レッド・ツェッペリン

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レッド・ツェッペリンのメンバー4人を表したシンボル

レッド・ツェッペリンLed Zeppelin, 1968年 - 1980年)は、イギリスロックバンド。またヘヴィメタルも生み出した。略称は、ZepもしくはLed Zep。なお、「ツェッペリン」はドイツ語の発音であり、英語の発音は「レッド・ゼッペリン」に近い。

ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第14位。

概要

1968年に『レッド・ツェッペリン I』でデビューした彼らは、音楽シーンに衝撃を与えると同時に広い人気を得た。 彼らは後の世代にヘヴィメタルと言われる音楽を世界中に知らしめた。アコースティック・ナンバーも多く、ブリティッシュ・トラッド、フォークから中近東音楽に亘る幅広い音楽性を持ち、ロックの限界を押し広げた。

彼らはテレビでの演奏を拒否し、プレスに対し辛辣な態度を取るなど常にマスメディアと距離を置いており、最初期を除きテレビでは殆ど演奏しなかった。しかし、小さなクラブや大学のステージでの演奏が口コミで伝わり、人気を獲得していき、アルバムセールスや観客動員数で記録を破っていった。現代においても、アルバムはアメリカだけでも毎年100万枚、通算で1億枚を超え、エルヴィス・プレスリーに匹敵する実績を持っている。全世界でのアルバムセールスの累計は、現在3億枚を突破している[1]

当時は、先ずはシングルを出し、それをラジオやテレビで流した上でレコードを買ってもらうのが普通であったが、彼らが本国イギリスで発売したシングルは、「胸いっぱいの愛を」と「トランプルド・アンダー・フット」の2枚のみである(しかも、「胸いっぱいの愛を」においてはイギリスではシングル発売直後、さしたる理由も発表されないまま回収されている)。 1995年ロックの殿堂入りを果たし、2004年には日本ゴールドディスク大賞を受賞[2]2005年にはグラミー賞(功労賞)を受賞。2006年にはUKミュージックの殿堂「UK Music Hall Of Fame」入りを果たしている。

メンバーと主な担当楽器

バンドのリーダー。ツェッペリン全アルバムのプロデューサー。キャリア初期の演奏力、アコースティックギターの上手さ、曲の印象を決定づけるリフの作成能力、曲想と調和したメロディアスなソロなどが高く評価される。キャリアの中期以降の正確な演奏力の面で酷評されることもある。1980年代はポール・ロジャースと共にザ・ファームを結成。その後、カヴァデール・ペイジ、ジミー・ペイジ&ブラック・クロウズなど様々なプロジェクトに参加。ツェッペリンの過去の未発表音源のリリースやアルバムのリマスタリング作業にあたる。

ツェッペリンが音楽シーンに現れたとき、彼の広い音域、歌唱力、独特の声質、声量などが世界中のロックファンを驚かせた。しかし、喉を痛め、1973年以降はヴォーカルスタイルを変化させた。解散後は、ツェッペリンでも見せていたケルト音楽民族音楽を大きく取り入れたサウンドを志向する事が多い。ニックネームは「パーシー」。

ベースに限らず、幅広い楽器を操るマルチプレイヤーで、卓越した技術と安定した演奏力でツェッペリンを支えた。解散後はアレンジャーや若手バンドのプロデュースの仕事に加え、ライブを行ったり、自身のソロ・アルバムのリリースや、フー・ファイターズデイヴ・グロールクイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジジョシュ・オムらと共にゼム・クルックド・ヴァルチャーズを結成するなどしている。ニックネームは「ジョンジー」。

独自のグルーヴ感、リズム感、パワーを持つと言われ、強いプレイと多彩なフィルインによって、バンドの核としての役割を果たす。ロックに於ける一つのドラムの在り方を構築し、現在でも幅広いジャンルのドラマーに多大な影響を与えている。1980年に死去。ニックネームは「ボンゾ」。

来歴

結成までの経過

スタジオ・セッション・ギタリストを経てエリック・クラプトンジェフ・ベックに続く、ヤードバーズ最後のリード・ギタリストとなったジミー・ペイジが、当バンドの録音を経験するうち、レコード制作に要求される配慮やボーカリストの重要性に目覚め、偶然性も加わってオーソリティーともいえる各パートのメンバーを揃えて結成されたものとされる。

