ヴィジャヤナガル王国
ヴィジャヤナガル王国(テンプレート:Lang-en、テンプレート:Lang-te、テンプレート:IAST、テンプレート:Lang-kn、テンプレート:IAST、テンプレート:Lang-ta)とは、14世紀初頭から17世紀中頃にいたるまで、カルナータカ州南部およびアーンドラ・プラデーシュ州南部、言い換えれば、トゥンガバドラー川およびクリシュナ川以南からコモリン岬に至る南インドを支配したヒンドゥー王朝(1336年 - 1649年)。ヴィジャヤナガル朝(Vijayanagar dynasty)とも呼ばれる。
首都はヴィジャヤナガル、ペヌコンダ、チャンドラギリ、ヴェールール。
名称は、サンガマ朝(Sangama dynasty, 1336年 - 1486年)、サールヴァ朝(Saluva dynasty, 1486年 - 1505年)、トゥルヴァ朝(Tuluva dynasty, 1505年 - 1569年)、テンプレート:仮リンク(Aravidu dynasty, 1569年 - 1649年)の4つの王朝が交替してヴィジャヤナガルに首都を置いた[1]ために総称的に首都名を王国の名称に冠している。
目次
サンガマ朝
ヴィジャヤナガル王国の建国
14世紀以降、デリー・スルタン朝によって、デカンや南インド各地にあったヒンドゥー王朝は次々と滅ぼされ、1317年ヤーダヴァ朝がハルジー朝に滅ぼされ、1323年パーンディヤ朝とカーカティーヤ朝がトゥグルク朝に滅ぼされた。
有力な説では、ヴィジャヤナガル王国の建国者であるハリハラとブッカの兄弟は、デカンのカーカティーヤ朝(あるいは南インドのホイサラ朝)に仕えていたとされ、1323年にトゥグルク朝の遠征軍が両王朝を攻めており、彼ら二人を捕虜にしたようである。
ハリハラとブッカの2人はデリーに連行され、イスラーム教に改宗して、トゥグルク朝の王ムハンマド・ビン・トゥグルクに仕えたとされる。
当時、ムハンマド・ビン・トゥグルクは、ハリハラとブッカを南インドのカルナータカ地方に派遣してその統治に当たらせていたが、彼らはヒンドゥー教に再び改宗し、ヒンドゥー勢力を結集してトゥグルク朝から独立を考えるようになった。
1334年以降、ムハンマド・ビン・トゥグルクの失政により各地で反乱が起き、同年には南インドのタミル地方では地方長官が独立して、テンプレート:仮リンクが成立するなど、南インドも不穏な状態となった。
こうして、1336年にハリハラとブッカはトゥグルク朝から独立を宣言し、トゥンガバドラー川の南岸の都市ヴィジャヤナガル(勝利の都)を都に、ヴィジャヤナガル王国を建国した。
そして、この第1王朝はハリハラとブッカの父サンガマの名を取って、サンガマ朝と名づけられ、初代の王には兄ハリハラがハリハラ1世(在位1336 - 1357)として即位した。
周辺勢力との抗争
一方で、1347年、デカン地方にバフマニー朝が建国されると、トゥンガバドラー川とクリシュナ川の両流域に挟まれたいわゆるライチュール地方の支配権、すなわち交易利権をめぐって両王朝は抗争することになった。
1356年、ブッカは兄ハリハラ1世を継いでブッカ1世(在位1356 - 1377)となり、この時代より、ライチュール地方(テンプレート:Lang-en)などの支配をめぐり、本格的にバフマニー朝との領土争いを繰り広げられた。
しかし、この抗争では、両国は決定的な勝利をおさめることができず、無差別虐殺や子どもの奴隷売買が行なわれたり、経済的にも疲弊したため、前述のような残虐な行為は行わない、両国の国境は当初のままとする、という協定が結ばれた。
1342年、ホイサラ朝の王バッラーラ3世がマドゥライ王国との戦いで命を落とすと、ヴィジャヤナガル王国はその領土に侵攻し、1346年にホイサラ朝を滅ぼして王国の版図を広げた。
