JTサンダーズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:バレーボールチーム テンプレート:Vertical images list JTサンダーズ(じぇいてぃサンダーズ、テンプレート:Lang-en-short)は、広島県広島市を本拠地に活動する、Vプレミアリーグ所属の男子バレーボールチーム。

概要

テンプレート:Vertical images list 1931年ごろ創部。母体は「日本たばこ産業(JT)」。1985年の専売制度廃止までは、日本専売公社広島地方専売局のバレーボールチームだった。同じくJTを母体とするバレーボールチームに、女子のJTマーヴェラスが存在する。

チーム名はプレーする選手たちの勇姿から、「稲妻(Thunder)」をイメージして名づけられた。チームカラーは母体の企業カラーと同じ「緑」。チームマスコットは、雷をモチーフとした「サンダー坊や」。

ユニフォームはチームカラーである緑を基調とし、ホーム用は緑、アウェー用は白を主体としている。リベロ用ユニは特別に作ったものでなく、ホームとアウェーが逆になることで他の選手と異なるようにしている。サプライヤーはアシックス。両肩口にあるのはJTの企業スローガンロゴ、左胸にあるのがチーム名およびマスコットキャラクターである。マーヴェラスも同じ仕様であり、違いは左胸のマスコット「サンダー坊や」(マーヴェラスは「マーヴェりん」)と、サンダーズの方の右には「トップス広島ロゴ」[注 1]が付いている。

事務所は広島市中区の中国支社内に置かれ、試合会場などは#拠点参照。

戦前から活動している日本でも古参のチームで、1967年から始まった全日本バレーボール選抜男女リーグ(日本リーグ)の初期6チームの一つである。それから今日のプレミアリーグ(Vリーグ)に至るまで、1度も2部落ちせずトップリーグで活躍する唯一のチームである。その間2位が6回あるものの、優勝はない。2007年、日本リーグ時代から1度も2部落ちせずトップリーグで在籍した業績を讃え、節目のリーグ40回目に日本バレーボールリーグ機構から特別功労賞として唯一の団体表彰を受けた。

歴史

ファイル:Hiroshima map circa 1930.PNG
1930年ごろの広島市の地図。右から2番目の川・京橋川最下流の御幸橋の右に「地方專賣局」が見える。猫田記念体育館は現在もこの地にある。

テンプレート:External media

創設期

1931年(昭和6年)、大正時代末からあった女子排球部[注 2]の練習相手をしていた男子選手たちが中心となり、大蔵省広島地方専売局男子排球部』として正式に発足したと言われているが、広島市への原子爆弾投下による記録資料消滅の為、詳細などは不明である[1]。現在もVリーグに参加するチームでは、堺ブレイザーズ(元新日鉄)と共に最も古くから有るチームである。戦前は黄金期を築いた呉海軍工廠が全国大会で5度優勝するなど圧倒的に強く、全国大会には1度も出場出来なかった。戦前の全日本においては温井政記が唯一選ばれている。

太平洋戦争中は活動を中止しており[1]、当時の部員の出征状況は不明。1945年(昭和20年)、被爆により広島専売局(爆心地から約2.0km強)は6日間燃え続け7割方を焼き尽くし、従業員のうち即死者が1人、800人近く(うち局員は600人ほど)が重軽傷を負った[2]。なお、戦中における専売局の重要度から局員すべて当時この地で働いており[2]、もし当時バレー部部員がいたのであればここで被爆したことになる。

戦後1946年(昭和21年)活動は再開した[1]ものの、バレー部の選手は当時レベルが高く全盛時代だった地域のクラブチームへ参加した。1949年(昭和24年)、『広島地方専売局』から『広島専売』に名称変更[1]

1952年(昭和27年)の第1回全日本都市対抗優勝大会では、芸陽クラブに主力選手を送り3位となった[1]。翌年1953年、当時の宿敵であった帝人三原を全国実業団選手権大会県予選で降し、ようやく全国大会に初出場した。1955年の同大会では、メンバーギリギリの9人で優勝候補筆頭の日本鋼管(現JFE)を破り、ベスト4入りし名声を高めた。ところが、今度は帝人三原が1956年の全国実業団を制すなど絶頂期を迎え、更に東洋工業(現マツダ)まで強くなって、なお苦難が続いた。

