オーストラリアグランプリ
テンプレート:Infobox F1 race オーストラリアグランプリ(オーストラリアGP, テンプレート:Lang-en-gb-short)はオーストラリアで行われている自動車レースで、1985年以降はF1世界選手権の1戦となっている。
1985年から1995年まではアデレードのアデレード市街地コースにて、1996年からはメルボルンのアルバートパークサーキットにて行われている。
概要
オーストラリアは元々イギリスからの移住者が多い土地柄もあり、フォーミュラカーのローカルレースが様々なサーキットで開催されていた。1928年にはフィリップ・アイランドで最初のオーストラリアGPが開催された。1957年には国内選手権 (Australian Drivers' Championship) が創設され、1964年には国内トップフォーミュラ (Australian National Formula) が制定された。
南半球のモータースポーツシーズンは北半球ではオフシーズンにあたるため、当時の世界の一流ドライバーを招き、地元のドライバーが挑戦し競争した。1960年代にはタスマンシリーズの主要なイベントとなり、ジャック・ブラバムやブルース・マクラーレン、クリス・エイモンといった地元出身のF1ドライバーがウィナーとなった。1970年以降はF5000やフォーミュラ・パシフィック、フォーミュラ・モンディアルといった国際的な車両規格を取り入れて行われた。
オーストラリアGPがF1世界選手権の一部になったのは1985年である。季節が逆転する南半球で行われるこのレースは冬を避けるため、シーズン最終戦として開催された。アデレード市街地コースはモナコのモンテカルロ市街地コースほどではないにしろ、ドライバーやギヤボックスにとって厳しく、ドライバー・チーム双方からは不評を買っていた。その一方で、市街地レースとしては抜きどころが多く、観戦ポイントが整備されているなど、観客には最も人気のあった市街地サーキットのひとつであった。また、アデレード市街地コースになってから、盛大にチェッカーフラッグを振る名物オフィシャルがいた。
1996年以降はアルバートパーク・サーキットでシーズン開幕戦として開催されている。緑樹の美しい公園内の特設コースで行われ、新シーズンの始まりを盛り上げるイベントも充実している。ただし2006年はコモンウェルスゲームズ(英連邦大会)開催の関係で、また2010年もバーレーンGPに開幕戦を譲ることとなった。
アルバートパークとの契約は2015年まで[1]結ばれているが、ここ数年開催赤字幅が拡大しており、ビクトリア州の財政支援が議会で批判されている。赤字幅拡大の理由は、市街地(公園)サーキットであるために毎年ガードレールなどの設置をする必要があること、観戦者の消費が減少していること、開催権費用が高騰していることなどである。このためフィリップ・アイランド・サーキットへの移転計画が伝えられている(ただしF1基準のサーキットではないため、開催には大幅な改修が必要となる)。
また、ヨーロッパとの時差の関係上、ヨーロッパでのテレビ観戦が未明になってしまうことから、バーニー・エクレストンはナイト・レース開催を要求している。2009年以降は現地時間17時スタートのトワイライトレースとして開催されているが、セーフティカー出動などにより時間が長引くと日没が迫り、視界不良になってしまうという懸念もある。
過去のレース
- 1986年
- ウィリアムズのナイジェル・マンセルとネルソン・ピケ、マクラーレンのアラン・プロストら3人が最終戦でタイトルを争った。ポイントリーダーだったマンセルはタイヤバーストによりリタイアし、ピケもタイヤ交換のためピットイン。この間にトップに立ったプロストが優勝し、逆転で2度目のチャンピオンを獲得した。
- 1987年
- 気温35度という猛暑の中行われたレースをフェラーリのゲルハルト・ベルガーが予選1位からそのまま優勝している。2位には同じくフェラーリのミケーレ・アルボレートが入り、4年ぶりの1-2フィニッシュとなった。アルボレートの前で2位でゴールしたロータスのアイルトン・セナが、レース後の車検で車両規定違反でと裁定され失格になり、失格にならなければ獲得することの出来たシリーズランキング2位を失い、同3位に終わっている。
- 1989年
- 土砂降りの雨の中、危険であるとの多くのドライバーの主張を退け強行された。そのため、強行したフォーメーションラップでは、順番がバラバラになるなど大混乱のスタートとなった。プロストはこの決定を不服としてレースを棄権している。ドライバーの主張は間違っておらず、コース各所で接触・追突・スピンなどが多発した。その中で23位からスタートした中嶋悟がファステストラップを連発しながら前走車を次々と追い抜いた。終盤で3位走行のリカルド・パトレーゼを猛烈に攻めるがエンジントラブルが発生して抜くには至らず。しかし中嶋は4位でゴールし、この年唯一のポイントを獲得するとともにこのレースのファステストラップを記録した。優勝したのはウィリアムズのティエリー・ブーツェン、完走は全26台中たったの8台という大変なレースになった。
