アラン・チューリング
アラン・チューリング(Alan Mathison Turing, 1912年6月23日 - 1954年6月7日)はイギリスの数学者、論理学者、暗号解読者、計算機科学者。
目次
略歴
チャーチ=チューリングのテーゼのチューリング版として広く認識されているチューリングマシンで「アルゴリズム」と「計算」の概念を定式化し、計算機科学の発展に大きな影響を及ぼし、またコンピュータの誕生に重要な役割を果たした[1][2]。計算機科学および人工知能の父と言われている[3]。がっしりした体形で、声は甲高く、話好きで機知に富み、多少学者ぶったところがあった[4]。アスペルガー症候群を暗示する特徴の多くを示しているとの指摘もある[5]。
第二次世界大戦の間、ブレッチリー・パークにあるイギリスの暗号解読センターの政府暗号学校でドイツの暗号を解読するいくつかの手法を考案し、英国の海上補給線を脅かすドイツ海軍のUボートの暗号通信を解読する部門 (Hut 8) の責任者となった。ドイツの暗号機エニグマの設定を見つけるための機械 bombe を開発した。
戦後、イギリス国立物理学研究所 (NPL) に勤務し、プログラム内蔵式コンピュータの初期の設計のひとつACE(Automatic Computing Engine)に携わったが、実際に製作されるには至らなかった。1947年、マンチェスター大学に移ると、初期のコンピュータ Manchester Mark I のソフトウェア開発に従事[6]、数理生物学に興味を持つようになる。形態形成の化学的基礎についての論文を書き[7]、1960年代に初めて観察されたベロウソフ・ジャボチンスキー反応のような発振する化学反応の存在を予言した。
1952年、同性愛の罪で逮捕。保護観察の身となり、ホルモン療法を受ける。1954年、死去。42歳の若さであった。検死によると、青酸中毒による自殺と断定されたが、母親や一部の友人は事故だと信じていた。
2009年9月10日、インターネットでのキャンペーンに続いて、首相のゴードン・ブラウンが戦後のイギリス政府のチューリングへの仕打ちについて公式に謝罪した[8]。
生涯
出生から大学進学まで
母エセルは、イギリス領インド帝国オリッサ州チャトラプルでアラン・チューリングを妊娠[9][10]。父のジュリアス・チューリングはインド高等文官の1人で、1911年に妻エセルの妊娠を知ると、イギリス本国での養育を考えロンドンのメイダヴェールに戻り[11]、1912年6月23日にアランが誕生。生まれた病院(現在はホテル[9])にはそれを記念したブルー・プラークがある[12][13]。
父の任期が続いていたため、幼年期に両親はインドとイギリスのヘイスティングス[14]を行ったり来たりする生活を送り、アランと兄のジョンはイギリスの友人に預けられる。文字を読むことは三週間で覚え、数字に強くパズルが非常に得意だったと、幼年期に天才の片鱗を見せ始める[15]。
6歳でセント・マイケルズ学校に入学、担任教師に続き、校長もすぐに彼の才能に気づく。1926年、14歳でシャーボーン学校 に入学。登校初日がゼネスト予定日と重なったため、前日から100kmの距離を一人で自転車で行くことにして、途中で宿をとって登校。このできごとは地元紙に掲載された[16]。
シャーボーンは有名なパブリックスクールであり、その校風は古典を重視するものだったが、チューリングは主に数学と科学に才能を発揮した。校長は両親に「ふたつの学校の間で落ちこぼれないことを望みます。パブリックスクールに留まるなら、教養を身に付けねばなりません。単に科学者になるのなら、パブリックスクールに通うのは時間の無駄です」[17]という手紙を書くなど、数学と科学への興味は、シャーボーンの教師たちとは合わなかった。
このようなことがあっても、学問に対する驚くべき能力を示し、初等微分積分学も習っていない1927年にもっと難しい問題を解いていた。1928年、アルベルト・アインシュタインの書いた文章に触れた16歳でその内容を理解しただけでなく、明記されていなかったニュートン力学についてのアインシュタインの疑問を外挿したという[18]。
親友のクリストファー・モルコムに恋をしたが、シャーボーンの最終学期中、感染牛のミルクを小さいころに飲んでいたため[19]牛結核症を患って、モルコムは死去(1930年2月13日)[20]。この出来事からチューリングは無神論者になった。脳の働きなどの現象も唯物論的に解釈するようになったが[21]、心のどこかで死後の生を信じていたという[22]。
