相良義滋
相良 義滋(さがら よししげ)は、肥後の戦国大名。相良氏の当主で、肥後人吉城主。
生涯
戦国期の相良氏の家督は父・長毎が隠居した後、長唯(義滋)・瑞賢(長隆)の弟にあたる嫡出の相良長祗が継承した。しかしそれに異を唱えた長唯兄弟の叔父である相良長定が、長毎の死後の大永5年(1525年)に長祗の人吉城を攻略し、家督を簒奪。長祗を自害に追い込んだ。
同年、その長定に対して長唯・瑞賢兄弟の報復が開始され、長唯の弟である瑞賢が長定を追い落とした。しかし瑞賢は人吉城に入ると、権力欲に駆られ還俗し長隆と名乗り、家督相続を企んだ。 今度は長唯と長隆の兄弟の争いとなり、長唯は一族の実力者の上村頼興に「頼興の息子・上村頼重(後の晴広)を養子にすること」を条件に加勢を取り付け、最終的には長唯が当主となり家督を継いだ。
しかし、翌年の大永6年(1526年)7月、相良家中の混乱を突いて日向国真幸院の北原氏が突如として現れ、人吉城を取り囲んだ。長唯は城兵に「明日には援兵が来るぞ」と呼ばわらせ、援軍を要請した皆越地頭の皆越安芸守貞学には「我らは伊東家の援軍であり、この後も軍兵が参陣する」と呼ばわせるという奇策を用いる。北原氏はこれに騙され明朝には城から全軍を退いた(「大岩瀬合戦」)。
それ以後は、肥後国内での勢力の拡大と安定化を図った。天文元年(1532年)に天草の上津浦治種(鎮貞の祖父)が、天草尚種、志岐重経、長島但馬守、栖本氏、大矢野氏の連合軍に攻められた際、長唯が支援の兵を多数送った事で治種は連合軍に大勝するに至った。この天草への軍事介入は18代・義陽の代にまで続いていく。家中では上村頼興の意向を受け、養子の晴広の対抗馬になりうる一族の粛清を開始。天文4年(1535年)には頼興の弟である上村長種を殺害した。また同年、阿蘇氏、名和氏と戦い豊福城を奪い返している。
天文14年(1545年)12月、将軍・足利義晴から一字拝領を許され、「義」の字を与えられて名を義滋と改めたが、その翌年に死去した。
義滋は智勇に優れ、一門衆の上村頼興の補佐のもと、分裂していた相良氏の統一に成功し、相良氏を戦国大名へと転身させた。また、八代に徳淵湊を築き、明との貿易も行なって戦国大名としての基盤を固めた。