藤沢秀行
藤沢 秀行(ふじさわ ひでゆき、しゅうこう、1925年6月14日 - 2009年5月8日)は、囲碁棋士。本名は藤沢保(たもつ)。その後秀行に改名、本来の名前の読みは「ひでゆき」だが、「しゅうこう」と呼ばれることが多く、「しゅうこう先生」の名で呼ばれていた。
人物
日本棋院所属。福田正義 (囲碁棋士)門下。1998年10月13日に棋士を引退。
五男に藤沢一就八段。2010年4月に当時史上最年少11歳6ヶ月でプロとなった女流棋士藤沢里菜は一就の長女で秀行の孫にあたる。藤沢朋斎は年上ながら甥(姉の子)。
藤沢門下に天野雅文・高尾紳路・森田道博・三村智保・倉橋正行・金沢真らがいるが、この他にも合宿などで依田紀基・結城聡・坂井秀至ら多数の若手棋士を育てており、中国・韓国棋士も含め藤沢を師と仰ぐ者は多い。来るものは誰でも拒まずに受け入れた研究会『秀行塾』は有名。
経歴
- 1925年 横浜市で、69歳の父重五郎と23歳の母きぬ子との間に誕生する。
- 1934年 日本棋院の院生となり、福田正義五段に入門。
- 1940年 初段。
- 1943年 三段時に秀行に改名。若手時代は「丸太ん棒を振り回す」ような碁(安永一)と評された。
- 1948年 第1期青年選手権優勝。山部俊郎、梶原武雄とともに「戦後三羽烏」「アプレゲール三羽烏」と称され、また「異常感覚」との形容も付けられた。
- 1957年 第1期首相杯争奪戦優勝。
- 1959年 第1期日本棋院第一位決定戦優勝。
- 1960年 坂田栄男を破り、第5期最高位戦奪取。第15期本因坊戦で高川秀格本因坊に初挑戦。
- 1962年 13名から成る第1期旧名人戦リーグで、9勝3敗の成績で初代実力制名人の座を獲得する。
- 1965年 第2期プロ十傑戦優勝。
- 1966年 第10期囲碁選手権戦優勝。第21期本因坊戦で坂田栄寿本因坊に挑戦。
- 1967年 橋本昌二を破り第15期王座位獲得。
- 1968年 プロ十傑戦優勝
- 1968年 坂田栄男を退け王座防衛。
- 1969年 第16期NHK杯優勝。
- 1969年 第1期早碁選手権戦優勝
- 1969年 大竹英雄を退け王座位防衛
- 1970年 林海峰を破り、旧第九期名人位獲得。
- 1976年 大平修三を破り第一期天元位獲得。
- 1977年 第1期棋聖戦で橋本宇太郎を破り、初代棋聖位を獲得。以後6連覇(対加藤正夫、石田芳夫、林海峰、大竹英雄)により名誉棋聖の称号を得る。しかしこの間アルコール依存症が進行しており、七番勝負前になると必死の思いで断酒をし、禁断症状に苦しみながら防衛を果たすと、また酒漬けになるという日々が続いた。
- 1981年 第28期NHK杯優勝。
- 1983年 趙治勲に敗れ、棋聖の座を譲り渡す。この直後胃癌が発見され、切除手術を受けた。この後も悪性リンパ腫を放射線治療、前立腺癌を投薬治療し、三回の癌を克服している。
- 1987年4月27日、紫綬褒章受章
- 1989年 名人、本因坊両リーグ入り。
- 1991年 羽根泰正を3-1で降し、王座のタイトルを奪回。翌年には小林光一を相手に防衛を果たし、史上最高齢(67歳)でタイトル防衛記録を塗り替える。
- 1997年11月3日、勲三等旭日中綬章受章
- 1998年 老齢を理由に現役引退を発表。
- 1999年 日本棋院とは別の独自の段位免状を発行し、物議を醸す。日本棋院の免状が高すぎることに異議を唱えるための「たった一人の反乱」であったが、日本棋院から除名処分を受ける。2003年に日本棋院に復帰。
- 2005年 NHKテレビで「にんげんドキュメント 無頼の遺言~棋士・藤沢秀行と妻モト」放映。
