ゲイリー・ムーア
テンプレート:出典の明記 テンプレート:Infobox Musician ゲイリー・ムーア(Robert William Gary Moore, 1952年4月4日 - 2011年2月6日[1])は、北アイルランド出身のロック・ギタリスト、歌手、作曲家。1974年のシン・リジィ参加でメジャーになり、以降1980年代はヘヴィメタル、フュージョン等を中心に、1990年代以降はブルースを軸に活躍。
目次
略歴
ベルファストに生まれる。父親は地元で有名なプロモーターでクラブの経営などに携わっていた。
小学生の頃ピアノを習い始めるが教師と合わず挫折。10歳の頃にギターを始める。当初はシャドウズのコピーに明け暮れるが、やがてジェフ・ベック、エリック・クラプトン、さらにジミ・ヘンドリックスなどの影響を受け始める。特にピーター・グリーンからは強い衝撃を受け、プロギタリストになる決意を固める。
スキッド・ロウ時代
1966年、The Beat Boysなるグループで、父親の経営するクラブにレギュラー出演する。当時14歳。
1968年、交通事故で演奏ができなくなったギタリストの代役として、ベルファストのアマチュア・グループ、ザ・メソッドに加入。ダブリンをツアー中に、ビートニク・シンガー、ブラッシュ・シールズに誘われスキッド・ロウに加入。当時のメンバーはブレンダン "ブラッシュ" シールズ、ノエル・ブリッヂマン、フィル・ライノット、ムーア。
1969年、スキッド・ロウはアイルランドのソング・ラベルから、フィル・ライノットをボーカルに据えたシングル "New Places, Old Faces"/"Misdemeanour Dream Felicity" でメジャー・デビュー。ムーアが作曲した "Misdemeanour Dream Felicity" が彼のキャリアにおいて最初のシングルとなる。フィル・ライノットを解雇後、フリートウッド・マックの前座を務めた際にピーター・グリーンに気に入られ、フリートウッド・マックを手掛けていたクリフ・ディヴィスにCBSとの契約を勧められる(1983年発売された "DUBLIN GAS COMY. COOKER&METER FACTORY" はその時のデモ・テイクである)。
1970年、「キング・クリムゾンへのアイルランドからの回答」として売り出されたスキッド・ロウは、アルバム『SKID』をリリースする。アメリカツアーも2回敢行、2度目のアメリカ・ツアーではフィルモアにも出演、グレイトフル・デッドのオープニング・アクトの他、オールマン・ブラザーズ・バンドのツアーのサポートも行なう。
1971年夏、34時間でレコーディングされたセカンド・アルバム『34 Hours』リリース。ヨーロッパへのツアー、3作目のアルバムを録音後、同年秋スキッド・ロウを脱退。
1972年、ロンドンでザ・ゲイリー・ムーア・バンド (The Gary Moore Band) を結成、1973年5月、初のリーダー・アルバム『グライディング・ストーン』をCBSからリリースするもセールスには恵まれずグループは自然消滅。
シン・リジィ参加
1974年1月、スキッド・ロウ時代の旧友フィル・ライノットに乞われて数ヶ月間、ギターリストのエリック・ベルの代役としてシン・リジィの活動を行う。また3月には、グループのデッカ・レーベルでの最終レコーディングとなるシングル "Little Darlin/Sitamoia" の制作にも参加する。
在籍中のライブでは既にグループの次作 "Night Life" の収録曲 "Still in Love With You","Showdown","It's Only Money" などを演奏しており、4作目のデモ・レコーディングも残した。なお、シン・リジィが新たに契約したヴァーティゴ・レーベルのアルバム "Night Life" では "Still in Love With You" 1曲のみ「ゲスト・ギタリスト」としてのみクレッジットされている。
同年5月、コロシアムのドラマー、ジョン・ハイズマンとともに新たなバンドを結成すべく人選を開始。ドン・エイリー、ニール・マーレイ、ジョン・モールらとともにジャズ・ロック・バンドコロシアムIIを結成し、1976年から1977年にかけて3枚のアルバムを残す。
1977年1月、再び、ブライアン・ロバートソンの代役として、シン・リジィに参加、クイーンとのアメリカ・ツアーに同行する。