ジミーは1968年初旬、ミッキー・モストプロデュースのドノヴァンの代表曲「ハーディ・ガーディ・マン」のスタジオ・セッションでジョン・ポール・ジョーンズ、後にエンジニアを務めることになるエディ・クレイマーと共演する。

ヤードバーズは1968年7月7日のコンサートを最後に、キース・レルフ(vo)とジム・マッカーティ(ds)が脱退。クリス・ドレヤ(b)とジミーは、同じミッキー・モスト・プロダクションにいたテリー・リード(vo.g)とプロコル・ハルムB.J.ウイルソン(ds)をメンバーに誘うが、リードには自らのバンドのアメリカ・ツアーが決まっていたため断られ、ウイルソンにはプロコル・ハルムが成功しているとして断られた。

ところが、すぐにテリーから「シンガーを見つけた」との電話を受け、バンド・オブ・ジョイで歌っていたロバート・プラントを推薦される。ジミーはパフォーマンスをチェックし、採用した。そしてロバートが、バンド・オブ・ジョイにいたボンゾことドラマーのジョン・ボーナムを紹介する。

ボンゾは1968年7月にアメリカのシンガーソングライター、ティム・ローズのイギリスツアーに参加しており、ハムステッド公演での演奏を見たジミーは、彼をバンドに加えることを決め、アメリカに滞在中であったピーター・グラントに国際電話をかけて報告した。だが、ボンゾの加入はすんなりとはいかず、プラント曰く、当時何かの理由(一説には、当時テイスト結成前のロリー・ギャラガーとバンドを組みたがっていたとされる)でバンドへの加入を頑なに拒んでいたボンゾを、ロバートとピーターの両名で合計40回近くにもなる電報での説得を行った。 また、ドレヤがカメラマンに転向するとして脱退。そこで以前からセッションを通じ知り合いだったベーシストキーボーディストのジョン・ポール・ジョーンズを誘った。ジョンは黒人音楽に精通するアレンジャーとしての地位を既に確立していて、ジミー同様、若くしてセッション・ミュージシャンとして活躍していた。 ボンゾは最終的にロバートが「お前はこのバンドに入るんだよ!」とロンドンのスタジオまで引っ張っていった。

ジョン・ポール・ジョーンズはロンドンの小さなスタジオで最初に四人で演奏したときのことをこう語っている。 「ジョン・ボーナムの演奏を聞くやいなや、このバンドが偉大になるとわかった。僕たち(ツェッペリン)は、すぐにチームとしてともにロックした。」

当初はヤードバーズとしての契約が残っていたためスカンジナビア・ツアーをNew Yardbirdsとして行う。この時既に、レッド・ツェッペリンのデビュー・アルバムの収録曲が演奏されている(ちなみに、それにも関わらず、レコード会社がツェッペリンとヤードバーズで違うのは、ジミーが当時ヤードバーズの所属していたレコード会社の商業主義に嫌気が差していたからである)。帰国後、すぐにアルバムを録音。

1968年10月15日、サリー大学でのイギリス初のコンサートではNew Yardbirds featuring Led Zeppelinと名乗っている。ヤードバーズは、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでコンサートをするなどビッグ・ネームであったが、古いポップグループのイメージが残る名前と決別したかったため、改名したともいわれている。

ヤードバーズの音楽性を継承しつつも、ブルースベースのハードロックをより推し進めた彼らのファースト・アルバムにおける音楽性について、同じミッキー・モスト・プロダクションにいた(第一期)ジェフ・ベック・グループがヒントであったと指摘されることもある(ジェフ・ベックは、ツェッペリンのステージを見て「あれは俺のパクリだ」と言ったらしい。ちなみに、ジミ・ヘンドリックスのステージを見たときも、同じような発言をしたと言われる)。