ブッカ1世は1377年まで統治し、ヴィジャヤナガル王国の版図拡大のため南方遠征を行い、1370年には息子の一人クマーラ・カンパナがマドゥライ王国を制圧している。
ブッカ1世の息子ハリハラ2世(在位1377 - 1404)のとき、1378年にマドゥライ王国を併合し、レッディ王国の支配するアーンドラ地方の大部分を領土に加え、領土の拡大に成功している。
1398年にはバフマニー朝を攻め、クリシュナ川およびゴーダヴァリー川両下流域の大部分を併合したものの、それ以上北方へ進出できなかった。
しかし、テンプレート:仮リンク地方で、ゴアをバフマニー朝から奪うことに成功し、またスリランカ北方にも遠征軍を送っている。
ハリハラ2世の息子デーヴァ・ラーヤ1世(在位1406 - 1422)のとき、バフマニー朝の王テンプレート:仮リンク(在位1397 - 1422)との間でトゥンガバトラー流域をめぐる抗争に敗れ、テンプレート:仮リンクも奪われ、首都ヴィジャヤナガル付近まで進出された。
ヴィジャヤナガル王国は講和を結び、多額の賠償金と真珠や象を支払わなければならなず、そして自分の娘をフィーローズ・シャー・バフマニーと結婚させることにし、結婚式には自ら首都ヴィジャヤナガルから出迎えた。
しかし、1422年、孫のデーヴァ・ラーヤ2世(在位1422 - 1446)が即位すると、軍制改革を推し進め、ヴィジャヤナガル王国の軍隊にムスリムを加えて、ヒンドゥーの兵や将校に弓術を教えさせた。
ペルシャ出身の歴史家フィリシュタによると、デーヴァ・ラーヤ2世は、8万の騎兵、20万の歩兵、弓術に優れた6万人のヒンドゥー兵を集めたという(これは、バフマニー軍が丈夫な馬を持ち優れた弓兵の大部隊をもっていることにならい、またその対抗策であった)。
この軍制改革により軍は強化され、ヴィジャヤナガル王国は逆に攻勢を強め、バフマニー朝の都グルバルガ付近まで進出し、そのため、1425年から1426年にかけて、バフマニー朝の王アフマド・シャー1世は、バフマニー朝の首都をグルバルガからビーダルへと遷都しなければならなかった。
しかし、1443年のライチュール地方への遠征で、バフマニー朝と3回の激戦を戦ったが両国共に大きな戦果を収められず、国境線はそのまま維持された。
デーヴァ・ラーヤ2世は、ムスリムに先の軍制改革で登用や国内でモスクの建設を許し、ムスリム王朝であるバフマニー朝とは和睦して婚姻関係や貢納で平和を保ち、 ヴィジャヤナガル王国はヒンドゥー教徒とイスラーム教徒が共存できる宗教寛容な国となり、ヴィジャヤナガルの王は称号として「ヒンドゥーの王にしてスルタン」を名乗った者がいる。
さらに、デーヴァ・ラーヤ2世は、西アジアとの対外交易も積極的に行い、イランなどからは使節も訪れている。
ペルシャ人旅行家、アブドゥル・ラッザークの残した当時の記録によると、
としている。少々誇張があるが、この地を訪れた旅行家たちが一致して述べているのは、ヴィジャヤナガル王国の国内は、都市でも農村でも人口が密集していたということである。
サールヴァ朝
危機とその脱却
1446年、デーヴァ・ラーヤ2世が死ぬと、無能な王が続き、ヴィジャヤナガル王国の国内では、タミル地方中部をはじめ反乱が相次ぎ、国内は混乱した。
一方でバフマニー朝が有能な宰相マフムード・ガーワーンにより事実上の全盛期を迎えて、ヴィジャヤナガル王国はカーンチープラムまで攻め込まれ、ゴアのみならず、ライチュール地方なども奪われた。
また、オリッサの新興勢力ガジャパティ朝の遠征軍が、王国の奥深くまで攻め込み、1464年にデーヴァ・ラーヤ3世(位1446 - 1465)の治世には、その遠征軍がカーヴェーリ川にまで到達し、ティルチラーッパッリにまで至った。
15世紀後半、ヴィジャヤナガル王国は危機に陥ったが、この危機を救ったのは、タミル地方北部を統治していたサールヴァ家のサールヴァ・ナラシンハであった。
