名古屋グランパスエイト

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テンプレート:告知 テンプレート:サッカークラブ テンプレート:Infobox 名古屋グランパスエイト(なごやグランパスエイト、Nagoya Grampus Eight)は、日本名古屋市豊田市みよし市を中心とする愛知県全県をホームタウンとする[1]日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。呼称は名古屋グランパス(なごやグランパス)である。

概要

テンプレート:Main トヨタ自動車工業サッカー部1939年に創部)が母体であり、1991年にJリーグ加盟した10チームの一つ(オリジナル10)。ホームスタジアムは名古屋市瑞穂陸上競技場および豊田スタジアム、練習場はトヨタスポーツセンター第1グラウンドである[1](詳細は#スタジアム・練習場を参照)。運営会社は株式会社名古屋グランパスエイトである[1]

ホームタウンは2011年まで名古屋市1市であったが、2012年より名古屋市、豊田市みよし市を中心とする愛知県全県へ変更している。

チーム名について、「グランパス(Grampus)」は英語で名古屋城金鯱)、「エイト」は名古屋市の記章であり、末広がりを表す[1]。公式にはこのチーム名は名古屋市による命名としているが、「エイト」の部分は豊田章一郎トヨタ自動車社長(当時))が「トヨタ」のカタカナ字画数が「8」であることから命名したという[2]。なお、2008年シーズンより呼称を「名古屋グランパス」へ変更したが、中日新聞は「1チーム11名のサッカーのチーム名に8が付くことのアンバランスさを解消すること」、「リーグ戦では8位前後が多いため、そのイメージを払拭すること」を理由に挙げている[3]

なお、夕刊フジ編集委員の久保武司による記事によると、この改称はメインスポンサーのトヨタ自動車から「Jリーグ創設の1993年から2007年までリーグ8位が5回もあったため、チーム名から『8』を外すようにと一度だけ指示した(験担ぎで)」と指示を受けたことによるとしている[4]テンプレート:要出典範囲

また同じく久保によれば、スポンサーがトヨタ自動車であることからJリーグ屈指の資金力を持ち、日本人を含む各国代表クラスの有力選手を獲得することも多く、また若手を含む多くの外国人選手をJリーグの舞台に招き入れている。2010年までにチーム強化に投じられた資金総額は200億円を超えるという[4]。また、クラブ経営に関してトヨタ自動車およびトヨタグループは「支援(資金)は出すが、口(指示)は出さない」としている(2010年時点、唯一の例外は先述の改称命令である)[4]

歴史

Jリーグ加盟まで

Jリーグ創設時から加盟した10チーム(オリジナル10)のひとつだが、プロリーグ設立委員会から話を持ちかけられた当初、チームの母体となるトヨタ自動車は、「先行きに見通しが立ちにくい」とJリーグ参加には難色を示し、1990年5月に不参加を決定した[5]。それに対し、プロリーグ設立委員会は「名古屋にチームが無ければリーグが盛り上がらない」と説得し、県協会を使っての署名活動や地元メディアと連携し、Jリーグ加盟を取り付けたという。トヨタの参加表明は不参加決定を発表してから7ヶ月後、同年12月のことだった[5]。なお、プロとして活動する選手を名古屋市を拠点として新設したグランパスエイトに、またグランパスエイトに参加せずに社業に専念する選手を静岡県裾野市にあるトヨタ自動車東富士FC(当時東海社会人リーグ所属。1993年廃部)にそれぞれ移籍させた。

地域密着を理念とした加入条件に「チーム名に企業名を付けない」があったが、トヨタは「どうせやるならトヨタの“ト”の字も出すな。」とチームに企業色を全く出さなかったために、協会から「小さくてもいいから自社の証であるものをユニフォームに入れてくれないと広告宣伝費として認められない」と諭される。そのため、トヨタが袖スポンサーから胸スポンサーに移動する2001年までは、胸にチームロゴを入れていた。

Jリーグ開幕前年の1992年には、チームの目玉として1986 FIFAワールドカップ得点王のゲーリー・リネカーと契約した。なお、当初はディエゴ・マラドーナの獲得を目指していたが、マラドーナの麻薬所持疑惑により白紙撤回され、スキャンダルのないクリーンなイメージのリネカーを獲得した経緯がある[5]。海外合宿を経て、名古屋での初試合は8月1日に行なわれたブラジル・コリンチャンスとの親善試合であった。Jリーグのプレマッチとして行われた1992年のJリーグカップは、ジョルジーニョ小倉隆史森山泰行中西哲生岡山哲也らが活躍。中でも小倉は5得点を決め、3位の成績をおさめた[6]テンプレート:-

