相良長定
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相良 長定(さがら ながさだ、生年不詳[1]-享禄4年11月11日[1](1531年12月19日))は、相良氏の第15代当主。第12代当主・相良為続の長兄・相良頼金の子[1]。官位は民部大輔[1]。
生涯
父の相模守頼金は11代・長続の長男でありながら病弱であった為に家督を継げなかった。長定は中尾山の館に住んだ[1]。
長定は自身が正統なる嫡流であるとし、大永4年(1524年)8月24日の夜半、犬童長広と共謀して相良氏第14代当主・相良長祗を人吉城から追放して家督を奪った[1]。翌年の1月8日、水俣城に逃れていた長祗を自殺に追い込んで[1]完全に家督を我が物にした。
この長定の行為に対して長祗の庶兄に当たる相良長隆(瑞賢)が報復に乗り出し、僧兵をかき集めて反乱を起こし、大永6年(1526年)5月11日、長定は人吉城から追放され八代に逃れ[1]、更に翌年には葦北へと逃亡するも、八代・葦北の兵が押し寄せてきたために長子の都々松丸を連れて筑後国に亡命した。
長定追放後に相良氏当主となった相良義滋は、長定の元へ使いを送り人吉への復帰を請うた。しかしこれは義滋の謀事で、享禄4年11月11日、長定らが人吉筒口法寿寺に入ったところを、西淡路によりその門外で殺害された(法号は「西池蓮秀」)[1]。また、夫人及び第二子の都々満丸は、長定が大村戒蔵院にいると誘った上で、途中の鐘音寺(後の大信寺)にて待ち伏せていた者に殺害され、筑後に残った長子も刺客により殺害される(盗賊の手によるとも)。
尚『求麻外史』は、長定を15代当主に列した理由として、「旧説を採用し正統に加えたのは、政権簒奪を奨めるという意味ではなく、宣公は桓公、隠公を害して立ったが、これを君主と認めているのに倣った」としている。