1978年8月、シン・リジィに正式加入、コロシアムIIに在籍したまま、ソロ名義でMCAと契約し、9月、初のソロ名義作品『バック・オン・ザ・ストリーツ (Back on The Streets)』をリリース、UK・アルバム・チャートで70位を記録する。自作のインストゥルメンタル曲の他、ライノットとの共作曲を収録。なかでもピーター・グリーンから譲り受けたギブソン・レスポール・スタンダード(1959)による演奏が印象的な「パリの散歩道 (Parisienne Walkways)」はUKシングル・チャート8位(最高位)を記録する。12月、シン・リジィ、『ブラック・ローズ (Black Rose)』のレコーディング開始する。
1979年2月、『ブラック・ローズ (Black Rose)』リリース。 7月4日、US・ツアー中にマネージメントに嫌気をさしてグループを離脱、ロサンゼルスにて元ディープ・パープルのグレン・ヒューズと、シン・リジィのサポートを務めたことのあるマーク・ノーシーフとで活動を開始する。
日本でのブレイクまで
同年9月MCA最後のシングル「Spanish Guitar」をリリース。
グレン・ヒューズとのグループは頓挫したものの、元CBSのディレクター、ドン・アーデン(シャロン・オズボーンの父親)が立ち上げたレーベル、ジェット・レコードと契約。「スーパー・ギタリストの新グループ」名目のもと、複雑なリズムを多用したバンド、G-Forceを結成。メンバーはマーク・ノーシーフ(元エルフ、イアン・ギラン・バンド)、トニー・ニュートン(アラン・ホールズワースの在籍したニュー・トニー・ウィリアムス・ライフ・タイムのベーシスト)、シンガーのウィリー・ディ(ウィリー・ダファーン)(キャプテン・ビヨンド)。
1980年5月、イギリスでアルバム『G-Force』をリリース。同年6月、ホワイトスネイクのサポート・アクトとしてイギリス・ツアーを行うが、グループ活動は旨く行かずに停止させる。アルバムはアメリカン・パワー・ポップ風なサウンドを狙ったが、アメリカ国内での配給先を決定する前に、この1枚でG-Forceは解散、予定していた8月のレディング・フェスティバルへの出演をキャンセルした。ジェット・レコードは同年11月にマーキー・クラブでライヴ・レコーディングを行う。メンバーはドン・エイリー、アンディー・パイル、ケニー・ドリスコール、そしてアメリカから招いたトミー・アルドリッジでの録音を行う。
1981年、スタジオ・アルバム制作にとドン・エイリー、ジミー・ベイン、トミー・アルドリッジ、シャーリー・ヒューンで行なったが、別の日本からのオファーによるドラム奏者、コージー・パウエルのソロ・アルバム制作を同時に行なったことが原因で、ジェット・レコードとの間の契約違反事項となりムーアのソロキャリアはしばらくの間、問題への対処のため活動を制限されることを余儀なくされた。
Jetとの契約解消のためにソロ活動を封じ、同じマネージメントに所属をしていたグレッグ・レイクのソロ・プロジェクトに参加する必要があった。レイクの復活ツアー・メンバーにムーアがバンマスを任されて、ウッドストックでジョー・コッカーの仕事をしたトミー・エイレがサポートした。ほかにテッド・マッケンナ(センセーショナル・アレックス・ハーヴェイ・バンド)、レイクが推薦したトリスタン・マーゲッツが参加。ムーアとレコーディング・メンバーはプロモーション・ツアーに同行、ムーアは楽曲を提供することで、レコーディングの報酬をえて、かねてからハード・ロック・ビジネスのマーケットに興味を持っていたサー・リチャード・ブランソンのヴァージン・レコードが裁判費用を提供してアーデンとの契約を解消1982年、これによりヴァージン・レコードと契約してイアン・ペイスを加えたバック・バンドを売りにレディング・フェスティバルに4年越しでソロ・アーティストとして登場し、同年3月録音にとりかかったレコーディングは9月、『コリドーズ・ オブ・パワー (Corridors Of Power)』(旧邦題『大いなる野望』)としてリリースして最高位UK30位を記録した。
1983年1月に初来日公演。チケットは即日完売し、追加公演も組まれた。来日メンバーはイアン・ペイス、ニール・マーレイ、ドン・エイリー、ジョン・スローマンという豪華な顔ぶれであった。プロモーションとしてテレビ朝日の人気音楽番組『ベストヒットUSA』に出演、シンコー・ミュージックから『100% Gary Moore』なる特集/スコア本も発刊された。
同年、日本公演を収めたライヴ・アルバム『ロッキン・エヴリ・ナイト (Rockin' Every Night)』が日本のみで発売された(配給は東芝EMI)。同アルバムはオリコンLPチャートで15位を記録している[2]。なお、日本での異常なまでの人気ぶりに便乗して、ジェット時代の未発表作品を、その販売権を得たソニー・レコードが『Live at Marquee』、『Dirty Fingers』として相次いでリリースしたため、1984年のワールド・ツアーを収録したライブ・アルバム『We Want MOORE!』の日本発売は見送られた。
ロック・ギタリスト期
