井原正巳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:存命人物の出典明記 テンプレート:サッカー選手 井原 正巳(いはら まさみ、1967年9月18日 - )は、滋賀県甲賀郡水口町(現甲賀市)出身の元サッカー選手サッカー指導者。現・柏レイソルヘッドコーチ。1990年代日本サッカー界を代表するディフェンダーで、その高いディフェンス能力から「アジアの壁」の異名をとった。2002年に現役引退。家族は妻(1993年結婚)、第1子(男子、2006年出生)、愛犬(ゴールデン・レトリバー)。

A代表CAP数122は日本代表歴代2位[1]

来歴

選手として

水口町立貴生川小学校(現:甲賀市立貴生川小学校)でサッカーを始め、滋賀県立守山高等学校からサッカーの名門筑波大学へ進学。高校時代はフォワードであったが、筑波大学1年時に当時のユース代表監督であった松本育夫の勧めでディフェンダーに転向した。高校時代の経験が、後の「日本のリベロ」の下地を作ったといわれる。大学2年時には初めて日本代表に選出された。

大学時代、当時ディフェンダーだった中山雅史とセンターバックでコンビを組んでいた。二人はユース代表でもセンターバックを務め、アルバイトも同じ所でするなど公私共に仲が良かった。 大学卒業後は日産自動車サッカー部(現:横浜F・マリノス)に入部、一時はボランチも経験したが、ディフェンダーとして活躍し、1993年5月15日Jリーグ開幕試合となった対ヴェルディ川崎戦でJリーグデビューした。

Jリーグのオウンゴール第1号を記録した[2]

ワールドカップへの挑戦は3回。1990年イタリアワールドカップアジア予選に始まり、94年アメリカワールドカップのアジア予選ではあと一歩のところでW杯出場権を逃す「ドーハの悲劇」を経験。1998年のフランスワールドカップアジア予選でイランとの第3代表決定戦を制し、日本のW杯初出場へ導いた。

前身の日産FC時代から10シーズンをマリノスでプレーし「ミスターマリノス」とまで言われたが、現役選手としての活動にこだわりマリノスの世代交代策によるコーチ就任要請を蹴って、2000年にジュビロ磐田へ移籍。更に2001年からは浦和レッドダイヤモンズにも在籍した。同年行われた2002年W杯1次リーグの組み合わせ抽選会ではアジア代表としてドロワーを務めているが、この時「ミッドフィールダー」と紹介された。

2002年、チームメイトの福田正博と共に現役を引退した。Jリーグ通算297試合、5得点。

引退後

引退後はNHKサッカー解説、TBSラジオ番組『スポーツBOMBER!』パーソナリティー(2003年度から下半期・木曜日担当)、日本サッカー協会認定のJFAアンバサダーびわこ成蹊スポーツ大学客員教授、公共広告機構(現:ACジャパン)・骨髄バンクCMなど各方面で活躍する傍ら、S級ライセンスを取得し指導者の道を歩んでいる。日本各地の少年サッカー教室に参加するなどサッカーの普及にも力を注いでいる。2005年には洪明甫と共に日韓親善大使に選ばれた。

2009年から柏レイソルヘッドコーチ就任が決定。同年7月、監督の高橋真一郎が解任され、後任監督が決定するまでの代行監督を務めた。2013年にはシーズン中に辞意を表明した監督のネルシーニョに代わって天皇杯の1試合指揮をとった(その後ネルシーニョは辞意を撤回)。

所属クラブ

個人成績

テンプレート:サッカー選手国内成績表 top !colspan="4"|日本!!colspan="2"|リーグ戦!!colspan="2"|JSL杯/ナビスコ杯!!colspan="2"|天皇杯!!colspan="2"|期間通算 |- |1990-91||rowspan="2"|日産||rowspan="2"|4||rowspan="2"|JSL1部||22||2||4||0|||||||| |- |1991-92||22||0||3||0|||||||| |- |1992||rowspan="7"|横浜M||-||rowspan="7"|J||colspan="2"|-||8||0||5||0||13||0 |- |1993||-||32||0||0||0||1||0||33||0 |- |1994||-||41||1||2||0||4||0||47||1 |- |1995||-||47||1||colspan="2"|-||2||0||49||1 |- |1996||-||29||1||13||0||1||0||43||1 |- |1997||rowspan="4"|4||22||0||0||0||2||0||24||0 |- |1998||27||0||0||0||1||0||28||0 |- |1999||横浜FM||rowspan="4"|J1||25||0||6||0||3||0||34||0 |- |2000||磐田||20||1||3||0||0||0||23||1 |- |2001||rowspan="2"|浦和||rowspan="2"|3||26||1||6||0||4||0||36||1 |- |2002||28||0||9||1||0||0||37||1 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始297||5||47||1||23||0||367||6 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行44||2||7||0||10||2||61||4 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終341||7||54||1||33||2||428||10 |} その他の公式戦

背番号

個人タイトル

代表歴

出場大会など

   対イングランド戦(アンブロカップ)

試合数

  • 国際Aマッチ 122試合(全試合先発出場) 5得点(1988-1999)[3]

テンプレート:サッカー代表個人成績 |- |1988||5||0 |- |1989||11||0 |- |1990||6||0 |- |1991||2||0 |- |1992||11||0 |- |1993||15||2 |- |1994||9||1 |- |1995||16||1 |- |1996||13||0 |- |1997||21||1 |- |1998||10||0 |- |1999||3||0 |- !通算 |122||5 |}

得点数

# 年月日 開催地 対戦国 スコア 結果 試合概要
1 1993年5月5日 アラブ首長国連邦ドバイ テンプレート:LKAf 6-0 勝利 1994 FIFAワールドカップ予選
2
3 1994年10月11日 日本広島市 テンプレート:KORf 2-3 敗戦 アジア競技大会
4 1995年6月3日 イングランドロンドン テンプレート:ENGf 1-2 敗戦 アンブロカップ
5 1997年11月8日 日本、東京 テンプレート:KAZf 5-1 勝利 1998 FIFAワールドカップ予選

指導歴

  • 2006年8月 - 2008年8月 U-23日本代表:アシスタントコーチ
  • 2009年 - 現在 柏レイソル:ヘッドコーチ
    • 2009年7月・2013年9月 柏レイソル:監督代行

監督成績

年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 試合 勝点 勝利 引分 敗戦 ナビスコ杯 天皇杯
2009 J1 - 2 1 0 1 1 - -
  • 2009年は代行。

出演

CM

テレビ番組

出典

テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

テンプレート:柏レイソルのメンバー テンプレート:Navboxes テンプレート:浦和レッドダイヤモンズ歴代主将 テンプレート:柏レイソル及びその前身チーム歴代監督 テンプレート:Navboxes

テンプレート:日本プロサッカー選手会会長
  1. テンプレート:Cite news
  2. テンプレート:Cite web
  3. 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「daihyo」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません