋、大野敏隆が東京V、矢野貴章・永田充が新潟へ完全移籍したが、4年ぶりの復帰となった北嶋秀朗を清水から完全移籍で、SEパルメイラスから前年神戸でプレーしていたディエゴを期限付き移籍で獲得した。J2リーグ戦は横浜FC・神戸と自動昇格枠を争い、2位神戸と勝ち点差1の3位で迎えた最終節・湘南戦に勝利し、神戸が仙台に敗れたため、2位での自動昇格を決め、1年でのJリーグ ディビジョン1(J1)復帰を果たした。なお、84得点は2006年シーズンJ2最多得点であった。
2007年-2009年(J1)
- 2007年
- チームスローガン : 「挑戦 ~進化しつづけるタフネス」
石崎体制2年目。リカルジーニョ、ディエゴが退団した一方、GK水谷雄一、MFアルセウ、マルシオ・アラウージョ、FW阿部吉朗、DF古賀正紘などが加入。J1復帰1年目の目標を「勝ち点45を取る」と設定した。また、3月末に運営会社の社長が小野寺重之から河西晋二郎に交代した。
リーグ戦はは開幕戦で磐田に勝利。その後も苦手にしていたアウェーでも勝ち点を得るようになり、前半戦の台風の目となる。また、中盤戦は、2年前は大敗したアウェーの浦和戦を1-1で乗り切ると、苦戦が予想された8月を3勝2分と無敗で過ごす。特に浦和・横浜FMらとJ1最少失点の座を争い、8月までの23試合中12試合が無失点であった。9月23日の川崎戦で当初の目標の勝ち点45を残り8試合を残して達成したがその後は故障者が相次いだ事もあり、4連敗を含む1勝1分6敗であった。
- 2008年
- チームスローガン : 「UNIAO ~ウニオン~ 団結・結束」
石崎体制3年目。GK水谷雄一、MF谷澤達也が移籍したものの、GK菅野孝憲、MFアレックス、FWポポなどを獲得[注 4]。DFの補強は鎌田次郎[注 5] のみと攻撃陣の補強が目立った。
リーグ戦は第15節時点で3位につけたが、中盤以降は低迷して、最終成績は11位。天皇杯は、前身の日立製作所本社サッカー部時代以来、33年ぶりに決勝へ進出。決勝はG大阪に敗れたが、準優勝の成績を収めた。シーズン終了後に石崎が監督を退任した。
- 2009年
- チームスローガン : 「Pra Frente,REYSOL ~共に前に進もう~」
監督に高橋真一郎が、コーチに元日本代表DFの井原正巳、元清水のシジマール・アントニオ・マルチンスが就任。アレックスが千葉へ移籍した一方、2007年に在籍していたアルセウ、ナイジェリアからアデバヨを獲得。また、柏レイソルユースから史上最多の5人の選手が入団した。
シーズン開幕後、アルセウがケガのため登録抹消。フランサ、李忠成などが相次いで負傷離脱。大宮から小林慶行、クルゼイロECからアンセウモ・ハモン、G大阪からパク・ドンヒョクをレンタル移籍で獲得したが、第17節終了時点でリーグ最多失点の17位と低迷したため、7月15日をもって高橋を監督から解任。東京V、名古屋元監督のネルシーニョが後任監督に就任したが、第33節の大宮戦に引き分けて、2006年以来2度目のJ2降格となった。なお、ナビスコ杯はグループリーグ敗退、天皇杯は3回戦で敗退した。
2010年(J2)
- チームスローガン : 「Vitoria」
ネルシーニョ体制2年目。クルゼイロからレアンドロ・ドミンゲスを獲得した一方、杉山浩太が期限付き移籍満了で清水へ復帰した。また、シーズン途中にフランサが退団、菅沼実、古賀正紘が期限付きで磐田に移籍した。J2リーグ戦は、開幕から19試合無敗と年間敗戦数「2」のリーグ敗戦数最少記録を樹立。第33節のFC岐阜戦で3位以内が確定。第36節の横浜FC戦に勝利してJ2優勝も決めた。天皇杯は4回戦で敗退した。
2011年 - 現在(J1)
- 2011年
- チームスローガン : 「Vitoria」
ネルシーニョ3年目。右SBのレギュラーだった小林祐三が横浜FMへ、古賀、菅沼が磐田へそれぞれ完全移籍した一方、大宮から安英学、京都から増嶋竜也、福岡から中島崇典、清水から兵働昭弘、サンパウロFCからジョルジ・ワグネルを獲得。シーズン6位以内を目標に掲げてシーズンに入った[3]。また、3月末に運営会社の社長が河西晋二郎から御手洗尚樹(日立製作所・執行役常務)に交代した[4]。