- 2009年5月8日、誤嚥性肺炎により死去。テンプレート:没年齢。遺骨は生前の言に従い、瀬戸内海の山口県周南市大津島沖で10月13日散骨された。12月13日、NHK教育テレビジョンETV特集で「迷走~碁打ち・藤沢秀行という生き方」放映。
- 2010年4月24日、北京に「藤沢秀行記念室」がオープン。8月28日 に東京都 台東区 の小野照崎神社 に絶筆の書「強烈な努力」が刻まれた記念碑が建てられた。10月17日、散骨をした山口県周南市大津島に「モニュメント磊磊~海への旅立ち」除幕式。これを記念し10月16日から10月24日まで周南市美術博物館で「藤沢秀行書展」開催。
第1期名人位
1952年頃より日本棋院理事を務め、1960年には渉外担当理事となる。日本棋院の財政基盤改善策として名人戦創設を図る。読売新聞との契約をまとめ、1961年から第1期名人戦が開始、最高位タイトルを持っていた秀行も13人のリーグ戦に参加する。翌年8月の最終局まで9勝2敗のトップを走っていたが、最終局で橋本昌二に敗れて9勝3敗となり、呉清源 - 坂田栄男戦の勝者とプレーオフとなると思われた。しかし呉-坂田戦は呉の白番ジゴ勝ち(コミ5目で)となり、当時の規定でジゴ勝ちは正規の勝ちより下位とされていたため、藤沢の第1期名人位が決まった。
棋風・人柄
棋風は豪放磊落であり、厚みの働きを最もよく知ると言われた。ポカ(=うっかり)ミスで好局を落とすことも多かったが、「異常感覚」とも称される鋭い着想を見せ、「華麗・秀行」とも呼ばれた。「序盤50手までなら日本一」とされ、序盤中盤の局後検討で結論がでない場合は「秀行先生に聞こう」というのが、かつての日本棋院での決まり文句だった。
盤上での活躍の一方、盤外では酒、ギャンブル、借金、女性関係など破天荒な生活でも有名であった。癌の手術以前はアルコール依存症の禁断症状と戦いながらの対局を重ねていた。こうした「最後の無頼派」とでも称すべき藤沢の人柄を愛する者は多く、政財界に多くの支持者を抱えるほか、日中韓の若手棋士からも非常に尊敬されている。
この勝負師を陰で支えた妻・モトは著書『勝負師の妻—囲碁棋士・藤沢秀行との五十年』で彼を襲った数々の難局について述べている。
また書道の方でも豪放な作品を発表しており、各地で個展を開いているほか、1992年には大相撲の貴闘力の化粧まわしに「気」の文字を揮毫、厳島神社などにも作品が奉納されている。さらに、2007年にはニコニコ動画のコンテンツ「ニコニコニュース」の題字を手掛けた。[1]
若手育成
自分の門下生以外にも多くの若手棋士の育成に力を注いだ。昭和30年代には、阿佐ヶ谷の自宅で、茅野直彦、当時十代であった林海峰、大竹英雄、工藤紀夫、高木祥一、小島高穂ら十数人による月2回の研究会を行なっていた。これにはその後、さらに若い世代の安倍吉輝、福井正明、酒井猛、石田章、中村秀仁らが加わる。続いて1969年、不動産業のために代々木に事務所を開いたが、ここでも若手棋士が集まっての研究会が行われ、林海峰、曺薫鉉、四谷にあった木谷道場の石田芳夫、加藤正夫、武宮正樹、趙治勲らが集まり、事務所を閉じる1978年まで続いた。
1980年からは、入段したばかりの依田紀基、安田泰敏、院生の藤沢一就、小松英樹らで第三次研究会を始め、場所もよみうりランドの自宅に移した。この研究会はその後も弟子の森田、三村、高尾の他にも人数が増え、1984年からは年に2回の合宿を行うようになる。このメンバーは秀行軍団などとも呼ばれる。
