弾左衛門

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弾左衛門(だんざえもん)は、江戸時代被差別民であった穢多非人身分の頭領。穢多頭(えたがしら)。幕府から関八州水戸藩喜連川藩日光神領等を除く)・伊豆全域、及び甲斐都留郡駿河駿東郡陸奥白川郡三河設楽郡の一部の被差別民を統轄する権限を与えられ、触頭と称して全国の被差別民に号令を下す権限をも与えられた。「穢多頭」は幕府側の呼称で、みずからは代々長吏頭(ちょうりがしら)矢野弾左衛門と称した。浅草を本拠としたため「浅草弾左衛門」とも呼ばれた。

概要

戦国時代小田原近在の山王原の太郎左衛門が関東の被差別民の有力者であり、弾左衛門は鎌倉近在の由比ヶ浜界隈の有力者に過ぎなかったとされている。ただし、太郎左衛門家の権力も、それほど強いものではなかったとされる。1590年後北条氏が関東の支配権を失うと、徳川家康が代わって支配者となった。小田原太郎左衛門は、後北条氏より出された証文を根拠に引き続き被差別民の支配権を主張したが、徳川家康は証文を没収し、代わって弾左衛門に与えたという。

弾左衛門は、非人、芸能民、一部の職人、傾城屋などを支配するとされていた(「弾左衛門由緒書」偽書)。このうち職人などは早い時期に支配を脱した。1708年京都傀儡師小林新助が、弾左衛門が興行を妨害した件で江戸町奉行に訴えた。弾左衛門は敗訴したため、傀儡師・歌舞伎は弾左衛門の支配を脱したと受け取られた。1713年初演の歌舞伎十八番の一つ『助六』は、市川團十郎 (2代目)が弾左衛門の支配から脱した喜びから制作したもので、悪役の髭の意休は、1709年に死去した弾左衛門集誓をモデルにしたと言われている(特に初期の公演では、意休が被差別部落の人間であることがはっきり分かる描写があったという)。これに刺激を受け、非人頭の車善七が訴え出たが、弾左衛門が勝訴した(1722年)。非人は下層芸能民である猿飼(猿回し)・乞胸と並び、幕末まで弾左衛門の支配下に置かれた(ただし、一部の猿回し芝居能師三河万才は、安倍晴明の子孫であり陰陽道宗家となっていた土御門家の管理下に置かれていた)[1]

身分的には被差別階層であったが、皮革加工や燈芯(行灯などの火を点す芯)・竹細工等の製造販売に対して独占的な支配を許され、多大な資金を擁して権勢を誇った。皮革産業は武具製造には欠かせない軍需産業であり、当時の為政者から差別を受けつつ保護される存在であった。弾左衛門の地位は世襲とされ、幕府から様々な特権を与えられ、その生活は豊かであった。巷間旗本大名と比較され、格式1万石、財力5万石などと伝えられた。また一般の庶民と同様、矢野という名はあくまで私称であり、公文書に使用されることはなかった。

弾左衛門由緒書』等に依れば、から帰化した秦氏波多氏)を祖先に持つとされ、平正盛家人であった藤原弾左衛門頼兼が出奔して長吏の頭領におさまり、1180年、鎌倉長吏頭藤原弾左衛門が源頼朝朱印状を得て中世被差別民の頭領の地位を確立したとされる。しかし、江戸時代以前の沿革についての確証はなく、自らの正統性を主張する為のものとみられている。しかし、江戸幕府がこの主張を認めたのは、太郎左衛門より弾左衛門を支配者にした方が都合が良く、その点で両者の利害が一致したからではないかといわれている。

弾左衛門屋敷は山谷堀の今戸橋と三谷橋の間に位置し、現在の東京都立浅草高等学校の運動場あたり(東京都台東区今戸1-8-13)である。屋敷一帯は、浅草新町とも弾左衛門囲内とも呼ばれた広い区画であったが、周囲を寺社や塀で囲われ内部が見通せない構造になっていた。屋敷内には弾左衛門の役宅や私宅のほか神社が建ち、300から400人の役人家族が暮らす住宅もあった。弾左衛門は支配地内の配下は勿論のこと、関東近国の天領の被差別民についても裁判権を持っており、罪を犯したものは屋敷内の白州で裁きを受け、屋敷内に設けられた牢屋に入れられた。関東大震災東京大空襲の被害を受けたこともあり、弾左衛門にかかわる遺構はほとんど残っていない。部落の神社も近くの神社に合祀され、その痕跡もない。

幕末に活躍した第13代弾左衛門は、長州征伐鳥羽・伏見の戦いで幕府に協力した功労によって、慶応4年1月(1868年)に配下65名とともに被差別民から平民に取立てられた。明治維新後に弾直樹(内記)と改名し、近代皮革・洋靴産業の育成に携わったあと、1889年(明治22年)に死去した。弾(矢野)家の菩提寺は、屋敷跡向かいにある浄土真宗(大谷派)本龍寺(元和3年(1617年)建立)である。

歴代弾左衛門

以下は歴代弾左衛門の在職期間である[2]。生没年でない点に注意。

  1. 弾左衛門集房
  2. 弾左衛門集開( - 1617年
  3. 弾左衛門集道( - 1640年
  4. 弾左衛門集蓮(乗蓮)( - 1669年
  5. 弾左衛門集誓(乗誓)(1669年 - 1709年
  6. 弾左衛門集村(1709年 - 1748年
  7. 弾左衛門集囿(1748年 - 1775年
  8. 弾左衛門集益(1775年 - 1790年
  9. 弾左衛門集林(1793年 - 1804年
  10. 弾左衛門集和(1804年 - 1821年
  11. 弾左衛門集民(1822年 - 1828年
  12. 弾左衛門集司(後に弾譲)(1829年 - 1840年
  13. 弾左衛門集保(後に弾直樹)(1840年 - 1868年
  • 集房と集開は同一人物と言われる。
  • 乗誓と集村の間に夭逝した吉次郎。
  • 集開~乗誓までは法名。

参照

  1. 「土御門文書 陰陽道史・泰山府君史」藤田義男(1982年)
  2. 浅草弾左衛門系図 松岡満雄 1996年

関連項目

外部リンク