フランス領インドシナ
テンプレート:ラオスの歴史 フランス領インドシナ(フランスりょうインドシナ、フランス語:l'Indochine française, ベトナム語:Đông Dương thuộc Pháp(漢字:東洋屬法), 中国語:法属印度支那)は、1887年から1954年までフランスの支配下にあったインドシナ半島(インドシナ)東部地域である。現在のベトナム・ラオス・カンボジアを合わせた領域に相当する。仏印(ふついん)とも略する。
目次
概要
フランスは1887年にコーチシナ(ベトナム南部)を併合し、安南国(en、ベトナム中部)、カンボジア王国を保護国、トンキン(fr、ベトナム北部)を保護領(安南国主権下だがフランスが行政権を委任される)とし、これらをもってフランス領インドシナであるとした。その後、1893年にはラオス王国を保護国とし、1900年からは中国南部の広州湾租借地を加えた。1907年にはタイ(シャム)からカンボジア北西部のバッタンバン・シエムリアップ・シソポンの三州を得た。こうして、フランス領インドシナは、コーチシナ直轄植民地・直轄都市(ハノイ・ハイフォン・ダナン)、タイから獲得した三州による直轄植民地と、アンナン・カンボジア・ラオスの三保護国、保護領のトンキン、租借地の広州湾によって構成されることになった。なお、南海諸島(スプラトリー諸島、パラセル諸島)をもその範囲に含むとフランスは主張していた。
前史
コーチシナ植民地
フランス領インドシナ植民地の起源はナポレオン3世がフランス宣教師団の保護を目的に1858年に遠征軍を派遣したのに始まる。遠征軍はまずベトナム中部のダナン(ツーラン)に上陸、ついでサイゴンに転じ、コーチシナを植民地とし(Cochinchine française)、海軍植民地省の管轄下にコーチシナ総督を設置した。
フランス保護領カンボジア
テンプレート:Main カンボジアは、ベトナムとタイに侵略されつつあったが(テンプレート:仮リンク、テンプレート:仮リンク)、1863年に国王テンプレート:仮リンクがフランスに援助を求め、1867年にフランスの保護国になった(テンプレート:仮リンク)。
ベトナムの保護国化
1882年にフランス軍がトンキン地方を占領し(テンプレート:仮リンク)、1883年のテンプレート:仮リンク(第一次フエ(ユエ)条約)・1884年のテンプレート:仮リンク(第二次フエ(ユエ)条約)によってベトナム(テンプレート:仮リンク、テンプレート:仮リンク)を保護国化すると、ベトナムの宗主国である清国の介入を招き、清仏戦争(1884年 - 1885年)が勃発した。フランス軍はトンキン各地で清朝軍と戦う一方、海軍が中国沿岸部を攻撃したため、清国は1885年の天津条約によってベトナムに対する宗主権を放棄した。
1886年フエに阮朝宮廷を置いたままアンナン、トンキンはフランスの保護国とされ、フランス外務省の管轄下でそれぞれ理事官が駐在した。
歴史
支配
1887年10月、海軍植民地省の一元的管轄下にアンナン・トンキン保護国とコーチシナ植民地を統括するインドシナ総督が設置され、インドシナ連邦としてフランス領インドシナが成立した。
南部のコーチシナはフランスの直轄地であり、フエの阮朝宮廷が中部のアンナンの行政を支配し、阮朝から任命されたハノイ総督が北部のトンキンの行政を支配する形であったが、いずれも形式に過ぎず、実際にはトンキン・アンナンに配置されたフランス人理事官が実質的にコントロールしていた。名目的な保護国の形を残した巧妙な支配といえる。
フランス保護領ラオス
1872年頃よりラオスは複数のテンプレート:仮リンク(赤旗軍、黄旗軍、Stripe Flags、黒旗軍)による来襲を受けていたが(テンプレート:仮リンク)、宗主国のタイは自国を守るのに精一杯で、国王テンプレート:仮リンクがフランスのテンプレート:仮リンクに守られるという事件が起こった。1888年にフランスがタイ保護領テンプレート:仮リンク(ディエンビエン省、ライチャウ省、ソンラ省)を保護国化した。
併合を不服としたタイは、1893年にテンプレート:仮リンクを起こしたが、テンプレート:仮リンク(旧ルアンパバーン王国、ヴィエンチャン王国)の併合が確定した。この結果、シャン州に進出していたイギリス領インドと領土を接することになり、雲南問題が発生したが、1896年にシャムとメーコーン上流域に関する英仏宣言を発表して戦争を回避した。
