展望車

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展望車のある車両の例
展望車(てんぼうしゃ)とは、軌道上の風景を展望できる座席や大型の窓を特に設けた鉄道車両である。

概説

日本国有鉄道における客車記号は「テ」であるが、電車1980年代以降に新造・改造された客車の展望車では、この記号を付さない場合が多い。

類似する例としてトロッコ列車と呼ばれる種類の車両が存在する。純粋な観光路線などで、より開放的な展望を得る目的や、一種の特殊なアトラクションという性格をもって、側面が開放された構造の客車や無蓋貨車を改造した車両などで運行される。

アメリカでの事例

日本における第二次世界大戦以前の展望車は、元々19世紀末期から20世紀前半の北アメリカで長距離列車の最後尾に連結されていた展望車に範を採ったものである。

初期の展望車

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初期の展望車の一例(イリノイ鉄道博物館にて保存)

1880年代にアメリカの鉄道で車両間の連結部分に可動式の渡り板を渡し、蛇腹状の幌で覆った貫通路構造が考案された。この「ベスティビュールカー(貫通式車両)」は、乗客が安全に車両間を往来できる利便性から、1890年代までに全米の鉄道に広く普及した。

車両間貫通路が整備された事で、寝台と喫煙室、供食設備を1両に収めた車両を何両か連結する列車の代わりに、独立したラウンジカー、食堂車などを備えた列車を運行する事が盛んになった。長距離を移動する際に一等旅客の憩いの場となるラウンジは、列車の最前部や最後部に設けられた。

この時、列車の最後部に設けられたラウンジに、旅客誘致の目玉設備として設けられたのが展望室である。

1890年代から1920年代頃までのアメリカの展望車の形状は、日本の展望車とよく似ている。車両の一端、乗降用のデッキを少し広くした程のスペースが、景色を展望可能なオープンデッキとされた。ここには転落を防ぐための柵が取り付けられ、隣接する客室が展望室となっていた。この構造は日本の展望車でも踏襲されていた。

日本の展望車との違いは、21世紀初頭の日本の寝台特急に於けるロビーカーと同様、展望室が乗車した各等旅客のフリースペースとなっていた事である。展望車車内のうち展望室を除いた残りのスペースは、開放式寝台ないし個室寝台で構成される客室とされるか、軽食用の供食スペースに充てられた。

オープンデッキ部分が気軽に利用されていたのも日本との相違点の一つで、椅子を置き、走行中にカードゲームなどをして楽しんでいる乗客の写真や、家族並んでの記念写真などが残されている。日本からの旅行客もその例外ではなく日本人の視察団の記念写真も存在する。

無論、展望車を連結した列車は一等運賃や特別料金が要求されるプルマン寝台車で構成された優等列車が多く、利用に当たってはある程度の出費を必要としたが、それは一般旅行客の利用を妨げるほどの高値ではなかった。なお一部の車両には密閉式の展望車も存在した。

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「ジョージア300」上のバラク・オバマ

またアメリカの鉄道には企業幹部や資産家が貸切使用する客車「プライベートカー」が多数存在したが、その中にも展望室を設けたものが存在する。古い文献や写真、記録映画などで、政治家の地方遊説の際に描かれる展望車両は、多くはこの種の車両である。

なお、2009年1月17日バラク・オバマ次期大統領(当時)はフィラデルフィアから特別列車でワシントン入りしたが[1]、その最後尾には1930年プルマン社製の展望車「ジョージア300」(Georgia 300)が連結され、オバマは展望デッキから周囲にこたえた。

流線型展望車・ドームカー・2階建て車

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ミルウォーキー鉄道で使われた「スカイトップ・ラウンジ」(手前)と「スーパードーム」(後ろから2両目)

アメリカで展望車が大きく変化したのは1930年代の事である。この時期に流線型デザインの軽量な客車が開発され、優等列車向けに普及したが、それらの車両では滑らかな流線型を描く密閉式の展望車を設ける事が一つのスタンダードとなった。また、これらの展望車の発展系として1948年運行開始の「カリフォルニア・ゼファー号」などに連結された2階建て展望車「ビスタドームカー」を挙げることができる。こうした流線型の展望車の一部は、21世紀初頭でもカナダの大陸横断列車「カナディアン号」の展望車として運行されている。