1990年代

1993年
開幕前から引き続き監督は平木隆三が務めた。ピッタを獲得、平野孝ら即戦力の新人が複数入団した。小倉隆史は1年間オランダへ留学した[6]
5月2日のプレシーズンマッチ・SSラツィオ戦では、浅野哲也とリネカーのゴールによって日本のクラブチームとして初めてセリエAのチームに勝利した(スコアは2-1)[7]。しかし、リーグ戦に入るとリネカーのケガの影響もあり低迷し、2ndステージ開幕前にエリベウトンを獲得するも、年間総合9位(12勝24敗)に終わった。
1994年
監督にゴードン・ミルンが就任。
サントリーシリーズは8位(9勝13敗)。7月にドラガン・ストイコビッチビニッチを獲得してニコスシリーズに臨んだが、最下位(6勝16敗)に低迷。11月にはミルンが監督を解任された[8]
年間総合も11位(15勝29敗)。この年よりJリーグに加盟した磐田平塚より下位で、かつ前年と同じ顔ぶれとなった浦和G大阪とともに「Jリーグのお荷物」と呼ばれた[9]。なお、浅野哲也はシーズン途中に期限付き移籍、リネカーはシーズン修了後に引退した。テンプレート:-
1995年
監督にアーセン・ベンゲルが就任。阪倉裕二フランク・デュリックストーレスジェラール・パシを獲得、大岩剛本田征治が入団。藤川久孝ハーフナー・ディド、エリベウトン、ガルサ、ジョルジーニョ、ビニッチが退団。
ベンゲルはそれまでのキーマンの個人能力頼りの戦術を改め、中盤の4人がフラットに近い形で並ぶ4-4-2を採用して高い位置からプレスをかけてボールを奪い、攻守の切り替えを素早く行うという組織的な戦術を植えつけた[10]。当時のヨーロッパではスタンダードな戦術の1つであったが、Jリーグ開幕から間もない日本においては斬新なものであった[10]。この戦術の攻撃のキーマンにストイコビッチを据え、少し引き気味のポジションから自由自在に攻撃を組み立てた(そのため、システムは4-4-1-1とも表現される)[10]。中盤ではデュリックスが攻守に献身的に動き、トーレスがラインを統率して守備面でも安定感を示した。
選手の長所を伸ばすことを目指して自信を植え付けていき、元々代表クラスの選手を抱えていたこともあり、年間総合3位(32勝20敗)。第75回天皇杯全日本サッカー選手権大会で優勝した。
1996年
西ヶ谷隆之福田健二望月重良が入団。小杉敏之沢入重雄米倉誠、パシが退団。
2月に小倉隆史が全治6か月の大怪我を負い長期離脱[11]すると、それを補うようにオリビエトーマスを獲得。この年は1シーズン制で成績は2位(21勝9敗)。その結果によりサントリーカップ・96チャンピオンズファイナルに進出し、清水鹿島と対戦して勝利し年間王者となった。9月にベンゲルが監督を退任、カルロス・ケイロスが就任した。
1997年
伊藤卓古賀正紘滝澤邦彦中谷勇介バウドリカルジーニョを獲得。石川研谷口圭、中西哲生、森山泰行、オリビエ、デュリックス、トーマスが退団。
前年度の年間王者としてサンワバンクカップへ出場し、MLSカップ優勝のD.C. ユナイテッドに勝利した[12]。リーグ戦では年間総合9位(16勝16敗)。天皇杯はJFL・東京ガスに敗れた。11月にはケイロスが監督を退任、田中孝司が就任した。
1998年
石川康大森征之野口幸司ベルナール・アルーを獲得。リカルジーニョが退団。
6月にバウドが退団、7月にウリダを獲得。福田健二がリーグ戦16得点を挙げ、年間総合5位(23勝11敗)。
1999年
楢崎正剛山口素弘呂比須ワグナーを獲得、宮原裕司が入団。アルーが退団。
シーズン開始直後に監督の田中孝司と平野孝、望月重良、大岩剛との確執が表面化し、4月に田中が監督を辞任した。後任にダニエル・サンチェスが就任するが、1stステージは8位(7勝1分7敗)。
2ndステージ途中にジョアン・カルロスが監督に就任。その直後に10連勝するなど、最終成績は2位(11勝1分3敗)、年間総合4位(18勝2分10敗)。天皇杯では2度目の優勝を果たした。

