ポル・ポト

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ポル・ポトテンプレート:翻字併記1928年5月19日[1][2] - 1998年4月15日)は、カンボジア政治家民主カンプチア首相、クメール・ルージュ(カンボジア共産党)書記長。

本名はサロット・サルテンプレート:翻字併記)だが、ポル・ポトは自身がサロット・サルと同一人物であると公式に認めたことはない[3]。しかし、サロット・サルの兄弟のうちポル・ポト政権下を生き延びた3人の1人ロット・スオン(Roth Suong)は[4]、ポル・ポトがサロット・サルであることを証言している[5]

通称は「一の同志」、「コード87」、「バン・ポー(年長者)」などがある[6]

生い立ち

サロット・サル(以下ポル・ポト)は、仏領インドシナのプレク・スバウヴ(現在のカンボジア王国コンポントム州)で生まれ育った。父の名はペン・サロット(Phen Saloth)、母はソク・ネム(Sok Nem)。ペン・サロットは12ヘクタールの土地(9ヘクタールの水田と3ヘクタールの農園)と水牛6頭を所有し、2人の息子と養子にとった甥たちなど約20人で水田を耕作していた。使用人は雇っておらず、収穫期は村人同士で手伝って作業した。収穫量は年平均で籾6トンで、20以上の家族を養える量だった[7]。これはカンボジア全体のレベルから見ると十分富裕な自作農の規模だが、ポル・ポトの兄ロット・スオンの説明では、村には50から100ヘクタールを所有する農家もあり、 その中では中規模の自作農だったという[8]。ポル・ポトの生家は王宮と関係のある家系で、ペン・サロットの姉ネアク・チェン(Neak Cheng)が王宮で働き始めたことから始まるようである。特に、チェンの娘ルク・クン・メアク(Luk Khun Meak)が王宮舞踊団の踊り手になり、その後シソワット・モニヴォン王の側室になったことで王宮との関係は強まった[9]

幼少期

ポル・ポトの生年や幼少期の生い立ちの説明は資料や文献によって異なる。

生年
生年については、1928年5月19日と1925年5月19日の2つの説がある。デイヴィッド・チャンドラーは著書[10]の中で1928年説をとっている。一方、B.Kiernanは自身の著書[3]では1925年説をとっている[11]。ただし、同著者の別の著書[12]では、1928年のままになっている。
兄弟の人数
文献[5]によれば、ポル・ポトは9人兄妹の8番目として生まれたことになっている。一方、B.Kiernanの著書内[4][13]では、7人の子供のうちの末っ子として生まれたと書かれている。
幼少期の生活
幼少期に関しては、「彼は当時の慣例にしたがって幼時に6年間プノンペンの寺院で暮らし、リセから中級専門学校の電気機械科に進んだのちパリへ留学し」と文献[5]の中で書かれている。これは、1978年3月にユーゴスラビアのジャーナリストが初めて民主カンプチアに入国しポル・ポトにインタビューした際、以下のポル・ポトの発言をそのまま書いたもののようである。
「私は、ある農民の一家の出だ。子供の時分は、両親と一緒に住んで農作業の手伝いをしていた。だがその後、伝統に従って、読み書きを習うため寺院で生活した。寺で6年間過ごし、2年間は僧侶になっていた。」[14]
同文献[5]は、1981年のロット・スオンとのインタヴューの内容を記したことになっているが、1980年7月9日にプノンペンで同氏にインタヴューしたB.Kiernanの記述とは異なっている。文献[4]によると、サロット・サルは水田で農作業をしたことはなく、6歳[4]の時にプノンペンへ送られ、タマヨット派の寺院で1年間見習いをしたあと、8歳[4]の時にカトリックの私立エリート校エコール・ミシェに入学し、そこで6年間過ごした。入学には、ポル・ポトのいとこで、モニボン王の側室の1人だったルク・クン・メアクの助力があった。プノンペンでは、ロット・スオン、チア・サミー(Chea Samy、ロット・スオンの妻)、ルク・クン・メアクと一緒にトラサク・ペム通り(Trasak Paem Street)の大きな家で生活していた[15]。14歳[4]の時にプノンペンの高校の入学試験に失敗したため、コンポンチャムのクメール人市場の中にあったノロドム・シハヌーク高校に入学。以後6年そこで過ごす。1948年始めにプノンペンへ戻り、郊外にあるルッセイ・ケオ技術学校Russey Keo Techninal Schoolで寮生活をしながら木工を学んだ[16]

