江戸前寿司
江戸前ずし(えどまえずし)・江戸前鮨・江戸前鮓・江戸前寿司は握りずしを中心とした、江戸の郷土料理である。世界共通語となった「sushi」は主にこの「江戸前ずし」を指す。古くは「江戸ずし」「東京ずし」ともいった。江戸前の豊富で新鮮な魚介類を材料とし、一般家庭で作られることがほとんどない、寿司屋の寿司職人が作る寿司である。
概要
狭義に「江戸前ずし」を「東京湾の魚介(江戸前)を使用したすし」、あるいは「明治の始めくらいまでの技法を中心としたすし」とすることもあるが、広義には、東京で特に多く見られる「握りずしを中心とした寿司屋で提供されるすし」全般を「江戸前ずし」という(本稿では広義の「江戸前ずし」を対象とする)。
江戸の文化が生んだ寿司で江戸っ子が好む郷土料理であり、これは各地に広がった。江戸前の海(現在の東京湾)は遠浅の干潟を抱えた天然の漁場であり、目の前で取れた新鮮な魚介類を新鮮なうちに提供することが可能であった。
- 戦後、寿司が立ち食いから椅子にかけて食うようになった
と述べており、かつては屋台で立ち食いする料理であった。現在では充分な時間をかけて食事を楽しむのものであるが、握り寿司が誕生、流行していた江戸時代では入店して適当に素材を見繕った注文をして小腹を満たせば早々に勘定を済まして退店するという「せっかち」だった江戸っ子らの食事マナーが粋とされていた。
歌川広重の「東都名所高輪二六夜待遊興之図」「江戸自慢 高輪二六夜」では、浜辺に「寿司」の屋台が出て人々は花火を見て祭のように夜を楽しんでいた様子が描かれている[1]。
なれ寿司とは全く異なっており、江戸時代に食酢生産が始まってこの酢を利用した寿司である。当初は米酢が使用されていたが粕酢が使用されるようになっていった[2]。当時この江戸前寿司がブームとなってついに寿司の主流となる。関西地方の趣向も変化するほどであり[3]、江戸前寿司が「寿司」として日本国外にも広がっていった。
江戸前ずしの種類
酢飯を軽くまとめ、その上に主に魚介の生身や〆たものや火を通したものを合わせて握る「握りずし」が中心であり、他にはカンピョウなどを巻いた海苔巻き(巻き物)、ちらしずし、イカの印籠ずしなどがある。家庭で作られることはまれであり、「寿司屋のすし」「職人のすし」である。
江戸前握りずし
主に魚介の生身やコハダや鯖などを〆たもの、煮穴子や蒸しエビなどの火を通したもの、卵焼きなどの「タネ」と握った酢飯を合わせたすしを指す。ワサビやショウガ、オボロを間にはさむ(または上にのせる)ことが多い。はがれやすいタネには、古くはカンピョウを使うことが多かったが、現代では海苔の帯をかける。握った酢飯のまわりを海苔で巻いて、イクラなどの小さなものや、ウニのようにやわらかくて握りにくいものを乗せたすしを「軍艦巻き」といって、1941年(昭和16年)に銀座のすし屋「久兵衛」で考案されたものといわれる[4]。
握りずしは、「にぎり」と略されることがある。
主な江戸前握りずしの種
江戸前握りずしの具材を「タネ」といい、逆さにした符丁で「ネタ」とも呼ばれる。その主なものに次のようなものがある。
- ヒラメ、カレイ、タイ、スズキ、シラウオ
- マグロ、カツオ、カジキ、サケ
- シマアジ、カンパチ、ブリ(とその幼魚)
- コハダ(とその幼魚)、サヨリ、カスゴ(子鯛)、サバ、アジ、イワシ
- 赤貝、ミルガイ、アワビ、アオヤギ、トリガイ、ハマグリ
- エビ、シャコ、カニ
- イカ、タコ
- アナゴ、卵焼き
- イクラ、ウニ
- シイタケ、芽ネギ
海苔巻き
海苔を巻いた寿司(巻き物)は通常「海苔巻」と呼び、単に「海苔巻」といった場合は細巻きのカンピョウ(干瓢)巻きを指すことが普通[5]である。海苔半枚で巻いた「細巻き」が本来であり、その形から「鉄砲」とも呼ばれる。戦前は盛んだった玉子巻きや伊達巻きのすしは近年廃れてきている。関西を中心として「巻き寿司」と呼ぶことがあるが、かつての関西には細巻きが存在していない歴史的背景がある。 テンプレート:Main
