ドイツ社会民主党

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テンプレート:政党 テンプレート:社会民主主義 ドイツ社会民主党(ドイツしゃかいみんしゅとう、ドイツ語Sozialdemokratische Partei Deutschlands、略称 SPD)は、ドイツ中道左派社会民主主義政党社会主義インターナショナル加盟。

概要

中道右派キリスト教民主同盟 (CDU) と並ぶ二大政党の一つである。度々政権を担当しており、ドイツ再統一後では1998年から2005年11月までは同盟90/緑の党と連立を組んで政権を担当し、2005年から2009年までと2013年以降にCDU/CSUと大連立を組んで連立与党となっている。ドイツ最古の政党であり、イギリス労働党フランス社会党などと共に欧州の社会民主主義政党の中核的存在である。日本の社民党とは友好関係にある。

党史

ドイツ帝国時代

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1892年から1913年まで社民党の共同党首だったアウグスト・ベーベル(1863年撮影)

1875年にゴータにおいて創設されたドイツ社会主義労働者党が前身である。同党は1877年の帝国議会(Reichstag)選挙において得票率の9%を獲得し、第四党の地位を確立した。脅威を感じたドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクは1878年に社会主義者鎮圧法を制定。これにより社会主義労働者党は官憲から国外追放や新聞の発禁など様々な手段の弾圧を受けるようになった。また社会主義者は「祖国なき輩」として社会的にも迫害を受けた。しかしながらこれらの弾圧や迫害がかえって同党の結束力を高めることとなった。

1890年帝国議会選挙では得票率のうえでは19%を獲得して第一党となっている(ただし保守系議員に著しく有利な選挙区制度により議席の上では第一党とはなれなかった)。さらに同年9月に社会主義者鎮圧法が失効。これを機に社会主義労働者党はドイツ社会民主党(SPD)と党名を変更した。アウグスト・ベーベルパウル・ジンガーを党首とした指導体制が築かれた。社民党は1905年に党員38万人、1913年に党員108万人を突破した。社民党と密接な関係を持っていた自由労働組合も1913年には組合員250万人を突破している。1912年の帝国議会選挙では社民党は得票率34.8%を獲得して得票の上でも議席の上でも第1党となった。国際的にも第二インターナショナルの中心勢力として重要な存在だった。無数の社会団体やスポーツクラブ、新聞などを保有して文化面での活動も広げていった。しかし議院内閣制が確立しなかったドイツ帝国においては議会の第1党となっても社民党はなお「隔離」された存在であり続けた。

思想面

1891年に社民党はマルクス主義に基づくエルフルト綱領を制定している。一方、1899年エドゥアルト・ベルンシュタインが、資本主義社会を革命社会主義へ変えるのではなく議会活動を通じて社会を改良していくという修正主義を主張したが、1903年のドレスデン大会で当時は党内の主流派だったカール・カウツキーローザ・ルクセンブルク教条主義者の猛反対で、挫折した。しかし、後に再提案され、党は分裂し、ベルンシュタインの流れを汲むようになった主流派(改良主義者達)は第一次世界大戦に協力した。いっぽう反戦を主張したカール・リープクネヒトローザ・ルクセンブルクなどの急進派は、独立社会民主党を結成した。

植民地に対する見解

結党から長きにわたって社民党は原則として植民地領有や植民地政策に反対してきた。しかし党の規模が成長するにしたがって修正主義的な立場から「植民地支配は文明国の権利であり義務である」として植民地支配を支持する者が増えていった[1]。植民地問題は政府にとって社民党の支持層である労働者を含めて全国民から支持を得やすい問題であった。ドイツ領南西アフリカで発生したホッテントット族の反乱に伴う軍の駐留費の予算案をめぐって行われた1907年初頭の「ホッテントット選挙」においても植民地支配に反対していた社民党は労働者から離反されて後退を余儀なくされている[2]。こうした情勢から社民党は1907年9月の第2インターナショナルのシュトゥットガルト大会において「社会主義的植民地政策」を宣言し、植民地領有を公然と認めるに至った[3]

第一次世界大戦

ドイツ社民党の主流派は戦争を支持した(城内平和)。このことは世界を驚かせた。ロシアの社会主義指導者ウラジーミル・レーニンはドイツ社民党の戦争支持を「裏切り」と呼んで批判している。しかしマルクスエンゲルスも社民党党首ベーベルも「ロシア帝国ツァーリズムこそがヨーロッパ社会主義運動の最大の敵」と定義しており、ことにエンゲルスは「もしフランス共和国がツァーリの支配するロシア帝国と組むのであれば遺憾ながらドイツ社会主義者はフランスと戦うしかないだろう」とまで述べていた[4]。これらを考えればドイツ社会主義者の主流であるドイツ社民党が戦争を支持したことはさほど不思議なことではなかったともいえる。もっとも戦争目的においてはもちろん社民党は他の保守右翼政党の主張とは異にした。保守・右翼政党は占領地をドイツ帝国に併合することによって達成される「勝利の平和」が戦争目的であると主張したのに対して、社民党はこれに反対して敵国との和解による「和解の平和」が戦争目的であることを主張した。社民党はふたたび売国奴扱いされたが、戦況が泥沼化するとともに「勝利の平和」論は疑問視せざるを得なくなり、「和解の平和」論が有利になっていった。中道政党である中央党(社民党に次ぐ第二党)のマティアス・エルツベルガーが「勝利の平和」から「和解の平和」に転じた。エルツベルガーの主導の下、1917年に社民党と中央党と進歩人民党の三党(社民党と中央党の二党で帝国議会の過半数を超える)は共同して「平和決議」を帝国議会で採択させている。

