女流棋士 (囲碁)

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女流棋士(じょりゅうきし)とは女性のプロ棋士のこと。この項目では、囲碁の女流棋士について解説する。

女流棋士は男女混合の一般棋戦に参加すると同時に、女流しか参加できない女流棋戦に参加することができる。

制度

日本棋院の場合、入段時には年1名から2名の女流特別採用枠がある(2010年現在まで)。関西棋院では、定員は示されていないものの、同様の制度及び研修棋士制度での優遇がある。これは囲碁の一般への普及を考慮した制度である。一般採用枠で入段したのは、宮崎志摩子桑原陽子加藤啓子謝依旻の4名。女流特別採用で入段した者には万波佳奈万波奈穂青葉かおり梅沢由香里らTV等マスメディアで活躍する者も多いが、小林泉美らタイトル戦線で活躍する者も少なくない。

ただし囲碁では入段時の特別枠、および女流棋戦に参加できるという優遇はあるものの、それ以外の昇段規定などは男性の棋士と同じであり、段位が同じ男性棋士と同等の格と見なされる。将棋の場合、奨励会を経由してプロ棋士になった女性が史上一人も存在せず、女性専用の組織・段制度のもとで戦っており、大きく事情が異なる(将棋の女流棋士を参照。また、将棋にも男女混合棋戦は存在する)。

歴史

平安時代には囲碁は女性のたしなみとされており、枕草子など古典文学にも碁を打つ女性の姿が描写されている。しかし鎌倉期以降囲碁は男性の楽しむものという傾向が強くなる。江戸期には太夫などが嗜む程度であったが、家元制度の整備とともに18世紀後半に初段に進んだ横関伊保安井知得仙知の娘で三段まで進んだ安井鉚などが現れる。幕末に著された『大日本囲碁姓名録』(弘化3年)には、二段野口松、豊田源(のち三段)など七名が記されている。林家分家の林佐野は16歳で入段、その後四段まで進み、明治碁界でも方円社設立に関わるなど活躍した。その養子である喜多文子は六段に進み(死後名誉八段を追贈)、日本棋院設立に大きな役割を果たした。喜多は杉内寿子伊藤友恵など多くの弟子を育て、女流棋士の数も増加していった。

1952年、初の女流タイトル戦である女流選手権(後に女流本因坊戦へ発展解消)が設立される。ここでは杉内寿子、本田幸子楠光子の本田三姉妹らが活躍した。1970年代からは小川誠子小林千寿らが活躍し、女流棋戦の数も増加した。平成以降ではこれらのタイトルを青木喜久代小林泉美加藤啓子梅沢由香里謝依旻万波佳奈矢代久美子鈴木歩ら多数の女性が争う戦国時代に入った。ただし2006年謝が女流最強戦を制し最年少女流棋戦優勝記録を更新すると、2008年には女流名人・女流本因坊・大和証券杯ネット囲碁レディースを制し、2010年には女流棋聖3連覇中の梅沢を下し、女流初の同時三冠を達成。これにより謝が頭一つ抜け出した状態になっている。

2014年、15歳9カ月の藤沢里菜会津中央病院杯・女流囲碁トーナメント戦を制し女流棋戦史上最年少で優勝を飾った。

女流の棋戦

国内棋戦

国際棋戦

主な女流棋士

      女流棋聖4期 女流最強位1期 (☆女流棋士史上最多記録)

女流棋士の実力

現在まで日本の女流棋士が七大タイトルの優勝はもちろん、挑戦権獲得や三大リーグ(棋聖名人本因坊の各リーグ戦)入りを果たしたことはない。ただし2006年に創設された若鯉戦(30歳以下および五段以下の棋士を対象)では、並みいる男性棋士を破り、謝依旻がタイトルを奪取した。他にも青木喜久代は新人王戦準優勝の実績があり、現役タイトルホルダーの依田紀基碁聖を破ったこともある。小山栄美は25歳以下の男女混合棋戦であったNEC俊英トーナメント準優勝の実績がある。また小林泉美も男性棋士に対して互角以上の戦績を残しており、2003年と2004年には七大タイトルの一つである十段戦の本戦に2年連続出場を果たし、リーグ入り間近に迫ったこともある。2011年には鈴木歩が棋聖戦リーグ入りにあと1勝と迫ったが、河野臨に阻まれた。

海外では2000年、韓国棋院の中国女流棋士芮廼偉が、曺薫鉉(世界タイトル11回優勝)を破って韓国のタイトルの一つ国手を奪取しており、世界選手権戦でもベスト4にまで残った実績を持つ。

これらのことから、囲碁の男女間の実力差は将棋のそれに比べて小さいとする意見が一般的である。

参考文献

  • 安藤如意、渡辺英夫『坐隠談叢』新樹社 1955年
  • 福井正明、相場一宏『碁界黄金の十九世紀』日本棋院 2007年