2000年代

2000年
ホミルドを獲得、原竜太藤田泰成が入団、下部組織から氏原良二が昇格。浅野哲也、伊藤裕二、小倉隆史、野口幸司、トーレスが退団。
1stステージは12位(7勝1分7敗)。2ndステージ開始直後の7月5日に平野孝、望月重良、大岩剛の解雇が発表される。これに関して当時副社長の小宮好雄は「3人は高い能力を持ちながら、怠慢プレーに加え、秩序や規律を乱す存在だった」と理由を説明した[13]。これはカルロスの強い意向が働いたもので、戦力低下を危惧するストイコビッチなどの主力選手は彼らの残留を懇願したが、7日に社長から3人の放出が正式に発表された[14]。7月にウェズレイを獲得。2ndステージは7位(7勝1分7敗)、年間総合9位(14勝2分14敗)。
2001年
森山泰行が復帰、海本慶治酒井友之を獲得、中村直志原田拓山内友喜吉本岳史が入団。飯島寿久小川誠一、呂比須ワグナー、ホミルドが退団、氏原良二は期限付き移籍。
1stステージは3位(10勝2分3敗)。1stステージ修了後にストイコビッチが引退、マルセロを獲得。ほぼ同時期に福田健二が移籍した。年間総合は5位(17勝3分10敗)。テンプレート:-
2002年
新監督にズデンコ・ベルデニックが就任。片桐淳至吉村圭司鄭容臺を獲得、下部組織から山口慶が昇格。宮原裕司が退団、氏原良二は引き続き期限付き移籍。
5月にウリダとマルセロが退団。7月に森山泰行が退団、パナディッチヴァスティッチを獲得。これまで基本システムとして4-4-2を採用していたが、シーズン途中から3-5-2へと変更した。
1stステージは3位(10勝5敗)、2ndステージは13位(5勝1分9敗)、年間総合は6位(15勝1分14敗)。
2003年
チームスローガン:ハード・魂(ハート)。
海本幸治郎広野耕一藤本主税を獲得、深津康太渡邊圭二が入団、下部組織から平林輝良寛が昇格。山口素弘、鄭容臺が退団。2月には上田滋夢がテクニカルディレクターに就任した。
パナディッチ、大森征之、古賀正紘による3バックとボランチの中村直志と吉村圭司が機能し、高い守備力を誇るが反面得点力は乏しかった。5月にヴァスティッチが退団すると、6月にマルケスを獲得。1stステージでは7位(5勝8分2敗)。
ウェズレイとの間の確執が表面化したベルデニックは、1stステージ終了後に監督を解任され、後任にネルシーニョが就任した。9月に石塚啓次を獲得。2ndステージは8位(6勝4分5敗)、年間総合は7位(11勝12分7敗)。ウェズレイがJ1得点王を獲得した。
2004年
チームスローガン:ハード・魂(ハート)。 - 2004年、超える。-
森山泰行が復帰、秋田豊岩本輝雄角田誠川島永嗣河野直人ジョルジーニョを獲得、大野敏隆が期限付き移籍で加入、豊田陽平が入団。酒井友之、原田拓、藤本主税が退団。
6月に森山泰行とパナディッチ、8月に滝澤邦彦が退団。7月にクライトンを獲得、井川祐輔が期限付き移籍で加入。その後、本田征治が退団、滝澤邦彦が期限付き移籍。年間総合成績は7位(12勝8分10敗)。
2005年
チームスローガン:赤鯱魂 - Grampus-Spirits -
増川隆洋安英学を獲得、鴨川奨杉本恵太須藤右介本田圭佑が入団、下部組織から津田知宏が昇格。岩本輝雄、氏原良二、岡山哲也、海本慶治、海本幸治郎、滝澤邦彦、原竜太、藤田泰成、ジョルジーニョが退団。この年は新潟との間で、岡山哲也・海本兄弟・安英学と4件の移籍が発生した。
シーズン中、片桐淳至と河野直人が期限付き移籍。4月にウェズレイが退団した。第8節終了時点で2位まで上がったが、5月にマルケスが退団すると下降の一途を辿った。6月に藤田俊哉中山悟志を獲得。7月にルイゾンを獲得するが、成績不振を理由にネルシーニョが監督を解任されると、ルイゾンも退団した。不振からJ2降格争いを演じるが、最後の2試合を1勝1分で終えJ1残留を決めた。最終成績は14位(10勝9分15敗)。
2006年
チームスローガン:前線へ。その先へ。- Grampus Challenge 2006 -