主な江戸前海苔巻
- カンピョウ巻き:煮たカンピョウを芯に巻いたもの。単に「海苔巻き」とも呼ぶ。
- 鉄火巻き:マグロの切り身またはスキ身、タタキ身にワサビを入れて巻く。
- ネギトロ巻き:マグロのすき身など脂身を具としたもの。
- アナゴ巻き:煮アナゴ。キュウリを入れることも多くそれを「アナキュウ」とも。
- カッパ巻き:キュウリを千切り、または細長く切った一本を芯に巻いたもの。
- 新香巻き:いろいろなお新香が使われるが、普通はタクアン。
- オボロ巻き:エビ(または魚)オボロを芯にして巻いたもの。
このほか、太巻き(一枚巻き)や手巻きを提供する店もある。近年は新しい具材や新しい巻き方が日本国内外に登場しているが、眉をひそめる寿司愛好家も多い。
ちらしずし
ちらしずしは、寿司飯の上に生身を中心に握りずしと同様なタネを盛り付けたものが主流である。「ちらし」と略されることがある。 テンプレート:Main
五目寿司
老舗の寿司専門店で作られるより、小売店で買ったり家庭で作られる事が多い(東京都中央区「桃屋」の「五目寿司のたね」が販売されている。材料は「にんじん、れんこん、たけのこ、油あげ、かんぴょう、しいたけ、高野豆腐」など。)。シイタケ、酢バス、卵焼き、オボロを中心に、煮アナゴ、エビ、コハダなど、生魚以外の素材を混ぜ込んだもの[6]で、雛祭りなど祝い事がある日に多く食べられる。「江戸前の寿司」とは認識されない場合がある。関西地方では「ばら寿司」と言う事や「ちらし寿司」との混同がある。
イカの印籠ずし
すしの分類では、イカやタケノコなどの空洞にすし飯を詰めたすしを印籠ずしと分類する。いなりずしも油揚げの印籠ずしとされる。江戸前イカの印籠ずしは、刻んだカンピョウやガリ、もみ海苔などを混ぜたすし飯を煮イカの胴につめ、ツメをかけて食べるすし。「イカの印籠詰め」ともよぶ。
江戸前ずしの「仕事」
北大路魯山人は
- 江戸前寿司の上方寿司と異なるところは、材料、あじつけおよび技法の相違にある[7]
と、独特の技法に言及している。
すし飯
すし酢は酢と塩、または酢と塩に砂糖を加えて合わせたもの。店によって塩と砂糖の配合は千差万別でそれがその店の特徴となっているが、酢は概ね米2升につき2合くらいである。
やや固めに炊き上げた飯を熱々のうちに飯切りに移し、すし酢をあわせる。ミヤジマ(しゃもじ)を下から起こすように、切るように使ってすし酢をまわす。行き渡ったところで団扇などで風を入れてツヤを出す。人肌に冷めたら食べ頃。 テンプレート:Main
タネの調理
近年では生身のままタネとすることも多いが、冷蔵技術の無い時代に誕生したがゆえ、酢〆にしたり醤油漬けにしたりと、タネにさまざまに「仕事」をする技法がある。
酢〆
酢〆は比較的古い仕事が残っている調理法である。塩をあててしばらく置いてから、酢につけて(または酢にさっとくぐらせて)〆る。コハダ、キス、カスゴ、サバの他、今では生で使われることが多いアジやサヨリなども以前はたいてい酢〆にした。貝類や白身魚も酢〆にする仕事もある。強く〆て酸っぱいタネは、オボロをかませて握ることも多い。
醤油漬け
醤油を主体にした調味液にしばらく漬ける(またはさっとくぐらせる)。マグロの赤身を醤油漬けにしたものは「ヅケ」と称し、長時間漬けてねっとりした質感をもたせたものや、切りつけて数分程度の短時間漬けるもの、湯霜にしてから漬けるなどの仕事がある。古くは白身魚も醤油漬けにすることが多かった。
煮物
アナゴやハマグリは煮あげて、煮汁を煮詰めた「ツメ」を塗って供する。また「蒸しアワビ」と呼ばれるものも、実際にはほとんど煮物に近いものである。イカやシラウオも昔は煮て使うことが主流だったが、近年ではあまりみられなくなった仕事だ。
茹でたもの
タコ、エビ、シャコなどは茹でて(湯通して)使う。シャコは産地で茹でたものを仕入れることも多いタネ。茹でた後調味した酢に漬けたり煮汁で煮返したりと、さらに手をかける仕事も少なくない。