1981年からは研究会のメンバーとともに訪中し、中国の棋士との手合や指導を行うようになる。これには聶衛平、劉小光、江鋳久、曹大元、若手の馬暁春、張文東らが参加した。この毎年1987年までと、それ以後の断続的な訪中は、中国の実力レベル向上に大きく寄与したと言われている。
1999年に行われた引退三番碁では、第1局(4月16日)で常昊、第2局(4月30日)で曺薫鉉、第3局(5月14日)で高尾紳路と、日中韓の棋士が対戦相手を務めた。引退碁が行われたのは本因坊秀哉以来。死後の2010年6月には北京市に「藤沢秀行記念室」が設立された[1]。
エピソード
- 父は相場師として名を挙げた人物で、賭博にも熱中したが囲碁でも三段の免状を持っていたとされる。
- 本拠地である阿佐ヶ谷を中心に中央線沿線に何軒かの碁会所を運営していた(門下生任せを含む)。
- 首相杯、日本棋院第一位決定戦、旧名人戦、早碁選手権、天元戦、さらに棋聖戦までも第1期の優勝を果たしており、「初物食いの秀行」といわれた。
- 多額の借金を抱えていた時期の第2期棋聖戦では加藤正夫に1勝3敗と追い込まれ、第5局開始前には「負けたときに首を吊るため」枝振りのよい木を探しながら対局場に向かったという。この碁で藤沢は一手に2時間57分という記録的な大長考を払った末、加藤の白石を全滅させ気迫の勝利を収めた。
- 将棋棋士の米長邦雄とは長い付き合いがあり、共著で出版もしている。
- 同じく将棋棋士の芹沢博文は「弟分」と呼ぶ仲で、飲み仲間でもあった。二人が酒の席で「囲碁・将棋の全てを100としたら、自分たちにはそのうちどのくらいをわかっているか」を紙に書いて見せ合ったことがある。藤沢は酔って気が大きくなってちょっと多めに「6」と書いた。芹沢は「4か5」と書いていた。藤沢は芹沢がわからないということがちゃんとわかっている男だと認め、デキるやつだったと回想している。[2]。
- 女性関係も派手で、愛人の家に入り浸って自宅に3年もの間帰らなかったこともあった。用事ができて帰らなければならなくなった際、自宅への行き方がわからず妻を電話で呼び出して案内させたという。
- 米長邦雄の妻が藤沢の妻を訪ね、米長の妻が「うちの主人は週に5日帰ってこないのですが」と藤沢の妻に相談したところ、藤沢の妻は「うちは3年、帰りませんでした」と答えた[3]。
- 本妻以外の女性との間にも子供がおり、認知もしている。
- 酒好きでほぼ毎日飲酒をしていた。しかし決して強いわけではなく、特に83年の胃癌の手術後は少量でも酔いが回るのが早くなったという。また、酔うと女性器の俗称を連呼する悪癖があった。鄧小平と面会した際、あろうことかベロンベロンに酔っぱらっており、「中国語ではおまんこのことを何というのだ」と執拗に絡み、面会は途中で中止となった。
- また、開高健のエッセイ『開口閉口』に出てくる、「門口で『やい、クロ饅子、でてこい!』と叫ぶ『疾風怒濤のロマン派』」とは藤沢の事である。
- ライバルであった坂田栄男とは個人的にもウマがあわなかったようで、1963年の第2期名人戦第6局での封じ手をめぐる応酬など、関係を物語るエピソードも多い。藤沢が日本棋院から除名処分を受けた際には、坂田は藤沢を激しく非難した。 ただ藤沢の死去に際し、「対戦成績は私の方が良かったが、才能は私よりあったと思う」(毎日新聞)と語り、没後に催された「偲ぶ会」にも車椅子で出席した。 また将棋棋士河口俊彦の著書には、あるとき日本棋院で藤沢に会った際、「今日は坂田に2万円借りた。坂田に金を借りるようじゃ俺もおしまいだな」と言ったというエピソードが書かれている。