1918年7月には連合軍の大反撃が行われ、ドイツ軍が後退を開始。一挙に戦線が崩壊することはなかったが、これ以上戦争を継続すればそれも時間の問題であった。連合国の中心であるアメリカ合衆国は休戦に応じる条件として「世界平和を攪乱させる政府の除去」を主張し、暗にドイツ帝国の解体を求めてきた。パウル・フォン・ヒンデンブルク参謀総長やエーリヒ・ルーデンドルフ参謀次長ら軍の最高司令部はこれ以上の戦争継続は不可能と判断して、まだ戦争継続可能と主張する皇帝ヴィルヘルム2世を説得のうえ、帝国宰相ゲオルク・フォン・ヘルトリングに休戦の準備のために政府の大改革を求めたが、保守主義者のヘルトリングはそのようなことはとても応じられぬとして総辞職した。

1918年10月3日に自由主義者としてアメリカはじめ連合国から評価が高かったバーデン大公マクシミリアンが帝国宰相に任じられた。社民党と中央党と進歩人民党がマクシミリアンを支持して与党を構成した。マクシミリアン自体は政党人ではなかったが、閣僚はこの三党の者から構成されていたので、ドイツ帝国の最初で最後の政党内閣だったと言える。マクシミリアンや社民党はアメリカ大統領ウィルソンが主張した「ドイツ軍部や王朝的専制君主は交渉相手とは認めない」という交渉資格の要求をクリアーするために10月27日にヴィルヘルム2世を説得して憲法を改正させて、内閣は議院に責任を負うという議院内閣制を確立した。

ドイツ革命

改良主義である社民党は決してドイツ帝国の解体などは望んでいなかった。だが、1918年10月末、無謀な作戦への動員を命じられたキール軍港の水兵たちが反乱をおこし、労働者がこれに加わって大勢力となり、キールは「労兵協議会」により実効支配されてしまい、更にキールでの革命成功を聞いたドイツの主要都市でも次々と蜂起があり、「労兵協議会」が各主要都市を掌握してしまう。11月7日にはドイツ帝国の領邦の中でプロイセン王国に次いで大きいバイエルン王国で独立社民党の指導者クルト・アイスナーらによる革命が勃発。ヴィッテルスバッハ王家が廃され、アイスナーによって「バイエルン共和国」の樹立が宣言された。

社民党はこうした「ドイツ革命」と呼ばれる反乱には参加せず、逆に何とか押しとどめようとした。しかし大衆の急進化はもはや止めがたいと見た社民党はドイツ皇帝の退位を目指す事とした。社民党はマクシミリアンに対して11月9日までに皇帝の退位が実現できぬのであれば内閣から離脱すると通達した。進退きわまったマクシミリアンは11月9日昼に独断で皇帝ヴィルヘルム2世の退位を発表したうえで、宰相職を社民党の党首フリードリヒ・エーベルトに譲った。ヴィルヘルム2世はオランダへと逃亡していった。こうしてドイツには社民党政権だけが残された。

午後2時頃、独立社会党の中でも特に極左勢力である「革命的オプロイテ」(de) が「社会主義共和国」の樹立を宣言するとの情報が社民党政権に伝わり、独立社民党が今後のドイツの主導権を握ることを阻止するために社民党の政治家フィリップ・シャイデマンが機先を制して「ドイツ共和国」の樹立を宣言した。しかしエーベルトは皇帝が退位しても共和制にするかどうかは議会で決められるべきと考えていたのでシャイデマンに対して「キミは何の権限で共和国宣言などしたのか!」と叱責した。

革命後、ヴァイマル共和政確立まで

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1919年から1925年までドイツ大統領だった社民党のフリードリヒ・エーベルト

社民党のシャイデマンによって共和国宣言が行われた後、エーベルトの社民党政権は独立社民党に政権参加を求め、独立社民党も承諾した。11月10日に社民党と独立社民党は半数ずつ閣僚を出し合って「人民委員会議」なる仮政府を創設した。同日、エーベルトは軍(革命の中で国内の軍は解体されていたが、前線の軍は参謀本部の指揮下にいまだ存続していた)のヴィルヘルム・グレーナー参謀次長と連絡し、労兵協議会を押さえることを条件に軍の支持を取り付けた。11月11日にはパリ北方コンピエーニュの森で連合国に対して休戦協定の調印をさせた。この協定によってドイツは巨額の賠償金を支払うことが予定された。11月12日には社民党政権は戒厳状態の廃止、集会結社の自由、検閲の廃止、戦時中停止されていた労働者保護立法の復活、社会政策の拡充、近い将来の八時間労働制の確立、また近い将来に全ての公的団体の選挙は20歳以上の男女すべてに平等に与えられるようにすることを宣言した。