1984年初頭、ソング・ライターのニール・カーターとの共同作業で制作された『ヴィクティムズ・オブ・ザ・フューチャー (Victims Of The Future)』をリリース、2月に初の武道館での公演を含む2度目の来日公演をおこなった。メンバーはカーターにペイス、クレイグ・グルーバー(エルフ、レインボー)。同年、イアン・ペイスはディープ・パープル再結成のためバンドを去り、7月のアメリカ・ツアーはセッション・ドラマーを起用して続行された。グルーバーはモンスターズ・オブ・ロック出演後に解雇され、1984年の冬からはボブ・デイズリーがベーシストとして参加しているが[3]、ドラマーはその都度用意された。
これを境に様々なドラマー、エレクトリック・ドラムスやプログラミング・ドラムを導入する傾向となる。そして同年、ケルト風ポップ・ソングでヒット曲を持っていたニック・カーショウを手がけたプロデューサー、ピーター・コリンズをリミックスに起用したシングル、「Empty Room」がイギリスで最高位51位を記録する。
12月、北アイルランドのベルファストのアルスター・ホールにて凱旋コンサート。アンコールでのフィル・ライノットとの共演がハイライトとなった。この演奏の模様はドキュメント・フイルム、『エメラルド・アイルス』(VHS)に収められてリリースされた。
1985年、ライノットとの共演シングル「アウト・イン・ザ・フィールズ (Out in the Fields)」をリリース。2人の共演は話題を呼び、イギリス国内で最高5位を記録するヒットとなった。9月には『ラン・フォー・カヴァー (Run For Cover)』をリリース。同月からの数公演でライノットがスペシャル・ゲストとして参加。メンバーはニール・カーター、ボブ・ディズリーにゲイリー・ファーガソン (Gary Ferguson)。10月に3度目の来日公演をおこなっている。
1987年には故郷のアイルランドを主題としたアルバム『ワイルド・フロンティア (Wild Frontier)』をリリースし、ノルウェーのアルバム・チャートで1位を記録する[4]。このアルバムは、前年に亡くなった盟友フィリップ・ライノットに捧げられた。ドラマーにはエリック・シンガーが選ばれ、同年4月、スウェーデン・ストックホルムにてドキュメント・フイルム『Live At Isstadion』(VHS)を収録。7月に来日公演。来日時にはプロモーションの一環としてフジテレビジョンの音楽番組『夜のヒットスタジオ』に出演した。
1988年初頭、前作の路線を引き継いだニュー・アルバムのレコーディングを開始。オジー・オズボーン、サイモン・フィリップス、コージー・パウエルらが参加した『アフター・ザ・ウォー (After The War)』はベルファスト合意後の1989年にリリースされた。期待されたムーアとパウエルによる来日公演はリハーサル段階で頓挫、5月にドラマーにクリス・スレイドを迎えて来日公演がおこなわれた。同月ニール・カーターとのコンビを解消する。
日本マーケットが盛んだったこの時期は、ヴァージン・レコードの日本配給先(当時)であるビクター・レコード契約の歌手浜田麻里が、ムーア作の「LOVE LOVE LOVE」(ギターは松本孝弘が演奏)を録音したり、1986年、東芝EMIからは本田美奈子に楽曲提供(「the Cross -愛の十字架-」: 原曲「クライング・イン・ザ・シャドウ (Crying In The Shadows)」は、日本ではムーア本人のレコーディングでもリリースされている)している。
ブルースへの回帰
1990年3月、ブルース・アルバム『スティル・ゴット・ザ・ブルーズ (Still Got The Blues)』をリリース。親交のあったジョージ・ハリスンの他、アメリカのブルース・ギターの名手アルバート・キング、アルバート・コリンズらがゲスト参加している。アルバムはムーアにとって、初のアメリカでのトップ200入りするゴールドを記録(全世界で300万枚)、以後ムーアは自らの音楽の軸をブルースへと回帰させた。またジョージ・ハリスンの誘いでトラヴェリング・ウィルベリーズの『トラヴェリング・ウィルベリーズ Vol.3』にも参加している。4月からミッドナイト・ブルース・バンドを編成して英国、ヨーロッパでコンサート、5月のハマースミス・オデオンでのドキュメントは『An Evening Of The Blues』というタイトルでVHS化されている。基本メンバーはアンデイ・パイル (Andy Pyle) (ベース)、グラハム・ウォーカー (Graham Walker)(ドラムス)、キーボードにはドン・エイリーやトミー・エイレ、そしてホーン・セクションに女性コーラスが参加している。