バンド名の由来

1966年5月16日、ジェフ・ベックのソロ・シングルの録音のため、ベックとジミー・ペイジギター)、ジョン・ポール・ジョーンズベース)、ニッキー・ホプキンス(ピアノ)、キース・ムーンドラムス、ザ・フー)の5人によるセッションが行われる。このセッションは非常に充実したもので、5人中4人はパーマネントなバンドとしての活動を希望したが、ジョーンズが乗り気でなかったことと、いいシンガーが見つからなかったことを理由にその計画は頓挫する。その時にムーンが「もしも俺たちが今いるバンドを辞めたら、きっと向こうは鉛の気球(lead(発音は[led]) balloon)みたいに急降下するだろうぜ」と発言したことによる。「go down like a lead balloon」は「ぽしゃる」という意味の慣用句で、ムーンの口癖であったという。そこから、マネージャーのピーター・グラントが([li:d]と誤って発音されるのを避けるため)leadをledに、balloonをzeppelinに変え、バンド名が「Led Zeppelin」に決まったとされる。 また、デンマーク公演の最中にツェッペリン飛行船の開発者の子孫であるエヴァ・フォン・ツェッペリンに、ファミリーネームの無断使用で訴えられかけて一時「THE NOBS(ザ・ノブス)」(=紳士たち、または陰茎の隠語)と名乗っていたこともあった。エヴァは法廷で「金切り声を上げて飛び回る猿どもに、当家の栄誉ある名前を名乗らせるわけには参りません」と宣言したと言う。

デビュー後の快進撃

1968年10月に録音したアルバムのテープはペイジとマネージャーのピーター・グラントとの共同出資によるものであった。そのテープを持って渡米したグラントは、当時としては破格の20万ドル(当時の日本円にして約7,200万円)でアトランティック・レコードと契約。グラントがマネージメントしていたジェフ・ベックが、ヴァニラ・ファッジとのアメリカツアーに参加できなくなった代わりにレッド・ツェッペリンを送り込み、12月26日から参加させる。このツアーでツェッペリンは爆発的な評判を呼び、1969年1月12日にアメリカで発売予定のデビューアルバムに5万枚の予約が入り全米10位、イギリスでは3月28日に発売され、全英6位となっている。

1969年10月に発売されたセカンド・アルバムは、英米共に7週連続1位、1970年10月発売のサード・アルバムも英米共に1位となった。1970年のメロディー・メーカー紙の人気投票でもビートルズを破りベストグループ1位となった。その後も、解散するまで全てのアルバムがメガ・セールスを記録、コンサートツアーでの観客動員数はトップであった。

音楽的独自性

各メンバーの担当パートにおける実力に裏打ちされた感性や音楽性、ドラムスの独特のグルーブ感、当初ペイジが中心になり、後にプラント、ジョーンズそしてボンゾも参加しはじめた楽曲は、ブリティッシュハードロックの聖域と呼ばれた。 ライブでは即興演奏をし、「胸いっぱいの愛を」や「幻惑されて」、「ノー・クォーター」などは30分以上に及ぶこともあった。一般に単なるハードロックバンドの一種であると誤解されやすいが、典型的なハードロックにとどまらない楽曲が非常に多い。アコースティックギター中心の曲も多く、トラッド、メローなバラード調をはじめ、民族音楽的要素、ファンク、サイケデリック等々、様々な音楽を取り入れ、自分達流に作曲・演奏し、1980年に解散するまで、その音楽的独自性を高めていった。
ツェッペリンは結成当初トラッド・フォーク・ロックバンドとして活動する構想もあったといわれている。これは、ペイジのフォーク嗜好とプラントの民族音楽嗜好などもあってのことだったが、結果的にジョン・ボーナムというヘビーでパワフルなグルーヴを持つドラマーを得たことにより、バンドは基本的に轟音のロックを志向することになる。
ペイジとプラントのフォーク・トラッド嗜好も「天国への階段」をはじめ、ツェッペリンの様々な曲に大きく影響している。
彼らの音楽の独自性や多様性を物語るうえで、クラシック界の巨匠・ヘルベルト・フォン・カラヤンが「天国への階段」を「これ以上のアレンジを必要としない名曲」と賞賛したエピソードがあるテンプレート:要出典。また、パンク・ロックの象徴とも言うべきセックス・ピストルズのジョン・ライドンが、当初レッド・ツェッペリンを「ダイナソーロック」と蔑称していたが、1980年代以降は自らのステージで「カシミール」を歌うようになり、さらにプラントに対して「カシミールのような歌詞はとても書けない」と告白した。他にも、「フィジカル・グラフィティ」に収録された「トランプルド・アンダー・フット」が、当時ニューヨークのアンダーグラウンドのディスコで黒人たちの間で盛り上がり、頻繁にプレイされたことなどがあげられる。