卵焼き
エビ・魚のすり身に塩を入れ、玉子を少しずつ加え、最後に砂糖を加えて弱い火で焼く。厚さによって「厚焼き」、「薄焼き」という。すり身を使わず出汁の入る「出汁巻」きもよく作られている。すり身を入れた方が江戸前ずし本来の仕事で、出汁巻きは日本料理的な仕事である。江戸前ずし店の卵焼きは概して甘く調味され、デザートのように最後に食べる人が多い。
握り方
握りずしを製することを「つける(漬ける)」といい、調理場を「つけ場」というが、なれ寿司は漬け込んで製した事から来る言い方というだけではなく、握ることが「漬ける」に相当する重要な要素である。適度な押圧を加える事によりタネとシャリを一体とする事が江戸前握りずしの特徴であり、これらの加減が職人の腕で変わってくる。
左手にタネを持ち、右手ですし飯を適量とって軽くまとめ(シャリ玉という)、ワサビを人差し指でとってタネに乗せる。左手の親指か右手の人差し指でシャリの真中に空洞を作り、上下・前後を何度か返して(手返し)その空洞をまわりから閉じていくように成形してつける。手返しには、本手返し、縦返し、小手返しなどがあるが、基本とされた本手返しでつける職人は少ない。仕上がりの形状を、俵型、箱型、船型、地紙型とよび、現代では船型につける職人が多い。
回転寿司などのチェーン店を中心に「シャリ玉成形機」が導入されており、この装置に酢飯を入れるとシャリ玉が次々に製造される。それにタネを載せて提供する握らなく「つける」事をしない握り寿司も多い。
海苔巻きの巻き方
巻いてすぐ食べることを主として製することが肝要。海苔は焼いて香りを出しパリっとさせ、手早くサッと巻いて製する。関西の巻きずしは、時間を置いて食べることを主とするため、海苔は焼かずにしっかり巻くという違いがある。
焼いて半分に切った海苔を巻き簾に手前を揃えて置き、すし飯を適量とって一旦軽くまとめる。海苔の中央左から右へとすし飯を広げながら置いていき、端をきめながら1センチほど残して前後に広ていく。中央に薬味や具材を置いて、巻き簾を手前から持ち上げて巻く。カンピョウなら丸に、鉄火なら四角く絞めてきめる。カンピョウなら4つに、鉄火などは6つに切る。
符丁と用語
江戸前ずし屋独特の言葉や言い回しがあり、古くは「すし言葉」と呼ばれた言葉や、職人同士が使う隠語・符丁がある(この「隠語」「符丁」は本来客が使うものではなく、店側が使用する言葉である)。
用語 | 漢字 | 意味 |
---|---|---|
アガリ | 上がり | お茶のこと。「上がり花」の略。[8][9] |
アニキ | 兄貴 | 先に仕入れた(仕込んだ)古いタネのこと。 |
オアイソ | お愛想 | お勘定のこと。(本来は「わざわざお越しいただいたのに、会計のことを申し上げるのは愛想のないことで恐縮です」という店側の謙遜。客が使うと「こんな愛想のない店はとっとと出たいから清算してくれ」という意味になるので注意) |
オドリ | 踊り | 生きたままのタネ。通常生きたエビのこと。 |
ガリ | 薄く切った生姜の甘酢漬け。その質感から。 | |
カン | 貫、巻など | すし1つを1カンと数える握りずしの数え方。語源は諸説あり。 |
ギョク | 玉 | 卵焼きのこと。「玉子」から。 |
シャリ | 舎利 | ご飯の異称で、すし屋ではすし飯のこと。仏教語の舎利(米・飯)から。 |
タチ | 立ち | カウンター形式の店、またはその客のこと。立ち食い形式のすし屋の名残り。 |
ヅケ | 漬け | マグロの醤油漬け。 |
ツケバ | すしを製する(つける)調理場のこと。 | |
ツケダイ | 付け台 | カウンターのすしを乗せる台のこと。今日では直接ツケダイにすしを乗せる店は少ない。 |
ツメ | 詰め | アナゴなどの煮汁を調味し、煮詰めた甘辛いタレ。「煮詰め」から。 |
トロ | マグロの腹身。とろっとした質感から。 | |
ナミダ | 涙 | ワサビのこと。 |
