ベトナム帝国
テンプレート:基礎情報 過去の国 テンプレート:ベトナムの歴史 ベトナム帝国(ベトナムていこく、テンプレート:Vie)は、1945年3月11日から同年9月2日までの半年間、ベトナムに存在した国家。
歴史
第二次世界大戦の末期、フランスのペタン政権との合意の下でフランス領インドシナへ進駐していた日本軍は、近々予想される連合国軍のベトナム上陸に対する危機感を募らせていた。日本軍は、連合国軍上陸の際、フランス植民地軍が日本軍と共にこれを迎え撃つことへの同意を求めたがフランス軍はこれを拒否し、1945年3月9日に両軍の間で戦闘が始まった。約3万の日本軍は、警察部隊も含めると9万と言われたフランス軍に勝利した(明号作戦、仏印処理)。これにより、インドシナは、200年近くも続いたフランスによる支配から解放され、代わりに日本の支配下に入った。
作戦終了後、日本側はベトナムに「フランスとの条約破棄が可能であること」を通告した。これを受けて、フランスによる植民地支配で統治権を抑制されていた阮朝の皇帝バオ・ダイ(保大帝)は、1884年のテンプレート:仮リンク(第二次フエ条約、パトノートル条約)を破棄し、フランスからの独立と日本との協働を宣言した。日本は同様の通告を、カンボジアとラオスにも行い、それぞれが独立宣言を発している。
バオ・ダイ帝は、4月17日には首相(内閣総長、テンプレート:Lang-vi/總長内閣)に著名な文人であったチャン・チョン・キムを任命し、内閣を組織させた。新政権は、フランス式の町名をアンナンの町名に復し、フランス人の官僚を免官して、フランス人の銅像を次々と撤去した。また、中等教育における教授言語をフランス語からベトナム語に改定し、その後の教育制度に大きな影響を与えている。
しかし、1944年からトンキンを中心に発生していた大飢饉(1945年ベトナム飢饉)や、フランスによる長期の植民地支配と日本軍による軍政に対する有効な策を講ずることができなかった。この飢饉は、後にホー・チ・ミンによって、フランスや日本やベトナム帝国を攻撃するために大いに利用されることとなる。
領土については、コーチシナを含むベトナム全土の主権回復を宣言したが、同時期に独立したカンボジアが「コーチシナの半分は自国領土である」と主張したため、8月25日にサイゴンで両国による会議が開催される予定となっていた(日本政府が降伏を予告したため、結局は実施されなかった)。カンボジアとタイとの間でも領土問題は生起している。また、やはり同時期に独立したラオスは、アンナン人を全て国内から追放したためベトナムと争いになり、日本に調停を要請した。
1945年8月14日に日本政府がポツダム宣言の受諾を布告すると、その3日後の8月17日に、ホー・チ・ミンに指導されたベトミンが全国総蜂起を起こした(ベトナム八月革命)。バオ・ダイは、連合国主要政府と連絡をとることすらできなくなって退位を決意し、ベトミン側にその意向を伝えた。8月23日にベトミンは首都フエを掌握し、ハノイから派遣された代表チャン・フイ・リエウを迎えると、8月30日、フエの皇宮で退位式典が行われ、剣璽が引き渡された。そして、9月2日には日本の降伏(ポツダム宣言調印)と同時にベトナム民主共和国の独立宣言が出された。
ベトナム帝国を初めとするインドシナ3国の独立は、日本軍の敗北の直前であったため、ビルマ国やフィリピン第二共和国のように日本やその同盟国からの国際的な政府承認を得ることはできなかった。
バオ・ダイは1949年6月、フランスに擁立されてサイゴンでベトナム国の元首(国長、テンプレート:Lang-vi/國長)に就任するが、「国長」が阮朝(ないしベトナム帝国)皇帝と同じ称号と見なしうるかは微妙であり、連続性を断定することはできない。
参考文献
- 白石昌也「チャン・チョン・キム内閣成立(1945年4月)の背景 ―日本当局の対ベトナム統治構想を中心として」土屋健治・白石隆編『東南アジアの政治と文化(国際関係論のフロンティア3)』東京大学出版会、1984年、33-69ページ。ISBN 4-13-034066-2
- 白石昌也「王権の喪失 ―ヴェトナム八月革命と最後の皇帝」土屋健治編『講座現代アジア1 ―ナショナリズムと国民国家』東京大学出版会、1994年、309-340ページ。 ISBN 4-13-025011-6
- ファム・カク・ホエ『ベトナムのラストエンペラー』白石昌也訳、平凡社、1995年。 ISBN 4-582-37333-X
関連項目
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