依田紀基
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依田 紀基(よだ のりもと、1966年2月11日 - )は日本の囲碁のプロ棋士。北海道岩見沢市出身。安藤武夫七段門下。1980年入段。1993年九段。
名人4期、碁聖6期、NHK杯優勝5回などタイトル獲得数35。第1回三星火災杯世界オープン戦優勝など、世界戦でも活躍。棋道賞は昭和56年に敢闘賞で初受賞したのをはじめ、優秀棋士賞4回など計20回。左利き。
履歴
- 1966年 2月11日、北海道美唄市に生まれる。岩見沢市育ち。安藤武夫七段に入門。
- 1980年 入段。入段後11連勝を記録。
- 1981年 棋聖戦初段戦優勝。二段、三段。
- 1982年 四段。
- 1983年 四段戦、新人王戦優勝。五段。
- 1984年 18歳で名人戦リーグ入り。
- 1985年 六段。
- 1986年 俊英、新人王、新鋭トーナメント戦優勝。
- 1987年 六段戦、新人王、新鋭トーナメント戦優勝。七段。
- 1988年 第4回日中スーパー囲碁に先鋒で出場し6人抜き。
- 1989年 名人、本因坊両リーグ入り。
- 1990年 新人王連覇、七段戦三年連続優勝。八段。
- 1991年 NHK杯優勝。「囲碁クラブ」誌の企画で李昌鎬と五番勝負を行い3-1で勝利。
- 1993年 NHK杯優勝。テレビ囲碁アジア選手権戦優勝。九段。
- 1994年 東洋証券杯世界選手権戦準優勝。日中スーパー囲碁で中国主将聶衛平を破り、日本勝利をもたらす。
- 1995年 第33期十段戦で、二連覇の大竹英雄十段を3-0で破り、初の番碁で十段位を奪取。以後二連覇。
- 1996年 王立誠を3-1で退け、十段位を初防衛。碁聖戦で、小林覚を3-0で下し、碁聖を奪取。以後三連覇。第3回応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦準優勝。第1回三星火災杯世界オープン戦の決勝三番勝負で、韓国の劉昌赫九段を2-1で破り、世界戦初優勝。
- 1997年 第3期JT杯星座戦初優勝。同年、碁聖を防衛。
- 1998年 NHK杯優勝。碁聖三連覇。趙治勲棋聖に挑戦するも2-4で敗れる。
- 1999年 NHK杯優勝。テレビ囲碁アジア選手権戦優勝。
- 2000年 NHK杯優勝。テレビ囲碁アジア選手権戦優勝。第25期名人戦で、四連覇の趙治勲を4-0で破り、前年の雪辱を果たすとともに初の名人位に就く。以後四連覇。
- 2001年 第26期名人戦で、林海峰九段を4-2で破り、名人二連覇。
- 2002年 名人三連覇。第24期鶴聖位獲得。棋聖戦リーグ入り。
- 2003年 第28期名人戦で、山下敬吾棋聖の挑戦を退け、名人四連覇。第28期碁聖戦で、小林光一碁聖に挑戦、3-2で碁聖位を獲得。秀哉賞を初受賞。
- 2004年 第17回世界囲碁選手権富士通杯準優勝。第59期本因坊戦で、挑戦者となるが、2-4で張栩本因坊に敗退。第29期名人戦で、挑戦者張栩九段に、2-4で敗れ、名人位を失う。第29期碁聖戦で山田規三生八段の挑戦を退け防衛。
- 2005年 第30期碁聖戦で挑戦者結城聡九段を3-0で退け、碁聖三連覇、通算6期。
- 2006年 2月、上海で開催された、第7回農心辛ラーメン杯世界囲碁最強戦の最終第3ステージにおいて、日本チームの主将として出場し、韓国副将の趙漢乗八段、中国主将の孔傑七段、韓国主将の李昌鎬九段の3人抜きし、日本チーム初優勝をもたらした。第31期碁聖戦で挑戦者張栩に0-3で敗れ、碁聖位を失い無冠になる。
- 2007年 本因坊リーグを勝ち抜き、高尾紳路本因坊に挑戦するも1-4のスコアで敗退。
- 2008年10月、第1回ワールドマインドスポーツゲームズ囲碁男子団体戦に山下敬吾、羽根直樹、河野臨、高尾紳路と日本代表チームを組み出場、銅メダルを獲得。[1]
- 2009年 棋聖戦で山下敬吾に挑戦するが、2-4で敗退。
棋風
- 棋風は柔軟で優れた大局観を持ち、捨て石の名手ともされる。
- 白2手目で天元、大高目2連打などの意表を突く布石を時折用いる。2007年には「神のお告げがあった」として初手5の十や黒3手目での「7の十」を打ち、話題を呼んだ。
人物
- 180cm・90kg と大柄で、髪を短く刈り込んだいかつい風貌。体型が多少変わっても融通が利くことから、近年は公私ともに和服を着用することが多い。
- 若くして頭角を現した「エリート棋士」の経歴からは想像しがたいが、以下に述べるように「最後の無頼派囲碁棋士」とでも呼ぶべき存在である。
