崇徳中学校・高等学校
崇徳中学校・高等学校(そうとくちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、広島市西区楠木町四丁目にある私立中学校・高等学校。男子校である。
目次
概要
校名の「崇徳」の由来は、『仏説無量寿経』(ぶっせつむりょうじゅきょう)の中にある「崇徳興仁 務修礼譲」(徳を尊び、思いやりの心を培い、修養に励んで、礼義を重んじる)という箇所から、明治時代の西本願寺21世法主の明如(大谷光尊)が選んだものを当学園に授けたものである。
西本願寺系の龍谷総合学園加盟校であり、龍谷大学への特別推薦制度がある。多くの生徒が進学している。
生徒が学ぶコースは、2000年からスタートした「中高一貫6年制」。他中学から進学してきた生徒には「特別進学コース」と「進学コース」と「クラブ推薦コース」がある。「進学コース」は高校2年へ進級の際、主に「五型(国公立)理系・文系」「三型(私立)理系・文系」「仏教コース」に別けられる。「特別進学コース」は長期休暇中に開講される補習を受けることが義務付けられており、7限目の補講が行われる。「進学コース」から「特別進学コース」へは高校1年から2年へ進級する際、模試の結果や成績などを考慮され変更することが出来る(ただし、1年次の全統記述模試を全て受験する必要あり)。
校内には中学校と高校が併設しており施設も共同で使う。崇徳学園の図書館の蔵書数は約4万冊あり、以前は広島県の学校図書館の中では最大規模であった。今でも月に100冊以上の新刊図書をそろえ、生徒の幅広いニーズにこたえている。
広島県では4番目に古い学校として歴史と伝統を誇る[1]。
沿革
年表
- 1875年 - 「学仏場」として広島市胡町に寺院子弟の専門学校として開学。
- 1877年 - 「進徳教校」に改組。
- 1882年 - 「進徳教校」が広島市西区楠木町の現在地に移転。
- 1883年 - 真宗崇徳教社が「進徳教校」の経営に関わる。
- 1900年 - 校名を「仏教中学」に改める。
- 1901年 - 校名を「広島仏教中学」に改める。修業年限を5年制にする。
- 1902年 - 西本願寺が学校の直接経営権を握り、校名を「第四仏教中学」[2]に改める。
- 1912年 - 西本願寺の意向により、第四仏教中学閉校[3]。
- 1913年 - 旧制崇徳中学校として再スタート。この年より門戸を一般に開放。経営は真宗崇徳教社。初代校長に観山覚道就任。
- 1931年 - 旧制中学校歌制定(1948年の新制高校発足後に歌詞を一部変更の上再制定)[4]
- 1945年 - 原爆により校舎全壊。市内の小学校を仮校舎として9月、授業再開。
- 1948年 - 学制改革により、新制「崇徳高等学校」発足。中学校を併設。
- 1951年 - 真宗崇徳教社が経営権を学校法人崇徳学園に譲渡。商業科を高校に併設。
- 1964年 - 創立88年記念式典開催。戦前に発行されていた学園誌が1回限りの復刊。体育館竣工。
- 1967年 - 崇徳中学校を広島市西区大芝に移し、全寮制を取る。「興仁寮」竣工。
- 1972年 - 戦前に発刊されていた学園誌が正式復刊。
- 1973年 - 経営のあり方を巡り理事会と教職員が対立。教職員は組合を作りストライキを起こした。理事は全員辞任。
- 1976年 - 春の選抜高校野球で硬式野球部初優勝。
- 1983年 - 商業科募集停止。
- 1985年 - 特別進学コース(Aコース)設置。7時間制。
- 1986年 - 商業科35年の歴史に幕。これにより高校は普通科A・Bコースと仏教コースのみとなる。
- 1991年 - 台風19号被害で保険金を簿外処理していた事が発覚。社会問題に発展し理事長が辞任。事務員が懲戒免職。
- 1993年 - 中学校の寮「興仁寮」閉鎖。
- 1995年 - 龍谷大学と教育連携校締結。
- 2000年 - 中高一貫教育がスタートし、中学校が高校敷地内に戻る。
- 2001年 - 新校舎落成。
- 2006年 - 韓国の釜山広域市にある大淵高等学校と交流を始める[5]。
崇徳教社との関係
- 1951年まで真宗崇徳教社が経営に関わっている。元々、進徳教校は崇徳教社の「興学・布教・慈善」という三大目的の一つ「興学」の実施機関という性格を有していたとされる。進徳教校は明治34年(1901)に広島仏教中学と改名され、経営を本願寺に移した。翌明治35年には第四仏教中学と改称し、明治45年(1912)に本願寺は第四仏教中学を兵庫県の六甲山に移した。その後、崇徳教社の手により普通中学が開校され旧制崇徳中学校として存続していくことになる[6]。詳しくは、崇徳教社を参照。
崇徳銀行