1899年、シエンクワーン王国(シエンクワーン県、ゲアン省)が、フランス保護領ラオスのルアンパバーン王国とフランス保護領トンキンに分割併合された(地図には描かれていない)。
植民地経済
テンプレート:Main インドシナにおけるフランスの植民地支配を完成させたのは、1897年から1902年にかけてインドシナ総督に就任した大物政治家テンプレート:仮リンクである。ドゥメールはインドシナ連邦の財政と行政機構を整備し、強権的な手段によって同化政策を推進した。その後、テンプレート:仮リンク総督やテンプレート:仮リンク総督らはフランスの文明的使命を正面に掲げ、教育の普及や富の増大、医療救済制度の充実、現地人の公務員採用などを通じて「精神の平定化」をめざす協同政策に転換した。
インドシナ植民地に対するフランスの投資は当初、ホンゲイ炭鉱(現ハロン市)を中心とする鉱山業に集中した。メコンデルタや紅河デルタでは欧州人大地主による米作プランテーションも広く行われ、ハイフォンから輸出される石炭や米が植民地経済を潤した。一方、フランスからは主として繊維製品が輸入された。
インフラ建設としては昆明とハノイを結ぶ滇越鉄路(雲南-ベトナム鉄道、1910年)やハノイとサイゴンを結ぶ南北縦貫鉄道(1899年着工、1936年完成。海運と競合したためさほど役にたたなかったが)さらに道路建設が積極的に推進された。
独立運動
1904年、ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)とクォン・デがテンプレート:仮リンクを結成。1905年、ファン・ボイ・チャウが反仏独立の支援を求めて来日(東遊運動)。1912年、広東でテンプレート:仮リンクを結成。1916年、テンプレート:仮リンク。
1919年、ホー・チ・ミンが安南愛国者協会(Association des Patriotes Annamites)を組織。
1930年、ホー・チ・ミンが香港でベトナム共産党(インドシナ共産党)を設立。1930年に、イエンバイ省でテンプレート:仮リンクらベトナム国民党によるテンプレート:仮リンク、ゲアン省とハティン省でゲティン・ソヴィエト(テンプレート:Lang-vi、Nghe-Tinh soviet)の蜂起が起こった。1939年、フランス植民地政府がインドシナ共産党を禁止。
第二次世界大戦
日本の北部仏印進駐
1940年6月ナチス・ドイツのフランス侵攻によってパリが陥落してヴィシー政権が成立した。ヴィシー政権がドイツと休戦すると、日本政府は同年7月雲南鉄道による中華民国国軍への援助補給封鎖をフランスに要求して、西原少将を長とする軍事監視団をハノイに派遣した。また同年8月にはインドシナにおけるフランスの主権擁護を条件に、25,000の日本軍を「北部仏印」(トンキン)に進駐させた。
大部分のフランス軍部隊は日本軍の進駐を平和裏に受け入れたが、中華民国との国境のランソンに駐屯していたフランス部隊は日本軍と交戦しつつ、中華民国国軍支配下の雲南省に退却した。
タイとの国境紛争
タイ王国はフランス保護領のラオス王国の主権やカンボジア王国のバッタンバン・シエムリアプ両州の返還を以前からフランスに求めていたが、日本軍がラオス・カンボジアに進駐すれば、これらの要求を実現することが不可能になると見て、1940年11月23日からラオス・カンボジアに対する攻撃を加え始めた(タイ・フランス領インドシナ紛争)。
1941年1月にはシャム湾でもタイ海軍とフランス軽巡洋艦「ラモット・ピケ」が交戦し、タイ側の旗艦トンブリ級海防戦艦「トンブリ」が撃沈される事件が発生した。これを見た日本は東京で泰仏(タイ・フランス)両国の間に立って居中調停を行い東京条約が締結され、フランスはラオスのメコン右岸、チャンパサク地方、カンボジアのバッタンバン・シエムリアプ両州をタイに割譲することとなった。
後にタイは日泰攻守同盟条約を結んで日本の同盟国となる。
日本の南部仏印進駐