サールヴァ・ナラシンハは、トゥルヴァ家のトゥルヴァ・イーシュヴァラ・ナーヤカ、トゥルヴァ・ナラサー・ナーヤカ父子に助けられてガジャパティ朝、バフマニー朝の勢力を撃退して、各地の反乱を鎮圧し、ガジャパティ朝とバフマニー朝の侵攻を食い止めた。
そして、サールヴァ・ナラシンハは、 1486年にザンガマ朝最後の王プラウダ・ラーヤ(在位1485 - 1486)から王位を簒奪し、王となりサールヴァ朝を起こした。
しかし、1491年にサールヴァ・ナラシンハ1世(在位1486 - 1491)が没すると、トゥルヴァ・ナラサー・ナーヤカがその幼少の息子ナラシンハ2世(位1491~1505)の摂政となって、王国の実権を握った。
なお、1480年代後半から、隣国バフマニー朝では各地の太守が独立の動き見せ、1490年にはビジャープル王国、テンプレート:仮リンク、テンプレート:仮リンクが成立し、バフマニー朝のデカンを中心とするその広大な版図は解体されつつあった。
トゥルヴァ・ナラサー・ナーヤカは、簒奪者とならず幼王の摂政として、分裂し衰退するバフマニー朝よりライチュール地方の奪還を試み、また南方に遠征して、反乱を鎮圧するなど、ヴィジャヤナガル王国の領土回復に努めた。
トゥルヴァ朝
ヴィジャヤナガル王国の最盛期
1503年にトゥルヴァ・ナラサー・ナーヤカは死亡し、息子ヴィーラ・ナラシンハは父の没後、1505年サールヴァ朝のナラシンハ2世から王位を奪って即位し、トゥルヴァ朝を創始した。
しかし、ヴィーラ・ナラシンハ3世(在位1505 - 1509)の治世は短く、弟のクリシュナ・デーヴァ・ラーヤ(在位1509 - 1529)が継ぐごとになる。
クリシュナ・デーヴァ・ラーヤは、ヴィジャヤナガル王国の最も偉大な君主とされ、ガジャパティ朝やビジャープル王国に遠征を繰り返し、1520年にライチュール地方を奪うなどして、広大な版図を獲得する一方で、文芸を保護し、旅行者から国民の幸せを願う君主という最大級の賛辞を送られる名君であった。
クリシュナ・デーヴァ・ラーヤは、ヴィジャヤナガル王国の発展にも努め、国内では各地に都市に貯水池、川にはダムや堤防をつくり、商工業を奨励し、国内を安定させた。
さらに、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤは税収の安定をはかるために、15世紀末にサールヴァ朝より成立しつつあった、ヴィジャヤナガル王国の領主層であるナーヤカに徴税させる、「ナーヤカ制」を確立しようとした(これはナーヤカに自分の領地を知行地して改めて与え、徴税や世襲などの特権を認めるかわり、忠誠や納税などの義務を負わせるもので、任地替えもよく行われた)。
対外貿易においては、綿花やさとうきびなど商品作物を栽培させ、西アジアやポルトガルとの交易でそれらを輸出させた(ポルトガルでは、ヴィジャヤナガル王国は「ビスナーガ」として知られていた)。
クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはポルトガルと積極的に交易を行い、西アジアからの軍馬の輸入を確保し、軍の維持に努め、ポルトガルの馬商人パイスによると、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤの治世ヴィジャヤナガル王国は13000頭にもおよぶ軍馬を輸入し、その大部分はホルムズ島を経由していた。
対外貿易の成功の要因は、ヴィジャヤナガル王国内にはカリカットやマンガロールなど優れた外港が300以上も存在したからであり、これらの外港にはポルトガル人や西アジアのイラン人のみならず、アラビア半島、中国(明朝)、東南アジア諸国、アフリカからも交易目的の人々が来航し、ヴィジャヤナガル王国の外港はインドにおける貿易の中心地として非常ににぎわった。