フランス留学から帰国へ

1年後に奨学金で、パリへ留学。エコール・フランセーズ・デ・ラディオ・エレクトリシテで2年間の技術コースを受ける。フランスには1949年9月に到着した[16]。留学中にポル・ポトは共産主義者になり、新生のクメール共産主義グループに参加した。このグループは、主としてパリに留学した学生が中心となって1950年フランス共産党内に作られた「クメール語セクション」に形成された[17]。メンバーは、ラット・サムオン(Rath Samuoeun)、イエン・サリ、 フー・ユオン、ポル・ポト、ケン・ヴァンサク(Keng Vannsak)、チオン・ムン(Thiounn Mumm)、トゥック・プーン(Touch Phoeun)、メイ・マン(Mey Mann)、メイ・パット(Mey Path)、チ・キム・アン(Chi Kim An)、シエン・アン(Sien An)、キュー・サムファンキュー・ポナリーキュー・チリトソン・センなどである。リーダーは、ラット・サムオンとイエン・サリだった[17]。チオン・ムンらは活発に活動していたが、この当時は、フー・ユオンやポル・ポトはむしろ目立たない存在だった。フー・ユオンは勉強に集中しており、ポル・ポトは個性をあらわしてはいなかった[17]。ただ、この当時から両者の主張には隔たりが大きかった[17]。彼らは共産主義グループではあったが、その主義・主張はかなり幅広く、全体としては、共産主義というよりもむしろ反王政派、民族主義だった[18]。また、母国の共産主義活動からは遊離しており[19]、観念的であった[20]

このグループの中で民族主義とは一線を画していたのが、ポル・ポトとイエン・サリである。

パリ時代に、謄写版で発行されていた内部機関紙Khemera Nisitの1952年8月号でポル・ポトは「本来のクメール人」(khmaer da'em)というペンネームで、フランスロシア1924年中国革命に関する記事を書いた。その他のメンバーが「自由クメール」「クメール人労働者」といったペンネームを使っていたことに比べて、これを以ってポル・ポトがこの当時から人種差別的な傾向を持っていたと推測する文献もある[19][21]。またこの時期のイエン・サリは、ソ連国内の少数民族政策を論じたヨシフ・スターリンの文章に興味を示している[22]。その他、書類によって共産党組織をコントロールするスターリンのテクニックに引きつけられたとも述べている[23]

ポル・ポトは試験に3年連続失敗し奨学金を打ち切られたため1952年12月に船でフランスを後にし、1953年1月14日にカンボジアに到着した[24]。ポル・ポトは、チャムロン・ヴィチェア(Chamroeun Vichea)私立高校で歴史の教師として働き始め[25][26]る一方、民主党で活動を行っていた[27][28]。この時期は、新たにフランスから帰国したシエン・アン、ケン・ヴァンサク、そしておそらくはユン・ソウン(Yun Soeun)、チ・キム・アン、ラット・サムオンらと共に民主党をより左傾化させようと工作していた[29]1953年8月、兄のサロット・チャイ(Saloth Chhay)を介して、コンポンチャム州のヴェトナム国境周辺にあったクメール・イサラク連合(Khmer Issarak Accosiation)の本部へ行き、独立闘争に加わる[30][31]。その後約1年間生産部隊に配属され、食事の雑用や、耕作用の有機肥料の運搬などに従事していた。しかし、パリ帰りのインテリでありながら政治教育、イデオロギー教育を受けられず、幹部やリーダーとして昇進できなかったことに深い恨みを抱いたようである[30]。また、この時期にヴォン・ヴェトと知り合う[32]。ポル・ポトは本部でフランス共産党のメンバーだと自己紹介したが、その時会見したチェア・ソット(Chea Soth)によれば、「彼は、闘争に参加し我々から学びたいと言ったが、本当は、実際にクメール人が革命を実行しているかどうかを探りにきたのだ。彼は、すべては、自己にのみ頼り、独立と自制にもとづいてなされねばならない。クメール人は何でも自分自身で行うべきだと言っていた。」[30]ということである。1956年、パリで知り合った夫人キュー・ポナリーと結婚した。結婚にはフランス革命記念日が選ばれた。

カンボジア共産党

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当時、フランスのインドシナ支配に対して共産主義者主導の反仏活動が起こっていた。この活動は中心であるベトナムからカンボジアラオスに波及した。1954年にはフランスが仏領インドシナを去り、ベトミンはジュネーヴ協定に従ってカンボジア国内から撤退し、北緯17度線以北の北ベトナムへ集結した。このため、カンボジア国内のベトナム人左翼活動家の引き上げが始まった。カンボジア人左翼活動家の中で、フランスで教育を受けた者の一部はヴェトナムの撤退に合わせてハノイへ逃れたが、ポル・ポトは身分を偽って密かにプノンペンへ戻ったらしい[33]。戻った理由は、ベトナムへ戻るクメール人民革命党の幹部と交代するためであったようである。こうして、この頃からポル・ポトとそのグループは、クメール人民革命党のプノンペン支部と関係を深めるようになった。 革命運動の実績がないことを考えると与えられたポル・ポトの地位は高かったが、これは状況が激変して党幹部が手探り状態であったからのようである[34]。当時のポル・ポトの仕事は1955年に予定された独立後初の選挙対策で、クロム・プラチェアチョン(Krom Pracheachon、クメール語で「市民グループ」の意)[35]と民主党との調整役であった[34]。また、プラチェアチョラーナ(Pracheachollana、クメール語で「人民運動」の意。右派のソン・ゴク・タンのグループのこと)の影響を小さくするために、プノンペン市内の活動グループを人民党に集め、また、人民党内部からソン・ゴク・タンのシンパを排除していった[34]。プノンペン支部党委員会の学生運動担当委員になったと書く文献もある[36]。ポル・ポトはこの時期に、共産党員の獲得も行っていた。1954年12月に、ポル・ポトはピン・トゥオク(Ping Thuok、後にソク・トゥオクSok Thuokまたはヴォン・ヴェトVorn Vetとして知られるようになる)を党プノンペン委員会に紹介している[37]