1992年、多額の制作費を注ぎ込んだ『After Hours』リリース。アルバート・コリンズ、B.B.キングがゲスト参加。同年4月、ジョージ・ハリスンのロンドン・ロイヤル・アルバート・ホール公演のサポートを担当。ジョー・ウォルシュとともにハリスンのステージにも参加。ムーアは「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」のギター・ソロを弾いている。ミッドナイト・ブルース・バンドはアメリカ、EUなどでプロモーション・ツアー。同年6月28日にはハマースミス・オデオンでミック・ジャガーと共演し、この時ライヴ録音された「Everybody Knows About My Good Thing」はジャガーのソロ・シングル「Don't Tear Me Up」に収録された[5]。
1993年6月、ワールドツアーを記録した『Blues Alive』、映像作品の『Live Blues』を発表した。
同年ジャック・ブルースとの共演後、11月にはドイツのケルンで行われたジャック・ブルースのバースデイ・コンサートに参加。元クリームのメンバーであるブルース、ジンジャー・ベイカーとの共演をきっかけに、1994年、・ベイカー、ブルース、ムーアの3人でBBMを結成(バンド名はメンバーの頭文字から取られた)。アルバム『アラウンド・ネクスト・ドリーム〜白日夢 - Around The Next Dream』をリリース。ライブを数回行った後ベイカーがグループを離れたため、ゲイリー・ハズバンドがトリオに加わった。同年、そのトリオで録音した新曲「ワン・デイ - One Day」を含む初のコンピレーション・アルバム『ベスト・オブ・ゲイリー・ムーア〜バラッズ・アンド・ブルーズ〜 - Ballads&Blues 1982-1994』がリリースされた。
1995年、ピーター・グリーンに捧げた『Blues For Greeny』をリリース。グリーンの活動再開のきっかけともなるアルバムリリース記念ライブをロンドンで行う(この様子は、1996年に"BLUES FOR GREENY LIVE"(VHS)としてリリース)。
この年ミッドナイト・ブルース・バンドを解散する。
モダン・ミュージックへのアプローチ
1997年、ドラムンベース・サウンドなどを、ゲィリー・ハズバンドやガイ・プラットらテクニシャンとテクノロジー音楽との融合を試みたニュー・アルバム『Dark Days In Paradise』を制作、リリース。本作から次作にかけて、自己のギターのトーン・コントロールとモダン・ミュージック(ダンス・ミュージック)の融合を計るアプローチや、デジタル録音機材の使用などに取り組み、ブルース・ギタリスト=古典派のイメージを払拭する。この年、ヴァージンとの契約が終了。
1999年、イギリスのキャッスル・コミュニケーション傘下のRaw Powerと契約、ゲィリー・ハズバンドとの録音による『A Different Beat』リリース。ファットボーイ・スリム(ノーマン・クック)にインスパイアされたビッグ・ビートを導入。ヘンドリックスのカバー "Fire" に挑む。7月に始まったゲィリー・ハズバンドとのフェステイヴァルでの出演をひと区切りにして、セッション・ドラマーでプライマル・スクリームのメンバーでもあるダーレン・ムーニーをUKツアーのメンバーに起用、またこの年のモントルー・ジャズ・フェスティヴァルには自己のバンドと、B.B.キングのバンドにゲスト参加している。
ブルースへの再回帰
2001年3月、『Back To The Blues』リリース。4月から数ヶ月英国、欧州のコンサートを行う。1999年からのツアーとレコーディングに参加したピート・ルイス(ベース)、ダーレン・ムーニー(ドラムス) 、ヴィク・マーティン(キーボード)が亡くなるまでの彼の主なバンドのメンバーになる。
2002年9月、突如トリオ編成のロック・バンド SCARS を編成。メンバーはダーレン・ムーニーに元スカンク・アナンシーのキャス・ルイス(ベース)。アルバム『SCARS』リリース。10月にはZZトップのサポート・アクトとしてEUでのツアーを敢行、翌2003年5月、モンスターズ・オブ・ロックUKツアー2003に参加(メインアクトはホワイトスネイク)、レディングでの公演はレコーディングされて映像作品になったが、ツアー後半怪我を理由にキャンセル。7月頃、SCARSは活動停止する。
2004年6月には再び個人名義によるソロ作品『Power Of Blues』リリース。旧知のボブ・デイズリーを加えたバンドと数回のギグを行ったのみで、予定されていたヨーロッパでのフェスティバル出演はほぼキャンセルされた。9月24日にはフェンダー・ストラトキャスターの生誕50年を祝う『The Strat Pack: Live in Concert』に客演してピノ・パラディーノとともにジミ・ヘンドリックスの「Red House」を演奏した。