活動の歴史

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1977年の北米ツアーでのロバート・プラントとジミー・ペイジ

ライヴツアーの行われた年は、以下の通り

解散

1980年9月24日のドラマーのジョン・ボーナムの事故死(過剰飲酒後の就寝時に吐瀉物が喉に詰まったための窒息死)によって、同年12月4日に解散を表明した。後継者として何名かのドラマーが名乗りを上げ、バンドでも人選について議論されたが、ボーナムのドラミングには余人の模倣を許さないほどの特徴があり、彼のバンドサウンドへの貢献度は非常に高かったため、「彼なしでのバンド継続は無理」と判断された。1982年には、彼への追悼アルバム『CODA』が発表された。

解散後、再結成

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(左から)ジョン・ポール・ジョーンズ、ロバート・プラント、ジミー・ペイジ(2007年のレッド・ツェッペリン再結成コンサートより)

1985年ライヴエイドフィル・コリンズがパフォーマンス中、ロバート・プラント、ジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズを呼び込み、「ロックン・ロール」「天国への階段」「胸いっぱいの愛を」を演奏した(ドラムスはトニー・トンプソンとフィル・コリンズ、「天国への階段」のベースギターはポール・マルチネスが担当)。この時は「LED ZEPPELIN」名義では無かった(フィル本人がツェッペリンと共演したいが為にイベントを利用したと後日語っている)が、その後、残りの元メンバー3人が集まった時のみ(1988年アトランティック・レコード40周年コンサート以降は、ジョン・ボーナムの息子であるジェイソン・ボーナムがドラマーとして参加)、「LED ZEPPELIN」名義のステージパフォーマンスが、何度か行われている。

2003年には、ペイジの監修による映像作品「レッド・ツェッペリン DVD」が発売された。5時間20分に亘ってツェッペリンの初期から全盛期のライヴが楽しめる壮大な作品であるが、ツェッペリンが活躍していた頃はミュージシャンが映像を製作することがあまり盛んではなく、ペイジ本人が「マッチ棒でお城を作るようなもの」と言うくらいの大変な苦労を経て製作された。どうしても映像が揃わない部分に、ブートレッグの映像が使用されている。また、この作業の時に見つかった音源を元にして、3枚組ライヴアルバム「伝説のライヴ(原題:How The West Was Won)」が製作された。

2007年12月10日にはロンドンのO2アリーナにて、2006年12月に死去したアトランティック・レコードの創始者、アーメット・アーティガンを追悼するチャリティーライブとして、先述のメンバーで一夜限りの再結成が行われ、アンコールを含め約2時間の演奏をした。このライブには実に世界50ヶ国以上から彼等のファンが訪れ、インターネットを経由してチケットの購入を登録を済ませた約2500万人の応募者[3]から、抽選で約2万人の観客が選ばれた。観客の中にはチャリティーオークションに出品された1枚のペアチケットに、8万3,000ポンド(約1,900万円)もの値をつけ、購入した者が居たことでも話題となった。それまで数回の再結成を不本意なものと感じていた彼らは、この日のためにリハーサルを繰り返し、その結果、多くの人を感動させるパフォーマンスを聴かせた[4]。この再結成は、彼らの本国を含め世界各国の新聞やテレビのニュース番組でも盛んに報道され話題になった。会場にはポール・マッカートニーミック・ジャガーデヴィッド・ギルモアジェフ・ベックポール・スタンレーカーク・ハメットチャド・スミスノエル・ギャラガーケイト・モスナオミ・キャンベルなど多数の有名著名人の姿があった[5]。このライブでのパフォーマンスはBDまたはDVDとCDという形で、「祭典の日(原題:Celebration Day)」として作品化された。

影響と評価

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政治性に関して

ツェッペリンの残した音楽性や奏法が、今なお後進のミュージシャンに多大な影響を与えたのは論を俟たないが、政治や社会性に触発されたと思しきストレートなメッセージ作品はほとんど残していないとも言われる。