大学時代と計算可能性についての研究
数学や科学ほど古典をまじめに学ばなかったため、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジの奨学金を受けられず、第二希望のケンブリッジ大学キングス・カレッジへ進学。1931年から1934年まで学生として学び、数学で優秀な成績を修めて卒業、1935年に中心極限定理を証明した論文が認められてキングス・カレッジのフェロー(特別研究員)に選ばれた[23]。ただし、中心極限定理は1922年に Lindeberg が証明済みだったが、チューリングはその業績を知らなかった[24]。
1928年、ドイツの数学者ダフィット・ヒルベルトは「決定問題」への注目を呼びかけた。重要な論文 "On Computable Numbers, with an Application to the Entscheidungsproblem"(「計算可能数、ならびにそのヒルベルトの決定問題への応用」、1936年5月28日提出、11月12日配布)[25]で、チューリングマシンという概念を導入する事でアルゴリズムの概念を定式化し、1931年にゲーデルが発表した不完全性定理を別の形式で公式化した。
チューリングマシンは現在のコンピュータを先取りした概念で、今日から見ればコンピュータを抽象化したものであるともいえる。この論文でまず、チューリングマシンを適切に設計すれば、いかなるアルゴリズムもチューリングマシンで実行可能である事を証明した。(万能チューリングマシン。今日でいうノイマン型コンピュータの理論的背景。)そしてこの事実を使い、「与えられたアルゴリズムが有限時間で停止するか?」という問題(停止性問題)を完全解決する事は不可能である事を示し、コンピュータが実現されないうちに、コンピュータの理論的限界を示した。この証明はアロンゾ・チャーチのラムダ算法による同等の証明の直後に発表されたが、チューリングはそのことを当時知らず[26]、チューリングの論文のほうがよりわかりやすく直感的であった。チューリングのこの論文ではまた決定可能数の記述法も導かれた。成果と前後して「アルゴリズム」の概念が様々な方法で定式化されたが、それらは全て同値である事が後に示し(チャーチの提唱)「アルゴリズム」の概念に最初に定式化を与えた人物の一人であるといえる。
1936年9月から1938年7月にかけてプリンストン高等研究所においてアロンゾ・チャーチに師事し、1938年、プリンストンで博士号を得ている。博士論文[27]では、数の広がり(正の整数→負数→無理数→虚数)とその公理体系の進化に関して、それらすべてを包含する「順序数」という概念の体系を整理しようとした。その中でチューリング還元の概念を提案している。純粋数学とは別に暗号理論もここで学び、電気機械式乗算器も試作している[28]。またこの時期、ジョン・フォン・ノイマンも同じくプリンストンにおり、二人は親交があったと言われている。ノイマンはアメリカに残ることを勧めたという。
1939年にケンブリッジに戻ると、ウィトゲンシュタインの数学基礎論という講義に参加[29]。ウィトゲンシュタインの数学批判(数学は絶対的真実を発見するのではなく、発明している)に対して、形式主義を擁護する立場を取った[30]。
暗号解読
第二次世界大戦中、チューリングはブレッチリー・パークでドイツの暗号を解読する仕事をしていた。歴史家で自らも戦時中に暗号解読に従事していたテンプレート:仮リンクは次のように述べている。 テンプレート:Quote
第二次世界大戦に先立つ1938年9月から、イギリスにおける暗号解読組織である政府暗号学校 (GCCS) でパートタイムで働き始める。そこでテンプレート:仮リンクと共にエニグマの解読に集中した[31]。その少し前の1939年7月、ポーランドの暗号局 (en) とイギリスおよびフランスの関係者がワルシャワで会合し、ポーランドが解明したエニグマのローター回路についての情報を得ていた。チューリングとノックスはその情報を元にして問題にアプローチしようとしていた[32]。ポーランドの解読法は不安定なもので、ドイツ側がいつでも変更可能だった。実際1940年5月に変更されている。チューリングの方法はもっと汎用的でクリブ式暗号解読全般に使えるもので、最初の bombe の機能仕様に盛り込まれていた。