2005年8月20日、フィル・ライノットの故郷ダブリンにライノットの銅像が立てられることを記念して行われたコンサートに元シン・リジィのメンバーと共にゲイリー・ムーア・アンド・フレンズとして出演し映像作品としてリリースされた。この年はほぼライヴ活動を行っていない。
2006年4月、B.B.キングのファイナルUKツアーをサポートしたほか、リズム・アンド・ブルース、ブルー・アイド・ソウル的な作品『Old New Ballads Blues』をリリースし、数年ぶりのコンサート・ツアーをおこなった。 同年8月12日に行われたチャリティ・コンサート『Vibes from the Vines』では Mo Foster、Gary Husband らとともに出演。
2007年、オーティス・ティラーの作品 "Definition of a Circle" に参加。2月にはラジオ番組 "Blues Power, with Gary Moore" で司会を務め、4月には北アイルランドでコンサートを2回行った。5月には25作目にあたるアルバム『Close As You Get』をリリース。レコーディングにも参加した元シン・リジィのドラマーであるブライアン・ダウニーが参加してヨーロッパ・ツアーを行った。10月にはダーレン・ムーニーらとともに『Tribute To Jimi Hendrix』でヘンドリックスの楽曲のみを演奏、ビリー・コックス、ミッチ・ミッチェルと共演した。この様子は2012年映像作品としてDVD、Blueray作品として公開された。
2008年7月7日、モントルー・ジャズ・フェスティバルにてジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズのステージにゲスト出演した。この模様はBSジャパンで放映された。
2008年9月最新作『Bad For You Baby』をリリース。
2010年4月、21年振りの来日公演が東京、名古屋、大阪で行われた。夏のヨーロッパでのフェスティヴァル・ツアーはニール・カーター、ピート・ルイス、ダーレン・ムーニーらによって1980年代の楽曲が演奏され、ロシア東北部のウラジオストクまでのツアーが組み込まれた。ロシア公演中に、「どうして、イスラエル公演がおこなわれないのですか?」という質問に対して。ムーアは「イスラエルによるパレスチナへの弾圧があるから」と応えて断った。
2011年2月6日、休暇先のスペイン(アンダルシア州マラガ県の都市エステポナ)にて心臓発作で急逝[6]。2月23日15年間暮らしていたブライトンで葬式が行われた。亡骸はミュージシャンである息子のジャック・ムーアが「ダニー・ボーイ」を演奏して葬送された。
演奏スタイル
演奏スタイルはブルースをベースに、コロシアムII時代に培われたジャズ、フュージョンのほかクラシカルなフィーリングも加わり、驚異の速さ、正確さを兼ね備えている。影響を受けたギタリスト達のスタイルをそのまま再現できる腕前から“巧すぎるギタリスト”、またマシンガンのようなピッキングによる速弾きから“ギタークレイジー”と形容されていたが、彼の魅力が最も発揮されるのはバラードにおける泣きのギターであろう。ギターを泣かせることにおいては最高峰のひとりに挙げられ、時代や流行に左右されない頑固一徹ぶりもあり、ジャーナリストの伊藤政則からは“人間国宝”と形容されている。1990年代にブルースに移行してからは、ハード・ロック時代に聴かせた速弾きを比較的抑えるようになったが、時折マシンガン・ピッキングが出てしまうこともあった。
影響を受けたギタリストはジェフ・ベック、ピーター・グリーン、エリック・クラプトン、ジミ・ヘンドリックスなど。ブルース時期以降〜はオーティス・ラッシュの楽曲へのアプローチが顕著に見受けられる。
Discography
- 1969年 DUBLIN GAS COMY. COOKER&METER FACTORY/SKID ROW(83年発売)
- 1970年 SKID/SKID ROW
- 1971年 34 HOURS/SKID ROW
- 1971年 GARY MOORE BRUSH SHIELS NOEL BRIDGEMAN/SKID ROW(90年発売)
- 1971年 LIVE AND ON SONG(1969 & 1971 LIVE)/SKID ROW(06年発売)
- 1973年 GRINDING STONE/GARY MOORE BAND
- 1974年 NIGHT LIFE/THIN LIZZY
- 1976年 STRANGE NEW FLESH/COLOSSEUMⅡ
- 1977年 ELECTRIC SAVEGE/COLOSSEUMⅡ
- 1977年 WAR DANCE/COLOSSEUMⅡ