- 1912年から1925年にかけて存在した銀行である。崇徳教社は当初財政難であったが、崇徳銀行を設立し、その収益を学校運営に回していたとされる。
学校行事
中学校では、学年毎に修学旅行や登山旅行がある。スポーツ・クラブ活動を積極的に奨励しており、毎月「月例マラソン」と称してマラソン大会が行われている。文化祭においては、劇発表・音楽発表・弁論大会・クラスでの研究発表・クラブの模擬店やカラオケ大会などが行われる。
高校では生徒数が多いため「体育祭」は存在しない。その代わりとして定期考査終了後「クラスマッチ」という形でソフトボール・バレーボール・バスケットボール・バドミントンなどが行われている。文化祭は「崇徳祭」と呼ばれ毎年11月に2日間にわけて行われている。学年ごとに出し物に制限がかけられており、学年が上がるごとに緩くなっていく。最高学年である3年生になると各クラス模擬店を出店し軽食等を提供する。
進学実績
毎年国公立大学へは40~50名程、2013年度は87名が合格している。その内、東京外国語大学・大阪大学・神戸大学・九州大学・北海道大学や、広島大学医学部への進学者もいる。また、地元の広島大学へは例年10名程度が進学している。 私立大学へは、早稲田大学や明治大学、中央大学、法政大学への進学者が増えている。また、関関同立や産近甲龍などの関西私立大学、地元の広島修道大学・広島工業大学・広島経済大学などへの進学者が多い。なお、龍谷大学へは特別推薦枠があるため毎年30名程が進学している。 以上から、地元では中堅進学校という位置づけである。
クラブ活動
- 中学校運動部
バレーボール部/柔道部/野球部/剣道部/卓球部/バスケットボール部/テニス部/陸上部/体操部/サッカー部/ラグビー部
- 中学校文化部
宗教部/理化部/ESS/パソコン部/将棋オセロ部
- 高等学校運動部
硬式野球部/バレーボール部/柔道部/弓道部/アメリカン・フットボール部/ボクシング部/ソフトテニス部/サッカー部/卓球部/体操部/軟式野球部/空手道部/ゴルフ部/自転車部/バドミントン部/テニス部/陸上競技部/剣道部/ラグビー部/バスケットボール部/水泳部
- 高等学校文化部
グリークラブ/軽音楽部/宗教部/数学研究部/文芸部/新聞部/化学部/生物部/ESS/美術部/書道部/写真部/茶道部/映画研究部/漫画研究部/平和問題研究部/インターアクト部/多文化共生研究部
高等学校の主要なクラブ活動は以下の通り。
体育系
バレー部
全国的にも強豪校として知られている。高校三冠といわれる選手権・高校総体(2010年度より選手権から分離)・国体・春高バレー(1970年度から2009年度までで終了)において、戦後9人制含めて全国最多優勝18回(選手権8、総体0、国体6、春高4)を誇る。準優勝17回、ベスト4に11回、ベスト8に11回にも輝いている。OBに猫田勝敏ら。1990年には米田一典が全日本女子監督、西本哲雄が全日本女子ジュニア、小早川啓がNKK、井原文之が富士フイルム、小田雅志がJT、寺廻太が日本電気と日本リーグ男子8チームのうち半分の4チームを含め6人の出身者が監督に就任した。
ラグビー部
1932年(昭和7年)創部。広島県下で最も古い歴史を持つ。全国高校ラグビーフットボール大会に14回出場、ベスト4(3回)の実績がある。また、国民体育大会(単独出場9回)では準優勝1回・ベスト4が2回。
硬式野球部
創部は1947年。1961年広島大会で優勝し甲子園に初出場(第43回全国高等学校野球選手権大会ではベスト16)。1976年第48回選抜高等学校野球大会で優勝。甲子園には春3回(1976年、1978年、1993年)、夏2回(1961年、1976年)出場。
1976年のドラフト会議では、應武篤良(近鉄3位指名、拒否して早稲田大学へ進学)、黒田真二(日本ハム1位指名、のちにヤクルト)、山崎隆造(広島1位指名)、小川達明(広島5位指名)と、同じ高校から1位二人を含む4人が指名され、当時は珍しく話題を呼んだ。近年では甲子園出場から遠ざかっているが、県内では強豪ぶりを発揮している。スローガンは「一球入魂」。
原爆打線
1976年の選抜高校野球優勝時の崇徳打線に対して、毎日新聞などのメディアが名付けたものとされている。
打順 | 選手名 | 守備位置 |
---|---|---|
1番 | 山崎 | 遊撃手 |
2番 | 樽岡 | 二塁手 |
3番 | 小川 | 中堅手 |
4番 | 永田 | 左翼手 |
5番 | 應武 | 捕手 |
6番 | 釘屋 | 右翼手 |
7番 | 兼光 | 一塁手 |
8番 | 黒田 | 投手 |
9番 | 槇村 | 三塁手 |
久保 | 監督 |
戦績
近年の主な戦績は以下の通り。