これにより、国内には莫大な富が流れ込み、首都ヴィジャヤナガルをはじめとしてヴィジャヤナガル王国は多いに繁栄し、トゥルヴァ朝の時代、首都ヴィジャヤナガルの人口は480,000を数え、明の首都である北京やオスマン帝国の首都イスタンブールの60,0000に次ぐ、世界有数の大都市であったことが知られる。
また、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはヴィシュヌ派ヒンドゥー教の信仰をもち、その聖地ティルパティのヴェンカテーシュヴァラ寺院をはじめとするヒンドゥー寺院を手厚く保護したが、彼は宗教に関してはとても寛容であり、国民にすべての宗教の信仰を許した(彼も「ヒンドゥーの王にしてスルタン」を名乗った一人だった)。
クリシュナ・デーヴァ・ラーヤの治世にヴィジャヤナガル王国の版図は最大となり、国内は首都ヴィジャヤナガルをはじめ賑わい、王国には平和が広く行き届き大いに繁栄し、最盛期を迎えた。
しかし、その晩年には、宮廷の内紛とそれにつけこんでビジャープル王国軍の侵入があり、ライチュール地方が再び奪われ、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはそうした状況の中で没した。
ラーマ・ラーヤの専横
1529年、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤの弟アチュタ・デーヴァ・ラーヤ(在位1529 - 1542)が即位すると、宰相ヴィーラ・ナラシンガ・ラーヤが起こした反乱を鎮圧するとともに、ビジャープル王国からライチュール地方を取り戻した。
しかし、治世の晩年には、兄王の娘婿にあたるアーラヴィードゥ家のテンプレート:仮リンク(ラーマ・ラージャとも)に実権を奪われた。
1542年アチュタ・デーヴァ・ラーヤが亡くなると、その幼少の息子ヴェンカタ1世(在位1542)が後を継ぐが、宮廷内で王位の継承をめぐって激しい争いが起こり殺され、末弟のランガ・ラーヤの息子、サダーシヴァ・ラーヤ(在位1542 - 1569)が王位につけられた。
しかし、ヴィジャヤナガル王国の実権は、摂政になったラーマ・ラーヤとその弟ティルマラ・デーヴァ・ラーヤに握られていた。
ラーマ・ラーヤの基本政策は、国内を安定させるとともにバフマニー朝分裂後の北方のテンプレート:仮リンクを互いに抗争させて弱体化させるというものであり、まずポルトガル人との貿易協定でビジャープル王国への馬の供給を止めて、ビジャープル王国を打ち破り、次にビジャープル王国に同盟を持ちかけて、ゴールコンダ王国とアフマドナガル王国を打ち破った。
しかし、ムスリム5王国もいいように利用されていることに気づき始めて、ついにビジャープル王国、ゴールコンダ王国、テンプレート:仮リンク、テンプレート:仮リンク、テンプレート:仮リンクは同盟を結び、1565年1月、クリシュナ川の北方のターリコータ(ラークシャシ・タンガティ)でヴィジャヤナガル軍を撃破した。
ターリコータの戦いで、ラーマ・ラーヤ自身も捕らえられて処刑され、ヴィジャヤナガル王国の兵10万人が殺されたと伝えられる。
また、ムスリム5王国は勢いに乗り、ヴィジャヤナガル王国の首都ヴィジャヤナガルも破壊し、王都は廃墟と化し、これ以降ヴィジャヤナガル王国は徐々に衰退の道をたどっていくこととなった。
アーラヴィードゥ朝
衰退する王国
ラーマ・ラーヤの弟ティルマラ・デーヴァ・ラーヤは、サダーシヴァ・ラーヤを擁してヴィジャヤナガルの南東100数十kmのペヌコンダを首都として統治を続け、1569年にはサダーシヴァ・ラーヤを廃位して、テンプレート:仮リンク(1542 - 1652)を開いた。