- 自著「プロ棋士の思考術」で、以下のようなエピソードを明かしている。
- 小学校での成績がほとんどオール1であり、「このままでは自分は生きていけないのではないか」と激しい不安を抱いていた。
- 18歳で師匠宅から独立して一人暮らしとなったのち、新宿歌舞伎町に入りびたり、ギャンブルなどに熱中する生活を送るようになった。その生活から脱却したのは、先輩棋士の上村邦夫の助言によるものだという。
- 28歳で今度はバカラにのめりこむ。その生活を見直したのは、中村天風の著書を読んだことがきっかけだという。以降、天風の教えを自身の勝負観に盛り込んでいるという。
- 韓国の李昌鎬、中国の常昊らとも親しい関係にある。
- 「自分は意志が弱い」とし、名人戦のタイトル戦の対局前日に、熱狂的なファンである「三国志のゲーム」に熱中してプレイしていたこともあったという。
- 他にも、野球のルールを全く知らなかったなど、逸話が多い。
- 1984年津田女子大学を囲碁の講演に訪問、その際学内で知り合った囲碁をまったく知らない女子大生と交際後に結婚した。しかし1998年に離婚。その後1998年に女流棋士の原幸子と再婚し、2002年に長男、2003年に次男、2010年に三男が誕生している。原は依田を「大きな赤ちゃん」と形容し、「もしも私が3日間ほど彼の元を離れていたら、彼は餓死するかもしれない」と語っている。
- 自他ともに認める子煩悩。あるアマ囲碁大会で長男が熱を出して欠場したときには、自らが代理出場している[2]。
- 対局中に激しくぼやくことで有名。第54回(2007年度)3月11日、NHK杯の準決勝で趙治勲と対戦した際、優勢だった碁を自身の見落としで必敗の形勢にしてしまい、「ああー分かんねえよ、バカ」「ああひどいなあ、俺なあ」「そっか、ひどいね」「こんな碁打ってるようじゃどうしようもねえな」と激しくぼやきながら打つ姿が放送された。尚対戦相手の趙も対局中よくぼやくことで知られるが、この時は依田のあまりにも激しいぼやきぶりに黙りこんでしまった。
- NHK杯に遅刻を繰り返したことから、当時名人の地位にありながらNHK杯への出場権を取り消されたこともある。
- 世界最強とも目される韓国の李昌鎬、中国の古力相手に勝ち越している数少ない棋士。
- 政治家の小沢一郎と親交が深い。2007年10月、小沢が与謝野馨と対戦した際には解説を務め、「小沢先生の手には一手一手理屈がある」と評している。
- 美術鑑賞も趣味で、東京国立近代美術館の年間パスポートの利用者でもある。
筋場理論
- 本人によれば、碁の歴史を変えるほどの大発見である筋の根本原理である理論。
- 筋場は石が2つ以上並んだ瞬間に存在し、「2つ以上石が並んだ、相手の石がない側の1路横」、つまりアキ三角になる場所のことである。
- 手筋とは、「利き筋を手順よく利用して、相手の石を筋場に持って来て石の働きをよくする打ち方、あるいは自分の石が筋場にこない、そういう形を目指す打ち方」とできる。依田曰く、有名な手筋である「イタチの腹ヅケ」や「タヌキの腹ヅツミ」も筋場理論から言えば筋でもなんでもないということであり[1]、石を殺す手段であるナカデも場合によっては筋の悪い手と言える。なお、碁の筋には、①筋場理論と②ダメ詰まり(ウッテ返し系)があり、筋場が手筋になる場合もある。
表彰
- 1995年5月29日 北海道栄誉をたたえて
著書
- 『プロ棋士の思考術』(PHP新書)
- 『新版 基本布石事典 上・下』(日本棋院)
- 『21世紀の旗手―依田紀基、タイトル獲得への歩み』(日本棋院)
- 『勝負の極意―世界トップとの碁に学ぶ』(フローラル出版)
- 『依田ノート』(講談社)
- 『依田紀基のサバキの急所と手筋 (NHK囲碁シリーズ) 』
- 『初段の壁を破る依田囲碁講座』全3巻(筑摩書房)
- 『依田流 並べるだけで強くなる古碁名局集』(マイコミ)
- 『泰然知得―古典名局選集』(日本棋院)
- 『至高の決断―依田、山下、井山の頭脳』(マイコミ)
- 『石の効率がぐんぐん良くなる本』(マイコミ)
- 『基本の詰碁 初段・二段・三段』(成美堂出版)
- 『はじめてでもどんどん上達する囲碁の新しい打ち方』(主婦の友)
他多数
外部リンク
- 依田塾
- 日本棋院の依田紀基ページ
- 囲碁データベースの依田紀基ページ
- ヨダログ(本人によるブログ)
- 筋の根本原理筋場理論(ヨダログ)
- 筋場理論(依田塾)
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