1955年3月3日、国王ノロドム・シハヌークは退し、後に政党サンクム、人民社会主義共同体)を組織した。彼はその威光で共産主義反対勢力を一掃し、1955年9月11日の翼賛選挙で議席をすべて獲得した。しかし政界では左右両派の対立が続き、シハヌークは必要に応じて左派への歩み寄りと弾圧を繰り返した。1973年にカンボジア共産党が配布した党の歴史に関する文書では、1959年終わり頃から政府は農村部での革命運動に弾圧を加え始めたとしている[38]1962年、シハヌークはプラチアチョンのスポークスマンをはじめ15人の活動家を罪名無く逮捕・拘留する。プラチアチョンの機関紙編集長も逮捕され、これらの活動家達16人は死刑を宣告される。後に彼らへの死刑は長期刑に減刑されるが機関紙は廃刊となり、表立って活動していたプラチアチョングループは消滅する[39]。これ以後、都市部の急進的左翼は地下に潜行して秘密活動に傾斜していくようになる。しかし1966年頃までは、後に重要な役割を示す左翼運動家の多くは教師として左傾化した学生を生み出したり、またそれが急進的なものでないかぎりは比較的自由に政治活動をおこなっていた。1960年代半ばに入ると、ベトナム戦争へのアメリカの関与が本格化したことで右派の影響力が強まり、シハヌークの使える政治的裁量の範囲は次第に狭まっていった[40]

1960年、ポル・ポトはカンボジア共産党中央常任委員に就任した。ただし、ポル・ポト自身は、1961年ヌオン・チアに代わり副書記長に選出されたと主張している[41]

1963年2月、シハヌークの外遊中にシエムリアップ市で暴動が発生した。警官により学生が1人殺害されたことから学生の抗議デモが始まり、地方政府が警官をかばうと、最終的に地方警察本部に対する大規模な暴動へと発展した[42]。シハヌークはこの暴動を左翼による扇動と考え、帰国後ケン・ヴァンサクとソン・センを非難[43]、さらに3月8日には、主要な破壊活動家左翼として34人の名前を公表する[44]。このリストには、都市部の左派知識人のほとんど全てが載っていた[45]。キュー・サムファンらは国民議会の非難を受け、ロン・ノルは左派の一掃をシハヌークに求め、1955年以来最大の政治危機となり、左翼にとっては最大の弾圧の危機に見舞われた。しかし、シハヌークはロン・ノルの提案を拒否し、キュー・サムファンらの辞任も撤回され[46]、リストに挙げられた34人もシエン・アンを除いて特に処罰されることなく終わり、結局は、都市部左翼の状況に関しては元の状態に戻っていった[47]

この暴動事件の真っ最中の2月20日、21日にプノンペンの秘密の場所で第3回党大会を開き、ポル・ポトが書記長に就任した[48]

一方、農村部では弾圧が強化され、左翼活動家の殺害や投獄が行われた[47]。こうした状況のなか1963年5月ポル・ポトとイエン・サリはプノンペンから消え、コンポンチャム州の国境周辺へ移動した[49]。 ジャングルでの地下活動に入ってからサロット・サルは「ポル」というコードネームを用いるようになったらしい[50]。 (「ポル・ポト」という名が使われるようになったのは、1976年4月14日に民主カンプチアの新首相として公式に発表されて以降のことである[50]。 それ以前は「ポル」、「同志書記長」、「オンカー[51]」として知られていた[50]。) ポル・ポトは以後12年を地下活動で費やした。