- 碁を嗜む企業の役員や著名人からの人気も高く、藤沢が開催した書の展示会などにはたくさんの花や祝電が届き、直接会場に駆けつけ挨拶を交わす人も多かった。また、藤沢が贔屓にしていた碁の打てる銀座の会員制クラブ(2010年閉店)では、藤沢の私設後援会『藤沢会』の会員を対象に月に1回、藤沢とその弟子のプロ棋士が講習会を開いていた。
- 競輪が好きで、後楽園競輪で250万円を取り、それを花月園競輪で480万円にしたこともある。亡くなる前年には競輪場で転倒して骨折している。年2回の若手育成合宿は湯河原で行われるのが恒例だったが、その日程は小田原競輪の開催日程に合わせて組まれるのが常だったという[4]。
- 京王閣競輪場で250万円の車券を1点買いしたが惜しくも外れ、観戦していた決勝線付近の金網を強く握りすぎて菱形にひしゃげてしまい、「秀行引き寄せの金網」として京王閣競輪場の名所になった[3][5]。
- 棋聖戦6連覇の間に、借金のために自宅を競売にかけられたが、「最善手を求めて命を削っているから、借金も女も怖くない」と語った[3]。
- 戒名は自身が生前に決めていた「無明居士(むみょうこじ)」。
- 亡くなって3年以上たった、2012年の週刊碁11月5日号(10月29日発売)に「尊敬する棋士、好きな棋士ベスト10」・第2位を獲得した。[6]
著書
- 『藤沢秀行囲碁学校』(全6冊)平凡社 1971年
- 『丈和』(日本囲碁大系10)筑摩書房 1976年
- 『芸の探求シリーズ1 華麗 藤沢秀行』日本棋院 1977年
- 『秀行創作詰碁傑作集』日本棋院 1980年
- 『藤沢秀行 上・下』(現代囲碁大系26.27)講談社 1980年
- 『藤沢秀行名誉棋聖への道 : 棋聖戦1-5期激闘譜 』読売新聞社 1981年
- 『秀行 飛天の譜 藤沢秀行タイトル戦全集 上下巻』日本棋院 1982年
- 『棋聖秀行の碁』全5巻、四星社 1982年
- 『わたしならこう打つ 秀行囲碁道場 上・下』日本棋院 1982年
- 『囲碁発陽論(東洋文庫412)』(解説)平凡社 1982年
- 『基本手筋事典 上・下』日本棋院 1982年
- 『藤沢秀行 (現代囲碁名勝負シリーズ) 』講談社 1987年
- 『秀行の世界』全6冊、誠文堂新光社、1992年
- 『藤沢秀行全集』(全12冊)日本棋院 1994年
- 『藤沢秀行の碁の急所この一手 (NHK囲碁シリーズ) 』1995年
- 『秀行百名局』誠文堂新光社 2009年
ほか、極めて多数の(100冊を軽く超える)棋書を書き下ろしている(その多くは棋士にして囲碁ライターである小西泰三の構成による)。
ほかに本人の壮絶な生きざまを記したエッセイとして
- 『八方破れ人生―天才勝負師の戦陣訓』 (1971年)サンケイドラマブックス
- 『芸の詩 棋聖秀行囲碁放談』日本棋院 1978年
- 『碁打秀行~私の履歴書』角川文庫
- 『碁打ち一代』
- 『勝負と芸~わが囲碁の道』岩波新書 1990年
- 『野垂れ死に』新潮新書 2005年
- 『人生の大局の読み方 (フロムフォーティズ) 』
- 『人生の大局をどう読むか』 三笠知的生きかた文庫
- 『人生、意気に感ず』
- 『耐えて勝つ!』
- 『勝負の極北~なぜ戦いつづけるのか』
- 『戦いはこれからだ~人間的魅力の研究』祥伝社ノン・ポシェット文庫
また
- 藤沢モト『勝負師の妻~囲碁棋士・藤沢秀行との五十年』角川oneテーマ21
は夫人(正妻)による著書。 (本人の碁でなく)本人と妻の生きざまに焦点を当てたNHKによるテレビ番組が、DVD化されている。
- 『無頼の遺言~棋士・藤沢秀行と妻モト』NHKエンタープライズ
棋士が技術伝授でないビデオに出演するのは極めて異例のことである。
参考文献
- 小西泰三「波瀾万丈 裸の秀行」(『棋道』1994年5-12月号)