彼らの長髪やツアーの間の騒ぎなどは「反社会的」と言われることもあったが、1960年代から1970年代前半に多く見られたプロテストソングのような、反体制的な歌詞を歌っていたわけではない。ヘヴィーなサウンド、演奏技術と同時に、ケルト文学などの造詣が深いロバート・プラントの歌詞は高く評価されている。「天国への階段」の歌詞は、資本主義に対する警鐘であるとも言われるが、プラント自身は後のインタビューで「深い意味なんて無い」と語ったことがある。また、ペイジやプラントが歌詞や行動を通じてほのめかしていた神秘主義アレイスター・クロウリーへの傾倒など)やケルト趣味は、バンドの背景に神秘的で得体の知れない危険なイメージを与えていた。

一方で、1971年9月の来日時に旧広島県立総合体育館でチャリティー・コンサートを開き、当時の金額にして約700万円の売上金を広島市役所を通して原爆被災者に寄付している[6][7]

復活したツェッペリン人気

1970年代後半には、ローリング・ストーンズやピンク・フロイドなどのハードロックプログレッシヴ・ロック産業ロックへのアンチテーゼとして、政治やストリートのリアルを反映したとされるパンク・ロックニュー・ウェイヴが一大ムーブメントとなり、レッド・ツェッペリンも「ダイナソー(恐竜=時代遅れ)・ロック」、「オールド・ウェイヴ」というレッテルを貼られてしまっていた。レッド・ツェッペリンはそういった流れの中、1979年、アルバム「イン・スルー・ジ・アウト・ドア」を発表。英米のみならず、世界のチャートで売り上げは好調だった。

1990年代には、パンク〜ニューウェーブを通過したオルタナティブ・ロックが世界を席巻したが、その中でもニルヴァーナパール・ジャムに代表されるグランジロッカー達は、モトリー・クルーボン・ジョヴィといったHR/HMバンドを軽蔑・酷評しながらも、レッド・ツェッペリンやブラック・サバスといったバンドの影響を口にしている。2000年代には、ガレージ・ロック・リバイバルの代表格バンド、ホワイト・ストライプスジャック・ホワイトが再結成ライブに際し「ツェッペリンを嫌う奴は信用していない」などと発言[8]。解散後の1980年代、1990年代、2000年代も世界でアルバムは売れ続けている。

再評価

1980年代中期前後以降、ロックではなくR&Bヒップホップなどのシーンにおいて、レッド・ツェッペリン独自のグルーヴ感、リズムが再評価され、「レヴィー・ブレイク」などがビースティ・ボーイズなどによりサンプリングされるようになった。(現在では「レヴィー・ブレイク」のドラムスは、サンプリングにおけるスタンダードの一つになっている)また、2005年にイギリスのロック専門ラジオ局、Planet Rockにおいて行われた、リスナーによる投票で各パートにおけるベストパフォーマーを選出し、架空の究極バンドを作ると言う趣旨の企画「究極のバンド」アンケートにおいて、結果的にレッド・ツェッペリンのメンバーがボーカルギターベースドラムに各パートで1位を独占するという現象がおこり、「究極のバンド」は実在していたという結果が出された[9]