1964年遅くにポル・ポトは、ケオ・メアに伴われてラオス国境を越えホーチミン・ルートハノイに入り、そこで数ヶ月滞在した後、更に北京平壌を訪れた[52]。ちょうどシハヌークが北京に滞在しているのと同じ時期、ポル・ポトも北京に4ヶ月以上滞在し、鄧小平劉少奇らと仕事をしたらしいが詳しいことはわかっていない[53]。 その後平壌へ行ったあと再び北京に戻り、1966年始めにカンボジアへ帰った[54]。ヴォン・ヴェトによれば、ポル・ポトが中華人民共和国から帰国した後の1966年初め、党は、都市部の勢力に対する闘争と農村部で武装闘争の準備の方針を打ち出した。[55]文献[56]によれば、1965年からクメール・ルージュは中国共産党の影響下に入り、1966年からは文革派の影響下に入った。 ただし、ポル・ポトが帰国した時期は中国で文化大革命が本格化する直前のことである。大躍進時代の毛沢東思想は別として、ポル・ポトが文化大革命から思想的な影響を受けたのかどうかははっきりとしない。ポル・ポト、イエン・サリソン・センキュー・サムファン、その他のカンボジア共産党幹部が文化大革命に対する共感を示す発言をしたことはない[57]。 また、ジャングル入りした学生の証言によれば、文化大革命前の毛沢東主義のスローガンは好まれていたが、文化大革命は事実上無視されていた。「ジャングルの中では、北京放送を聞いて流れてくるスローガン(「張子の虎」、「農村から都市を包囲する」、「小から大へ」など)を取り上げてはいたが、文化大革命に関する会話も教育も、毛沢東思想に関する勉強も行われていなかった。党の方針は、困難で長引くが最終的には確実に勝利するはずだという闘争のことばかりだった。都市部には毛沢東の翻訳本はあふれていたが、農村部にはなかった」という。[58]文献[59]では、ポル・ポトやイエン・サリは、オポチュニストとして、文化大革命の思想とは関係なくむしろ利用されつつ中国を利用したという見方が示されている。この見方は、他の文献[60]にも見られる。1967年、ポル・ポトはカンボジア東北地方のジャングル内にカンボジア共産党の訓練学校を作り9日間の政治レクチャーを行ったが、その間中国についてほとんど言及せず、文化大革命についてはまったく述べなかったという[60]

この時期、クメール・ルージュの都市部の拠点は壊滅しており、辺境部のジャングルに点々と小さな左翼集団があるだけで、 左翼集団間の連絡も容易ではなかった[61]。ポル・ポトの1977年の発言によれば「連絡のためには徒歩で行ったり、象の背中に乗って行かねばならず、また、連絡用ルートを遮断した敵を避け続けねばならなかったので、1ヶ月が必要だった」という。[62]

1967年4月、バタンバン州のサムロートで、政府による強制的な余剰米の安値買い付けに反対する農民と地元政府の間で衝突が起こる[63][64][65]。1965年頃からカンボジアの余剰米の少なくとも4分の1あまりが北ベトナムとベトコンに買い上げられており[66]、シハヌークの外遊中、ロン・ノルによりベトコンへの米の供給を止めるために、強制的に余剰米を買い上げする方針が打ち出された。しかし、政府の買い付け値はベトナム人による買い付け値よりも低く、地元の共産主義勢力は反米反政府のビラを巻き暴動を煽動した[67]。サムロート周辺の暴動鎮圧作戦は数ヶ月間続き、この後、シハヌークはプノンペンの共産主義者達への弾圧をいっそう強化する。

同じ頃より、ポル・ポトは中国に支援されて政府に対する武装蜂起を始めた。カンボジア共産党は後にクメール・ルージュとして知られ、同党の武装組織はポル・ポト派と呼ばれた。ポル・ポトはその思想に毛沢東思想の変形を採用した。クメール・ルージュは完全な平等主義土地均分論を考え社会主義の中間段階を省略し、原始共産主義の達成を目指した。

クーデターと内戦の激化

シハヌークが南ベトナム解放民族戦線を支援していると見なしていたアメリカ合衆国ロン・ノル将軍を支援、1970年3月18日にロン・ノルはクーデターを起こし、シハヌークを追放した。北京に亡命したシハヌークは、挽回を図りポル・ポトと接触した。元々クメール・ルージュとシハヌークは不倶戴天の敵であったが、ここに共闘関係が生まれた。ポル・ポトは元国王の支持を取り付けることで、自らの正当性を主張できると考えた。

同年アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンは、南ベトナムと隣接する解放戦線の拠点を攻撃するためにカンボジア国内への侵攻を許可した。以後アメリカ軍とカンボジア軍はコンポンチャムなどの都市や農村部に激しい空爆を行い、農村インフラは破壊され数十万人が犠牲となり、米軍の爆撃開始からわずか一年半の間に200万人が国内難民と化した[68]。クメール・ルージュへの加入者は激増しその勢力は拡大した。また、ロン・ノル政権は汚職が蔓延し都市部しかコントロールできなかった。シハヌークの人気と米軍によるカンボジア爆撃は、ポル・ポト派の勢力拡大に有利に働いた。

また、食糧生産も大打撃を受けた。1969年には耕作面積249万ヘクタールを有し米23万トンを輸出していたカンボジアは、1974年には耕作面積5万ヘクタールとなり28万2000トンの米を輸入し、米の値段は1971年10リアルから1975年340リアルにまで急騰した[69]1971年アメリカ会計監査院の視察団はカンボジアの深刻な食糧不足を報告している[70]。こうした状況のなか、都市部は米国からの食糧援助で食いつなぐことができたが、援助のいきわたらない農村部では大規模な飢餓の危機が進行しつつあった。

ベトナム戦争の不安定化、特に「ベトナムの聖域を浄化する」アメリカ軍のカンボジア猛爆がなければクメール・ルージュが政権を獲ることもなかったであろうという考察もある(ウィリアム・ショークロス1979年の著書『Sideshow』がこの点に触れている)。