展望ドーム車は編成の中間にも設けられた。前述のカリフォルニアゼファー号でも一部が2階建ての展望ドームとなった座席車が連結されたが、それとは別に車両全体が展望ドームとなった「スーパードーム」車も建造されている。ガラスドームのために重量が大きいのが特徴で、ミルウォーキー鉄道向けに建造された鋼製車は軽量構造にもかかわらず、112トンもの重量を有した。

また、1950年代の後半にはアッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道のシカゴ - ロサンゼルスを結ぶ「エル・キャピタン号」用に全車2階建ての編成が新造された。エルキャピタン号は全車座席車だったので、2階建て車両は座席車とラウンジ車、食堂車であり、寝台車や最後尾用の展望車は製造されなかった。これまでの全車2階建て車両が通勤用として座席を増やし定員着席を目指してつくられたものであったのに対し、この車両は展望を目的に建造されたというのが大きな違いである。この様式の車両はアムトラックの「スーパーライナー」に引き継がれ、寝台車も設けられた。スーパーライナーは西部の列車を中心に、アムトラックの長距離列車の主役として2014年現在も運行を続けている。 なお、旧来の展望車も一部が維持保存され、プライベートカーとして一般のアムトラック列車に併結され運転されることもある。これらは当該車輌が貸し切りまたは私有であるため一般乗客の立ち入りはできない。

その他の国と地域

前述の様にアメリカの展望車は日本の展望車にも大きな影響を与えているが、特に線路や車両の規格がアメリカのものと類似していた日本資本の南満州鉄道ではその傾向が強かった。

南満州鉄道の代表的な展望車としては、1930年代にあじあ号向けに製作されたテンイ8形が挙げられるが、これは当時アメリカで試作が進められた流線型の展望車を参考に製作されたもので、形態はまるきり本家アメリカ式の密閉式流線型である。この形式は21世紀初頭に於いても中国鉄道部に於いて若干数が現存しているといわれている。

また、観光用のドームカーや通勤用の2階建て車両については、ドイツ国鉄がアメリカに先駆け、1930年代から製作を行っている。1936年に建造されたガラス電車「ET491」や、1962年から1976年に「ラインゴルト号」「ラインプファイル号」に連結されたドーム展望車などは、世界的に知られている。また、フランスにも「オートラーユパノラミック」という単行運転のできるドーム展望室付きの流線形気動車が存在した。

このほか、現在のヨーロッパでは、風光明媚なアルプスやリビエラ海岸を走行する急行列車には、現在でもオブザベーションカーが連結されているが、これは窓を天井まで広げ展望を良くした一等車氷河急行ベルニナ急行ゴールデン・パスモントルー・オーベルラン・ベルノワ鉄道(MOB)区間では一等車に加え二等車)で、ドームカーの発展型である。

現在アメリカ・カリフォルニア州ナパバレー地方にある、ナパバレー・ワイントレインは1947年製のビスタ・ドーム・カーから構成されている列車が観光列車として現役運行中である。

国鉄・JRの客車

戦前形

日本の国鉄が1960年代以前に保有した正式な展望車は、東海道本線山陽本線特別急行列車に連結された。これらはすべて「乗り心地がよい」とされた3軸ボギー台車を装備し、後尾に柵を備えたオープンな展望デッキを設けていた。いずれも先行するアメリカの流儀に倣ったものである。民間メーカーでは1両も製造されず、国鉄工場で最高水準の技術をもって製作された。

通常は3等級制時代の一等車として編成の最後尾に連結された。従って展望席も一等客専用の領域であった。また、それゆえ必ず車掌室を備えていたことから、緩急車を示す「フ」は付かないものとされていた。

この時代の日本における展望デッキは、主として駅での発車時及び見送り客に答礼し手を振るための「お立ち台」であり、乗客が走行中にデッキに出る事はほとんどなかった。

初期の木製展望車

日本最初の展望車は、1908年九州鉄道が発注した車両を国有化後の国鉄が引き継いだ、ブトク1形だとされる。

定期列車においてはじめに使用されたのは、1912年新橋駅 - 下関駅一等二等特別急行列車番号1・2列車(のち1929年に「富士」の愛称を与えられる。)に連結された木造車体のオテン9020形である。1912年に4両が製造され、翌1913年には一部の設計を変更したオテン9025が増備された[2]