専売広島

1957年(昭和32年)、国際オリンピック委員会総会がバレーボールを正式種目とすることを決定し、国際ルールである6人制への切り替えが急がれ、チームも6人制と9人制を両立した。

1958年(昭和33年)、チーム名を『専売広島』に変更[1]。同年、富山国体ではベスト8に進出。またこの頃から力を付け始めた地元・崇徳高校からの出身者が増えチームの主軸となっていった。

1962年(昭和37年)、崇徳高校から他チームの勧誘を振り切って猫田勝敏が入社。同時に全日本入りした猫田に対して、日本バレーボール協会から「中央の6人制のチームへ移るべきだ」との勧告が出され、松平康隆(1964年東京オリンピック全日本男子コーチ)からも「専売広島にいてはダメだ」と叱咤を受けた。これを機にチームも6人制に力を入れ、1965年(昭和40年)からは一本化した。

昭和30年代(1950年代中期)に入り、大学卒の地方局採用が中止されたため、補強出来ない状況になった。チーム強化はうまく進まなかったものの、厳しい練習の甲斐あって1967年(昭和42年)の全日本6人制実業団選手権で3位、同年の都市対抗でも3位。

そして、同年1967年に始まったバレーボール選抜男女リーグの、最初の参加6チームの一つに選ばれた。この頃、人気が出始めたバレーに、各企業もイメージアップのため参加を検討。公社である専売広島は思うような部費が得られず、選に洩れるのでは、という予想が多かったが、関係者各位の努力によって参加が認められた。

その後、1979年(昭和54年)の宮崎国体で優勝し、チーム初の日本一に輝く。1981年(昭和56年)の滋賀国体でも優勝。

母体の都合により、1985年(昭和60年)から 『日本たばこ』、1988年(昭和63年)から『JT』に名称変更[1]。この間、日本リーグ時代は2位が2回と一度も優勝は出来なかった。また、リーグで2度最下位になるも、入替戦で勝利し残留を果たしている。

JTサンダーズ

テンプレート:Vertical images list 1994年から始まったVリーグにも、最初の8チームとして参加、"サンダーズ"の愛称が付けられた[1]。同年、平野信孝が入団してからは、チームはさらに力を付けVリーグや全日本選手権(黒鷲旗)でも度々優勝争いに加わるようになった。

1999年、元ソ連男子代表監督のゲンナジー・パルシンを初の外国人監督として、元ソ連代表のオレーク・アントロポフをコーチに招聘する。以降、チームはエフゲーニ・ミトコフオレーク・シャトーノフパーベル・シシュキンイリア・サベリエフらロシア代表を補強することになる。パルシンのもと、2001年全日本選手権(黒鷲旗)で悲願の初優勝[3]、2004年にも同大会で優勝した。国体では2001年の宮城国体で20年ぶりに国体優勝を果たすと[4]、翌2002年高知国体も優勝し2連覇、2004年埼玉国体[5]・2005年岡山国体でも2連覇した。2005年、RPAペルージャから加藤陽一を獲得し強化に務めた。

2006年、パルシン勇退に伴いアントロポフが監督に昇格する[6]。同シーズン末、特別功労賞として唯一の団体表彰される[7]。翌2007年秋田国体優勝する[8]も、リーグ開幕前にアントロポフが体調不良により帰国したため栗生澤淳一コーチが監督代行に、臺光章と平野がコーチ兼任選手を務めた[9]。栗生澤のもと、同年の天皇杯優勝し初代チャンプとなる。

2年連続で準決勝リーグ入りを逃した2008年、堺で監督を経験し日本バレーにも精通したアメリカ人ゴードン・メイフォースを監督に招聘する[10]2009年、日本人としては初のJT出身外コーチとなる久保義人を招聘した[11]。同シーズンの天皇杯準優勝。

2010年3月、ゴードンがギリシャ男子代表監督就任に伴いチームを退団すると、同年4月から久保が監督に昇格した[12]。同年の黒鷲旗準優勝[13]。2011/12シーズン、豊田合成とセット率0.01差で7位になり、18年ぶりに入替戦に回り[14]ジェイテクトSTINGSに2試合勝利したことによりプレミアに残留した[15]