全権掌握

民主カンプチア

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クメール・ルージュ犠牲者

テンプレート:See also 1973年、アメリカがベトナムから撤退。それと同時に、南ベトナム解放民族戦線はカンボジアを去ったが、クメール・ルージュは戦いを続けた。地方への支配が維持できずロン・ノル政権はすぐに崩壊し、1975年4月17日にクメール・ルージュはプノンペンを占領した。当初、都市部の住民はクメール・ルージュを歓迎したが、数日のうちに住民らは農村部への強制移住を強いられた。クメール・ルージュは全権掌握後、国名を「民主カンプチア」に改名。またポル・ポトもこの間に、自身の名前を「サロット・サル」から「ポル・ポト」へ改めたという。しかし、ポル・ポトはほとんどジャングルから出ず、表向きはシハヌークやその部下を中心とした政権を前面に出し、彼らを傀儡として操ろうとしていたという。

ロン・ノルはアメリカへ亡命したが、逃げ遅れた一族のロン・ノンロン・ボレトら閣僚は首都陥落直後に「敵軍掃討委員会」に身柄を拘束され、全員処刑された。他にも政治家・高官・警察官・軍人ら700人余りが殺害され遺体は共同墓地に投げ込まれた。ポル・ポトはシハヌークと「売国奴」としてリストに名を挙げた少数の人物のみを処刑すると約束していたが、約束は反故にされた。

5月12日にカンボジア領海でカンプチア軍がアメリカ商船マヤグエース号を拿捕するというマヤグエース号事件が発生した。

シハヌークは1975年に復権したが、すぐに自身が急進的な共産主義の同僚と同列にされていることを理解した。彼らは君主制を回復するシハヌークの計画を無視した。さらに1976年4月2日、クメール・ルージュはシハヌークを自邸に監禁。既存の政府は崩壊しシハヌークは国家元首の地位を追われ、新たな元首としてキュー・サムファンが国家幹部会議長に就任した。

1976年5月13日に、ポル・ポトは民主カンプチアの首相に正式に就任し、地方で大粛清を始め、徹底的な国家の改造を行った。ポル・ポトが目指したのは中華人民共和国の毛沢東主義を基盤にした「原始共産主義社会」であり、資本主義の要素を全て否定することであった。また、カンボジア仏教からも自我の否定、戒律、転生などいくつかの観念が援用されていた。

内戦中、アメリカ軍の農村部への爆撃により農村人口は難民として都市に流入した。1976年直前にプノンペンの人口は100万以上に増加した。農村での食糧生産はすでに大打撃を受けており、1975年4月にはUSAIDが「カンボジアの食糧危機回避には17.5万~25万トンの米が必要である」と報告[71]し、国務省は「共産カンボジアは今後外国からの食糧援助が得られなくなるため100万人が飢餓にさらされることになるだろう」と予測[72]した。こうした中でクメール・ルージュは都市居住者を農村での食糧生産に強制的に従事させるために、「米軍の空爆があるので2、3日だけ首都から退去するよう」と都市居住者を地方の集団農場へ強制移住させた。生存者の証言によると、病人・高齢者・妊婦などの弱者に対しても全く配慮はなかったという。

ポル・ポトは自身が国家から奨学金を得て留学したにもかかわらず反体制的運動に参加した経験から、自らの政治体制の矛盾を見抜きうるインテリ階級を極度に恐れ、弾圧した。プノンペンは飢餓と疾病、農村への強制移住によってゴーストシティとなり、医者や教師を含む知識階級は見つかれば「再教育」という名目で呼び出され殺害された。始めは医師教師技術者を優遇するという触れ込みで自己申告させ、どこかへ連れ去った。やがて連れ去られた者が全く帰ってこないことが知れるようになり教育を受けた者は事情を理解し無学文盲を装って難を逃れようとしたが、眼鏡をかけている者、文字を読もうとした者など、少しでも学識がありそうな者などは片っ端から収容所に送られ殺害された[73]。また、無垢で知識が浅い子供が重用され、解放直後は14歳以下が国民の85%も占めていた。

ポル・ポト政権は、「腐ったリンゴは、箱ごと捨てなくてはならない」と唱えて、政治的反対者を弾圧した。通貨は廃止され私財は没収され、教育は公立学校で終了した。更に国民は「旧人民」と「新人民」に区分され、長期間クメール・ルージュの構成員だった「旧人民」は共同体で配給を受け自ら食料を栽培できたが、プノンペン陥落後に都市から強制移住された新参者の「新人民」はたえず反革命の嫌疑がかけられ粛清の対象とされた。「新人民」は、「サハコー」と呼ばれる生産共同体へ送り込まれ、劣悪な環境と過酷な強制労働に駆り出された。彼らの監視に当てられたのは「旧人民」であり、密偵と称される集団はポル・ポトから「敵を探せ」と命じられていた。しかし、当初こそ特権的な暮らしを享受した「旧人民」も農村に人口が流入すると食糧不足により、「新人民」同様に働かされるようになったという。こうした過酷な労働と、飢餓、マラリアの蔓延などにより多くの者が生命を落とした。