しかし独立社民党、特に独立社民党内の過激な極左勢力「革命的オプロイテ」と「スパルタクス団」(ドイツ共産党の前身)はプロレタリア独裁を志向して労兵協議会こそが全ての権力の源泉となるべきであり、議会などいらないと考えていた。彼らは社民党の議会開催への努力を妨害することに明け暮れたので社民党政権と極左勢力の間で不穏な空気が漂った。特に1919年12月23日の右翼の人民海兵団が起こした反乱の鎮圧の際の不手際が原因でもめて、独立社民党がエーベルト社民党政権から離脱して以降、極左勢力の社民党攻撃は一層激しくなった。独立社民党はプロイセン州の社民党政権からも離脱したが、このときに辞任を拒否した独立社民党のベルリン警視総監エミール・アイヒホルンde)を1919年1月4日に社民党が罷免したことで極左勢力は怒りを爆発させてデモを組織した。20万人を超える人がデモに参加した。これに乗じてドイツ共産党指導者カール・リープクネヒトは「スパルタクス団蜂起(一月蜂起)」を起こし、社民党政権打倒の武力革命を狙った。これを受けて社民党のグスタフ・ノスケ国防相は軍(戦争終結後、前線の軍はドイツ国内に戻り、多くは四散したが、若干の軍隊は各地に残り、引き続き参謀本部指揮下にあった)に反乱の徹底的な鎮圧を命じた。軍は情け容赦なく共産党員を攻撃し、敵対する者も逃走する者も無抵抗な者も関係なく次々と撃ち殺されていった。リープクネヒトもローザ・ルクセンブルクもこの際に軍によって虐殺されている。

このスパルタクス団蜂起以降、社民党政権は極左から身を守る必要性を痛感し、軍とますます接近した。軍は帰還兵たちにドイツ義勇軍を次々と創設させて反革命軍事行動を行わせた。社民党政権も極左を潰す必要性からその活動を黙認した。ますます反革命化する社民党と他の社会主義政党の溝は深まった。独立社民党も社民党との対決姿勢を強め、共産党と同類の極左になっていった。

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1919年1月、国民議会選挙の選挙活動をする社民党員たち

1919年1月19日の国民議会(Nationalversammlung。この時のみの議会名称。ヴァイマル憲法制定後には議会名は帝国議会(Reichstag)に戻る)選挙が行われた。選挙戦中、共産党が議会政治反対の立場からボイコット運動を展開していたが、大多数の国民は相手にせず、投票率は82%以上を記録した。社民党は163議席取った。目指していた単独過半数には届かなかったが、議会の第一党だった。極左の独立社民党は22議席しか取れなかった。

スパルタクス団蜂起の影響で議会はベルリンではなく、2月6日にヴァイマルにおいて招集された。議会ではまず社民党党首エーベルトが大統領に指名された。これには社民党以外の政党も多くが支持票を投じている。さらに社民党と中央党ドイツ民主党の三党連立(以降この三党はヴァイマル共和政下で連立を組む事が多くなり「ヴァイマル連合」と呼ばれることとなった)の下、社民党のシャイデマンが首相に就任した。エーベルト大統領やシャイデマン首相以下社民党政権は憲法の制定に取り掛かり、委員会で議論を重ねた末に1919年7月末に国民議会の本会議で世界で最も民主的と言われるヴァイマル憲法を可決させた。さらに社民党政権は連合国から突きつけられていたドイツに激しい迫害を加える内容のヴェルサイユ条約を締結するしかないと判断し、中央党とともに6月22日の議会でこの条約の承認決議を行った。この際にシャイデマン首相はヴェルサイユ条約に反対したため、首相を辞職した。また民主党も反対して連立から離脱している(この年の秋には復帰する)。

ヴァイマル共和政時代

社民党が可決させたこのヴァイマル憲法とヴェルサイユ条約によってヴァイマル共和政の基本体制は築かれた。しかし保守・右翼及び共産党以下極左はヴァイマル共和政など認めなかった。

1919年4月にはバイエルンで共産党が革命を起こし、同地の社民党政権を追放してバイエルン・レーテ共和国を勝手に樹立(ロシアのウラジーミル・レーニンの「世界革命」に向けての工作でもあった)。事態を危険視した社民党政権のノスケ国防相は軍や義勇軍の動員を決定。ミュンヘンへ攻め上らせてレーテ共和国を叩きつぶした。出動した軍や義勇軍は共産党員虐殺も多数引き起こしたため、他の社会主義政党からの社民党の評判はますます悪くなった。特に国防相ノスケは「人殺しノスケ」などと呼ばれた。一方、軍や義勇軍ももともと反民主的な右翼が多いので自分達に頼りっきりの社民党政権をなめるようになった。それが事件となって表れたのが1920年3月にヴォルフガング・カップヴァルター・フォン・リュトヴィッツ将軍の指揮の下に義勇軍によって起こされたカップ一揆であった。社民党のノスケはこれも軍を動員してつぶそうとしたが、義勇軍を同志と見る軍の軍務局長ハンス・フォン・ゼークト将軍は「国防軍同士で争うことはできない」と鎮圧を拒否した。焦った社民党政権はベルリンを捨てて逃亡した。その後、社民党政権は労働組合にゼネストを呼びかけてベルリンを占拠した反乱軍の政治を機能不全に陥らせて崩壊させ、ベルリンに戻ることができたが、責任を取ってノスケが辞職することとなった。後任の国防相は民主党のオットー・ゲスラーが就任した。ゲスラーは以降8年間国防相の地位にあった。社民のノスケは軍を完全に政府の支配下に置くことを目指していたが、社民よりは保守的な民主のゲスラーは必ずしもそれを目指さなかったので軍がヴァイマル共和政の中で半ば独立した大勢力になってしまうことを阻止できなかった。

