関門鉄道トンネル
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関門鉄道トンネル(かんもんてつどうトンネル)とは、山陽本線下関駅 - 門司駅間にある海底トンネルの名称。関門海峡を横断する陸上交通機関では最も古い存在であると同時に、世界初の海底鉄道トンネル(水底トンネルは前例あり)でもある。
トンネル概要
トンネル内は直流1,500Vにより電化がなされているが、門司駅構内では交流20,000V(60Hz)とのデッドセクションが設けられており[1]、交直流両用機関車による列車牽引ないしは415系電車をはじめとする交直流両用電車による列車運行が行われている。当トンネルを通る列車を牽引する機関車の一部は、防錆のため、ステンレス車体となっている。かつては山陽本線・山陰本線および日田彦山線からの気動車直通運転もあったが、2005年9月30日をもって廃止(日田彦山線からの直通はそれ以前に廃止)されている。
戦時設計のため、冗長性を考慮した単線並列方式で建設され、上下線共に上り下り双方向の運行が可能になっている。このため、日中の閑散時間帯に軌道点検・保守を実施する際は、上下線いずれかを閉鎖し、単線運転を実施することがある。
沿革
- 1896年(明治29年) - 全国商業会議所連合会が関門海峡に鉄道隧道を建設する案を帝国議会に誓願。
- 1911年(明治44年) - 鉄道院総裁の後藤新平、土木技師の田辺朔郎に命じて関門海峡両岸の連絡手段を検討させる。田辺は海底隧道によって連絡可能と結論を出す。橋梁案は艦砲射撃への脆弱さから除外された。
- 1936年(昭和11年) - 鉄道トンネルの建設を決定。
- 1936年(昭和11年)9月19日 - 起工。
- 1939年(昭和14年)4月19日 - 先通導坑(工事促進のため先に掘削された小トンネル)貫通[2]。
- 1941年(昭和16年)7月 - 下り本線貫通。
- 1942年(昭和17年)6月11日 - 下り本線で試運転開始。
- 1942年(昭和17年)6月13日 - 下り本線で試験運行を兼ねて貨物列車を運行開始。
- 1942年(昭和17年)7月1日 - 下り本線で貨物列車を正式に運転開始。この日をもって開業とし、山陽本線に組み込まれ、山陽本線全通[4]。
- 1942年(昭和17年)11月15日 - 下り本線旅客営業開始(この日をもって全国ダイヤ改正、鉄道は24時間制に移行)。当初より直流1500V電化され、通過列車はEF10形電気機関車の牽引により運転。これに伴い下関駅が移転、門司側では接続駅の大里駅(だいりえき)が門司駅に改称。旧門司駅は門司港駅に改称。
- 1944年(昭和19年)9月9日 - 上り本線完成、複線化。
- 1953年(昭和28年) - 海水による車体の防錆対策として、EF10形電気機関車の一部は車体をステンレス外板に改造(日本初のステンレス車両)。
- 1953年(昭和28年)6月28日 - トンネルが1.8kmに渡り水没。北九州地区に大水害をもたらした昭和28年西日本水害の集中豪雨により、トンネル内に土砂混じりの大水(延べ9万m³)が流入、門司駅では直ちに上り特急列車の出発を抑え、トンネル反対側の下関駅へも連絡したが、既に1本の下り列車が下関駅を出発していた。程なくして下り列車が滝のように大水が流れ込むトンネルから現れ、脱出に間に合った。死者はなし。資材不足のため復旧には米軍から借り受けたポンプなどを用い、復旧は7月13日、一般営業は同19日に再開した。これを機に両岸坑口に防水扉が設置される。
- 1961年(昭和36年) - 鹿児島本線交流電化に伴い門司駅構内に交流・直流電気のデッドセクション区間を設置。交直流両用のEF30形電気機関車と421系電車による列車運行を開始。
- 1973年(昭和48年) - EF81形電気機関車(300番台)運用開始。
- 1975年(昭和50年)3月10日 - 山陽新幹線新関門トンネル開業。
- 1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化に伴い九州旅客鉄道(JR九州)に移管。
- 2002年(平成14年)11月10日 - 開通60周年記念としてトンネル内ミニウォーキングを開催[5]。
- 2004年(平成16年)4月 - JR貨物EH500形電気機関車の運用試験開始。
- 2007年(平成19年) - JR貨物EH500形電気機関車の本格運用開始。
エピソード
工事に際しては参謀本部陸地測量部が作成した地図を用いたが、先通導坑を掘削した結果地図に若干の誤差があることが明らかになった。最初に貫通した下り本線ではその誤差を念頭に置いて工事が行われたが、上り本線では下関側の工事責任者の手違いから地図が正確なものとして工事が行われた。結果として双方から掘り進めてきたトンネルは上下に10cm食い違ってしまい、貫通点付近の100mほどを掘削し直すはめになった。
太平洋戦争末期の1945年、アメリカ軍では日本側の抗戦が続いて本土決戦となった場合に本州から九州への輸送路を絶つことなどを目的に、関門トンネルを爆破する計画があった。しかし実行前に終戦となったため、中止された。
1953年、開通10周年を記念して門司側坑口に「道通天地」の銘板を取付けたが、その後間もなく昭和28年西日本水害により関門トンネルが水没してしまった。このため「天と地が通じてトンネルが水没してしまった」とささやかれるようになった。
日本以外の水底トンネルの例
関門トンネルについては「世界初の海底鉄道トンネル」という惹句がしばしば用いられるが、1930年代当時の水底トンネルにおける国際的技術水準と比較して優れていたというわけではない。大河川の河口付近を横断する長大水底トンネルは、鉄道トンネルを中心に欧州や北米での先例があり、中でも特に古い先駆例としてはイギリス・セヴァーン川の河口を横断して掘削された鉄道トンネルのセヴァーントンネル(1873年着工・1886年開通)が挙げられる。同トンネルは全長7008m、うち水底部分3600m強と、関門トンネルを上回る規模である。
脚注
- ↑ 『鉄道ジャーナル』2003年10月号 鉄道ジャーナル社 p.30 ほか。写真や配線は[1]参照。デッドセクションも参照。
- ↑ 1939年4月19日付け大阪毎日新聞(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
- ↑ 1934年1月16日付け大阪毎日新聞(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
- ↑ 1942年6月3日付け読売新聞(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
- ↑ テンプレート:Cite journal