- 1991年
- 1989年同様大雨に見舞われ、レースは14周で中止。走行距離52.9km、25分で終了した過去最短のグランプリとなった。このレースをもって引退することを発表していた中嶋にとって恵みの雨になるかと思われたが、あえなくスピン、リタイア。また、結果的にネルソン・ピケのF1最終レースともなった。
- 1992年
- ホンダの第2期活動に幕を閉じるレースとなった。このレースで見事にゲルハルト・ベルガーが優勝を飾ったが、これはホンダにとって通算71勝目で、第2期活動で最後の勝利となっている。
- 1993年
- アラン・プロストの引退レースとなった。1988年から続いたセナ・プロスト対決のラスト・レース。ポール・ポジションからスタートしたセナが優勝し、プロストが2位に入った。表彰台では長年に渡り対峙し、敵対してきた両者が握手を交わした。また、1994年に事故死したセナにとってもこれが最後の優勝となった。
- 1994年
- 1ポイント差でチャンピオンを争う、ミハエル・シューマッハとデイモン・ヒルに注目が集まる。開始直後からこの2人が他を大きく突き放して接近戦を演じる緊迫の展開となるが、36周目に両者の接触・リタイアにより、シューマッハの初のチャンピオン獲得が決定した。レースはポールポジションからスタートしたナイジェル・マンセルが制したが、これはマンセルの通算31勝目であり、最後のF1優勝となった。
- 1995年
- アデレードでの最後の開催となったこの年、決勝は上位陣が次々と脱落する展開で、優勝したデイモン・ヒルから2位のオリビエ・パニスまで実に2周半もの大差がついてしまう珍事となる。優勝者が2位以下を2周以上周回遅れにしたレースはF1史上ではこのレースだけである。
- 1996年
- ビクトリア州政府の誘致により、メルボルンのアルバートパークサーキットに開催地が変更された。この決定は論争を巻き起こした。一連の抗議は、レースが公共の公園を個人的な遊び場に変えたと主張するアルバートパーク保護グループによって組織された。レース主催者と州政府は、州への経済的利益が費用よりも大きく、レース開催のための工事によって公園の公共的な快適さが増大したと主張した。一部からの批判があったが、参加者からは市街地レースよりも安全であるとして概ね好評である。
- レースはこの年ウィリアムズからデビューのジャック・ヴィルヌーヴがデビュー戦で初ポールポジションを獲得する史上3人目となる快挙を達成、決勝も結果的にマシントラブルにより2位となるが、終盤までトップを快走した。
- 1997年
- 過去3シーズン勝利から遠ざかっていたマクラーレンがデビッド・クルサードにより、1993年の同グランプリ以来50戦ぶりの優勝を飾ることとなった。また、メルセデスエンジンも1955年のイギリスGP以来、実に42年ぶりの優勝を飾ることとなった。
- 1998年
- この年からブリヂストンタイヤを装着した、マクラーレンのミカ・ハッキネンとデビッド・クルサードが圧倒的な速さを見せレースを席巻したが、レース途中にピットとの無線のやり取りの行き違いから予定外のピットストップを行い2位に後退したハッキネンを、クルサードがホームストレート上で「チームオーダー」により先行させるという場面があった。
- 2001年
- スタート直後に発生したラルフ・シューマッハとジャック・ヴィルヌーヴのクラッシュにより吹き飛んだタイヤがフェンスの隙間を通って、ボランティアで参加していたコースマーシャル(レース運営に携わる係員)を直撃し、マーシャルは死亡した。
- 2002年
- オーストラリア出身のマーク・ウェバーがデビュー戦で大活躍。ウェバーは絶えず競争力の劣るミナルディに乗っていたが、他のチームの不運を味方につけ、5位でフィニッシュした。ウェバーとミナルディのオーナーであるオーストラリア出身のポール・ストッダートは、FIAの特別な計らいで、表彰式終了後に、2人で表彰台へ登壇して喜びを爆発させ、あっという間にモーターレース界を超えて国民的な有名人になった。
- 2009年
- 撤退したホンダからチームを受け継いだブラウンGPが衝撃的なワンツーフィニッシュを達成。コンストラクターのデビュー戦勝利は1955年のメルセデス、1977年のウルフに続く快挙となった[2]。3位でチェッカーを受けたルイス・ハミルトンは偽証を行ったとして失格処分となった。