新監督にセフ・フェルホーセンが就任するが、フェルホーセンを招いた上田TDが1月に解任された。有村光史玉田圭司金正友マレク・スピラールを獲得、阿部翔平井上渉片山奨典竹内彬が入団、下部組織から青山隼が昇格。河野直人、クライトンが退団、広野耕一が期限付き移籍。
フェルホーセンはチームの建て直しを図ったが、前線でポストプレーができる長身の選手がおらず、本来のスタイルと異なる玉田にその役割を求めたことで玉田自身も調子を崩してしまう。ディフェンダーの古賀正紘を起用するなど打破を狙ったものの、シーズン序盤にはナビスコカップを含めると公式戦16試合勝ち星がないと言う苦しい状況が続いた。7月にフローデ・ヨンセンを獲得すると次第に調子は改善し、最終成績は7位(13勝9分12敗)。
2007年
チームスローガン:前線へ。その先へ。
米山篤志を獲得、小川佳純筑城和人巻佑樹が入団、下部組織から新川織部長谷川徹福島新太吉田麻也が昇格、櫛野亮が期限付き移籍で加入。秋田豊、川島永嗣、古賀正紘が退団。
2月に角田誠が退団。開幕4連勝など幸先良いスタートを切ったが、主力選手の怪我や出場停止などによって好不調の波が激しく、近年の課題でもあった決定力不足を露呈し、前半戦終了時点で14位。8月の横浜FM戦で3-0の惨敗を喫すると、一部のサポーターが問題行動を起こす(次の大宮戦の試合前に両者とも謝罪)など亀裂が生じていた。最終成績は11位(13勝6分15敗)。天皇杯は5回戦でJFLのHonda FCに敗退した。テンプレート:-
2008年
チームスローガン:前線へ。その先へ。 - Never give up for the win. -
新監督にストイコビッチ、コーチにハーフナー・ディドボスコ・ジュロヴスキーゼネラルマネージャー久米一正が就任。西村弘司三木隆司バヤリツァマギヌンを獲得、佐藤将也が入団、下部組織から花井聖が昇格。鴨川奨、須藤右介、豊田陽平、本田圭佑、金正友、スピラールが退団。
2節から7節を6連勝するなど幸先良いスタート切りるなどして最終節まで優勝争いを演じ、最終的に3位(17勝8分9敗)。初めてAFCチャンピオンズリーグの出場権を獲得した。また、8月には1993年のJリーグ開幕以来1度も勝ち星を挙げることができなかったカシマスタジアムでの鹿島戦で初勝利を収めた(後述#鬼門のカシマスタジアムを参照)。
2009年
チームスローガン:Never give up for the win. - その先の感動へ-
コーチに飯島寿久と伊藤裕二が就任。田中隼磨ダヴィを獲得、久場光田口泰士橋本晃司平木良樹松尾元太が入団、下部組織から磯村亮太が昇格。井上渉、大森征之、片山奨典、藤田俊哉、三木隆司、米山篤志、渡邊圭二、ヨンセンが退団、青山隼、筑城和人が期限付き移籍。
3月22日の第3節清水戦で3-1と勝利し、ホームゲーム通算150勝を達成。中断期間前の5月24日までにダヴィは9得点を挙げ、その時点で得点ランクトップであったものの、ダヴィ以外の得点は7点にとどまった。この原因の1つとして昨シーズンにヨンセンが務めたポストプレイヤーの役割にダヴィが適合していなかったことが指摘され、ストイコビッチ監督の目指すサイド攻撃を活かすためのターゲット役の獲得が急がれた[15]。外国人枠は埋まっていたためAFC枠で獲得可能な外国人選手を調査し、6月21日にジョシュア・ケネディの獲得を発表した[16][17]7月22日にダヴィが移籍[18]すると、空いた外国人枠で7月29日にブルザノヴィッチを獲得[19]。次いで8月3日に三都主アレサンドロを獲得した[20]
守備面ではバヤリツァの長期離脱が大きく響き、前半戦は常にセンターバック駒不足の状態が続いた。吉田麻也と増川隆洋の2人がほぼ全ての試合に先発出場したが、7月5日のG大阪戦では両者を怪我と出場停止で欠き、センターバック経験の乏しい竹内彬と佐藤が起用された[21]。前半戦から学生時代にセンターバック経験のある巻佑樹の起用も検討されており、後半戦の10月25日の磐田戦では実際にセンターバックで先発出場した[22]
最終成績は9位(14勝8分12敗)。AFCチャンピオンズリーグ2009はグループリーグを1位で通過したが、準決勝でアル・イテハドに敗退してベスト4。天皇杯は決勝へ進出したが準優勝に終わった。テンプレート:-