1923年には車体断面を大型化した木造展望車のオイテ28070形が登場し、オテン9020形に取って代わった。1928年の称号改正でオイテ27000形に改称されている。置き換えられたオテン9020形4両は荷物車へと改造されたが、オテン9025はその後も予備車として残り、称号改正ではオイネテ17000となった。

オイテ27000形も後に鋼製展望車の登場によって「富士」の運用から外され、うち2両は引き続き東京駅 - 下関駅間急行7・8列車の京都駅 - 下関駅間で使用、残りは予備車となったが、急行7・8列車の運用が鋼製展望車に置き換えられた1939年には第12回東京オリンピックに備え2両が鋼体化改装され、スイテ37050(後のスイテ37形→マイテ58形)となって特別急行列車「」(かもめ)に充当されている。鋼体化されなかった3両は後に荷物車などに改造された。

なお、外国要人や貴賓・高官の移動時に運用された展望車類似の特別車としてオトク9010形1911年に製造されたほか、1922年には国賓用として10号御料車が展望デッキを備えた形で登場している。

鋼製展望車

ファイル:国鉄スハ32系マイテ49形2号.JPG
スイテ37040形 (現・マイテ49 2)

1927年から国鉄客車の車体は鋼製が標準となった。20m車体を持つ優等車両についてはペンシルバニア式3軸ボギー台車のTR73形が開発され、展望車についても1930年以降にこれを装備した鋼製車が製作される事になる。


まず、1930年に最初の鋼製展望車としてスイテ37000形(後のスイテ38形→1両はマイテ39 21に改造)が登場し、続いてスイテ37010形(後のマイテ39形→マイテ39 1、マイテ39 11)が製造され、いずれもオイテ27000に代わって「富士」に充当された。

 鋼製展望車1941年改称形式対照一覧
当初形式 1941年
改称後
区分室 展望室
様式
屋根
スイテ37000 スイテ38 なし 洋式 二重
スイテ37010 スイテ39 なし 桃山式 二重
スイテ37020 スイテ48 あり
(前寄)
洋式 二重
スイテ37030 スイテ47 あり
(中央)
洋式 二重
スイテ37040 スイテ49 なし 洋式
スイテ37050 スイテ37 あり
(前寄)
洋式

このうちスイテ37000形の車内は当時同時期に新築した有名デパートの白木屋の内装デザインに似ていることにちなんで「白木屋式」と呼ばれた洋風の内装を採用、スイテ37010形の車内は「桃山式」と呼ばれた純和風の内装であった。国際列車であった戦前の特急「富士」にあっては殊に外国人観光客に好評を博したとされるが、戦後復活した際には「まるで霊柩車の様で不気味」、「仏壇じみて縁起が悪い」と乗客の不評を買い、予備車に回された経緯を持っている。

その後1931年にはスイテ37000形に準じた洋風内装のスイテ37020形(後のスイテ48形)が超特急「燕」用に製造され、またスイテ37000形のうち1両は「燕」用にスイテ37030形(後のスイテ47)に改造されている。これらはいずれもダブルルーフであった。

1939年には、1940年に開催予定であった第12回東京オリンピックに備え、近代的な丸屋根構造を採用、車内に換気ダクトを設けるなど冷房装置の取付を当初から想定した(実際に冷房装置を付けたのは戦後)スイテ37040形(後のマイテ49形)が登場し「富士」に投入されたが、展望車自体の新製はこれが最後となった。この後に登場したスイテ37050形(後のスイテ37形→マイテ58形)は上述のとおりオイテ27000形の鋼体化改造である。

なお、鋼製展望車の車内の標準的な構造は1等寝台車とともに使用された「富士」用のスイテ37000形、スイテ37010形、スイテ37040形に於いては1等寝台車が区分室方式であったため、展望車自体は前位が1等室(談話室)で1人掛回転座席を備え、後位が展望室で1 - 2人用ソファを10席程度配置したものであり、基本的にオープンサロン方式。1等寝台車を連結しない昼行特急の「燕」・「鷗」用のスイテ37020形、スイテ37030形、スイテ37050形は上記に加えて区分室を2室程度備えており、貴賓・高官の乗車に備えられていた。いずれも定員は展望室が10名程度、1等室が16 - 19人程度であった。

太平洋戦争末期には、特急列車の廃止に伴い、展望車を含む優等車両は戦災を避けて地方に疎開措置が取られた。

戦後の展開

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スイテ37010形 (現・マイテ39 11)