過去の結果と開催サーキット
年 | 決勝日 | ラウンド | サーキット | 勝者 | 所属チーム | 結果 |
---|---|---|---|---|---|---|
1985 | 11月3日 | 16 | アデレード | ケケ・ロズベルグ | ウィリアムズ | 詳細 |
1986 | 10月26日 | 16 | アデレード | アラン・プロスト | マクラーレン | 詳細 |
1987 | 11月15日 | 16 | アデレード | ゲルハルト・ベルガー | フェラーリ | 詳細 |
1988 | 11月13日 | 16 | アデレード | アラン・プロスト | マクラーレン | 詳細 |
1989 | 11月5日 | 16 | アデレード | ティエリー・ブーツェン | ウィリアムズ | 詳細 |
1990 | 11月4日 | 16 | アデレード | ネルソン・ピケ | ベネトン | 詳細 |
1991 | 11月3日 | 16 | アデレード | アイルトン・セナ | マクラーレン | 詳細 |
1992 | 11月8日 | 16 | アデレード | ゲルハルト・ベルガー | マクラーレン | 詳細 |
1993 | 11月7日 | 16 | アデレード | アイルトン・セナ | マクラーレン | 詳細 |
1994 | 11月13日 | 16 | アデレード | ナイジェル・マンセル | ウィリアムズ | 詳細 |
1995 | 11月12日 | 17 | アデレード | デイモン・ヒル | ウィリアムズ | 詳細 |
1996 | 3月10日 | 1 | メルボルン | デイモン・ヒル | ウィリアムズ | 詳細 |
1997 | 3月9日 | 1 | メルボルン | デビッド・クルサード | マクラーレン | 詳細 |
1998 | 3月8日 | 1 | メルボルン | ミカ・ハッキネン | マクラーレン | 詳細 |
1999 | 3月7日 | 1 | メルボルン | エディ・アーバイン | フェラーリ | 詳細 |
2000 | 3月12日 | 1 | メルボルン | ミハエル・シューマッハ | フェラーリ | 詳細 |
2001 | 3月4日 | 1 | メルボルン | ミハエル・シューマッハ | フェラーリ | 詳細 |
2002 | 3月3日 | 1 | メルボルン | ミハエル・シューマッハ | フェラーリ | 詳細 |
2003 | 3月9日 | 1 | メルボルン | デビッド・クルサード | マクラーレン | 詳細 |
2004 | 3月7日 | 1 | メルボルン | ミハエル・シューマッハ | フェラーリ | 詳細 |
2005 | 3月6日 | 1 | メルボルン | ジャンカルロ・フィジケラ | ルノー | 詳細 |
2006 | 4月2日 | 3 | メルボルン | フェルナンド・アロンソ | ルノー | 詳細 |
2007 | 3月18日 | 1 | メルボルン | キミ・ライコネン | フェラーリ | 詳細 |
2008 | 3月16日 | 1 | メルボルン | ルイス・ハミルトン | マクラーレン | 詳細 |
2009 | 3月29日 | 1 | メルボルン | ジェンソン・バトン | ブラウン | 詳細 |
2010 | 3月28日 | 2 | メルボルン | ジェンソン・バトン | マクラーレン | 詳細 |
2011 | 3月27日 | 1 | メルボルン | セバスチャン・ベッテル | レッドブル | 詳細 |
2012 | 3月18日 | 1 | メルボルン | ジェンソン・バトン | マクラーレン | 詳細 |
2013 | 3月17日 | 1 | メルボルン | キミ・ライコネン | ロータス | 詳細 |
2014 | 3月16日 | 1 | メルボルン | ニコ・ロズベルグ | メルセデス | 詳細 |
冠スポンサー
- 三菱自動車 (1985年)
- フォスターズ・ビール (1986-1993年、2002-2006年)
- アデレード (1994年)
- EDS (1995年)
- トランスアーバン (1996年)
- カンタス航空 (1997-2001年、2010年-2012年)
- ING (2007-2009年)
- ロレックス (2013年)
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:F1選手権レース- ↑ "バーニー・エクレストン 「メルボルンとは50年契約を結んでもいい」". F1-Gate.com.(2013年1月24日)2013年6月27日閲覧。
- ↑ F1選手権開幕戦の1950年イギリスグランプリで優勝したアルファ・ロメオも記録上はデビューウィン扱いとなる。