社民党政権と極左との対立も続いた。カップ一揆の際の労働者のゼネストには共産党も参加していたが、カップ一揆の鎮圧後に社民党がゼネストの解除を求めても共産党は応じなかった。共産党はゼネストから革命を狙って動いたのでザクセンからテューリンゲンに至る中部地域でまたしても「レーテ共和国」が樹立されてしまった。社民党政権はふたたび軍を動員してこれを潰した。バイエルンと同じく共産党の赤色テロとその復讐の軍の白色テロが吹き荒れることとなった。バイエルンもそうであるが、軍が鎮圧した地域は事実上の軍政下に置かれてしまい、社民党政権の統制下から離れてしまうという悪循環もあった。

国民は社民党とヴァイマル共和政に嫌気がさし、極左志向になるか帝政懐古する者が増えた。1920年6月6日の帝国議会選挙はそれが端的に示された。この選挙ではヴァイマル共和派が軒並み惨敗した。社民党は第一党は維持したものの102議席に減らした。社民党と連立を組む民主党も75議席から39議席に落とし、中央党も91議席から64議席に落とした。一方、極左陣営(プロレタリア独裁志向)の独立社民党は84議席獲得して第二党に躍進、初めて選挙に出た共産党も4議席を獲得した。保守・右翼陣営(帝政復古志向陣営)も躍進し、ドイツ国家人民党が71議席を獲得して第三党、ドイツ人民党が65議席を獲得して第四党の地位を確立した。社民党のヘルマン・ミュラー内閣は総辞職せざるを得なくなった。この後、中央党と民主党と人民党の三党連立政権へ移行した。人民党と激しく対立していた社民党が政権から離れることとなったものだが、まもなく保守的な人民党は連立からはずされたので、代わりに社民党が与党に復帰した。もっともこの頃からヴァイマル共和政の主役は社民党から中央党へ移っていった。

1920年7月、ソ連コミンテルン加入問題をめぐって独立社民党が割れ、コミンテルン加入に賛成する独立社民党内の極左派は共産党へ移ったため、独立社民党の極左傾向は大幅に減少し、社民党と独立社民党の主張がほぼ一致するようになり、1922年秋には独立社民党は社民党の下に合流した。これにより社民はやや左にウィングを伸ばした。1922年11月にエーベルト大統領が人民党がグスタフ・シュトレーゼマンの下に帝政色を薄めてきたと判断して連立に加えようとした際に社民党が反対し、そのためヨーゼフ・ヴィルト内閣は瓦解してしまった。次のヴィルヘルム・クーノ内閣では社民党は与党からはずされたが、クーノ内閣はフランスによるルール地方占領(ドイツがヴェルサイユ条約に不履行があったと理由をつけて占領した)とインフレの経済的混乱の中で辞職。その後継として1923年8月に成立した人民党のグスタフ・シュトレーゼマンの内閣には危機的状態から大連立の必要性を痛感した社民党も参加。社民党(独立社民党からの帰還組)のルドルフ・ヒルファーディングが大蔵大臣となる。ヒルファーディングは新マルクの発行を主張したが、断交に踏み切れずに10月6日に更迭された。しかしこの考えは通貨全権委員ヒャルマル・シャハトレンテンマルクによって実現され、インフレは奇跡的に収束した。なお10月13日にインフレの危機を非常事態として議会の承認無しでシュトレーゼマン内閣の独裁権を認める「授権法」が議会に提出されたが、社民党はこれに賛成して可決させている(後のヒトラー内閣が国会議事堂放火事件を非常事態として議会に提出した「授権法」には反対している)。

1923年10月10日、社民党左派のエーリヒ・ツァイグナーが首相を務めるザクセン州政府に共産党員が閣僚として参加した。シュトレーゼマンの中央政府は軍を出動させてザクセンを占領し、共産党参加政府を解体した。これに反発した共産党はハンブルクで暴動を起こしたが、すぐに鎮圧された。社民党は複雑だった。社民党はシュトレーゼマン内閣の一員だし、社民党本部はツァイクナーが共産党員を入閣させたことには反対の立場であった。しかし「レーテ共和国」とは違い、一応合法的な社民党の政府が共産党員を内閣に参加させただけでいきなり軍の討伐を受けて滅ぼされるというのは同じ党に属する者として忍びがたいことであった。社民党はこの事件を機に連立政権から離脱した。以降社民党は1928年6月まで野党となった。社民党の離脱で議会の基盤を失ったシュトレーゼマン内閣は11月末には倒れた。