リーグ戦はU-22日本代表の酒井宏樹、澤昌克、ジョルジ・ワグネルらの活躍もあり首位戦線で健闘、名古屋、G大阪と優勝を争い、第29節で首位に浮上。第34節(最終節)で浦和を破り、Jリーグ初となるJ1昇格1年目でのJ1初優勝を飾った[注 6][注 7][5]。また、J1、J2の両ディビジョンで年間優勝のタイトルを受賞した初のチームとなった[注 8]。ナビスコ杯は初戦敗退、天皇杯は4回戦で敗退した。また、FIFAクラブワールドカップ2011はオークランド・シティFC、モンテレイに勝利。3位決定戦でアル・サッドに敗退したが4位の成績を残した。
- チームスローガン : 「Vitoria」
ネルシーニョ4年目。藏川洋平が熊本に、パク・ドンヒョクが大連実徳に、仙石廉(岡山)、池元友樹(北九州)がそれぞれレンタル移籍していたにチームに完全移籍、兵働昭弘が千葉に、相馬大士がJFL・FC琉球に、岡山にレンタル移籍していた山崎正登がFC岐阜に、JFL・ブラウブリッツ秋田にレンタル移籍していた比嘉厚平が山形に、岐阜にレンタル移籍していたエフライン・リンタロウが秋田にレンタル移籍、武富孝介の熊本への期限付き移籍期間も延長した。
補強は横浜FMから昨シーズン横浜FCに期限付き移籍していた藤田優人、栃木SCからリカルド・ロボ、磐田から那須大亮、東京Vから昨シーズン北九州にレンタル移籍していた福井諒司を完全移籍で獲得、岐阜にレンタル移籍していた川浪吾郎、栃木SCにレンタル移籍していた渡部博文が復帰、ユースから山中亮輔が昇格した。また、リーグ戦の開幕後に三浦雄也が加入した。
シーズン途中に北嶋秀朗が熊本、リカルド・ロボが千葉、林陵平が山形、中島崇典が横浜FC、三浦雄也が松本へレンタル移籍、酒井宏樹がブンデスリーガ・ハノーファー96へ完全移籍し、元千葉のネット・バイアーノが加入した。
ゼロックス杯は、FC東京に勝利して初優勝。リーグ戦は6位の成績。AFCチャンピオンズリーグ2012はラウンド16、ナビスコ杯はベスト4の成績。
第92回天皇杯全日本サッカー選手権大会は、決勝戦でG大阪を下し、日立製作所時代以来37年ぶり3度目の天皇杯優勝を果たした。これにより、Jリーグ7チーム目[注 9]、オリジナル10以外のチームでは磐田に次いで2チーム目の国内3大タイトル(J/J1・ナビスコ杯・天皇杯)獲得チームとなった。また、2回戦で下部組織の柏レイソルU-18と対戦した。
- 2013年
- チームスローガン : 「Vitoria」
ネルシーニョ5年目。安英学、三浦雄也、エフライン・リンタロウ、ネット・バイアーノ、GKコーチのシジマールが退団、那須大亮が浦和、水野晃樹が甲府、福井諒司が東京Vに、北嶋秀朗(熊本)、比嘉厚平、林陵平(共に山形)、山崎正登(FC岐阜)、中島崇典(横浜FC)、兵働昭弘(千葉)がレンタル先にそれぞれ完全移籍。ユースから昇格した中川寛斗、クォン・ハンジン、熊本にレンタル移籍中だった武富孝介が湘南、川浪吾郎が徳島、JFL・FC琉球にレンタル移籍中だった相馬大士がJFL・町田にそれぞれレンタル移籍した。
補強面では、アルビレックス新潟から鈴木大輔、横浜FMから谷口博之と狩野健太、山形から柏ユース出身の太田徹郎、Kリーグ・釜山アイパークから金昌洙を完全移籍、CSL・広州恒大からクレオを期限付き移籍でそれぞれ獲得。ユースからは秋野央樹、木村裕、小林祐介、中村航輔が加入し、レンタル移籍した中川を含めて5人が昇格した。
FUJI XEROX SUPER CUPは広島に敗退した。
8月31日、アウェー鹿島戦終了後、ネルシーニョが辞意を表明するが、9月5日「感情的に熱くなって間違った態度を取った」と撤回、10月17日にはネルシーニョが2014年度も継続して指揮を執ることが発表された[6]。
AFCチャンピオンズリーグ2013では、Jリーグ勢で唯一の決勝トーナメント進出を果たした。決勝ラウンドは準決勝で広州恒大に敗れた。
リーグ戦は10位の成績。ナビスコカップは決勝で浦和を破り、14年ぶり2回目の優勝を果たした。
天皇杯は4回戦で大分に敗れ、大会2連覇と2014年のACL出場は成らなかった。
- 2014年
- チームスローガン : 「Vitoria」
ネルシーニョ体制6年目。前年にJFL・町田にレンタル移籍していた相馬大士が引退、ジョルジ・ワグネル、澤昌克が退団、クレオがレンタル移籍満了により退団、前年より湘南にレンタル移籍中だった武富孝介、中川寛斗の移籍期間を延長、山中亮輔が千葉、谷口博之が鳥栖にレンタル移籍、前年よりレンタル移籍中だったクォン・ハンジン(湘南⇒群馬)、川浪吾郎(徳島)がレンタル先に完全移籍となった。
補強面では、湘南から高山薫とハン・グギョン、水戸から柏ユース出身の輪湖直樹、アル・サッドから元G大阪のレアンドロを完全移籍で獲得。ユースから中谷進之介が加入した。