ティルマラ・デーヴァ・ラーヤ(在位1569 - 1572)の治世は、王国を3つの領域に分け、3人の息子をペヌコンダ、シュリーランガパッタナ、チャンドラギリにそれぞれ配し、アーンドラ地方、カルナータカ地方、タミル地方の統治に当たらせ、ヴィジャヤナガル王国の領土を維持した。
だが、息子で次の王シュリーランガ1世(在位1572 - 1586)の治世に、タミル地方のシェンジ(ジンジー)、タンジャーヴール、マドゥライの有力ナーヤカは、王国内おいて半独立の政権を打ち出し、これらナーヤカ政権は、「ナーヤカ領国」あるいは「ナーヤカ朝」とよばれ、ヴィジャヤナガル王国の衰退要因の一つとなった。
トゥルヴァ朝時代に積極的に行われてきたナーヤカの任地替えも、アーラヴィードゥ朝になってほとんど行われておらず、おそらく、ムスリム5王国の侵入などの混乱によって、ヴィジャヤナガル王国ではナーヤカの任地替えがおろそかになり、ナーヤカたちが在地勢力として力を持ち、もはや無理になったのであろうと考えられる。
また、シュリーランガ1世の治世、ヴィジャヤナガル王国の衰退に乗じて、ビジャープル王国やゴールコンダ王国の圧迫が一段と強まり、1576年には首都ペヌコンダがビジャープル王国の軍に一時包囲された。
ヴェンカタ2世の戦い
1586年、シュリーランガ1世の死後、その弟ヴェンカタ2世(在位1586 - 1614)がビジャープル王国、ゴールコンダ王国に奮戦したことにより、ヴィジャヤナガル王国は一時領土と勢力を回復した。
また、1592年にはこれらに対抗するため、首都をペヌコンダからチャンドラギリに遷都している。
また、ヴェンカタ2世はオランダ、スペインなどと修好を結び、ムスリム5王国と対立していた北インドのムガル帝国とも同盟を結ぼうとし、南北から挟撃しようとする壮大な計画を立てた(これは実現しなかったが)。
さらに、ヴェンカタ2世は内政面でも優れた統治能力を発揮して、タミル地方の反乱を掃討し、荒廃した農村の復興に尽力し、宗教的にもきわめて寛容で、人民にも愛され慕われ、ヴィジャヤナガル王国最後の名君となった。
しかし、その後再びビジャープル王国、ゴールコンダ王国に逆襲され、1604年にヴェンカタ2世は王都をチャンドラギリからヴェールールと南へと遷都し、1610年にはマイソール王国が独立を表明するなど、ヴィジャヤナガル王国の衰運を止めることはできなかった。
ヴィジャヤナガル王国の滅亡
そして、1614年に老王ヴェンカタ2世が死亡すると、シュリーランガ2世(在位1614)が後を継いだが、ヴェンカタ2世の息子ジャッガ・ラーヤも王位を宣し、この内乱に各地のナーヤカはもとより、ビジャープル王イブラーヒーム・アーディル・シャー2世やゴールコンダ王スルタン・ムハンマド・クトゥブ・シャーも介入するなど、国内は激しい内乱となった。
結局、同年に内乱は終結して、シュリーランガ2世とその家族は殺され、ジャッガ・ラーヤ(在位1614 - 1617)が王となったが、1617年、シュリーランガ2世の息子ラーマ・デーヴァ・ラーヤにトップールの戦いで殺された。
これらの争いに乗じて、それまで半独立だったシェンジ、マドゥライなどのナーヤカ朝は完全に独立し、王国の北部はビージャープル王国に占領され、ヴィジャヤナガル王国は急速に衰退した。
また、ラーマ・デーヴァ・ラーヤは権力を保持していたが、オランダ東インド会社の職員アブラハム・ロヘリウスによると、その性格は粗暴で傲慢だったようだ。
1630年にラーマ・デーヴァ・ラーヤが死ぬと、ラーマ・ラーヤの孫ヴェンカタ3世(在位1630 - 1642)が後を継いだが、シュリーランガ2世の弟ティンマ・ラージャが継承権を主張して内乱となり、1635年にティンマ・ラージャが死ぬまで続いた。
ヴェンカタ3世の時代、ヴィジャヤナガル王国にかつての広大な領土はなく、もはや周りをビジャープル王国とゴールコンダ王国、有力ナーヤカ朝に囲まれた小国の一つとなっていた。