カンボジアでは伝統的に上座部仏教が信仰されてきたが、仏教もまた弾圧の対象とされ、多くの僧侶が強制的に還俗させられ、寺院が破壊された。ポル・ポト政権下において、仏教は壊滅的な打撃を受けた。

対外的には、ソ連やベトナムと断交する一方で中国と朝鮮民主主義人民共和国との関係を強化し、ポル・ポト自身も積極的に外訪した。これは後述の中ソ対立の構図が大きく影響していた。また、ポル・ポトが「完全な兵士」として賞賛した地雷は、カンボジア西部のタイ国境沿いを中心に数多く埋設された。

ポル・ポト政権下での死傷者数はさまざまに推計されている。カンボジアでは1962年の国勢調査を最後に戦争状態に入り、以後1975年までの正確な人口動態が不明となりこうした諸推計にも大きな開きが出ている。ベトナムが支援するヘン・サムリン政権は1975年から1979年の間の死者数を300万とした(これはのちに下方修正された)。フランソア・ポンショー神父は230万とするが、これは内戦時代の死者を含む。イェール大学・カンボジア人大量虐殺プロジェクトは170万、アムネスティ・インターナショナルは140万、アメリカ国務省は120万と推計するがこれらの機関は内戦時代の戦闘や米軍の空爆による死者数には全く言及していない。フィンランド政府の調査団によれば内戦と空爆による死者が60万人・ポル・ポト政権奪取後の死者が100万人とする。マイケル・ヴィッカリーは内戦による死者を50万、ポル・ポト時代の死者を75万人としている。当事者による推定ではキュー・サムファンは100万人、ポル・ポトは80万人である。

没落

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カンボジア人の間では、クメール王朝の衰退期に広南阮氏南進で領土が侵食されたなどの因縁もあり、隣の大国であるベトナムに対する反感が強い。シハヌーク時代に50万人いたベトナム人のうち、1970年まで虐殺と迫害を逃れるためにベトナムに帰還したのは20万人以上にのぼる。ポル・ポトは反ベトナムのプロパガンタを喧伝し、クメール・ルージュのラジオ放送では「ベトナムを排除するのに洗練された武器は必要ない。歴史ある民族の各人が、その手で一人につき10人のベトナム人を殺せば足りる」と放送した。

1978年1月、ポル・ポトはカンボジア東部からベトナム領内を越境攻撃し、現地住民を虐殺した。さらにベトナムと国交を断交した。5月には中央のポル・ポトへの反乱の疑いを持たれた東部軍管区(そこはベトナム系カンボジア人の住民が多く、実際にベトナム政府がクメール・ルージュへの反乱を提案したこともあった)を攻撃し、東部地区の大量のクメール・ルージュ将兵を処刑した。このため、ベトナム領内には、軍民を問わず、10数万人にのぼる東部地区の避難民が流入した。その中にはヘン・サムリンなどの指導者も多数含まれていた。ベトナム政府は、ベトナム領内への侵攻と、カンボジア内のベトナム人虐殺を止めるようカンボジア政府に働きかけようとしたが、その対話は成功しなかった。1978年4月から5月には、カンボジア軍がベトナムに侵入し、バチュク村の村民を虐殺した(バチュク村の虐殺)。

1978年6月、ベトナムも反撃を開始し、空軍が国境付近に空爆を開始した。また、ベトナム政府はクメール・ルージュのカンボジアからの排除の意思を固めた。ベトナムは、ソ連にカンボジア侵攻に対する援助を要請し、1978年11月3日、ソ越友好協力条約が結ばれた。この動きに対し、カンボジアと友好関係にあった中国共産党は、ベトナムに軍事作戦を示唆する警告を発したが、ベトナムはこれを無視した。

1978年12月25日、準備が整ったと判断したベトナムは、ベトナム国内に避難していたカンボジア人の中から人員を選び、カンプチア救国民族統一戦線として親ベトナムの軍を組織させた。カンプチア救国民族統一戦線の議長には、ヘン・サムリンが選ばれた。そして、カンボジア国内の反ポル・ポト派とも連携し、カンボジア国内に攻め込んだ。カンボジア・ベトナム戦争の幕開けである。

ベトナム戦争からまだ数年しか経っておらず、米国がベトナムに残した武器装備を保持し、ソ連から援助を受け戦い慣れした将兵に事欠かなかったベトナム軍、および彼らに訓練を受けたカンプチア救国民族統一戦線にとって、粛清の影響による混乱で指揮系統が崩壊していた民主カンプチア革命軍の排除は、全く手間取るような作戦ではなかった。カンプチア革命軍は、中国の支援を受けて装備は充実していたが、正面からベトナム軍を食い止めようとしても敵わず、わずか2週間でカンプチア革命軍の兵力は文字通り半減した。