ニキリ | 煮切り | 醤油に日本酒や味醂を加えて火にかけて煮切ったもの。すしに塗るかつけ醤油にする。 |
ネタ | 種 | すしの具材、すしダネのこと。タネの逆さ読み。 |
ムラサキ | 紫 | 醤油のこと。その色味から。語源は諸説あり。 |
ヤマ | 山 | 無しのこと。海の物(魚介)が無いことから。飾りの笹のこともヤマということもある。 |
江戸前ずしの歴史
- 背景
江戸前寿司(江戸前握り寿司)が生まれたのには、背景として江戸の文化が関係している[10]。江戸っ子は刺身が好きであり屋台で売られていた。また生魚に合う濃口醤油は近隣の野田が産地であった。そして白米が人気であった[11]。
江戸前ずしの誕生
江戸前握りずしの創案者は、両国は「與兵衛鮓(よへいずし)」の華屋與兵衛とも安宅の「松之鮨(まつのずし)」、堺屋松五郎ともいわれる。文献的には文政12年(1829年 1827年作句)『柳多留』に「妖術という身で握るすしの飯」とあるのが初出である。
與兵衛のひ孫、小泉清三郎『家庭 鮓のつけかた[12]』(1910年(明治43年))158-159ページに與兵衛の孫、文久子『またぬ青葉』(手写本、現在所在不明、震災で焼失とも)の引用[13]があり、要約すると以前にも握りずしを試みた者はいたが、握った後に笹で仕切って箱に詰め数時間押しをかけるすしで、「翁(初代與兵衛)は此の製方の悠長なるを厭い(中略)握早漬を工夫せし也」とのことである。與兵衛が「握早漬(握りずし)」を売り出した年は、諸説あるが文政7年(1824年)あたりとされる。
文政13年(1830年)喜多村信節『嬉遊笑覧』に「文化(1804-1817年)のはじめ頃、深川六軒ぼりに、松がすしが出来て、世上すしの風一変し」とあるが、この「一変」には二つの解釈ができる。ひとつは握りずしを創案し、かつてのなれずしとは違う握りずしが江戸中に広がって一変したという解釈。もうひとつは、これまでにない高額のすしを売り出し、市中のすし屋も追従したために一変したという解釈。ちなみに「松鮨」とも「松が鮨」とも言われたが、「安宅の松」と主人の名、松五郎にちなんだ通称であり、本来の屋号は「砂子鮨(いさごずし)」といった。後に屋号の方も「松之鮨」と改めたとのことである。いずれにしろ握りずしは文政年間(1818-1831年)には完成をみて、「與兵衛鮓」、「松之鮨」は最初の大成者となった。
こうして誕生した握りずしは、屋台料理として江戸っ子にもてはやされて瞬く間に江戸市中に拡がった。箱寿司が主体であった大坂も1892年(明治25年)には大半が握り寿司の店に変わったと記録されており、天保(1831-1845年)には名古屋にも広がるなど、日本全国へ拡がっていった。この寿司は粕酢(赤酢)と塩のみで合わせ酢を作り砂糖を使用しないものであった[14]。かつては米酢が使用されていたが、後に広まった粕酢は1804年に江戸へ旅したミツカン初代中野又左衛門[15]が江戸に向けて販売した事がきっかけと主張している[16]。
江戸時代末期-明治初期の江戸前ずし
『守貞謾稿』には、玉子、玉子巻き、海苔巻き(カンピョウ)、車エビ、コハダ、マグロさしみ、エビそぼろ、シラウオ、穴子、があがる。冷蔵・冷凍技術のないこの時代のすしは、酢〆、醤油漬け、火を通す、などの下仕事をしたタネばかりであった。天保の末に鮪が豊漁となり、「恵比寿鮨」なる屋台のすし屋が鮪を湯引きし、醤油に漬けてすしに漬けたところ、大いに評判となり、以降江戸前ずしを代表するタネになっていった。しかし当時鮪は下魚とされており、名のある店では使わなかったといわれる。
屋台で廉価な寿司を売る「屋台店」が市中にあふれる一方で、「内店」とよばれる固定店をかまえるすし屋では、比較的高価なすしを売った。特に「松之鮨」や「與兵衛鮓」の贅沢さは、時の川柳にたびたび詠われるほどだった。内店では主に持ち帰りや配達ですしを売ったが、「御膳」と書かれた看板をあげた店は、店内の座敷で食事のできるお店である。しかし、贅沢を禁じた天保の改革では、200軒あまりの寿司屋が手鎖の刑に処せられることになった。
