日根野弘就
日根野 弘就(ひねの ひろなり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。美濃本田城主。
目次
日根野氏概要
日根野氏は、和泉日根(または日根野、現在の大阪府泉佐野市日根野)の地を発祥とする一族。藤原姓を称するが系図の初期に不明な点が多い。
また、泉佐野に勢力を持っていた新羅からの渡来系である「日根造(ひねのみやつこ)」後裔である可能性も指摘されている[1]。
弘就の父(九郎左衛門)の代に一部の一族が美濃国に移住したと言われる。美濃の日根野氏と和泉の日根野氏の交流は代を下っても続いており、日根野弘就が和泉の日根野孫次郎に宛てた手紙などが現存している。
生涯
斎藤家臣時代
はじめ斎藤道三に仕え、子の斎藤義龍の代に重用され頭角を現す。弘治元年(1555年)10月22日、義龍の命で義龍の異母弟である孫四郎、喜平次兄弟を稲葉山城内で斬殺した[2]。義龍が斎藤氏の実権を握ると以後は重臣に列し、斎藤龍興の代にも変わらず用いられた。永禄年間に弘就と氏家直元・安藤守就・竹腰尚光との4人、あるいはこれに日比野清実・長井衛安を加えた6人の連署で発給された書状が多く残っている[3]。
その後織田家と内通の疑いが持たれたため、近江国の浅井賢政(のちの長政)に要請して、不仲であった安藤ら西美濃三人衆への領地への出兵を促し、牽制した[4]。永禄7年(1564年)、安藤守就とその娘婿の竹中重治による稲葉山城占拠事件により、主君の龍興ともども稲葉山城を退去させられている[5]。永禄9年(1566年)より延永姓(延永氏は一色氏の家臣で丹後守護代などを務めた家柄)へと改め、延永備中守弘就を称した[6]。
龍興に従って織田家への抵抗を続けたが、永禄10年(1567年)8月には稲葉山城は織田家の手に落ちたうえ、西美濃三人衆が完全に信長に通じ、大名としての斎藤家は滅んだ。これによって弘就も失領し、弟・盛就などと共に日根野一族は浪人となった。
流浪
斎藤家滅亡後、弘就ら日根野一族は遠江国の今川氏真に仕えた(『太閤記』では関東に下ったとある)。永禄11年(1568年)12月27日には掛川城主朝比奈泰朝が徳川氏の家臣石川数正と交戦し、弘就の家臣である日根野源太・鈴木深右衛門が討死している。翌永禄12年(1569年)1月12日には天王山を守って徳川家康と戦った[7]。同月18日には盛就と共に出撃して徳川方の金丸山砦を強襲し、久野宗信・小笠原氏興を敗走させ、更に応援に駆けつけた岡崎衆も弘就が襲撃し破った。家康はこの敗報に怒り、久野らを叱責したという[8]。しかし今川も徳川に敵わず同年中に掛川城は降伏・開城し、日根野一族はまたしても浪人となった。
今川没落後は西上し近江へと向かい、近江の土豪の今井秀形・島秀安らと誼を通じていた[9]が、やがて浅井長政に仕えた。しかし、元亀3年(1572年)冬には浅井家を去り、長島一向一揆に参加し岐阜にほど近い新砦の守備にあたっている[10]。また、弘就は大湊に船を出させて足弱衆(女や子供)などを運ばせていたが、天正元年(1573年)9月20日付けの塙直政の書状では「日根野が足弱を送ってきた船の件は曲事であるので船主共を必ず成敗すること」を信長御意の事として大湊に通達しており[11]、後に日根野の協力者であると割れた山田三方の福島親子が処刑された。
天正2年(1574年)9月29日の織田軍の総攻撃をもって長島の一向一揆は壊滅したが、日根野一族は長島を脱出し、しばらく後に、長年対抗し続けてきた信長の元に降った。なお、時期は不明であるが近江を活動拠点とした頃より平松(滋賀県東近江市平松町か)の地に在所と城を得ていて、そこに在住していたという。[9]。
織田家臣時代
織田家仕官後の身分は馬廻で[9]、天正3年(1575年)8月の越前一向一揆討伐に参加し、遠藤慶隆らと共に越前国に攻めこみ、日根野隊は白木峠を越えて穴馬谷に侵入し、ここを固めていた一揆を撃破した[12]。天正6年(1578年)11月の有岡城の戦いにも参陣している[2]。
天正8年(1580年)閏3月には弟・盛就を初めとして同六郎左衛門・半左衛門・勘右衛門・五右衛門らが揃って安土(現・近江八幡市安土町)に屋敷地を与えられており[2]、弘就以外の日根野一門も信長の馬廻に取り立てられている。
天正10年(1582年)6月の本能寺の変時には在京して宿をとっていたが、本能寺や二条御所には駆けつけず状況を静観しつつ、美濃の佐藤秀方と書状を交わして今後に付いて相談する[13]。山崎の戦いの後には遠藤慶隆に京都の情勢を伝えている[14]。
豊臣家臣時代
天正11年(1583年)5月、弘就は池田恒興と共に美濃の瑞竜寺に禁制を発しており、賤ヶ岳の戦い後に美濃に領地を与えられている事が伺える[15]。天正12年(1584年)3月には秀吉の命で伊勢国に出陣。続いて尾張に転じて小牧・長久手の戦いに従軍し、弟・盛就らと共に要所である二重堀砦の守備を任せられた。ここで度々徳川軍と小競り合いがあったが多くの死傷者を出しながら守りきった。5月1日になると羽柴軍主力の美濃転身に従って砦を捨て撤退を開始し、細川忠興・木村重茲・長谷川秀一・神子田正治らと羽柴軍の殿を努め、追撃を仕掛けてきた織田信雄の軍と交戦した[16]。
天正13年(1585年)7月、四国攻めに羽柴秀次の元で参加し、阿波の脇城を攻めている[17]。その後、秀吉の勘気を被り一時追放されたが、天正18年(1590年)に許され、再び仕えた[18]。文禄・慶長の役の際には秀吉の使として朝鮮に渡海したという[19]。文禄4年(1595年)、秀次事件後の所領の整理が行われ、弘就のこの後の所領は伊勢・尾張・三河内に合わせて16,000石となっている[20]。
晩年
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍西軍どちらに与すか表立っては明らかにせず、戦後に減封処分を受けている[21]。
慶長7年5月28日(1602年7月17日)に死去したが、弘就の遺領は召し上げられており、また信濃国諏訪藩主であった孫の日根野吉明も関ヶ原で東軍に参加したにも関わらず、慶長6年(1601年)に石高を半分以下に減らされた上で下野国壬生藩へと転封されている。
一説では、弘就は西軍内通の証拠を隠滅した上で自害したとも言われ、今のところはそれを裏付ける確実な史料は見つかっておらず俗説の域は出ない。
鎧兜に関して
鎧や兜を多く自作し、特に日根野頭形兜は曲線的な形状から鉄砲に対するにあたって実戦向きであるとして重宝され、「日根野頭形(ひねのずなり)」として後世に名を残した。日根野頭形の兜は戦国後期に流行し徳川家康、真田信繁(幸村)、井伊直政、立花宗茂、千利休など様々な人物が日根野頭形を原型としてそれぞれ独自の装飾を施して用いた。
日根野弘就を題材とした作品
- 岩井三四二『浪々を選びて候』(講談社、2003年9月)
- 岩井三四二『逆ろうて候』(講談社文庫、2007年8月)