- 1978年 BACK ON THE STREETS/GARY MOORE
- 1979年 BLACK ROSE/THIN LIZZY
- 1980年 G-FORCE/G-FORCE
- 1981年 GREG LAKE/GREG LAKE
- 1982年 CORRIDORS OF POWER/GARY MOORE
- 1983年 DIRTY FINGERS/GARY MOORE
- 1983年 MANOEUVERS/GREG LAKE
- 1984年 VICTIMS OF THE FUTURE/GARY MOORE
- 1985年 RUN FOR COVER/GARY MOORE
- 1987年 WILD FRONTIER/GARY MOORE
- 1989年 AFTER THE WAR/GARY MOORE
- 1990年 STILL GOT THE BLUES/GARY MOORE
- 1992年 AFTER HOURS/GARY MOORE
- 1994年 AROUND NEXT DREAM/BBM
- 1995年 BLUES FOR GREENY/GARY MOORE
- 1997年 DARK DAYS IN PARADISE/GARY MOORE
- 1999年 A DIFFERENT BEAT/GARY MOORE
- 2001年 BACK TO THE BLUES/GARY MOORE
- 2002年 SCARS/SCARS
- 2004年 POWER TO THE BLUES/GARY MOORE
- 2006年 OLD NEW BALLADS BLUES/GARY MOORE
- 2007年 CLOSE AS YOU GET/GARY MOORE
- 2008年 BAD FOR YOU BABY/GARY MOORE
- 2013年 BACK ON THE STREETS(Expanded Edition)) /GARY MOORE
LIVE ALBUM
- 1983年 LIVE AT THE MARQUEE/GARY MOORE
- 1983年 ROCKIN’ EVERY NIGHT LIVE IN JAPAN/GARY MOORE
- 1984年 WE WANT MOORE!/GARY MOORE
- 1993年 BLUES ALIVE/GARY MOORE
- 1995年 IN CONSERT/GREG LAKE
- 2003年 LIVE AT MONSTERS OF ROCK/GARY MOORE
- 2009年 ESSENTIAL MONTREUX/GARY MOORE
- 2011年 Live At Montreux 1990/GARY MOORE
- 2011年 Live At Montreux 1995/GARY MOORE
- 2011年 Live At Montreux 2010/GARY MOORE
- 2012年 Blues For Jimi/GARY MOORE
BEST ALBUM
- 1981年 MORE CRAZY/GARY MOORE
- 1982年 GUITAR CRAZY/GARY MOORE
- 1992年 SPANISH GUITAR-BEST/GARY MOORE
- 1994年 BALLADS&BLUES 1982-1994/GARY MOORE
- 1998年 OUT IN THE FIELDS THE VERY BSET OF/GARY MOORE
- 1999年 BLOOD OF EMERALDS THE VERY BEST OF PART2/GARY MOORE
- 1998年 COLLECTION/GARY MOORE
- 1998年 BEST/GARY MOORE
- 1998年 THE GREATEST/GARY MOORE
- 2002年 THE BEST OF THE BLUES/GARY MOORE
- 2003年 THE ESSENTIAL GARY MOORE/GARY MOORE
- 2003年 PARISIENNE WALKWAY-THE BLUES COLLECTION/GARY MOORE
- 2003年 BLUES COLLECTION/ROCK COLLECTION/GARY MOORE
- 2006年 THE PLATINUM COLLECTION(3CD)/GARY MOORE
- 2011年 BALLADS&BLUES 1982-1994(CD+DVD)/GARY MOORE
- 2011年 ゲイリー・ムーア・メモリアル・コレクション/GARY MOORE
VIDEO&DVD
- 1984年 THE BOYS ARE BACK IN TOWN/THIN LIZZY