1642年4月、ヴィジャヤナガル王国の主力軍とヴェールゴーティ・ティンマ・ナーヤカとダーマルラ・ヴェンカタ・ナーヤカの援軍が、ゴールコンダ王国の軍44,000に敗れ、同年10月にヴェンカタ3世はそうした情勢の中で死亡した。
さらに、1640年代、その甥シュリーランガ3世(在位1642 - 1649)の時代、周辺のナーヤカ朝の勢力が強まり、ヴィジャヤナガル王国はゴールコンダ王国の力をかりてそれらに対抗する有様だった。
しかし、これはビジャープル王国の進出を招き、1646年に首都ヴェールールはビジャープル王国の大軍に包囲され、陥落した。
陥落後、シュリーランガ3世は都ヴェールールを逃げ、タンジャーヴール・ナーヤカ朝の保護を受けが、1649年にビジャープル王国の軍はタンジャーヴールも包囲し、これを陥落させた。
ヴィジャヤナガル王国の領土は、大部分がビジャープル王国の領土に併合され、一部はゴールコンダ王国に併合され、こうして、3世紀以上にわたり南インドを支配してきたヴィジャヤナガル王国も、この時点で事実上の終焉を迎えた。
滅亡後とその後の情勢
史実上、1649年にヴィジャヤナガル王国はビジャープル王国に滅ぼされたと記されているが、シュリーランガ3世はタンジャーヴールを逃げたのち、ビジャープル王国、ゴールコンダ王国に抵抗し、王国の復興に尽力して、争いはそれから20年近くヴェールール、チャンドラギリを中心とした地域で続いていた。
シュリーランガ3世が抵抗をつづけられた要因として、ビジャープル王国とゴールコンダ王国の争い、ビジャープル王国におけるマラーターの台頭による混乱、ムガル帝国のデカン地方への介入、マイソール王国やパーライヤッカーラ(ポリガール)と呼ばれた小領主の支援、ティルパティの寺院の財宝よるものとされる。
1649年以降、シュリーランガ3世はヴェールールを取り戻して拠点とし、その周辺を支配し続け、ゴールコンダ王国領南方の太守ミール・ジュムラやその代官クリシュナッパ・ナーヤカと幾度となく戦たが、1652年にヴェールールはゴールコンダ王国の軍に占領された。
また、1656年初頭、ゴールコンダ王国の首都ハイダラーバードがムガル帝国の攻撃を受け、同年にミール・ジュムラがゴールコンダ王国を離れ、ムガル帝国に服属したことにより、シュリーランガ3世は勢いづき、同年10月までにチャンドラギリを奪い返し拠点とした。
クリシュナッパ・ナーヤカはチャンドラギリを奪い返そうとしたものの、ゴールコンダ王国の援軍も来ず、シュリーランガ3世と領土分割の協定を結ぼうとしたが、シュリーランガ3世はこれを拒否し、17世紀にデカンで勢力をのばしていたムガル帝国に目をつけ、デカン太守のアウラングゼーブと交渉を結ぼうとした。
つまり、シュリーランガ3世はティルパティの財宝で帝国と交渉し、チャンドラギリとその周辺の地をジャーギールとして認められ帝国の家臣となり、その保護を受けようと考えられる。
実際、1657年初頭、シュリーランガ3世はムガル帝国と協定締結の交渉を行い(帝国も、ミール・ジュムラがティルパティから奪った金貨やダイヤモンドなどの財宝を受け取り、この地に興味を示していた)、その際にティルパティの財宝も言及されており、オランダの文献によるとその内容はこうだった。
しかし、同年9月、ムガル皇帝シャー・ジャハーンが重病となり、アウラングゼーブにとっては南インド以前に帝位継承が重要になり、ほかの兄弟と争うため北インドへと帰還し、シュリーランガ3世の計画は失敗した。
そして、1665年まで、シュリーランガ3世はチャンドラギリを支配し、この年のティルパティのテルグ語の刻文が彼に関する年代の最後の刻文となり、それ以降の彼に関する正確な年代は分からなくなった。
ティルパティの支配もゴールコンダ王国に移り、1668年にゴールコンダ王国の武将ラザー・クリー・ベグが、ティルパティの代官として着任している。