1945年の日本の敗戦に伴い、温存されていた優等車両のほとんどは進駐軍に接収された。このとき展望車形であった10号御料車も省番号スイテ10となり、オクタゴニアン号の編成に組み込まれた。また戦後の国鉄は正式な「展望車」は新製していない。

展望車はほとんどが接収されたが、残った3両の展望車が1949年に復活した戦後初の特急「へいわ」、ついで翌年改称した「つばめ」に充当された。すなわち、スイテ38 2、スイテ39 1・2から各々1等客室を大改造した(この時に国鉄初のリクライニングシートが導入された)マイテ39 21・1・11である。桃山式展望車であったスイテ39の2両はともに車内の痛みが激しかったため、マイテ39 11のみに装飾を集めて復旧、マイテ39 1・21は洋風のデザインとされた(デザインはそれぞれ違う)が、桃山式の11は先述の通り利用者の評判が芳しくなく、予備車となった。

やがて全車が接収解除され、その多くが東海道本線特急「つばめ」・「はと」に使用された。この時期に車軸駆動による冷房化(マロネ40形の項目を参照)により重量が増加し、「ス」級から「マ」級になった。

 戦後の形式変遷</BR>(営業使用された車両)
当初 1949年</BR>整備後</BR>…は接収中 1953年</BR>改称後 1956年</BR>塗色
スイテ38 2 マイテ39 21
スイテ39 1 マイテ39 1
スイテ39 2 マイテ39 11</BR>(桃山式) 予備車
スイテ48 1 1950年</BR>「はと」 予備車
スイテ47 1 特別職用車 マイ98 1
スイテ49 1 1954年</BR>マイテ49 1</BR>→青
スイテ49 2 マイテ49 2
スイテ37 1 マイテ58 1
スイテ37 2 マイテ58 2

スイテ48 1、スイテ37 2(後のマイテ58形)、スイテ49 2(後のマイテ49形)は接収解除後、整備の上「はと」用として1950年から使用された。これらの展望車は車内がほぼ戦前のままで使用された。また1953年には返還された旧スイテ37 1を整備し冷房化もあって同年の称号改正によりマイテ58 1として「はと」に投入、スイテ48 1は予備に回った。1954年には返還された旧スイテ49 1を整備してマイテ49 1とした。

1955年には1等寝台の廃止(二等寝台への全車格下げ)により、国鉄で定期使用される一等車は東海道本線特急の展望車のみとなった。1956年に東海道線全線電化に伴い、これら客車特急用の車両は淡緑5号(いわゆる青大将色)に塗装されたが、その内訳は、「つばめ」用のマイテ39・マイテ49 2、「はと」用のマイテ58、および予備車マイテ49 1の6両で、これらが最後まで使用された[3]

1960年に東海道線昼行特急の電車化により展望車の定期運用はなくなった。展望車各車は専ら団体用となり、同時に2等級制への移行によって「マイテ」から「マロテ」へと名称が変更された。これらは1964年までに台枠を流用したオシ17形に改造され、或いは用途廃止によって廃車となるなどして全車が姿を消した。

その後、保存車としては東京都青梅市青梅鉄道公園のマイテ39 11、大阪府大阪市港区交通科学博物館のマイテ49 2が残存していた。マイテ49 2については1987年に改修のうえ車籍が復活し、西日本旅客鉄道(JR西日本)が引き継いだ。車籍復活の際は、従来設置されていた車軸駆動式冷房装置を撤去して、新たに冷暖房兼用のヒートポンプインバータエアコン三菱電機製)を設置するとともに、12系14系客車などから冷暖房用電源を供給してもらえる様に改造された。エアコンは車両強度の関係もあり、一般の業務用エアコンが使用され、床下に室外機を、客室内に操作用リモコンをそれぞれ設置し、展望車のダブルルーフ部分に設置された送風用ダクトを通じて客室内に送風される様にした。同社では、山口線の「SLやまぐち号」をはじめとするイベント列車において限定的に運用されている。またマイテ39 11は、損傷が激しくなったためJR東日本大井工場(現・東京総合車両センター)に移送されて復元が試みられたものの、高度な細工を凝らした桃山式の内装はもはや修復できる技術が残っておらず、実現には至らなかった。やむなく装飾などが取り払われた上で、東京総合車両センターに保管されていた。その後、2007年に開館したさいたま市大宮区鉄道博物館において保存されることとなり、現時点で可能な限りの内装の復元が施された上で展示されている。