カンボジア領内に進軍して、早くも1979年1月7日、プノンペンに入りポル・ポトの軍勢を敗走させた。そしてベトナムの影響を強く受けたヘン・サムリン政権(カンボジア人民共和国)が成立した。クメール・ルージュ軍およびポル・ポトはタイの国境付近のジャングルへ逃れた。タイはカンボジア領内でポト派によって採掘されるルビー売買の利権を得、さらに反ベトナムの意図から、自国領を拠点にポル・ポト派がベトナム軍およびサムリン政権軍に反攻することを容認した。ポル・ポトは国の西部の小地域を保持し、タイ領内からの越境攻撃も行いつつ、以後も反ベトナム・反サムリン政権の武装闘争を続けた。

翌月の1979年2月には、カンボジアの事実上の同盟国だった中華人民共和国(かつてポル・ポト政権を支持)が、カンボジア侵攻に対する「懲罰行為」としてベトナムに侵攻し、中越戦争が勃発した。しかし、ベトナムは中国人民解放軍を返り討ちにし、中国は3月には撤収した。

この後、ベトナムはカンボジアを完全に影響下に置き、長い間、その影響力を保持することとなる。

余波

ソ連とベトナムに敵対したポル・ポトはタイとアメリカから支援された。アメリカと中華人民共和国は、ヘン・サムリン政権をベトナムの傀儡であるとしてカンボジア代表の国連総会への出席を拒否した。ポル・ポトが反ソ・反越だったので、アメリカ、タイ、中国はベトナム支持のヘン・サムリンより好ましいと考えた。

1981年9月4日ポル・ポトとシハヌークおよび右派自由主義のソン・サンの3派による反ベトナム同盟を結んだ。ポル・ポトは、この終了を求めて公式に1985年に辞職したが、同盟内の事実上のカンボジア共産党のリーダーとして支配的影響力を維持した。

1989年、ベトナム軍はカンボジアから撤退した。1993年、国連監視下で自由化された総選挙により立憲君主制が採択された。選挙結果は、全120議席のうち、フンシンペック党が58議席、カンボジア人民党が51議席、ソン・サンの仏教自由民主党が10議席、その他1議席であった。ポル・ポト派はこの選挙に参加せず、新しい連立政権と戦い続けたが1996年ころまでには軍は堕落し規律も崩壊し、数人の重要な指導者も離脱した。

死去

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アンロン・ベン県に建立されているポル・ポトの墓

1997年、ポル・ポトは政府との和解交渉を試みた腹心のソン・センとその一族を殺害した。しかしその後クメール・ルージュの軍司令官タ・モクによって「裏切り者」として逮捕され、終身禁固刑(自宅監禁)を宣告された。1998年4月にタ・モクは新政府軍の攻撃から逃れて密林地帯にポル・ポトを連れて行った。伝えられるところによれば、1998年4月15日にポル・ポトは心臓発作で死去した。しかし遺体の爪が変色していたことから、毒殺もしくは服毒自殺の可能性もある。遺体は兵士によって古タイヤと一緒に焼かれた後、埋められた。火葬にはポル・ポトの後妻と後妻との間に生まれた1人娘が立ち会った。埋葬直後には墓は立てられなかったが、その後墓所が建てられた。

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脚注

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参考文献

  • 『ポル・ポト ある悪夢の歴史』 フィリップ・ショート 山形浩生訳 白水社 2008年
  • 『ポル・ポト「革命」史 虐殺と破壊の四年間』 山田寛 講談社選書メチエ 2004年
  • 『ポル・ポト 死の監獄S21 クメール・ルージュと大量虐殺』 デーヴィッド・チャンドラー 山田寛訳 白揚社 2002年
  • 『ポル・ポト伝』 デービッド・チャンドラー 山田寛訳 めこん 1994年
  • 『なぜ同胞を殺したのか―ポル・ポト 堕ちたユートピアの夢』 井上恭介/藤下超 日本放送出版協会 2001年
  • 『ポル・ポト派の素顔』 クリストフ・ペシュー 友田錫監訳 日本放送出版協会 1994年
  • 『カンボジア大虐殺は裁けるか クメール・ルージュ国際法廷への道』 スティーブ・ヘダー、ブライアン・D. ティットモア 四本健二訳 現代人文社 2005年
  • 『ブラザー・エネミー サイゴン陥落後のインドシナ』 ナヤン・チャンダ 友田錫/滝上広水訳 めこん 1999年
  • カンボジア、いま クメール・ルージュと内戦の大地』 高沢皓司/写真と文 新泉社 1993年
  • キリング・フィールドからの生還 わがカンボジア〈殺戮の地〉』 ハイン・ニョル/ロジャー・ワーナー 吉岡晶子訳 1990年 光文社