はっきりしているのは、シュリーランガ3世はその後マイソール王国へと亡命し、1678年まで余命を保っていることである。
ティルパティの存在
ティルパティはその後も聖地として扱われ、1681年にゴールコンダ王国の大臣の一人アッカンナー・パーンディト(テルグ地方のバラモン)が訪れており、1687年に皇帝アウラングゼーブがゴールコンダ王国を征服したときも、民衆の抵抗が起こるのを恐れ、この寺院を略奪することはなかったといわれる。
18世紀、ムガル帝国の広大な領土が分裂したのちも、ティルパティは聖地として扱われ、カルナータカ地方政権の太守サアーダトゥッラー・ハーンの重臣ラーラー・トーダル・マルは自分とその妻の像をおさめ(つまり、自分をかつてのクリシュナ・デーヴァ・ラーヤと同一視している)、マラーター同盟の宰相バージー・ラーオ1世や、ニザーム王国の王アーサフ・ジャー(彼はムスリムだが)もこの地を訪れている。
そして、現在に至るまで、ティルパティはヴェンカテーシュヴァラ寺をはじめ、かつての古都ヴィジャヤナガル同様にヒンドゥー教徒の聖地である。
歴代君主
サンガマ朝
- ハリハラ1世(在位1336 - 1356)
- ブッカ1世(在位1356 - 1377)
- ハリハラ2世(在位1377 - 1404)
- ヴィルーパークシャ1世(在位1404 - 1405)
- ブッカ2世(在位1405 - 1406)
- デーヴァ・ラーヤ1世(在位1406 - 1422)
- ブッカ3世(在位1422 - 1424)
- デーヴァ・ラーヤ2世(在位1422 - 1446)
- デーヴァ・ラーヤ3世(在位1446 - 1465)
- ヴィルーパークシャ2世(在位1465 - 1485)
- プラウダ・ラーヤ(在位1485 - 1486)
サールヴァ朝
- サールヴァ・ナラシンハ1世(在位1486 - 1491)
- ナラシンハ2世(在位1491 - 1505)
トゥルヴァ朝
- ヴィーラ・ナラシンハ3世(在位1505 - 1509)
- クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ(在位1509 - 1529)
- アチュタ・デーヴァ・ラーヤ(在位1529 - 1542)
- ヴェンカタ1世(在位1542)
- サダーシヴァ・ラーヤ(在位1542 - 1569)
アーラヴィードゥ朝
- ティルマラ・デーヴァ・ラーヤ(在位1569 - 1572)
- シュリーランガ1世(在位1572 - 1586)
- ヴェンカタ2世(在位1586 - 1614)
- シュリーランガ2世(在位1614)
- ジャッガ・ラーヤ(在位1614 - 1617)
- ラーマ・デーヴァ・ラーヤ(在位1617 - 1630)
- ヴェンカタ3世(在位1630 - 1642)
- シュリーランガ3世(在位1642 - 1649)
君主列表
王 | 在位期間 | 備考 |
---|---|---|
ハリハラ1世 Harihara I | 1336 - 1356年 | トゥグルク朝の家臣、サンガマ朝の創始者 |
ブッカ1世 Bukka I | 1356 - 1377年 | トゥグルク朝の家臣、ハリハラ1世の弟 |
ハリハラ2世 Harihara II | 1377 - 1404年 | ブッカ1世の息子 |
ヴィルーパークシャ1世 Virupaksha I | 1404 - 1405年 | ハリハラ2世の息子 |
ブッカ2世 Bukka II | 1405 - 1406年 | ハリハラ2世の息子、ヴィルーパークシャ1世の弟 |
デーヴァ・ラーヤ1世 Deva Raya I | 1406 - 1422年 | ハリハラ2世の息子、ヴィルーパークシャ1世、ブッカ2世の弟 |