2012/13シーズン、イゴール・オムルチェンを補強するも、開幕から7連敗を喫する[16]。同年11月久保が体調不良のため監督を休養、一旦回復し同年度の天皇杯で指揮するも再び体調不良のため、徳元幸人コーチが監督代行[注 3]として指揮することになった[17]。シーズン終了後、久保は勇退する[18]

2013年、元セルビア・モンテネグロ男子代表監督のヴェセリン・ヴコヴィッチが監督に就任した[18]。JTは長くプレーオフ圏内に進めなかったことから、若手を育成することでチームを強化する方向へ進んでいく[18]。それに加え、全日本エースである越川優を獲得する[19]。イゴールら既存戦力に加えこれらの改革が実り、チームは8年ぶり・Vプレミアリーグ再編以降では初めてセミファイナルラウンドに進み10年ぶりに優勝決定戦に駒を進めたが、悲願の初優勝はならなかった[20][21]

略歴

成績

主な成績

日本リーグ/Vリーグ/Vプレミアリーグ
全日本都市対抗/黒鷲旗全日本選抜
天皇杯・皇后杯全日本バレーボール選手権大会
全日本総合(6人制)
国民体育大会成年男子(6人制)

年度別成績

大会名 順位 チーム数 試合数 勝率 備考 監督
日本リーグ 第1回 (1967) 4位 6チーム 10 4 6 テンプレート:Flagicon寺尾正三
第2回 (1968/69) 3位 6チーム 10 7 3
第3回 (1969/70) 3位 6チーム 10 4 6
第4回 (1970/71) 4位 6チーム 10 4 6
第5回 (1971/72) 5位 6チーム 10 3 7
第6回 (1972/73) 4位 6チーム 10 3 7
第7回 (1973/74) 準優勝 6チーム 10 7 3
第8回 (1974/75) 4位 6チーム 10 6 4
第9回 (1975/76) 6位 6チーム 10 2 8 テンプレート:Flagicon猫田勝敏
第10回 (1976/77) 3位 6チーム 10 5 5
第11回 (1977/78) 3位 6チーム 10 6 4
第12回 (1978/79) 準優勝 6チーム 10 7 3
第13回 (1979/80) 3位 6チーム 10 6 4
第14回 (1980/81) 3位 8チーム 14 9 5
第15回 (1981/82) 3位 8チーム 21 13 8
第16回 (1982/83) 5位 8チーム 21 9 12
第17回 (1983/84) 6位 8チーム 21 10 11 テンプレート:Flagicon西本哲雄
第18回 (1984/85) 3位 8チーム 21 15 6 0.714
第19回 (1985/86) 4位 8チーム 21 12 9 0.571
第20回 (1986/87) 4位 8チーム 21 12 9 0.571
第21回 (1987/88) 4位 8チーム 14 6 8 0.429
第22回 (1988/89) 5位 8チーム 14 6 8 0.429 テンプレート:Flagicon小田雅志
第23回 (1989/90) 3位 8チーム 17 11 6 0.647
第24回 (1990/91) 4位 8チーム 17 9 8 0.529
第25回 (1991/92) 6位 8チーム 14 5 9 0.357
第26回 (1992/93) 5位 8チーム 14 7 7 0.500
第27回 (1993/94) 7位 8チーム 14 3 11 0.214
Vリーグ 第1回 (1994/95) 5位 8チーム 21 10 11 .476
第2回 (1995/96) 3位 8チーム 21 13 8 .619
第3回 (1996/97) 準優勝 8チーム 21 14 7 .667
第4回 (1997/98) 8位 8チーム 21 3 18 .143
第5回 (1998/99) 7位 10チーム 18 6 12 .333
第6回 (1999/00) 5位 10チーム 18 10 8 .556 テンプレート:Flagiconパルシン
第7回 (2000/01) 準優勝 10チーム 18 13 5 .722
第8回 (2001/02) 5位 10チーム 18 11 7 .611
第9回 (2002/03) 準優勝 8チーム 21 15 6 .714
第10回 (2003/04) 準優勝 8チーム 21 13 8 .542
第11回 (2004/05) 3位 8チーム 28 17 11 .607
第12回 (2005/06) 4位 8チーム 28 16 12 .571
V・プレミア 2006/07シーズン 5位 8チーム 28 14 14 .500 テンプレート:Flagiconテンプレート:Flagiconアントロポフ
2007/08シーズン 6位 8チーム 28 12 16 .429 [注 4]
2008/09シーズン 5位 8チーム 28 14 14 .500 テンプレート:Flagiconゴードン
2009/10シーズン 6位 8チーム 28 14 14 .500
2010/11シーズン 5位 8チーム 24 12 12 .500 [注 5] テンプレート:Flagicon久保義人
2011/12シーズン 7位 8チーム 21 7 14 .333
2012/13シーズン 6位 8チーム 28 9 19 0.474 [注 6] テンプレート:Flagicon久保義人
テンプレート:Flagicon丹山禎昭[注 3]
2013/14シーズン 準優勝 8チーム 28 18 10 0.643 テンプレート:Flagiconヴコヴィッチ
2014/15シーズン