関連項目

外部リンク

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先代:
ヌオン・チア
テンプレート:KHM1975首相
1976年 - 1979年
次代:
ソン・サン
(民主カンボジア連合政府首相)
先代:
キュー・サムファン
テンプレート:KHM1975首相
1976年
次代:
ヌオン・チア
先代:
トゥー・サムート
25x20px カンボジア共産党書記長
1963年 - 1985年
次代:
キュー・サムファン
  1. Brother Number One, David Chandler, Silkworm Book, 1992 p.7
  2. テンプレート:Cite web
  3. 3.0 3.1 B.Kiernan, The Pol Pot Regime---Race, Power and Genocide in Cambodia under the Khmer Rouge, 1975-1979(third edition), Yale University Press, 2008, ISBN 978-0-300-14434-5, Preface to the third edition.
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), 2004, ISBN 0-300-10262-3, pp.25-27.
  5. 5.0 5.1 5.2 5.3 井川・武田編著『新版・カンボジア黙示録』田畑書店、p.33.
  6. ラルース世界史人物辞典
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  8. B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), p.25.
  9. B.kerinan, How Pol Pot Came to Power(second edition), p.26.
  10. D.Chandler, Brother Number One;A Political Biography of Pol Pot,
  11. 根拠となる資料をはっきりと明示してはいないが、1977年の公式発表による自伝が生年を1925年としていることと、1985年に表面上リタイアを声明した際に生年を1925年と認めたことによるようである。
  12. B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), p.25.
  13. B.Kiernan, The Pol Pot Regime(third edition), p.9.
  14. B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), p.26-27.
  15. B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), p.27.
  16. 16.0 16.1 B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition). p.29.
  17. 17.0 17.1 17.2 17.3 B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), p.119.
  18. B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), p.121.
  19. 19.0 19.1 B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), p.121.
  20. 井川一久編著「新版・カンボジア黙示録」田畑書店、p.201
  21. B.Kiernanm The Pol Pot Regime(third edition), p.11.
  22. B.Keirnan, How Pol Pot Came to Power(second edition), p.120.
  23. B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), p.121.
  24. B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), p.122
  25. B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), p.176.
  26. 後に重要なポジションにつくことになる左翼主義者ネイ・サラン(Ney Sarann)、ヴォン・ヴェト(Vorn Vet)、シエット・チェ(Shiet Chhe)も同じ高校で働き始めた。
  27. 井川一久編著『新版・カンボジア黙示録』田畑書店、p.200.
  28. B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), p.122.
  29. B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), p.122.
  30. 30.0 30.1 30.2 B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), p.123.
  31. 『新版・カンボジア黙示録』によれば、クメール・イサラクではなくクメール人民革命党になっている。
  32. B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), p.124.
  33. B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), p.155.
  34. 34.0 34.1 34.2 B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), p.157.
  35. B>Kiernan ,"How Pol Pot Came to Power(second edition)", p.157によれば、クロム・プラチェアチョンはクメール人民革命党の偽装合法政党のことである。しかし、井川一久編著「新版カンボジア黙示録」p.203によれば、クメール人民革命党の偽装合法部分は民主党であると記述されている。
  36. 井川一久編著「新版カンボジア黙示録」p.200.
  37. B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), p.172.
  38. B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), p.188.
  39. デービッド・P・チャンドラー著『ポル・ポト伝』めこん、p.104.
  40. B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), p.198.
  41. B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), p.193.
  42. B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), p.199.
  43. B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), p.200.
  44. B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), p.202.
  45. 閣僚だったキュー・サムファンやフー・ユオンの名も載っていた。ポル・ポトとイエン・サリもリストに挙げられている。34人の名前全てについては、B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), p.242を参照。
  46. B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), p.202.
  47. 47.0 47.1 B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), p.203.
  48. B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(secomd eidtion), p.200.
  49. B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), p.203.
  50. 50.0 50.1 50.2 B.Kiernan, The Pol Pot Regime(third edition), p.327.
  51. クメール語で「組織」の意味。
  52. B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), pp.219-220.
  53. B.Kiernan, The Pol Pot Regime Came to Power(third edition), p.126 によれば、鄧小平らよりも康生との接触が多かったようである。
  54. B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), pp.222-223.
  55. B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(secodn edition), p.224.
  56. 井川一久編著「新版・カンボジア黙示録」田畑書店、p.191.
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  59. 井川一久編著「新版カンボジア黙示録」田畑書店、p.266
  60. 60.0 60.1 B.Kiernan, The Pol Pot Regime(third edition), p.127.
  61. 井川一久編著「新版カンボジア黙示録」田畑書店、p.204.
  62. B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), p.290.
  63. 清野 真巳子『禁じられた稲-カンボジア現代史紀行』連合出版、p.42
  64. 『NAM』同朋舎出版、見聞社編、p.532
  65. チャンドラー,『ポル・ポト伝』p.131
  66. チャンドラー,『ポル・ポト伝』p.131
  67. チャンドラー,『ポル・ポト伝』p.131
  68. ダニエル・エルズバーグ著「ベトナム戦争報告」p174,筑摩書房
  69. 「インドシナ現代史」p103,連合出版
  70. 「インドシナ現代史」p104,連合出版
  71. 井上恭介、藤下超 著「なぜ同胞を殺したのか」p103,日本放送出版協会
  72. NHK取材班著「激動の河メコン」p32,日本放送出版協会
  73. 池上彰著「そうだったのか!現代史」p150,集英社