ブッカ3世 Bukka III | 1422 - 1424年 | デーヴァ・ラーヤ1世の息子、息子デーヴァ・ラーヤ2世と共同統治 |
デーヴァ・ラーヤ2世 Deva Raya II | 1422 - 1446年 | ブッカ3世の息子 |
デーヴァ・ラーヤ3世 Deva Raya III | 1446 - 1465年 | デーヴァ・ラーヤ2世の息子 |
ヴィルーパークシャ2世 Virupaksha II | 1465 - 1485年 | デーヴァ・ラーヤ3世の従兄弟 |
プラウダ・ラーヤ Praudha Raya | 1485 - 1486年 | ヴィルーパークシャ2世の息子 |
王 | 在位期間 | 備考 |
---|---|---|
サールヴァ・ナラシンハ1世 Saluva Narasimha I | 1486 - 1491年 | サンガマ朝の家臣、サールヴァ朝の創始者 |
ナラシンハ2世 Narasimha II | 1491 - 1505年 | サールヴァ・ナラシンハ1世の息子 |
王 | 在位期間 | 備考 |
---|---|---|
ヴィーラ・ナラシンハ3世 Vira Narasimha III | 1505 - 1509年 | サールヴァ朝の家臣、トゥルヴァ朝の創始者 |
クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ Krishna Deva Raya | 1509 - 1529年 | ヴィーラ・ナラシンハ3世の弟 |
アチュタ・デーヴァ・ラーヤ Achyuta Deva Raya | 1529 - 1542年 | ヴィーラ・ナラシンハ3世、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤの弟 |
ヴェンカタ1世 Venkata I | 1542年 | アテュタ・デーヴァ・ラーヤの息子 |
サダーシヴァ・ラーヤ Sadasiva Raya | 1542 - 1569年 | ヴェンカタ1世の従兄弟 |
王 | 在位期間 | 備考 |
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ティルマラ・デーヴァ・ラーヤ Tirumala Deva Raya | 1569 - 1572年 | トゥルヴァ朝の家臣、アーラヴィードゥ朝の創始者 |
シュリーランガ1世 Sriranga I | 1572 - 1586年 | ティルマラ・デーヴァ・ラーヤの息子 |
ヴェンカタ2世 Venkata II | 1586 - 1614年 | ティルマラ・デーヴァ・ラーヤの息子、シュリーランガ1世の弟 |
シュリーランガ2世 Sriranga II | 1614年 | ヴェンカタ2世の甥 |
ジャッガ・ラーヤ Jagga Raya | 1614 - 1617年 | ヴェンカタ2世の息子 |
ラーマ・デーヴァ・ラーヤ Rama Deva Raya | 1617 - 1630年 | シュリーランガ2世の息子 |
ヴェンカタ3世 Venkata III | 1630 - 1642年 | ラーマ・ラーヤの孫 |
シュリーランガ3世 Sriranga III | 1642 - 1649年 | ヴェンカタ3世の甥 |
脚注
参考文献
- 辛島昇 「ヴィジャヤナガルの政治と社会」『岩波講座世界歴史13』(中世7)所収、1971年。
- サティーシュ・チャンドラ 『中世インドの歴史』 小名康之・長島弘訳、山川出版社、1999年、ISBN 463467260X。
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- ↑ ただし、アーラヴィードゥ朝は、ペヌコンダ、チャンドラギリ、ヴェールールに首都をおいたために除く場合もある