- 2011年第93回全国高等学校野球選手権大会広島大会ベスト4
- 2012年秋季広島県高等学校野球大会優勝(35年ぶり3回目の優勝)
- 2013年秋季広島県高等学校野球大会準優勝
甲子園戦績[7]
出場年 | 出場大会 | 大会 | 1回戦 | 2回戦 | 3回戦 | 準々決勝 | 準決勝 | 決勝 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1961 | 選手権 | 43 | 3-2○(武生) | 4-1○(新発田農) | 1-3●(岐阜商) | |||
1976 | 選抜 | 48 | 11-8○(高松商) | 4-1○(鉾田一) | 4-0○(福井) | 3-1○(日田林工) | 5-0○(小山) | |
1976 | 選手権 | 58 | 10-8○(東海大四) | 0-1●(海星) | ||||
1978 | 選抜 | 50 | 1-2●(南宇和) | |||||
1993 | 選抜 | 65 | 3-5●(大宮東) |
軟式野球部
1995年、第40回軟式野球選手権大会に初出場。軟式野球選手権大会に出場4回(1995年第40回大会・1997年第42回大会・2001年第46回大会・2002年第47回大会)、2002年には国民体育大会で全国優勝を果たすなど、近年では軟式野球部も強豪校として知られている。 主なOBにオリックス・ブルーウェーブでエースとして活躍した小林宏 がいる。
柔道部
いわゆる強豪校として知られ、多くのオリンピック・世界選手権の金メダリストを輩出している。古くは川口孝夫、南喜陽、森脇保彦、また最近では上川大樹など。2013年インターハイ柔道競技では、男子団体戦で初優勝を果たした。
剣道部
インターハイや国体に複数の選手が出場している。 OBには第56回全日本剣道選手権大会で第三位に入賞した有場賢輔を輩出している。
アメリカンフットボール部
広島県内で同部を置く学校は、崇徳と広島城北(広島城北高校ロングホーンズ)の2校のみであるため、全国大会へは毎年出場している。大学スポーツ推薦の基準を満たしているため、有名大学に入学可能。チーム名は「崇徳高校ファイティングダックス」である。
ボクシング部
インターハイや国体に複数の選手が出場している。
文化系
グリークラブ
県内の高校では唯一で、全国的に見ても数少ない男声合唱部である。過去に全日本合唱コンクールに出場し、出場21回中金賞10回、銀賞8回、銅賞2回、優良賞1回をそれぞれ受賞しており、全国的な実力を誇る。また、過去8回海外演奏旅行を行っており、カーネギー・ホールで3度の演奏経験がある。秋に開催する定期演奏会も2010年度で40回を数える。最盛期は部員が100名を超えていたが近年は少子化などの影響もあり、減少傾向にある。 テンプレート:Main
交通アクセス
学校関係者
同窓会組織
- 崇徳学園同窓会
- 崇徳学園同窓会関東支部
- 近畿崇徳会
関連項目
脚注・典拠
- ↑ 稽古屋敷(現呉港高等学校)は1818年、修道館(現修道中学校・高等学校)は1870年、広島外国語学校(現広島県立国泰寺高等学校)は1874年、学仏場(現崇徳中学校・高等学校)は1875年、広島県福山中学校(現広島県立福山誠之館高等学校は1879年に開校(誠之館は藩校から名前を借り受けた為、直接藩校が前身とは言えない)。
- ↑ 仏教中学は全国で5校あった。第一仏教中学(現高輪高等学校)、第二仏教中学校(現北陸高等学校)、第三仏教中学校・高等学校(現龍谷大学付属平安高等学校)、第四仏教中学校(現崇徳高等学校)、第五仏教中学校(現龍谷高等学校)である。なお、第四仏教中学には福岡分教場があり、福岡分教場で教鞭をとっていた水月哲英が当校を継承する形で私立筑紫高等女学校を創立している。
- ↑ 西本願寺の方針で第四仏教中学を兵庫県の六甲山に移し、武庫中学を開校した。それにより、真宗崇徳教社により新たに普通中学として「旧制崇徳中学校」を開校し存続させた。(貫名聡「崇徳教社と闡教部」『芸備地方史研究』37・38号、1961年)
- ↑ 校歌の作曲は、広島県佐伯郡出身の作曲家・永井建子が手掛けている。
- ↑ 「崇徳高校が大淵高校(釜山)と交流へ」-広島県日韓親善協会(http://www.jakof.jp/sub7995.htm)
- ↑ 貫名聰「崇徳教社と闡教部」『芸備地方史研究』37・38号、1961年
- ↑ 朝日新聞社(http://www2.asahi.com/koshien/hs/32/34003/)
外部リンク
テンプレート:学校法人龍谷大学 テンプレート:選抜高等学校野球大会優勝校 テンプレート:全国高等学校総合体育大会柔道競技大会男子団体戦優勝校