選手・スタッフ

選手

テンプレート:バレーボールのポジション 2014年7月版[22][23]

背番号 名前 シャツネーム 国籍 P 備考
1 安永拓弥 YASUNAGA テンプレート:Flagicon 日本 MB
2 町野仁志 MACHINO テンプレート:Flagicon 日本 MB
3 酒井大祐 SAKAI テンプレート:Flagicon 日本 L
6 菅直哉 SUGA テンプレート:Flagicon 日本 S
7 八子大輔 YAKO テンプレート:Flagicon 日本 WS
8 越川優 KOSHIKAWA テンプレート:Flagicon 日本 WS
10 小澤翔 OZAWA テンプレート:Flagicon 日本 WS
11 安井勇誠 YASUI テンプレート:Flagicon 日本 WS
12 ベゼラ・ジュニオル BEZERA テンプレート:Flagicon 日本 MB
16 塚崎祐平 TSUKAZAKI テンプレート:Flagicon 日本 WS
17 深津旭弘 FUKATSU テンプレート:Flagicon 日本 S
18 レアンドロ・ヴィソット・ネヴェス(英語版 テンプレート:Flagicon ブラジル OP
19 井上俊輔 INOUE テンプレート:Flagicon 日本 S
20 筧本翔昴 TOIMOTO テンプレート:Flagicon 日本 MB トップス広島1期生
22 中島健太 NAKAJIMA テンプレート:Flagicon 日本 MB
23 吉岡光大 YOSHIOKA テンプレート:Flagicon 日本 WS
24 久原大輝 HISAHARA テンプレート:Flagicon 日本 WS

スタッフ

2013年11月版[22][24]

役職 名前 国籍
部長 栗生澤淳一 テンプレート:Flagicon 日本
副部長 久保義人 テンプレート:Flagicon 日本
監督 ヴェセリン・ヴコヴィッチ テンプレート:MNE
コーチ 徳元幸人 テンプレート:Flagicon 日本
コーチ 平馬慶太 テンプレート:Flagicon 日本
マネージャー 寺西真 テンプレート:Flagicon 日本
S&Cコーチ 鳥越隼 テンプレート:Flagicon 日本
メディカルトレーナー 関野吉陽 テンプレート:Flagicon 日本
通訳 井上信 テンプレート:Flagicon 日本
通訳 亀渕雅史 テンプレート:Flagicon 日本
事務局長 青山信夫 テンプレート:Flagicon 日本
総務 新川義雄 テンプレート:Flagicon 日本
総務 児玉豊 テンプレート:Flagicon 日本
総務 森山淳子 テンプレート:Flagicon 日本

在籍していた主な選手

テンプレート:See also テンプレート:Col-begin テンプレート:Col-2

テンプレート:JPNmv(全日本経験者のみ)