1924年5月の帝国議会選挙では右翼のドイツ国家人民党に第一党の地位を奪われた。しかもこの選挙では極左の共産党が17議席から64議席に躍進、またミュンヘン一揆の失敗で禁止されていたナチ党の偽装政党国家社会主義自由党も32議席獲得して初めての出馬にしてはなかなかの好成績をあげた。同年12月の帝国議会選挙では社民党は131議席を掌握して第一党の地位を奪い返した。ドイツ国家人民党も微増した。共産党とナチ党は議席を大きく落とした。

1924年にヴァイマル共和政打倒を目指す政党の準軍事組織(ナチ党の「突撃隊」や共産党の準軍事組織「赤色戦線戦士同盟」)に対抗するため、社民党は「国旗団」や「鉄の戦線de:Eiserne Front)」といった準軍事組織を創設し、その隊員はナチ党員や共産党員と街頭で激しい殴り合いを行った。

1925年2月28日には社民党に所属するドイツ大統領エーベルトが死去。4月26日の大統領選挙では社民党は「ヴァイマル連合」の仲間として中央党のヴィルヘルム・マルクスを押したが、保守・右翼が擁立したパウル・フォン・ヒンデンブルク(ナチ党も彼を支持)に僅差で敗れた。これは最終的にナチスの独裁政治へと行きつくヴァイマル共和政の右傾化の前兆であった。この大統領選挙に共産党議長エルンスト・テールマンが当選の見込みもないのに泡沫候補として出馬していた。ヒンデンブルクとマルクスは僅差であったことからテールマンのせいでリベラル・左翼票が割れてマルクスが敗れた側面もあり、社民党ら「ヴァイマル連合」と共産党の対立はますます激化した。

1928年5月の選挙は社民党が大幅に躍進した。当時好景気になっていたため、ヴァイマル共和政とそれを作った社民党に支持が集まっていたのであった。これを背景に久しぶりの社民党首班政権であるヘルマン・ミュラー内閣が発足した。社民・中央・民主の「ヴァイマル連合」に加えて人民党とバイエルン人民党も連立に参加した。大連立のおかげで比較的安定した議会運営が可能となり、この内閣はヴァイマル共和政下で最長の在任期間を記録することになる。しかし1929年には世界大恐慌がドイツを襲った。うまく対応できなかったミュラー内閣は、1930年3月に総辞職。以降は議会に基づかずにヒンデンブルクが独断で首相を選ぶ「大統領内閣」となり、ミュラー内閣の終焉を持ってヴァイマル共和政の議会制民主主義は機能不全に陥ったと評価されている。

一方不景気を背景に国民は再びヴァイマル共和政を否定するようになり、ナチ党や共産党のような反ヴァイマル共和政政党がますます躍進することになった。1930年の帝国議会選挙では社民党が第一党を確保したものの、ナチ党が第二党、共産党が第三党となり、それ以外の穏健政党は軒並み没落した。特にナチ党の躍進ぶりは著しく、1932年7月の帝国議会選挙ではナチ党は社民党を追い抜いて第一党の地位を確立した。

ナチス時代

議会で第一党を占めるナチ党の党首アドルフ・ヒトラー1933年1月30日にヒンデンブルク大統領より首相に任命され、ナチ党政権が誕生した。ナチ党政権は、共産党集会・機関紙を禁止とし、社民党集会・機関紙も中止・発行停止に追い込む弾圧を加えた。さらに、総選挙の投票を控えた1933年2月27日夜に発生したドイツ国会議事堂放火事件を利用して共産党への大弾圧を加え、社民党への選挙妨害も激しさを増した。追い詰められた共産党はこれまで「社会ファシズム」と批判してきた社民党との統一戦線を提案したが、社民党はこれを拒絶した。選挙の結果、ナチスは288議席(+92)、社民党は120議席(-1)、共産党は81議席(-19)を得たが、共産党議員は全員ナチスに逮捕されるか、あるいは亡命を余儀なくされた。

共産党を壊滅させたナチ党は続いて社民党に狙いをつけた。3月に社民党の準軍事組織の国旗団がナチ党政権により禁止されて解散させられ、複数の国会議員も逮捕された。3月23日にヒトラーが帝国議会に提案した全権委任法に社民党は反対した。反対演説の際に社民党党首オットー・ヴェルスは「我々は無防備だ、無防備だが不名誉ではない」という演説を行った。ヒトラーはこのヴェルスの演説に怒りのあまり我を忘れて「お前たちはもう用済みだ。ドイツの星はこれからどんどん上っていくが、お前たちの星は下がりゆくのみだ。お前たちの時代はもう終わったんだ。」とわめいた。共産党議員が登院できない状況で、反対票を投じることができたのは社民党だけであった(賛成441、反対94。26人は逮捕・逃亡による無出席で、投票の分母に加えられない『棄権』扱い)。一方で社民党は存続のためにナチ党の怒りを買わぬよう、融和的な態度も示した。3月30日に社民党が労働社会主義インターナショナルから脱退したのはその表れである。