ディスコグラフィー

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タイトル 備考
レッド・ツェッペリン I
Led Zeppelin|
1969年1月12日発売/収録曲ジャケット
ニュー・ヤードバーズでのツアーで演奏していた曲を中心にレコーディングしたため、レコーディング作業はわずか36時間で終えられた。全米売上:800万枚(米国内での生産分)
レッド・ツェッペリン II
Led Zeppelin II
1969年10月22日発売/収録曲ジャケット
英米でともに初となるアルバム・チャート1位を獲得。全米売上:1,300万枚
レッド・ツェッペリン III
Led Zeppelin III
1970年10月5日発売/収録曲ジャケット
「I」「II」で確立した「ハード・ロック」のイメージに停滞することなくアコースティック・サウンドを追及したため、発売当時は賛否両論となった。全米売上:650万枚
レッド・ツェッペリン IV
Led Zeppelin IV
1971年, 11月8日発売/収録曲ジャケット
邦題は便宜上付けられたもの。正式なタイトル名は付けられていない「無題」のアルバム。レコード版では内袋に記された天国への階段 の歌詞と収録曲の曲名以外に、ジャケットには一切の文字情報が記されていない。ここに記されたメンバー四人のシンボルマークファイル:Zoso.svgから通称「フォー・シンボルズ」、「フォー・ルーンズ」、「ルーンドアルバム」、"Zoso"などとも呼ばれている。全米売上:2,320万枚
聖なる館
Houses of the Holy
1973年3月28日発売/収録曲ジャケット
ヒプノシスが制作したジャケットで裸の子供の写真が使用されているため、ジャケットに帯をつけたり写真の上にタイトルを重ねて子供を隠すなどの配慮がなされた。全米売上:1,200万枚
フィジカル・グラフィティ
Physical Graffiti
1975年2月24日発売/収録曲ジャケット
レコード、CD共に2枚組。新録音曲がアルバム1枚分あったが、サード・アルバムから前作アルバムまでの録音曲を足して2枚組にしたもの。全米売上:1,630万枚
プレゼンス
Presence
1976年3月31日発売/収録曲ジャケット
ペイジ自身が最も気に入っている作品といわれる。「アキレス最後の戦い」はじめ、シンプルだが重量感のあるサウンド。全米売上:350万枚
永遠の詩 (狂熱のライヴ)
The Song Remains the Same
1976年9月21日発売/収録曲ジャケット
1973年の全米ツアー最終の3日間、ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンで録音されたライヴ音源を元に作られた、映画のサウンドトラック。ライヴ音源に手の込んだ後処理がなされており、映像版とは一部曲目が異なっている。

2007年11月、未収録曲6曲を加え、さらにリマスタリングとリミックスを施した「最強盤」として再リリースされた。

イン・スルー・ジ・アウト・ドア
In Through the Out Door
1979年8月15日発売/収録曲ジャケット
アナログ盤のアルバムジャケットは6種類あり、紙袋から出すまでどのジャケットか分からない仕組みであった。ジョン・ポール・ジョーンズのシンセサイザーがフィーチャーされたアルバム。全米売上:650万枚
最終楽章 (コーダ)
Coda
1982年11月19日発売/収録曲ジャケット
「ボーナムに対する追悼盤」。未発表曲を集めたもの。全米売上:150万枚
BBCライヴ
BBC Sessions
1997年11月11日発売/収録曲ジャケット
1969年1971年のBBCラジオでの放送用音源を纏めたもの。CD2枚組。完収録ではなく数曲が外されている。1969年のBBCでの放送はモノラルで行われたが、CDではステレオで収録されている。日本でも1974年にラジオ関東(ラジオ日本)の番組、「BBC・イン・コンサート」で、1971年4月1日に公開録音された音源の一部が初放送され、その後BBCから放送権を得たNHK-FMラジオにより1990年代までに数回放送された。
伝説のライヴ
How the West Was Won
2003年5月27日発売/収録曲ジャケット
3枚組。1972年アメリカツアーでのLAフォーラム、ロングビーチなどでのライヴを収録。全盛期のバンドのライブ演奏が堪能出来る。

脚注

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関連項目

外部リンク

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  1. レッドツェッペリン プレスリリース - ワーナーミュージック・ジャパン
  2. 第18回日本ゴールドディスク大賞授賞式を開催 - Impress AV Watch 2004年3月11日
  3. ツェッペリン、チケット申し込みが延長 - BARKSニュース 2007年9月17日
  4. ライブレポート/レッド・ツェッペリン London O2 Arena - ギター・マガジン・オンライン 2007年12月27日
  5. ツェッペリンの再結成ライヴ、訪れたセレブたち - BARKSニュース 2007年12月12日
  6. 中国新聞記事抜粋、2003/08/15 (金) その2
  7. 谷口悟「Led Zeppelinトリビュート・イン・ヒロシマ開催趣旨」 LED ZEPPELINルネッサンス。
  8. ツェッペリンを好きじゃない奴は信用していない - BARKSニュース 2007年11月13日]
  9. 夢のスーパー・グループはレッド・ツェッペリン - BARKSニュース 2005年7月12日