なお、厳密な展望車には該当しないが、20系客車の編成端部に連結することを前提としたナハフ20形(のち改造でナハネフ20形)・ナハネフ22形には折りたたみ椅子を設けた展望スペースが設置されており、ある程度展望車を意識した造りになっていたともいえる。ただし、これらの車両は運用上編成の向きを変えることは行われていなかったので、後部から展望を楽しめたのは片道に限られていた。

1980年代以降の展開

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開放式展望車の例
大井川鐵道スイテ82形

元々一等車の需要は限られたもので、1950年代初頭には密閉式の展望車新造が計画された事もあったが、試作的改造(スハ32オハ35系改造のスヤ51形)のみで実現せず、試作車も国鉄内部の巡察などに用いられたのみに終わった。

1980年代に至り、「ジョイフルトレイン」の先駆けとなった「サロンエクスプレス東京」や「サロンカーなにわ」には、改造車ではあるが編成両端の車両に展望室を設けた車両が連結された。但しこれらはガラス張りで、特に前者は構造的にも伝統的な国鉄展望車よりも名鉄7000系パノラマカーに端を発する展望ロマンスカーの客車版といった雰囲気であった。これの類似車両は「スーパーエクスプレスレインボー」、「ユーロライナー」、サザンクロスなど多岐に渡る。

伝統的な開放式展望車としては、1982年西武鉄道からの譲受電車であるサハ1501形1515号を改造した大井川鐵道のスイテ82形が登場した。国鉄でも1983年に名古屋車両区にて改造されたお座敷客車の両端がタネ車の12系の構造体を流用しつつ開放式展望室を設けた。さらに1987年には50系から「アイランドエクスプレス四国」が、1988年には同じく50系から「ノスタルジックビュートレイン」が開放室展望車を製造して改造されている。また同年には「SLやまぐち号」向け12系の1両が開放式展望車に改造されている。

しかし、これらはスイテ82形を除いてすべて形式用途号は展望車の「テ」ではなく、通常緩急車の「フ」を名乗っており、「テ」の新形式は事実上途絶えたかと思われた。ところが意外なアプローチから1998年JR北海道にて改造車ながら新形式が登場する。→トロッコ列車を参照。

近年は「SLばんえつ物語」編成のように、中間の車両をハイデッカータイプとして良好な眺望を確保した大型窓を設け、乗車定員を0人として指定席券を発券しない例も現れている。なお、このハイデッカータイプの展望車両は客車・電車・気動車を問わずトレンドとなっており、用途形式上もロビーカーに準ずる「ハ」を名乗るケースが少なくない。

一方、新造車両では、上野駅 - 札幌駅間の寝台特急「カシオペア」用車両E26系に車端部に本格的な展望部を有する「カハフE26形」が投入され、好評を博している。なお、この車両の名称は「ラウンジカー」を名乗っている。

また1980年代より「トロッコ列車」と呼ばれる素朴な形態の展望車両も運行されるようになっている。運行当初は貨車を改装したものが用いられたが、安全上の問題から貨車改造が認められにくくなり、以後は12系などの通常型客車から側面ガラス窓・外板の一部を取り払った車両が投入されるようになった。

なお、かつての特別急行列車「つばめ」・「はと」などでは三角線と呼ばれる配線を利用して編成ごと方向転換をしていたが、近年のそれは編成の両端に展望車を設ける方法が一般的である。或いは蒸気機関車牽引列車の場合は発着駅近辺に蒸気機関車の転車台が残っているため、それを使って展望車のみ方転させる場合もある。

電車・気動車

太平洋戦争以前の一部地域の路面電車には、窓ガラスをなくして眺望を確保し、側面腰板を金網張りとして風通しを良くした「納涼電車」が存在した。暑い時期に乗客の涼を取る事を主眼としたもので、江ノ島電鉄などで1930年代まで運行されていた。これも一種の展望車と言える。神戸電鉄などには、高速電車でも同様な納涼車仕様の車両があった。多くは太平洋戦争中に輸送力確保のため、通常型電車に改造されて消滅した。