シーズン開幕後、5月にチーム内に負傷者が相次いだこともあり、ユースから中山雄太、大島康樹、手塚康平、会津雄生、山本健司の5名を二種登録。8月にカンピオナート・ブラジレイロ・フィゲイレンセFCからドゥドゥ、栃木SCからエドゥアルドをそれぞれレンタル移籍で獲得。 6月にレアンドロ・ドミンゲスが名古屋グランパスエイト、田中順也がプリメイラ・リーガ・スポルティング・リスボンに、8月にハン・グギョンがカタールSCにそれぞれ完全移籍した。
ナビスコカップは、2002年以来となるグループリーグからの決勝トーナメント進出を果たした。
スルガ銀行チャンピオンシップでは、CAラヌースに2-1で勝利し、4年連続となるタイトルを獲得した。
成績
タイトル
国内タイトル
- Jリーグ ディビジョン1:1回
- Jリーグカップ:2回
- 天皇杯全日本サッカー選手権大会:1回
- Jリーグ ディビジョン2:1回
- スーパーカップ:1回
- 2012
国際タイトル
個人別
- Jリーグ ディビジョン1
- 最優秀監督賞
- 1996年 ニカノール・デ・カルバーリョ
- 2000年 西野朗
- 2011年 ネルシーニョ
- ナビスコカップ
スタジアム・練習場
- ホームスタジアムは日立柏サッカー場である。なお、過去の開催スタジアムは下表を参照のこと。
- 練習場は日立柏サッカー場に隣接する日立柏総合グラウンドである[1]。過去は柏市内のあけぼの山農業公園芝生広場も使用していた。
本拠地問題
- 柏の葉公園総合競技場(以下柏の葉)をホームとすることを前提として、日立柏サッカー場(以下「日立台」)をJリーグ基準の収容人員(15,000人以上)にすることで1993年にJリーグ準会員の承認を受けた。1999年に柏の葉が竣工するまで、日立台の収容人数を15,900人とすることで基準を満たし、柏の葉の完成後に本拠地を移転することとした。
- 2005年秋になって、一部の報道では日立台の改修を2009年度以後に進める「市民スポーツ文化スタジアム」の基本構想をまとめ、整備する計画であると伝えられた。スタジアムとピッチの距離を保ち、今のアットホームな雰囲気を保つため、25,000人規模のスタジアムを目指しての改修ではなく、現状の規模を維持したままでの改修を望む声もあるテンプレート:Refnest。なお、柏市議会も2012年3月の開幕までに完成することを目指し、座席3,000人分の増築を検討していることを公表した[7]。2011年8月から増築工事が開始された[8]。
- 2012年3月11日に竣工。前述のとおりゴール裏について、「柏熱(はくねつ)地帯ホーム自由席」を西側へ変更すると共に二層式(新設の2階席は座席)とし、ビジター自由席を東側に変更した。また、メインスタンドのホーム側の座席も一部増築し、Jリーグ届出の収容人員が15,349人となった。市民寄付によるホームゴール裏の正門「柏シヴィックプライドゲート」が設置し、大型映像装置を西側から東側へ移設した。
- なお、柏の葉でのホームゲームは下表の通り、公式戦では2009年以降開催されていない。
- 年度別・競技場別の試合数[9]
- ※参考 リーグ戦ホームゲーム数(2006・2010年はJ2、ほかはJ1<1995-98年のJリーグを含む>)
- 1995年 26試合
- 1996年・1999-2004年 15試合
- 1997年 16試合
- 1998年・2005年・2007-2009年・2011年- 17試合
- 2006年 24試合
- 2010年 18試合
年度 | リーグ戦 | ナ杯 | ACL | 備考 | ||
---|---|---|---|---|---|---|
日立台 | 柏の葉 | その他</small> | ||||
1995年 | 23 | - | 国立3 | 非開催 | 不参加 | |
1996年 | 12 | - | 国立2 新潟市陸1 |
日立台7 | ||
1997年 | 15 | - | 国立1 | 日立台3 | ||
1998年 | 15 | - | 国立2 | 日立台2 | ||
1999年 | 10 | 4 | 国立1 | 日立台4 | この年柏の葉完成 | |
2000年 | 11 | 4 | なし | 日立台1 | ||
2001年 | 10 | 4 | 国立1 | 日立台1 柏の葉1 |
||
2002年 | 11 | 2 | 国立2 | 柏の葉3 | ||
2003年 | 11 | 3 | 国立1 | 日立台2 柏の葉1 |