2010年代

2010年
チームスローガン:Never give up for the win. - さらなる高みへ -
金崎夢生田中マルクス闘莉王‎千代反田充を獲得、ダニルソンが期限付き移籍で加入、新井辰也が入団。青山隼、筑城和人、新川織部、広野耕一、山口慶、吉田麻也、バヤリツァが退団、佐藤将也、津田知宏、平木良樹が期限付き移籍。
金崎の加入により、ケネディを中央に置いた3トップの形が増える。開幕戦は勝利したが、新戦力がチームに馴染むのに時間がかかった。W杯中断後は順当に勝ち星を積み上げ、8月14日(第18節)浦和戦で勝利して単独首位に浮上した。シーズン通じて1度も連敗がなく、また敗戦後の次ゲームは全て勝利するなど確実に勝ち点を重ね、11月20日(第31節)湘南戦でJリーグ18年目にして初のリーグ戦優勝を決めた。一度も首位を明け渡すことなく、最終的には「シーズン23勝」(3分8敗)、「勝ち点72」(タイ記録)、2位G大阪との「勝ち点差10」など1シーズン制移行後最高の記録を残し、圧勝でリーグ戦を終えた。なお、2005年の1シーズン制移行後、1996年に1年だけ1シーズン制が実施された時を含め、最終節を待たずして優勝が決定したのはこれが初めてである。
ベストイレブンにはチーム最多の5人が選出。最優秀監督賞にストイコビッチが選出され、ケネディが得点王、楢崎正剛がMVPを獲得した。なお、元Jリーガーの最優秀監督賞受賞はギド・ブッフバルトに続く2人目[23]で、選手としてのMVPと両方を獲得したのはストイコビッチが初である。楢崎はGKとして初めてMVPに選出された[23]
2011年
チームスローガン:Strong Believin' - 誇りを胸に -
藤本淳吾を獲得、田中輝希永井謙佑吉田眞紀人が入団、ダニルソンは移籍期間が延長された。佐藤将也、杉本恵太、福島新太、マギヌンが退団、竹内彬、平木良樹、巻佑樹が期限付き移籍、津田知宏は移籍期間が延長された。
2月26日、スーパーカップで鹿島と対戦しPK戦で勝利を収め年間王者となる。東日本大震災の影響によるリーグ戦中断期間中に長谷川徹が期限付き移籍、下部組織から佐藤和樹が2種登録された。
リーグ戦では前年より継続して連敗はなかったが、怪我や過密日程の疲労による主力選手の離脱もあり好不調の波が大きかった。10月15日(第29節)G大阪戦から最終節新潟戦まで6連勝するも、最終成績は2位(21勝8分5敗)。勝ち点71は首位柏とわずか1差であった。ケネディが19得点を挙げ、2年連続の得点王となった。なお、10月にブルザノビッチが退団した。
AFCチャンピオンズリーグ2011はグループリーグを突破するも、水原三星に敗れベスト16。
2012年
チームスローガン:Strong Believin' - 誓いを胸に、再び。 -
期限付き移籍であったダニルソンのほか、石櫃洋祐ダニエルを獲得、高原幹田鍋陵太水野泰輔が入団。久場光、竹内彬、千代反田充、津田知宏、橋本晃司、長谷川徹、花井聖、平木良樹、松尾元太が退団。
ダニエルの加入により3バックが検討され[24]、実際シーズン中に何度が使用された。前年に続いてシーズン序盤から怪我による離脱者が相次ぎ、特に攻撃陣の長期離脱や不調により得点力の低下を招いた[25]。闘莉王のフォワード起用や、永井謙佑・田口泰士などの若手の台頭である程度補われた[25]ものの成績は奮わず、最終成績は7位(15勝7分12敗)。
5月に3年ぶりとなる連敗を喫し、ナビスコ杯ではベスト8に終わった。天皇杯もベスト8で敗北した。
2013年
チームスローガン:Unlimited - 不屈の挑戦
矢野貴章ヤキモフスキーを獲得、本多勇喜牟田雄祐望月嶺臣チアゴが入団、下部組織からハーフナー・ニッキが昇格。新井辰也、金崎夢生、三都主アレサンドロ、巻佑樹、吉村圭司が退団、水野泰輔、吉田眞紀人が期限付き移籍。永井謙佑は1月19日にスタンダール・リエージュへと完全移籍したが、8月13日に期限付き移籍で再加入した[26]
開幕戦には牟田が片山奨典以来7年ぶりの新人の開幕スタメン出場を果たした[27]。リーグ戦は序盤からケネディの不調などの要因から、6月の中断期間前までの第9節から第13節を16年ぶりとなる5連敗で終えるなど不安定な展開が続いた[28]。9月14日、清水戦でラドンチッチのゴールによりリーグ戦クラブ通算の1000失点目を喫し、G大阪に次ぐ2クラブ目の記録となった。
10月3日、ストイコビッチ監督の同年限りでの契約満了による退団が発表された[29]。慢性化した赤字改善[30]のため、11月22日には阿部翔平と田中隼磨[31](本人希望で発表は後日となったが増川隆洋の退団も決定[30][32])、同24日にはダニエル[33]と契約延長しない旨を発表された。最終成績は11位(13勝13敗8分)。テンプレート:-
2014年
チームスローガン:改・Re:Vision
神戸前監督の西野朗が監督に就任[1]刀根亮輔野田隆之介を獲得、青木亮太小屋松知哉野村政孝松田力矢田旭が入団、森勇人杉森考起が下部組織から昇格、枝村匠馬ヘジスが期限付き移籍で加入。一方でた阿部翔平、田中隼磨、増川隆洋、ダニエルのほかに、石櫃洋祐、高原幹、藤本淳吾、ヤキモフスキーが退団、田中輝希、吉田眞紀人、チアゴが期限付き移籍、水野泰輔は移籍期間が延長された。
リーグ戦開始直前に大武峻が特別指定選手として登録され[34]グランパスでは特別指定選手として初の開幕戦スタメン出場したが[35]、試合は清水に敗れ12年ぶりの開幕黒星となった[35]テンプレート:-