- 1985年 EMERALD AISLES・LIVE IN IRELAND/GARY MOORE
- 1987年 WILD FRONTIER TOUR・LIVE AT ISSTADION STOCKHOLM/GARY MOORE
- 1990年 AN EVENING OF THE BLUES/GARY MOORE
- 1991年 THE VERY BEST OF THIN LIZZY DEDICATION/THIN LIZZY
- 1993年 LIVE BLUES/GARY MOORE
- 1994年 BALLADS&BLUES 1982-1994/GARY MOORE
- 1996年 BLUES FOR GREENY LIVE/GARY MOORE
- 2004年 LIVE AT MONSTERS OF ROCK/GARY MOORE
- 2005年 LIVE AT MONTREUX 1990/GARY MOORE&THE MIDNIGHT BLUES
- 2006年 One Night In Dublin - A Tribute To Phil Lynott
- 2007年 The Definitive Montreux Collection/GARY MOORE
- 2011年 Live At Montreux 2010/GARY MOORE
- 2012年 Blues For Jimi/GARY MOORE
他のアーティストによるカバー
- ナイトウィッシュ - オーヴァー・ザ・ヒルズ・アンド・ファー・アウェイ (望郷の果て)
- 柴田直人 - Over The Hill and Far Away
- ダーク・アット・ドーン(Dark at Dawn) - Out in The Fields
- ソナタ・アークティカ - Out in The Fields
- ライオット - Out in The Fields
- マイケル・シェンカー・グループ - Out in The Fields
- エリック・クラプトン - Still Got The Blues
来日公演
- 1983年
- 1984年
- 1985年
- 1987年
- 1989年
- 2010年(21年ぶり)
使用機材
- フェンダー・ストラトキャスター(1960 - 1961年製・シリアルNo50,000番台)
- 『We want Moore!』の頃にメインで使用されていた、サーモンピンクのストラトキャスター。グレッグ・レイクのバンドにいた時にレイクのために購入したが、傷がついていることを嫌ったレイクが購入を断ったためムーアのものになった。実は、ムーア本人はこのギターを買った時点から気に入っており、レイクが買わなかったことで内心ほっとしたとの噂。
- ギブソン・レスポール・スタンダード(1959年製・シリアルNo9-2***)
- ピーター・グリーンから譲り受けたもの[7]。「パリの散歩道」での演奏が有名。ピーター・グリーンのトリビュート・アルバムである「ブルース・フォー・グリーニー」はこのレスポールで録音されている。また、1990年代にネックを破損した(リペア済み)とされる。フロント・ピックアップの向きが上下反転しているのが特徴で、入手時に既にマグネットが逆さまに装着されていた。従ってセンター・ポジションではフェイズアウトの出力となる。リア・ピックアップのエスカッション周辺に塗装の剥落あり。2006年3月、様々な事情が絡んでMaverick Musicに売却された模様。
- ギブソン・レスポール(1959年製)
- 上記のレスポールのスペアとして1989年に手に入れたもの。ピックガードは外されている。ピックアップはオリジナルのPAF。上記のレスポールとはシリアルが19番しか違わず、運命的なものを感じたとか。『スティル・ゴット・ザ・ブルース』の録音でメインに使用され、本人は“スティル・ゴット・ザ・ブルース・レスポール”と呼び、かなり気に入っているとのこと。1990年代以降メインで使われている。
- ヘリテイジギターズ150
- 「アフター・ザ・ウォー・ツアー」でメインギターとして使用。フロントにPJマークス、リアにはEMG85が搭載されていたという説と、EMG81が搭載されていたという説がある。トップは虎杢。テイルピースはストップ・テイルピースとは微妙に形状が異なっている。[8]
- ギブソン・シグネイチャー・モデル・レスポール
- ギブソン社が、レス・ポール本人以外に最初にシグネイチャー・モデルのレスポールを製作したのが、ゲイリー・ムーアである。
- ジャクソン・ソロイスト
- 1989年の「アフター・ザ・ウォー・ツアー」の時期に使用。ディンキー・ストラト・ボディで色は白。ピックガードはない。黒いフロイド・ローズ・ユニットが搭載されていた。ボディはポプラ、ネックはメイプル、指板はエボニーでスルーネック構造。ピックアップのレイアウトはSSHとHの2種類。リア位置に搭載されていたのはEMGの85。フロントとミドルは、ジャクソン・ブランドのシングルコイル。「The Loner」のプロモーション・ビデオにも登場している。