しかしナチ党は社民党を見逃すつもりはなかった。3月31日に名実共に共産党を非合法化し、議席を剥奪したのを皮切りに、5月2日には社民党を支持する労働組合が突撃隊親衛隊により次々と襲撃され、その幹部達が逮捕された。労働組合の資金は没収されて唯一合法な労働組合とされたロベルト・ライが率いる「ドイツ労働戦線」の資産となった。5月10日には社民党の全資産も没収された。6月に入るとヴェルス以下社民党幹部は続々とドイツから亡命していった。そして6月22日には社民党は全ての活動を禁止されて消滅することとなった。残っていた社民党の政治家は次々と強制収容所へ送られていった。

ヴェルスら亡命した党員はチェコスロバキアで「ドイツ社会民主党指導部SoPaDe、ソパーデ)」と呼ばれる組織を結成し、政治活動を続けた。1934年にはプラハ宣言(de:Prager Manifest)を発してナチスに対する対抗姿勢を明らかにした。チェコスロバキア併合後はパリに移り、1939年にヴェルスが死亡するとハンス・フォーゲルがSoPaDeの指導者となった。1940年のナチス・ドイツのフランス侵攻後はロンドンに亡命したが、ルドルフ・ヒルファーディングら逃亡中に捕らえられる幹部も出た。1941年には在英ドイツ社会主義組織連合en)を結成し、ズデーテン・ドイツ社会民主党en)などの亡命社会主義組織と連携をとった。またヒトラー暗殺未遂事件の参加者などの国内の反ナチス派と接触している。

第二次世界大戦後

第二次世界大戦後、社会民主党は復活したが、オットー・グローテヴォール率いるドイツ東部のソ連占領地区(後の東ドイツ)の党員はドイツ共産党へ強制編入され、ドイツ社会主義統一党(SED)を結成した。その後東ドイツでは1989年に再建されるまで社会民主党は禁止された。

国民政党への転換

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1959年のバート・ゴーテスベルク党大会のポスター

西ドイツ側の社会民主党は、クルト・シューマッハーを中心として再建された。1959年バート・ゴーデスベルク綱領[1]を採択してマルクス主義の階級闘争的な考え方と絶縁し、中道左派の国民政党へと転換した[5]1966年キージンガー政権ではキリスト教民主同盟(CDU)と大連立を組み、次いで1969年には、自由民主党(FDP)とともに党首のヴィリー・ブラントを首相とする連立政権を発足させた。以後、ブラント[6]とその後を継いだヘルムート・シュミット政権が自由民主党が連立を離脱する1982年まで続いた。

その後16年近く続いたキリスト教民主同盟のヘルムート・コール政権の下で野党の座に甘んじた。この間、5年に及ぶ長い党内論争を経て、東欧革命が進行中の1989年12月に、エコロジー的、社会的に責任のある社会という概念を基礎にしたベルリン綱領を採択する[7]が、積極的な戦略を立てることができず、党首や首相候補が頻繁に入れ替わるなどしたために、国民の支持を得ることができなかった。

なお、その東欧革命の結果、民主化の進む東ドイツで社会民主党が再建された。1990年3月18日の総選挙(人民議会選挙)では社会民主党が有利と考えられ、西側の党もブラントなどの遊説や資金援助で東側の党を支援したが、国家連合を経た緩やかな統合を主張した社会民主党は、急速な統一を主張するキリスト教民主同盟(東ドイツの衛星政党だったが民主化後は路線転換し、西のCDUの支援を受けた)の前に支持を失い、選挙ではキリスト教民主同盟(163議席)を大きく下回る88議席しか獲得できなかった。社会民主党は同年10月3日ドイツ再統一までの東ドイツ挙国一致内閣には参加したが、その影響力は限定された。さらに再統一後の同年12月の総選挙(連邦議会選挙)でも政権の奪回に失敗した。この時にも旧東ドイツ地域で得票が伸び悩んだ。

シュレーダー政権(赤緑連合)の誕生

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ウィリー・ブラント・ハウス(党本部)

1998年、長期政権への飽きや景気の低迷などでコール政権の支持率が低下したこと、イギリス労働党の勝利以来続いた欧州社民主義政党の復調の流れを受けたことなどがあって連邦議会選挙で勝利。同盟90/緑の党と連立を組んだゲアハルト・シュレーダー政権(赤緑連合)が誕生。2002年連邦議会選挙でも辛勝し、政権維持に成功した。