||
2004年 | 11 | 3 | 国立1 | 日立台2 柏の葉1 |
||
2005年 | 11 | 4 | 国立2 | 日立台3 | J2降格 | |
2006年 | 21 | 3 | なし | 不参加 | J1昇格 | |
2007年 | 12 | 3 | 国立2 | 日立台3 | ||
2008年 | 15 | 0 | 国立2 | 柏の葉3 | ||
2009年 | 15 | 0 | 国立2 | 日立台3 | J2降格 | |
2010年 | 18 | 0 | なし | 不参加 | J1昇格 J2優勝 | |
2011年 | 15 | 0 | 国立2 | 日立台1 | J1優勝 | |
2012年 | 15 | 0 | 国立2 | 日立台2 | 日立台3 | 天皇杯優勝 |
2013年 | 15 | 0 | 国立2 | 日立台2 | 日立台6 | ACLは決勝T3も含む |
下部組織
下部組織からは多くの選手をトップチームに輩出している。2011年のJリーグは、酒井宏樹等がトップチームの中心選手となりJ1リーグ初優勝を果たした。また、プリンスリーグも、2011年に関東プリンスリーグへ参入を決めた。また、第92回天皇杯全日本サッカー選手権大会(2012年)では2回戦で千葉県代表となったU-18がトップチームと対戦し天皇杯初の「兄弟対決」となった。
1998年より東京都青梅市のサッカークラブ(当時「FC ONZE」)と提携し、「レイソルS.S.青梅」が活動していたが、2008年9月末を以て提携を解消した[10][11]。
アライアンスアカデミーとアライアンスクラブについて
レイソルと提携する少年サッカークラブは2012年3月まで「柏レイソルアカデミー提携クラブ」としていたが、2012年4月以後はホームタウンのサッカーの普及活動強化を念頭に置いて、「柏レイソル」の名称をそのまま用いる提携クラブを「柏レイソルアライアンスアカデミー」、「柏レイソル」の名称を用いない提携クラブについては「柏レイソルアライアンスクラブ」という名称を使用している[12]。ただしアライアンスクラブでも、カナリーニョFCとFCダムを除く各クラブは「柏」のホームタウン名は使用している。
参加クラブ
柏レイソルアライアンスアカデミー
- 柏レイソルアライアンスアカデミーTOR’82(柏市)
- 柏レイソルアライアンスアカデミー野田(野田市)
- 柏レイソルアライアンスアカデミー長生(白子町)
- 柏レイソルアライアンスアカデミー流山(流山市)
柏レイソルアライアンスクラブ
- 柏市
- FCアクティブ柏
- カナリーニョFC
- その他
出身選手
主な成績
U-18
U-15
- 優勝1回 2002年
- 優勝1回 2004年
- 高円宮杯全日本ユース(U-15)サッカー選手権大会関東大会(関東ユース (U-15)サッカーリーグ):(記録は2004年以降に限る)
- 優勝3回 2004年、2008年、2011年
- 準優勝5回 2005年、2006年、2007年、2009年、2013年
- 4位1回 2010年
U-12
- 優勝3回: 1995年、1997年、2011年
- 準優勝4回: 1999年、2001年、2004年、2012年
- 3位4回: 1996年、2002年、2008年、2010年
ユニフォーム
クラブカラー
スポンサー
掲出箇所 | スポンサー名 | 表記 | 掲出年 | 備考 |
胸 | 日立製作所 | HITACHI Inspire the Next[13] |
1992年 - | |
---|---|---|---|---|
背中 | アメリカンファミリー生命保険会社 | Aflac | 2005年 - | |
袖 | 日立アーバンインベストメント | 日立アーバン インベストメント |
2014年 - | 2013年はパンツ |
パンツ | 日立製作所 | SOCIAL INNOVATION IT'S OUR FUTURE |
2014年 - |
- 国際試合用のユニフォームは胸スポンサーのHITACHIのみで背中に選手名が入る。このユニフォームはFIFAクラブワールドカップ2011から使用されている。
- 2014年から各アカデミーチームの胸部分にマブチモーター(表記:MABUCHI MOTOR)のロゴが入っている。また、2012年にトップチームのパンツスポンサーだったセーブ・ザ・チルドレン・ジャパンは、2013年以降はアカデミーチームのパンツスポンサーとなった。背中は「HITACHI」。