- ヘリテイジギターズH-140CM
- 同じく「アフター・ザ・ウォー・ツアー」で予備機として使用。トップは虎杢のレッド・サンバースト。テイルピースはファインチューナー付き。
- シャーベル・ストラトキャスター型
- 「アフター・ザ・ウォー・ツアー」のもう1本のメインギター。ボディとピックガードは白。ネックはジャクソン製のものに換装。ヘッドストックはストラトキャスター型でバータイプのストリングガイドとロトマチック・タイプの糸巻きを装着。22フレットのメイプルネックにローズウッド指板。クロームメッキのフロイド・ローズ・トレモロユニット、1ヴォリューム、アウトプットはボディサイド。ピックアップはEMG58。
- タカミネEF345
- タカミネの輸出用モデル。
- フェンダー・テレキャスター
- 1963年製のバタースコッチ色のボディに新作のネックを装着。新作ネックはメイプル材+ローズウッド指板の21フレット。ピックガードは黒の1プライ。ピックアップやブリッジはオリジナルのまま。主にスライドギター用。
- タカミネPTS-015
- シングル・カッタウェイのエレアコ。スプルース・トップ、アジアン・ローズウッドのサイド&バック。ネックはマホガニーで指板はエボニー。
上記の他にヘイマー、ポール・リード・スミス、アイバニーズなどのギターを使用していた時期もあった。最近は、ギブソン・エクスプローラーや自身のシグネイチャーモデルを使用することが多い。
エフェクター
エフェクターは年代ごとに変えているが、ローランドのテープ・エコーRE-201やアイバニーズのチューブ・スクリーマーTS10(オーバードライブ)は長年に渡り愛用している。その他、ボスのDS-1、マーシャルのガヴァナー、ヴォックスやジム・ダンロップのワウ・ペダルなども有名である。
参考までに1989年の「アフター・ザ・ウォー・ツアー」時のエフェクツを以下に示す。
- ラックマウント
- ヤマハSPX50D、アレシスQuadraverb、ローランドSDE3000(2台)、アレシスMidi-Verb2、ローランド・ディメンションD、ローランド・SDD-320、ローランド・SRE555
アンプ
アンプは、基本的にマーシャルを使用。ツアーでは出先でレンタルすることもある。
エピソード
- 彼が所有するピンクのフェンダー・ストラトキャスターが一度盗まれた事がある。本人はかなり心配していたようだが、ある日突然ヒューストンの空港で、しかも駐機していた飛行機の中から発見された。本人曰く「俺がCIAや国際警察にこのギターの捜査を依頼したから、犯人がビビッて置いて行ったんじゃないかな」とのこと。
- ムーアの命日である没後の2014年2月6日、ソチ五輪で日本のフィギュアスケート選手である羽生結弦がショートプログラムでムーアの「パリの散歩道」を使用した事から日本で話題を集め、レコード会社に問い合わせが殺到する事態を引き起こした[9]。また、着うたランキングでも1位を獲得している[10]。また、当日にテレビ観戦していたデイヴィッド・カヴァデールは羽生がムーアの楽曲を使用して演じた事を高く評価している[11]。
脚注
- ↑ http://www.bbc.co.uk/news/uk-northern-ireland-12377862
- ↑ 『オリコンチャート・ブックLP編(昭和45年‐平成1年)』(オリジナルコンフィデンス/1990年/ISBN 4-87131-025-6)p.136
- ↑ Biography | Bob Daisley - 2014年3月1日閲覧
- ↑ norwegiancharts.com - Gary Moore - Wild Frontier - 2014年2月25日閲覧
- ↑ Mick Jagger - Don't Tear Me Up (CD) at Discogs - 2014年2月25日閲覧
- ↑ 公式サイト
- ↑ グリーンから数日間貸し出された後で「買わないか?」と持ちかけられた。ムーアが「欲しいけど金がない」と言うと、グリーンは「君のメインギターと交換しよう」と申し出たとか。ギブソン・SGを売って捻出した160ポンドで購入したらしい。
- ↑ 『ギター・マガジン』1989年2月号
- ↑ フィギュア羽生の使用曲効果 ゲイリー・ムーア「パリの散歩道」の問い合わせ殺到 ZAKZAK 2014年2月10日
- ↑ 羽生SP使用曲「パリの散歩道」は着うた洋楽1位 スポーツニッポン 2014年2月11日
- ↑ @davidcoverdale 2014年2月7日のツイート