エドゥアルト・ベルンシュタイン
経歴
1850年1月6日ベルリンにユダヤ系の家庭に生まれる。1872年、アイゼナッハ派の党員となる。1875年には、アウグスト・ベーベル、ヴィルヘルム・リープクネヒトらとともにアイゼナッハ派とラサール派との合同を決定したゴータ大会を準備。
1878年、社会主義者鎮圧法が成立すると、スイスのチューリッヒに亡命し、社会民主党の後援者であるカール・ヘヒベルクの秘書となる。1888年、プロイセンの圧力を受けたスイス政府からの国外退去命令により、ロンドンに亡命し、このころ同じくロンドンに亡命していたフリードリヒ・エンゲルスに接近。
1880年から1890年まで、SPDの非合法機関誌“Sozialdemokrat”を発行。1891年には、エルフルト綱領の起草者のひとりとなる。フリードリッヒ・エンゲルスの死後、1896年から1898年まで、SPD内部の 修正主義論争につながる「社会主義の問題」と題する一連の論文を発表し、古典的マルクス主義を批判した。労働者階級の生活改善と中産階級の発生を根拠に革命不要説を唱えた。1899年には「社会主義のための諸前提と社会民主主義の任務」を発表。これに対して、ローザ・ルクセンブルクは1900年、「社会改良か革命か」を発表し、激しく反論。ベーベルやリープクネヒト、カール・カウツキーらとも鋭く対立した。
1901年、社会主義者鎮圧法の廃止により、ドイツに帰国。1903年、ドレスデン党大会で修正主義否認が決議され、ベルンシュタインは公式に敗北するが、運動面では根強い支持を得つづけた。1902年から1918年まで帝国議会議員を務める。1913年、社会民主党左派のメンバーとともに軍事力増強法案に反対票を投じる。1917年、カール・カウツキーとともに独立社会民主党(USPD)に参加し、第一次世界大戦が終わり、1919年、社会民主党(SPD)に復帰。1920年から1928年までヴァイマル共和国議会議員を務める。1921年、ゲルリッツ綱領の起草に携わる。
1932年ベルリンで死去。
関連書籍
- 『ベルンシュタイン 民主的社会主義のディレンマ』ピーター・ゲイ著、長尾克子訳、木鐸社、1980年
- 『ベルンシュタインと修正主義』関嘉彦著、早稲田大学出版部、1980年10月
- 『ベルンシュタイン 亡命と世紀末の思想』亀嶋庸一著、みすず書房 1995年2月