特別席としての「展望車」・「展望席」

第二次世界大戦以前の日本の電車は、一般に運転台周りは開放的な構造であったが、その中でも1938年南海電気鉄道の前身である南海鉄道が製造した貴賓車「ク1900号」は、流線型の前面形状と広い窓を備え、車内にはソファーを備えた展望構造であった。これは皇族などの高野山への参詣に於ける利用を主眼としたものであるが、第二次世界大戦後は一般客向けの特急「こうや」に特別車として連結され、1961年まで運用されたが、同年の特急撤退後は通常形態の通勤形電車に改造されてしまった。

東武鉄道は豪奢なサロンを備えた貴賓用の付随展望車としてトク500形客車1930年製、製造時は木造車、戦後鋼体化)1両を保有し、主に日光特急電車の後尾に連結して運用していたが、1957年に廃車となった。なお東武の特急車両は1720系「DRC」及び100系「スペーシア」以降の電車は前面展望を意識しない造りになっている。

「パーラーカー」

クロ151形式」も参照

国鉄の場合、東海道本線特別急行列車「はと」・「つばめ」151系化する際に、従来の展望車に値する後継車両として大阪方先頭車としたクロ151形を製造した。運転台の後にVIPや貴賓客使用を考慮した4人用の個室があり、客用扉を挟んで車体後部に位置する開放室には、左右各1列ずつの乗客が座席の向きを任意に変えられる回転式リクライニングシート(自在腰掛)が7列配置されたために定員18名。客車時代の一等車(現・グリーン車)を主な利用客層と前提としていたため「パーラーカー」の愛称と特別料金を要し、当時の国鉄監修時刻表による表記では従来の「展望車」記号がそのまま流用された。

12両が製造されたが、1両(クロ151-7)が事故廃車。残り11両中10両が東海道新幹線開業に伴う山陽本線特急に転用され、後に181系化改造が施工された。しかし、利用者の絶対的な減少に伴い貴賓車予備となる2両(クロ181-11・12)を除き開放室を普通席への改造が施工され、クロハ181形となった。さらにクロ・クロハ181形への改造後も山陽特急からの撤退による関東地区への転用に伴い1973年までに全車普通車化改造され、パーラーカーは消滅した。なお、東海道特急から直接上越線に転用されたクロ151-6は転用時に直接クハ181-56に改造されている。

屋上運転台式前面展望車(セッテベロ形・パノラマカー形展望車)

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イタリア国鉄
ETR300形電車
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屋上運転台式前面展望車の例:小田急ロマンスカー
(左上から3100形7000形10000形50000形

運転台を屋根上に上げ、客席を車両最前面に置いて展望を確保する構造の鉄道車両は、古い例では1930年代にフランスで製作された気動車「ブガッティ・ガソリンカー」などが存在する。

しかし、この種の展望構造を採った高速列車で世界的に有名となった最初は1953年イタリア国鉄が開発した7両編成ETR300形である。この豊かな曲面を備えた流麗な特急電車は「セッテベロ」(Settebelloの愛称を与えられ、列車名にもこの愛称が採用された。ちなみに「セッテベロ」とは、「settebello-denari(7人の美女)」というトランプ・ゲームの役(切り札)のことである。車体にも「settebello-denari」のイラストが描かれている。1960年には同様の構造を持つ4両編成のETR250形も製造されている。これらの電車は文化映画『ベスビアス特急』で紹介されて以来、日本でも知られる事となり、名実ともにイタリア国鉄を代表する車両であった。なお、2004年時点では1編成を残して廃車されている。

日本でこの展望構造を採った電車の最初は、1961年に開発された名古屋鉄道の初代「パノラマカー7000系である。本形式は「鉄道ファン」誌の創刊号の本誌を飾り一躍全国区で有名となった。この為日本では(セッテベロ型という言葉も通じるが)この形態を「パノラマカー形」と称するのが一般的である。これに続き小田急電鉄でも小田急ロマンスカーの系統である1963年開発の3100形「NSE」でこの構造を採用した。名古屋鉄道は同様な構造を1963年製造の7500系でも採用、また小田急電鉄も1980年の7000形「LSE」、1987年の10000形「HiSE」で屋上運転台を採用している。また、2005年に登場した50000形「VSE」も同様の構造を採用している。同社ではETR300形同様の連接構造も共に採用され、改良を続けながら踏襲されている。