辛うじて再選されたものの、その後はシュレーダー政権の新自由主義的な改革(長期失業手当の生活保護との一本化=実質的廃止、実質賃金の抑制、大企業向けの減税策、年金支給額の抑制、医療保険における患者負担額の増加等)及びコール政権時代から続く大量失業への無策に対して国民及び一般党員の支持が得られず支持率は低迷。各州の州議会選挙でも敗北を重ねた。1976年には100万人を超えた党員数は2003年に66万3000人まで減少し、2004年の欧州議会選挙では全国得票率が第二次大戦後最低の21.5%まで低下した。このような状況で社会民主党は苦しい政権運営を強いられ、連邦州と同格のベルリンなどではSEDの流れを受け継ぐ民主社会党(PDS)との左派連合政権を組んだ。一方ではネオナチとも目される右派のドイツ国家民主党の州議会進出を阻めなかった。

2004年3月の臨時党大会では党をまとめきれなくなったシュレーダー首相が党首の座を降り、連邦議会議員団長のフランツ・ミュンテフェーリングが党首となった。

2005年5月オスカー・ラフォンテーヌ元党首ら党内左派が離党して『労働と社会的公正のための選挙オルタナティブ』(WASG)を結成。さらにWASGは民主社会党と連合して『左翼党』(Die Linke[8])を結成した。

2度目の「大連立」発足

2005年7月、シュレーダー首相は自らの信任決議案を与党に否決させ、連邦議会の解散総選挙9月18日投票)に打って出た。解散当時の支持率は、最大野党キリスト教民主同盟(CDU)に大きく水を開けられており、政権を奪われる可能性が高いといわれていたが、選挙戦終盤に盛り返し、第1党の座を失ったものの同盟側とはわずか4議席差にまで肉薄。結局CDUが同盟90/緑の党との連立交渉に失敗したために、首相ポストこそCDUのアンゲラ・メルケルに譲るものの、CDU/CSUとキージンガー政権以来の保革「大連立große Koalition)」を組んで、政権に参加し続けることとなった。

選挙後の2005年11月にミュンテフェーリングが辞意を表明。ブランデンブルク州首相のマティアス・プラツェックが党首に就任することとなった。旧東ドイツ出身者がSPDの党首になるのは初めてであり、CDUのメルケル首相と共に旧東ドイツ出身者が連立与党の党首としてドイツの舵取りをすることになるかと思われた。ところが4月には病気を理由にプラツェックも辞任してしまい、ラインラント・プファルツ州クルト・ベック州首相が暫定党首に選出され、その後正式な党首となった。

その後CDUのメルケル首相の強力なリーダシップの前に低迷を続けていたが、2007年10月に、第二次世界大戦後三番目となるハンブルク綱領を採択。2009年に予定される総選挙でCDUに打ち勝つべく、ハンブルク綱領ではシュレーダー政権時代の新自由主義的な政策を否定しグローバリズムに抗し、左翼回帰と評される対抗軸の明確化をした。[9]。2008年9月にクルト・ベック党首が突如辞任、10月これに替わってフランツ・ミュンテフェーリングが党首に復帰し、2009年総選挙でSPDの連邦首相候補にフランク=ヴァルター・シュタインマイアーを推すこととした。

2009年連邦議会選挙での敗北、下野

大連立に対する国民の評価を問われた2009年9月27日の連邦議会選挙では、メルケル政権下で現実路線を進めたことに対する反発が原因で従来からの支持者が離反したことなどから前回よりも10%以上も得票を減らし、戦後2番目に少ない146議席しか獲得できなかった。この選挙でCDU/CSUとFDPの保守・中道右派勢力が過半数を獲得したことから、SPDは11年に及ぶ政権与党の座を失うこととなった[10]。選挙後の臨時党大会でジグマール・ガブリエルが後継党首に選出された。

2010年5月9日、下野後の最初の大型選挙であるドイツ最大州ノルトライン=ヴェストファーレン州議会選挙では、CDU/CSUとFDPの連立与党を過半数割れに追い込み、同盟90/緑の党と少数ながら連立与党を結成した。2011年2月20日に行われたハンブルク市議会選挙では、過半数を獲得して与党となった。2012年5月のノルトライン=ヴェストファーレン州議会選挙ではメルケル政権与党が推進してきた緊縮財政政策に対する批判票を集めて、第1党となった[11]

3度目の大連立へ

2013年の連邦議会選挙では、前回よりも議席を回復して192議席を獲得したものの、過半数近い議席を獲得したCDU/CSUには100議席以上の差を付けられ議会第一党の座を回復することは出来なかった[12]。一方でCDU/CSUも過半数を獲得できず、連立相手だったFDPが惨敗して全議席を失ったため、3度目の大連立に向けた交渉が始められた[13]

2カ月にわたる協議の結果、11月27日にCDU/CSUとの連立協議が合意に達し、史上3度目の大連立政権が成立することになった[14]。  

政策

2013年の大連立では、メルケル首相から以下の項目の譲歩を引き出すことを目指している、しかし選挙で主張していた年収10万ユーロを超える富裕層に対する増税は盛り込まれていない[15]

  • 時給8.5ユーロの全国統一最低賃金の導入
  • 男女の賃金平等化
  • 旧東西ドイツ間の年金支給額の平等化
  • 二重国籍取得の容認
  • 民営化を伴わないインフラ投資の拡大
  • 教育・職業訓練への投資拡大
  • 金融取引税の導入と脱税取締り強化
  • 長期介護保険の給付額引き上げ
  • 地方自治体の予算拡大
  • 若年層の失業対策など持続的なユーロ圏政策。