シーズン途中より柏レイソルからレアンドロ・ドミンゲス・バルボーザアルビレックス新潟から川又堅碁が加入

成績

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現所属メンバー

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2014年8月14日時点

テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 開始 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 中央 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 終了

監督

タイトル

国内タイトル

国際タイトル

個人別

年度 最優秀選手(MVP) ベストイレブン 得点王 新人王 最優秀監督
1993年から1994年は、受賞者無し。
1995年 ストイコビッチ ストイコビッチ - - ベンゲル
1996年 - ストイコビッチ - - -
1997年から1998年は、受賞者無し。
1999年 - ストイコビッチ - - -
2000年から2002年は、受賞者無し。
2003年 - 楢崎正剛
ウェズレイ
ウェズレイ - -
2004年 - マルケス - - -
2005年から2007年は、受賞者無し。
2008年 - 楢崎正剛
小川佳純
- 小川佳純 -
2009年は、受賞者無し。
2010年 楢崎正剛 楢崎正剛
闘莉王
増川隆洋
ダニルソン
ケネディ
ケネディ - ストイコビッチ
2011年 - 楢崎正剛
闘莉王
藤本淳吾
ケネディ
ケネディ - -
2012年 - 闘莉王 - - -
2013年は受賞者無し。

スタジアム・練習場

ホームスタジアムは、名古屋市瑞穂陸上競技場[1]および豊田スタジアム(2012年よりホームスタジアム登録) である。豊田スの芝生管理の関係で夏季の数試合、および水曜日に行われる試合(AFCチャンピオンズリーグJリーグカップなどを含む)については基本的に瑞穂陸で開催されるが、リーグ戦の過半数は豊田スで開催されている。なお、過去のホームゲーム開催スタジアムは「当項目」を参照のこと。

練習場は愛知県豊田市トヨタスポーツセンター第1グラウンドである[1]

アカデミー・育成

2010年12月にスペインリーガ・エスパニョーラ所属のレアル・ソシエダと選手育成に関する協力協定を締結[36] しており、若手選手がレアル・ソシエダの練習に参加している[37]

出身選手

テンプレート:See

主なタイトル

U-18

1回: 2011年
1回: 2008年

U-15

1回: 2008年
2回: 1999年, 2010年

U-12

1回: 2009年

ユニフォーム

テンプレート:ユニフォームの色2

チームカラー

  • テンプレート:Color box
    • ホーム用は2006年までパンツも赤だったが、2007年以降は黒としている。
    • 2001‐2002年は3rdユニフォームを採用していた(シャツ、パンツ、ストッキングに黒を採用。)
    • 1992‐1994年のカップ戦用のユニフォームの配色は1stがシャツ・赤、パンツ・白、ストッキング・赤で、2ndがシャツ・白、パンツ・赤、ストッキング・白だった。

エンブレム

  • 1992年 - 1993年 グランパスくんをそのままエンブレムとして採用(リーグ戦用ユニホーム。カップ戦ユニホームは1994年も使用)。
  • 1994年 - 1997年 リーグ戦用ユニホームはチームフラッグをモチーフにした円形のエンブレムを採用。カップ戦用ユニホーム(1995年-)にはエンブレムはなく、胸の「Grampus」ロゴがエンブレム代わり。
  • 1998年 リーグ戦・カップ戦でユニホームが統一。エンブレムはなし。
  • 1999年 - 2010年 楯と王冠をモチーフに「NGE(Nagoya Grampus Eight)」とグランパスくんを盛り込んだものを採用。
  • 2011年 - エンブレム上部に第75回天皇杯全日本サッカー選手権大会(1995年)、第79回天皇杯全日本サッカー選手権大会(1999年)および2010年のJ1リーグの優勝を表す3つのチャンピオン・スターマーク(★)を付けている。それぞれの星には、タイトルと年号を表す「EC 96」「EC 00」「J1 10」が刻印されている。