なお名古屋鉄道の場合、それ以降は運転席を客室下に配置した8800系「パノラマDX」1000系「パノラマスーパー」が製造されたが、その後展望車両は製造されていない。

国鉄・JRに於けるセッテベロ形の展望電車は、国鉄末期の1987年165系ジョイフルトレインとして改造した「パノラマエクスプレスアルプス」が最初である。なおこの車両は2001年富士急行に譲渡され、形式を2000形に変更の上「フジサン特急」として運用している。

気動車では、1988年JR九州が「オランダ村特急」用に製作したキハ183系があり、2013年現在でも豊肥本線特急「あそぼーい」に運用されているが、前面展望席は制度上・発券上も特別席(パノラマシート)扱いを受けている。

ハイデッカー前面展望車

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ハイデッカー式前面展望車車内の例:名鉄1000系

セッテベロ形構造の車両は、車体強度確保や運転士の乗降、衝突対策などクリアすべき制約が多く、扱いにくい事もあり、日本では限られた鉄道で用いられたのみに終わった。

これに代わって高床式(ハイデッカー)の前面展望車両が1980年代以降に出現している。発想は観光バスなどと共通したもので、運転台を通常の床面に置き、直後の客席床面を大きく嵩上げした上で、車両前面の窓ガラス面積を大きく取り、運転台の頭越しに前面眺望を確保する手法である。多くの場合は客室側面窓も大きく作られ、全方向への眺望確保を図っている。

セッテベロ形よりも構造が簡単で、運用が容易である事から、電車・気動車に於ける前面展望車両の一つの主流となっている。

日本では、1984年に登場した名古屋鉄道8800系「パノラマDX」が最初である。但し、老朽化に伴い2005年1月29日の中部国際空港へのアクセス路線、空港線の開業に際してのダイヤ改正で運行終了、同年中に全廃となっている。

その後は伊豆急行2100系「リゾート21」や国鉄のキハ59形アルファコンチネンタルエクスプレス」など、リゾート列車への採用例が多い。JR西日本のエーデル形気動車シリーズもこの形式。セッテベロ形展望車の代表格である名鉄パノラマカーの後継車1000系「パノラマSuper」もハイデッカー形で製造されている。

2階建車両

2階建車両は、特に2階席からの眺望に優れる事から、アメリカの「ビスタドームカー」などの様に「眺望車」・「眺望席」という位置付けでアピールされる事がある。

日本の場合、近畿日本鉄道ビスタカーのうち、特急専用車両とされるものについては、2階席を眺望席として位置付けており、発券上指定が出来る事から特別枠ではあるものの料金制度上の特別席ではない。

"制度上の特別席"という点では、瀬戸大橋線快速列車マリンライナー」に使用されるJR四国5100形車両は2階席及び運転席寄り座席をグリーン席とし、1階席及び連結面を普通席として「眺望の良い特別車両」として使用されている。これは運行当初より使用していたJR西日本所属の213系のグリーン車「クロ212形車両」の「瀬戸大橋での眺望を楽しむ」という点を踏襲したものである。

しかし必ずしも「2階建車両=観光列車に充当される車両」ではないため、例えば座席数の増加を主眼においたJR東日本215系東京近郊運行電車中距離電車に連結される二階建てのグリーン車では、展望の望めない1階席が存在するなど、必ずしも眺望が良い様な座席配置は行っていない。

トロッコ気動車

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トロッコ気動車の例:わ鐡「トロッコわっしー号」

JR東日本のキハ40系を改造して「トロッコ列車」用とした「びゅうコースター風っ子」や会津鉄道のAT-301、そして新造車のわたらせ渓谷鐵道WKT-550形(トロッコわっしー号)が存在する。大昔の「納涼電車」の再来の様な車両である。

脚注

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  1. 朝日新聞、2009年1月19日朝刊、1面、4面。
  2. 「展望車特別急行に連結」国民新聞明治45年5月23日 『新聞集成明治編年史. 第十四卷』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  3. 以上戦後の変遷は、星晃「1等展望車変遷記」(『回想の旅客車』下巻、交友社、1985年、270-283頁・学研、2008年、復刻版96-109頁)による。

関連項目

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テンプレート:国鉄・JRの客車

外部リンク

  • 1930年12月19日大阪毎日新聞「富士」に連結される桃山式展望車の室内写真(神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ新聞記事文庫)