藤原純友
藤原 純友(ふじわら の すみとも、寛平5年(893年)? - 天慶4年6月20日(941年7月21日))は、平安時代中期頃の貴族、海賊。右大弁藤原遠経の孫。大宰少弐藤原良範の3男[1]。弟に藤原純乗がいる。官位は従五位下[1][2]・伊予掾。
瀬戸内で朝廷に対し反乱を起こしたことで知られる。純友の乱は関東で平将門が起こした乱と併せて承平天慶の乱と呼ばれる。
生涯
藤原氏の中でもっとも栄えた藤原北家の出身で大叔父には藤原基経がいるが、早くに父を失い、都での出世は望むべくも無く地方官となる[3]。
当初は父の従兄弟である伊予守藤原元名に従って伊予掾として、瀬戸内に跋扈する海賊を鎮圧する側にあった。しかしながら、元名帰任後も帰京せず伊予国に土着する。承平6年(936年)頃までには海賊の頭領となり[4]、伊予(愛媛県)の日振島を根城として千艘以上の船を操って周辺の海域を荒らし、やがて瀬戸内海全域に勢力をのばした。
関東で平将門が乱を起こした頃とほぼ時を同じくして瀬戸内の海賊を率いて乱を起こし、藤原純友の勢力は畿内に進出、天慶2年(939年)には純友は部下の藤原文元に摂津国須岐駅にて備前・播磨国の介(備前介:藤原子高、播磨介:島田惟幹)を襲撃させ、これを捕らえた。翌天慶3年(940年)には、2月に淡路国・8月には讃岐国の国府を、さらに10月にはついに大宰府を襲撃し略奪を行った。
朝廷は純友追討のために追捕使長官:小野好古、次官:源経基、主典:藤原慶幸・大蔵春実による兵を差し向け、天慶4年(941年)5月に博多湾の戦いで、純友の船団は追捕使の軍により壊滅させられた。純友は子息の重太丸と伊予国へ逃れたが、同年6月に伊予国警固使橘遠保により討たれたとも、捕らえられて獄中で没したともいわれているが、資料が乏しく定かではない。[5]。また、それらは国府側の捏造で、真実は海賊の大船団を率いて南海の彼方に消息を絶ったともいわれている。
将門の乱がわずか2ヶ月で平定されたのに対し、純友の乱は2年に及んだ。また、純友の合戦の様子は『純友追討記』として、追補使により政府への報告がなされたとされ、一部が『扶桑略記』に引用されている。
藤原純友を祀った神社として、現・岡山県松島の純友神社、現・愛媛県新居浜市の中野神社がある。
逸話
純友が反乱を起こした当時、関東では平将門が反乱を起こしていたが、将門と純友は共同謀議をしており、将門と共に京都を制圧した時には関白になる計画を描いていたという[6][注釈 1]。ただしこの謀議は比叡山で行なわれたとされ、将門と純友が比叡山から平安京を見下ろして「将門は王孫なれば帝王となるべし[6]、純友は藤原氏なれば関白とならむと約し」とあるなど、当時の将門や純友は関東と伊予から動いていないため史実ではない。[7]
系譜
純友が藤原の血統であることには有力な異説がある。それによると純友は、大山積神(オオヤマツミ)を祖先とする伊予国の豪族越智氏の一族で今治の高橋郷の高橋友久の子であったが、良範が伊予の国司として赴任したおりに養子になり、藤原姓を名乗ったというものである。
後世、有馬氏・大村氏などは藤原純友の子孫と称した[10]。筑後国の蒲池氏もまた藤原純友の後裔とする伝承があるが[11]、繋がりがあるのは橘公頼とされる。
藤原純友が登場する作品
- 北方謙三『絶海にあらず』(中央公論新社)
- 桑山泰雄『平安流風』(新風舎)
- 夢枕獏『陰陽師 瀧夜叉姫』(文藝春秋)
- 『風と雲と虹と』(純友を描いた海音寺潮五郎の小説『海と風と虹と』を原作の1つとした1976年のNHK大河ドラマ。純友は緒形拳が演じた)