ユニフォームスポンサー

掲出箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
トヨタ自動車 TOYOTA 2001年- 1992年-2000年までは袖
背中 デンソー DENSO 2003年-2004年
2007年-2008年
2013年-
豊田通商 豊田通商 2012年-
パンツ トヨタファイナンス TS3 2004年-

トレーニングウェアスポンサー

掲出箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
トヨタホーム トヨタホーム 2012年-
右袖 スリーボンド ThreeBond 2011年- ノースリーブシャツの場合は右胸
左袖 学校法人東邦学園 愛知東邦大学 2014年-
背中 UCC上島珈琲 UCC 2014年- 1990年代には胸に掲示していた時期あり

かつては明治乳業もトレーニングウェア胸スポンサーであった。

ユニフォームサプライの遍歴

歴代ユニフォームスポンサー年表

年度 背中 パンツ サプライヤー
1992 - - TOYOTA - lecoq
1993 Mizuno/lecoq
1994
1995
1996
1997 UMBRO/lecoq
1998 lecoq
1999
2000
2001 TOYOTA HISAGO
2002 TOYOTA L&F
2003 DENSO
2004 TS3
2005 TOYOTA L&F
2006 豊田織機
2007 DENSO
2008 中部電力
2009 豊田織機
2010
2011 AISIN デサント(lecoq)
2012 豊田通商
2013 DENSO
2014

※1:1992年~2000年の袖「TOYOTA」はロゴは使用せず、シンボルマークのみを採用。
※2:2001年に「TOYOTA」のロゴを入れるまで、胸部分にはグランパスのチームロゴを入れていた。
※3:歴代ユニフォームスポンサーのうち、ヒサゴ中部電力以外はすべてトヨタグループ系列の企業である。
※4:「TOYOTA L&F」は「豊田織機」(豊田自動織機)の社内カンパニーである。
※5:2009年のAFCチャンピオンズリーグ試合時は規定により胸の「TOYOTA」のみ掲示。
※6:2011年以降のAFCチャンピオンズリーグ試合時は規定により胸の「TOYOTA」のみ掲示し、ユニホームデザインや背番号のフォントなど、Jリーグ用と異なるデザインを使用。

クラブ情報

マスコットキャラクター

マスコットキャラクターはチーム名の「グランパス(Grampus)」にちなみシャチをモチーフにしている。

グランパスファミリーとして、グランパスくんをはじめ、グランパコちゃん(妻)、グランパスくんJr.(息子)、グララ(娘)がいる。

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キャンプ地

春季キャンプは2011年より大分県別府市の「実相寺サッカー競技場」、夏季キャンプは岐阜県飛騨市古川町の「ふれあい広場グラウンド」を使用している。 なお2013年春季キャンプはタイ王国で行なう。

スポンサー

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出資会社

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名古屋グランパス後援会

  • 東海3県知事・サッカー協会、名古屋市長・サッカー協会、出資会社を核とし、後援会事務局、法人会員631社(2009年11月時点)からなるチームの支援組織。法人会員にはトヨタ自動車の下請け企業・全国各地の販売店・主要在名民放局(愛知国際放送を除く。愛知県外では三重テレビ放送も法人会員)といった企業・団体等も入会している。
  • 毎年シーズン前に名古屋市内のホテルで、スポンサー・後援会法人会員・監督・選手が出席するパーティー形式のイベントが行われている。