さらに1941年7月、日本は東南アジア侵攻時の基地とするために「南部仏印進駐」を求めた。これに対してフランスのヴィシー政権は、インドシナにおけるフランスの主権を日本が認めるのを条件に承認した。こうしてドクー総督のインドシナ植民地政府は太平洋戦争(大東亜戦争)の大部分の期間、日本軍と共存することとなった。
戦争中、インドシナ植民地政府は日本にホンゲイ炭やゴム、米などを供給し、日仏協力が実現する。但し、仏印の統治者はあくまでフランスの植民地政府であり、日本がフランスと共同統治を行った訳ではない。
仏印処理とインドシナ独立
しかし、1944年にパリが解放され、ヴィシー政権が崩壊すると、ド・ゴール派からの働きかけも活発化し、インドシナ植民地政府の立場は微妙なものとなった。このため、日本軍は1945年3月9日『明号作戦』を発動してフランス植民地政府を武力によって解体し(仏印処理)、フエの宮廷にいたバオ・ダイ(保大)帝にベトナム帝国を独立させた。
また、3月12日にはカンボジアのシアヌーク国王にもカンボジア王国の独立を、4月8日にはルアンパバーン国王のシーサワーンウォン王にもラオス王国の独立を、それぞれ宣言させた。
日本の降伏
1945年8月14日に日本政府がポツダム宣言を受諾したため、ベトナムでは中国国民党軍が北ベトナムに、英印軍テンプレート:仮リンクが南ベトナムに進駐して、日本軍の降伏を受け入れた。なお、広州湾租借地(現・広東省湛江)は1945年8月、仏印からの中国軍撤収の見返りとして中国へ正式に返還されている。
ベトナム八月革命によってハノイを占拠したベトミンのホー・チ・ミンは、バオ・ダイ帝の退位を説得し、9月2日にはポツダム宣言調印と同時に大統領としてベトナム民主共和国の独立を宣言した。
ラオスでは一旦独立が撤回されたが、8月18日にラーオ・イサラが結成され、臨時政府を樹立し、10月に独立を宣言した。
独立戦争
しかし、フランスは、これらインドシナ諸国の独立を認めていなかった。1946年に植民地再建のためインドシナに戻ってきたフランス軍は、ベトミンとの間で第一次インドシナ戦争を開始した。当初ハノイなど都市部を占拠していたベトミン軍は農村部に後退してゲリラ戦を余儀なくされた。
しかし、1949年に中華人民共和国が成立し、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、ソビエト連邦と中華人民共和国はベトミン軍に対する軍事援助を活発化させ、強化されたベトミン軍は1954年のディエンビエンフーの戦いでフランス軍を敗北させた。このため、フランスはジュネーヴ協定によってインドシナ3国の独立を承認し、フランスのインドシナ連邦は正式に解体した。
影響
ラオス
1949年、テンプレート:仮リンクは、ラオス王国(1949年 - 1975年)として独立した。1953年にラオス内戦(1953年 - 1975年)が勃発した。
カンボジア
1954年、テンプレート:仮リンクは、カンボジア王国 (1954年-1970年)として独立したが、カンボジア内戦(1967年 - 1975年)が勃発し、1970年にロン・ノル政権のクメール共和国(1970年 - 1975年)が樹立された。ポル・ポト政権の民主カンプチア(1975年 - 1979年)が誕生したがカンボジア・ベトナム戦争で崩壊。1979年、ベトナムの支援するヘン・サムリン政権のカンプチア人民共和国(1979年 - 1993年)と三派連合の民主カンプチア連合政府(en、1982年 - 1993年)に分裂。国際連合カンボジア暫定統治機構(1922年 - 1993年)を経て、カンボジア王国となったが、キュー・サムファン政権のen:Provisional Government of National Union and National Salvation of Cambodia(1994年 - 1998年)がパイリンに割拠した。
ベトナム
東南アジアでの反共活動を、アメリカがフランスの肩代わりをすることになり、ジュネーヴ協定への参加を見送り、1955年にゴ・ディンを大統領に擁立してベトナム共和国(南ベトナム)が成立。1960年にベトナム戦争(1960年 - 1975年)が勃発した。1981年にはボートピープル問題(テンプレート:仮リンク)が発生した。
関連項目
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