- 左胸のエンブレム上の星(★)4つは1999年のJリーグカップ、2011年のJ1リーグ戦および第92回天皇杯全日本サッカー選手権大会(2012年)、2013年のJリーグカップの優勝を表している[14]。
ユニフォームサプライの遍歴
- 1992年 - 1994年:アディダス
- 1995年 - 1996年:リーグ戦はミズノ(2ndモデルの配色は、シャツ・紺、パンツ・白、ソックス・紺)、カップ戦はアディダス(2ndモデルの配色は、シャツ・パンツ・ソックスすべて、白)
- 1997年 - 2010年:アンブロ(1997、1998年の2ndモデルの配色は、シャツ・青、パンツ・白、ソックス・青。1999年 - 2002年の2ndモデルの配色は、シャツ・紺×白、パンツ・紺、ソックス・紺。2003年‐2010年の2ndモデルの配色は、シャツ・白、パンツ・紺、ソックス・白。)
- 2011年 - :ヨネックス
歴代スポンサー年表
年度 | 胸 | 背中 | 袖 | パンツ | サプライヤー |
1992 | HITACHI | - | - | - | adidas |
1993 | |||||
1994 | |||||
1995 | maxell | Mizuno/adidas | |||
1996 | |||||
1997 | UMBRO | ||||
1998 | |||||
1999 | アメリカンファミリー 生命保険会社 | ||||
2000 | |||||
2001 | |||||
2002 | Aflac | - | maxell | ||
2003 | |||||
2004 | |||||
2005 | |||||
2006 | Wooo | ||||
2007 | uVALUE | ||||
2008 | |||||
2009 | 麗澤大学 | ||||
2010 | |||||
2011 | YONEX | ||||
2012 | Harmonious Cloud | セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン | |||
2013 | Human Dreams.Make IT Real. | 日立アーバンインベストメント | |||
2014 | 日立アーバンインベストメント | SOCIAL INNOVATION IT'S OUR FUTURE |
スポンサー
チケット
2014年現在J1・J2の40クラブで唯一テンプレート:RefnestJリーグのオフィシャルチケッティングパートナーであるチケットぴあでのチケット販売を行っておらず、ローソンチケットとJリーグの公式販売サイトであるJリーグチケットでのみ販売している。
注釈
出典
関連項目
参考文献
外部リンク
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<ref>
タグです。 「jleague
」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ 2.0 2.1 テンプレート:Cite web
- ↑ 魅惑の攻撃サッカーで柏がJ1を面白くする。~レイソル躍進の理由と展望~ -NumberWeb: 2011年7月27日
- ↑ テンプレート:Cite pressrelease
- ↑ 本物の強さを証明した柏がJ1初制覇! 名古屋、G大阪の戦い方と徹底比較。 - NumberWEB: 2011年12月5日
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 2010年12月10日・朝日新聞
- ↑ スタジアム増築に伴うホームゲーム開催時の運営方法変更について
- ↑ フットボールガイスト、レイソル公式サイト
- ↑ テンプレート:Cite pressrelease
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite pressrelease
- ↑ 「Inspire the Next」は日立グループのコーポレート・ステートメントである。テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite pressrelease
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