歴代スタジアムDJ

メディア

試合中継

テレビ放送
試合中継を民放で放送する際、トヨタ自動車とともにスポンサーとなるトヨタグループ9社を紹介する共通CMを放送する(一部応援番組などでも放送されている)。
Jリーグ黎明期に沖縄県で開催されていた地元放送局・沖縄テレビ主催によるおきぎんカップ(名古屋と沖縄県のサッカークラブとのプレシーズンマッチ)の試合放映は、東海テレビ中京テレビの両局が隔年交代で放送していた(試合中継は沖縄テレビ制作のを放送)。
テレビ・ラジオともに、並びは試合中継数が多い順。
NHK名古屋放送局
  • テレビ(ローカル放送・BS含む)・ラジオ。近年は地上波テレビ放送(ローカル)にてJリーグホーム開幕戦の試合を生中継している。
J SPORTSスカチャンなどのCSチャンネル
名古屋テレビ (メ~テレ)
  • 名古屋地区の民放テレビ局では唯一、2007年まで年1試合程度のリーグ戦の生中継を続けていたが、2008年以降は後述にも記載するとおりFC岐阜のスポンサーになった事[注 2] から、録画中継に切り替わった。しかし依然として在名テレビ局の中では試合中継数が一番多い。この事も関連してか、2008年以降、両チームのJリーグ開幕前のプレシーズンマッチを主催し、録画中継を行っている。キー局のテレビ朝日AFCチャンピオンズリーグ・放送権を保持している事から、グランパス出場時にはホーム戦を中心に試合中継(基本的には録画中継が主となるが、生中継を行う場合もある)を行う。
東海テレビ
  • 通常のリーグ戦に加え、ナビスコ杯のホーム戦も不定期で中継する(キー局のフジテレビが放映権を持っているため)。
中京テレビ
  • 2008年度よりホームゲームに限り、スカパー!向けの試合中継制作を担当(その一方で、地上波での試合中継は減っている)。スカパー!の解説はグランパスOBの藤川久孝などが担当。東海テレビの解説者でもあった沢入重雄も担当していた。
CBCテレビ
  • 年に1回程度の録画中継がある。
テレビ愛知
  • かつては中日ドラゴンズ戦の中継数を上回っていたが、2005年を最後に在名テレビ局では試合中継を行っていない。
ラジオ放送
2009年4月12日の豊田スタジアムで行われた浦和戦からホーム戦で不定期ながら、インターネットストリーミング放送をラジオと同時中継を行うことになった(東海ラジオ制作分に関しては地上波が生中継を行っている場合以外はインターネットのみ放送)。
2010年以降は瑞穂での試合を東海ラジオの制作、豊田での試合をエフエムとよたの制作でホーム戦全試合をインターネットストリーミング放送で生中継している。
エフエムとよた
  • 2007年10月21日のFC東京戦より実況中継を開始。2008年以降は「GRAMPUS BEAT」としてホーム戦を全試合中継の予定。2008年は優勝争いをしていたこともあり、同年のシーズン最終戦は、名古屋から遠く離れた大分で行われたが、現地にスタッフを派遣し生中継を行った。2010年の優勝を決めた試合でも、平塚競技場に現地スタッフを派遣し生放送を行っている。解説にグランパスS.A.の関谷憲生、実況はフリーアナウンサーが担当。
CBCラジオ
  • ネットワークの関係で放送権を持っていない。
東海ラジオ
  • 東海ラジオ ワイルドサッカーとして生中継。Jリーグや国際試合の放送権を持つニッポン放送系列のため過去に多数の放送実績があるが、近年はホーム開幕戦を毎年放送する程度。2010年の優勝を決めた試合で生中継を平塚から行った。

応援番組

以下の並びは放送日(又は初回放送分)を月曜日起点とする。
★=スカパー!スカチャンで放送されているJリーグクラブ応援番組セレクション参加番組。
テレビ愛知は2010年3月末まで応援番組を放送していたが、現在は放送がない(ローカルニュース枠で不定期でグランパス関連の話題を扱うほか、グランパスの試合取材は継続されている)。

その他

月刊グラン
  • 中日新聞社出版開発局発行の月刊情報誌。定価・650円(以前は400円だった)。
オフィシャルサイト
  • PC版(リンクは後述の「外部リンク」を参照の事)と モバイル版[注 3](月額210円)の2種類がある。
グランパスオフィシャル・スタッフBLOG
  • グランパスのスタッフが綴る不定期更新のブログ。
なお、試合運営のボランティアスタッフの組織は存在しない。(Jリーグのクラブでは唯一)

注釈

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出典

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関連項目

外部リンク

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  2. 2007年5月15日中日新聞
  3. テンプレート:Cite news
  4. 4.0 4.1 4.2 テンプレート:Cite newsテンプレート:要高次出典
  5. 5.0 5.1 5.2 木本邦彦「グラ球団草創期を西垣成美さん語る」中日スポーツ、2010年11月26日付、5面
  6. 6.0 6.1 富森揚介「ザ・フェース東海 小倉隆史」朝日新聞、1993年12月31日
  7. 「リネカー国内初ゴール」『中日新聞』1993年5月3日付朝刊12版、16面。
  8. 「誤算の背景1 守備未整備で自滅」中日新聞、1994年11月20日付朝刊12版、22面。
  9. サッカーマガジンJリーグ名古屋グランパス優勝号 2011年 1/1号、p.64。
  10. 10.0 10.1 10.2 杉山茂樹『4-2-3-1 サッカーを戦術から理解する』 (光文社新書)
  11. 「小倉重傷 右ひざ裏じん帯断裂」 中日新聞、1996年2月6日付朝刊12版、16面。
  12. 「グランパス逆転勝ち ワシントンに3-1」 中日新聞、1997年3月3日付朝刊12版、24面。
  13. 「不振グランパス激震 カルロス体制維持へ大ナタ」 中日新聞、2000年7月5日付朝刊12版、25面。
  14. 「3選手を放出通告」 中日新聞、2000年7月8日付朝刊12版、29面。
  15. テンプレート:Cite web
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  30. 30.0 30.1 テンプレート:Cite web
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