明治後期-昭和初期の江戸前ずし
1897年頃から製氷業者が増えた事から氷の冷蔵庫を使用する寿司屋が増え、また明治の末あたりからは電気冷蔵庫を備える店も出てきた。近海漁業の漁法や流通の進歩もあって、生鮮魚介を扱う環境が格段によくなった。江戸前握りずしでは、これまで酢〆にしたり醤油漬けにしたり、あるいは火を通したりしていた素材も、生のまま扱うことが次第に多くなっていった。種の種類も増え、大きかった握りも次第に小さくなり、現代の握りずしと近い形が整ってきた。
戦後のすし
第二次世界大戦直後、厳しい食料統制のさなか、1947年(昭和22年)飲食営業緊急措置令が施行され、すし店は表立って営業できなくなった。東京ではすし店の組合の有志が交渉に立ちあがり、1合の米と握りずし10個(巻きずしなら4本)を交換する委託加工として、正式に営業を認めさせたのである。上方をはじめ全国でこれに倣ってしまったため、全国ですし店といえば江戸前ずし一色となった。ちなみに1合で10個の握りずしならかなり大きな握りでいわゆる「大握り」、江戸-明治初期を思わせる大きさである。また、戦後の物資不足と黄変米事件によって粕酢が一般的ではなくなり、米酢を使った寿司酢が一般的になった。
戦後の高度成長期に入ると、衛生上の理由から屋台店が無くなり、廉価なすし店もあるものの、すし屋は高級な料理屋の部類に落ち着いた。一方、1958年(昭和33年)に大阪で回転寿司店「廻る元禄ずし」が開店し、廉価な持ち帰りずし店「京樽」や「小僧ずし」も開業。1980年(昭和55年)頃には回転ずし屋も持ち帰りすし店も全国に普及、寿司屋は庶民性を取り戻していった。
既に1910年(明治43年)華屋與兵衛の子孫、小泉清三郎著『家庭鮓のつけかた』には、ハム(またはコールドミート)を使ってコショウをふった巻きずしがあり、江戸前ずし(早ずし)は様々な材料を受け入れやすい素地があった。1970年代にアメリカ西海岸を中心に、すしは一大ブームとなり、その中で生まれた「カリフォルニアロール」は大いにヒットして日本にも逆輸入された。1975年(昭和50年)『すし技術教科書』の「新しいすしダネとすし」には、キャビアやセップ、ロブスター、納豆、じゅんさい、シイタケなど、100種類にもなる新しい寿司ダネが紹介されている。現代の寿司店では、ありとあらゆる食材がすしとして提供される一方、粕酢など古典的な材料・手法を守る店もある。2002年(平成14年)に半田市で開催の「はんだ山車まつり」で粕酢を使い当時の大きさで握った寿司が復元され[14]「尾州早すし」と名付けられた[17]。
脚注
主な参考文献
- 旭屋出版『すし技術教科書(江戸前ずし編)』旭屋出版 1975年(昭和50年)
- 内田正『寿司屋さんが書いた寿司の本』三水社 1988年(昭和63年)
- 小沢諭『すしの技 すしの仕事 』柴田書店 1999年(平成11年)
- 喜田川守貞『守貞謾稿』(1837-1853年)、宇佐美英機校訂『近世風俗志』全5冊 岩波書店 2002年(平成14年)
- 小泉清三郎『家庭 鮓のつけかた』大倉書店 1910年(明治43年)
- 里見真三『すきやばし次郎 旬を握る』文藝春秋 1997年(平成9年)
- 篠田統『すしの本』柴田書店 1970年(昭和45年)
- 永瀬牙之輔『すし通』四六書院 1930年(昭和5年)
- 日比野光敏『すしの貌』大巧社 1997年(平成9年)、『すしの事典』東京堂出版 2001年(平成13年)、『すしの歴史を訪ねる』岩波書店 1999年(平成11年)
- 宮尾しげを『すし物語』井上書房 1960年(昭和35年)
- 師岡幸夫『神田鶴八鮨ばなし』草思社 1986年(昭和61年)
- 吉野昇雄『鮓・鮨・すし―すしの事典』旭屋出版 1990年(平成2年)
- 渡辺善次郎『巨大都市江戸が和食をつくった』農山漁村文化協会、1988年(昭和63年)。