テンプレート:Col-2

外国人選手

テンプレート:Col-end

拠点

広島県内での試合会場は、広島市中区広島県立総合体育館(旧・広島県立体育館)や、呉市呉市総合体育館などを用いている。

練習拠点は広島市南区にある猫田記念体育館で、合宿所を併設している。ここは元々戦前からあった専売公社広島工場、のちのJT広島工場敷地内で、2004年工場閉鎖に伴いイズミに賃貸しゆめタウン広島が開店している。つまり、体育館・合宿所含め旧工場敷地は現在もJT所有である[25]テンプレート:See also

育成・普及事業

テンプレート:Main2 親会社であるJTのメセナトップス広島での活動の一環として、また2000年代からVリーグ機構がジュニア世代育成を奨励していることもあり[26]、地元広島を中心にバレーボール教室を開催し、自治体が主催する地域活性化事業に参加するなど、若年層選手の育成およびバレーボール普及に積極的に貢献している[27]

JTサンダーズバレーボール教室
広島県内を中心とした地元自治体が主催するバレーボール教室に現役選手やコーチを派遣し指導を行っている。 ちなみにこのバレーボール教室はマーヴェラスの方も同様に行っている。
  • 対象 - 小中高校の若年層およびママさんチームなど
  • スタッフ - JT現役選手およびスタッフ
トップス広島バレーボール学校
2002年開校。トップス広島および県バレーボール協会が主催、JTが指導協力の形で運営している。現在JTのジュニアチームとして位置づけられており[28]全国ヤングバレーボールクラブ男女優勝大会などに出場している。2009/10シーズンには、1期生が初めてプレミアリーグ入りした[28]
  • 対象 - 広島県在住の中学生男子
  • 期間 - 毎年5月から翌年の3月までの毎週土曜日
  • 場所 - 猫田記念体育館
  • スタッフ - 校長:栗生澤淳一、ヘッドコーチ:原秀治、アドバイザー:下村英士、他JTのOBおよび現役選手が指導協力にあたる

関連情報

TVおよびラジオ
紙/ネット媒体

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ 注釈

  1. これはトップス広島に加盟するほぼすべてのチームが右袖付近に付けている。
  2. 日本の女子実業団チームの第1号と言われ、戦前の日本選手権などの全国大会で3度の優勝を誇る強豪チームだったが、1965年を境に自然消滅している。ちなみに、このチームは現在のJTマーヴェラスの前身ではない(マーヴェラス詳細は当該リンク先参照)。
  3. 3.0 3.1 なお徳元幸人が実質的な監督ではあるが、2012年11月現在でリーグで指揮するための日本体育協会上級コーチライセンスを持っていないため、そのライセンスを持つ丹山禎昭マネージャーが名目上の監督として登録している[17]
  4. シーズン前に体調不良によりアントロポフが休養したため、コーチの栗生澤淳一が監督代行を務めた[9]
  5. 東日本大震災によるスポーツへの影響に伴い途中終了。
  6. シーズン中の久保体調不良のため、レギュラーラウンド第7節以降は徳元幸人が監督代行。

出典 テンプレート:Reflist

参考資料

関連項目

外部リンク

テンプレート:Sister

テンプレート:JTサンダーズ テンプレート:Vリーグ男子 テンプレート:日本の男子バレーボールチーム テンプレート:トップス広島

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 テンプレート:Cite web
  2. 2.0 2.1 テンプレート:Cite book
  3. テンプレート:Cite web
  4. テンプレート:Cite web
  5. テンプレート:Cite news
  6. テンプレート:Cite news
  7. テンプレート:Cite news
  8. テンプレート:Cite news
  9. 9.0 9.1 テンプレート:Cite news
  10. テンプレート:Cite web
  11. テンプレート:Cite web
  12. テンプレート:Cite news
  13. テンプレート:Cite news
  14. テンプレート:Cite news
  15. テンプレート:Cite news
  16. テンプレート:Cite news
  17. 17.0 17.1 テンプレート:Cite news
  18. 18.0 18.1 18.2 テンプレート:Cite news
  19. テンプレート:Cite news
  20. テンプレート:Cite web
  21. テンプレート:Cite web
  22. 22.0 22.1 テンプレート:Cite web
  23. テンプレート:Cite web
  24. テンプレート:Cite web
  25. テンプレート:Cite news
  26. テンプレート:Cite web
  27. テンプレート:Cite web
  28. 28.0 28.1 テンプレート:Cite web