この公約を守る形で2014年7月、ドイツ下院にて最低賃金を時給8.50ユーロとする法案が可決[16]された。下院での採決では法案賛成が大多数[17]であり、投票数605のうち賛成が535票、反対が5票、棄権が61票という結果[18]だった。ジグマール・ガブリエルは「これはドイツにとって歴史的な日である[17]」として最低賃金法の立法化を歓迎した。

選挙

ドイツ帝国時代の帝国議会(Reichstag)における党勢推移

選挙日 得票率 得票率順位 獲得議席数 議席占有率 議席数順位
1890年2月20日 19.7% 第1党 35議席(397議席) 8.8% 第5党
1893年6月15日 23,3% 第1党 44議席(397議席) 11.1% 第4党
1898年6月16日 27,2% 第1党 56議席(397議席) 14.1% 第2党
1903年6月16日 31,7% 第1党 81議席(397議席) 20.4% 第2党
1907年1月25日 28,9% 第1党 43議席(397議席) 10.8% 第4党
1912年1月12日 34,8% 第1党 110議席(397議席) 27.7% 第1党

ヴァイマル共和政下の帝国議会(Reichstag)における党勢推移

選挙日 得票率 獲得議席数(総議席数) 議席占有率 順位
1919年1月19日 37.9% 165議席(423議席) 39.01% 第1党
1920年6月6日 21,7% 113議席(459議席) 23.95% 第1党
1924年5月4日 20,5% 100議席(472議席) 21.19% 第2党
1924年12月7日 26,0% 131議席(493議席) 26.58% 第1党
1928年5月20日 29,8% 153議席(491議席) 31.17% 第1党
1930年9月14日 24,5% 143議席(577議席) 24.79% 第1党
1932年7月31日 21,6% 133議席(608議席) 21.88% 第2党
1932年11月6日 20,4% 121議席(584議席) 20.72% 第2党
1933年3月5日 18,3% 120議席(647議席) 18.55% 第2党

連邦議会(Bundestag)選挙における党勢推移

選挙 年月日 得票数
(政党票)
議席数 選挙区
1949年選挙 1949年8月14日 6 934 975 29.2 131 96
1953年選挙 1953年9月6日 7,944,943 28.8 151 45
1957年選挙 1957年9月15日 9,495,571 31.8 169 46
1961年選挙 1961年9月17日 11,427,355 36.2 190 91
1965年選挙 1965年9月19日 12,813,186 39.3 202 94
1969年選挙 1969年9月28日 14,065,716 42.7 224 127
1972年選挙 1972年11月19日 17,175,169 45.8 230 152
1976年選挙 1976年10月3日 16,099,019 42.6 214 114
1980年選挙 1980年10月5日 16,260,677 42.9 218 127
1983年選挙 1983年3月5日 14,865,807 38.2 193 68
1987年選挙 1987年1月25日 14,025,763 37.0 186 79
1990年選挙 1990年12月2日 15,545,366 33.5 239 91
1994年選挙 1994年10月16日 17,140,354 36.4 252 103
1998年選挙 1998年9月27日 20,181,269 40.9 298 212
2002年選挙 2002年9月22日 18,488,668 38.5 251 171
2005年選挙 2005年9月18日 16,194,665 34.2 222 145
2009年選挙 2009年9月27日 9,990,488 23.0 146 64
2013年選挙 2013年9月22日 11,247,283 25.7 192 59

歴代党首

第二次世界大戦前

第二次世界大戦後

太字連邦首相経験者。

参考文献

脚注

  1. 木谷(1977)、p.220-221
  2. 木谷(1977)、p.221-222
  3. 木谷(1977)、p.222
  4. 林(1963)、p.7
  5. 大原クロニカ - ゴーデスベルク綱領
  6. ギヨーム事件の責任を取って辞任
  7. 大原クロニカ - ベルリン綱領
  8. 2005年当時は、WASGとの政党連合の形式を採り、翌々年の2007年に単一政党としての「左翼党」が発足した。
  9. Germany's Social Democrats Turn Left to Renew Core Principles | Germany | Deutsche Welle | 28.10.2007
  10. ドイツ総選挙:メルケル中道右派勝利 大連立解消、欧州保守化に拍車(2009年9月28日付毎日新聞、2009年9月30日閲覧)
  11. テンプレート:Cite news
  12. CDU/CSU mit Abstand größte Fraktion im Bundestagドイツ連邦議会公式サイト)
  13. 独首相、社会民主党との連立協議開始ロイター 2013年9月23日 同日閲覧)
  14. ドイツ与党と社民党が大連立で合意、最低賃金引き上げ(ロイター 2013年11月27日 同日閲覧)
  15. テンプレート:Cite news
  16. Germany approves first-ever national minimum wage BBC News, Business, 3 July 2014
  17. 17.0 17.1 Germany introduces minimum wage The Telegraph, world, 3 July 2014
  18. German parliament approves 8.50 euro national minimum wage Reuters, 3 July 2014

関連項目

外部リンク

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