1939年9月4日、イギリスがドイツに宣戦布告した翌日、GCCSの戦時中の基地となっていたブレッチリー・パークに出頭した[33]。bombe の仕様は戦時中の暗号解読でチューリングが成し遂げた5つの成果のうち最初の1つである。他には、ドイツ海軍が使っていたインジケーター手続きの推測、Banburismus と名付けた bombe の効率を上げる統計的手法の開発、Turingery と名付けた Lorenz SZ 40/42 (Tunny) のホイール群のカム設定を明らかにする手続きの開発、そして終戦間近に開発した音声信号スクランブラー Delilah である。
ブレッチリー・パークでは変人で通っていた。同僚は彼を 'Prof' と呼び、 エニグマに関する論文は 'The Prof's Book' と呼ばれていた[34][35]。同僚の暗号解読者テンプレート:仮リンクはチューリングについて次のように述べている。
6月の第1週には毎年花粉症に悩まされるので、彼は花粉を吸わないようガスマスクをして自転車でオフィスに通っていた。自転車は故障していて、定期的にチェーンが外れていた。それを修理してもらう代わりに、ペダルをこいだ回数を数えて、危なくなると一旦降りてチェーンを調整していた。もうひとつの変人ぶりとして、マグカップが盗まれるのを防ぐために、それをラジエータパイプに鎖で繋いでいた。[36]
ブレッチリーで働いていたころ、ロンドンで重要な会議に出席しなければならないとき、長距離走が得意だったチューリングは約 64km を走ったという[37]。タイムは世界レベルのマラソン記録に匹敵していたという[38]。
1945年、戦時中の功績によりOBEを授与されたが、その後1970年代までその業績は秘密にされ、近しい友人すらそのことを知らなかった。その功績の大きさにもかかわらず、暗号という重要な機密事項を扱う仕事柄ゆえにブレッチレイ・パークから一歩外に出ればチューリングの仕事を知る者は誰一人いなかった。それは家族すら例外ではなく、母親に一度だけ「軍関係の研究をしている」と話した際には、政府の仕事に携わっていながら身なりに気を払わない息子に彼女は却って落胆するばかりであったという。戦後もブレッチリー・パークに関係する事柄は引き続き機密とされ、チューリングが同性愛者として罰せられてからはその功績を知らない世間から公然と辱めを受けることとなる(後述)。
チューリングとウェルチマンの bombe
ブレッチリー・パークに到着して数週間後[33]、ポーランドの bomba kryptologiczna よりも効率的にエニグマの暗号を解読する電気機械式の装置の仕様を生み出し、ポーランドの bomba にちなんで bombe と名付けた。数学者テンプレート:仮リンクの示唆によって改良した bombe は、エニグマの暗号解読の主要な自動化ツールとなった。
ジャック・グッドは次のように述べている。
チューリングの最も重要な貢献は、私が思うに暗号解読機 bombe の設計だ。彼はあなたも使えるアイデアを持っていた。要するにやや不合理な訓練されていない耳でも聞き分けられる論理的理論で、全てを推論できる。[39]
bombe はエニグマの暗号文で使われたと考えられる正しい設定(ローターの順序、ローターの設定、プラグボードの設定など)を、適当なクリブ(平文に存在が推定される単語やフレーズ)を使って探索する。ローターの考えられる設定(組み合わせのオーダーは 1019、4ローターのUボート版では 1022)ごとに[40]、bombe はクリブに基づいた一連の推論を電気的に行う。bombe は矛盾が生じるとそれを検出し、その設定を除外し、次の設定を調べる。ほとんどの設定は矛盾を生じるので除外でき、詳細に調べるべき少数の設定だけが残る。最初の bombe は1940年3月18日に実装された[41]。終戦のころには200台以上の bombe が使われていた[42]。
Hut 8 と海軍のエニグマ
チューリングは「他の誰もそれに取り組まず、自分ならやれるかもしれない」と思い、ドイツ海軍のエニグマの解読というさらに難しい問題に取り組むことを決めた[44]。1939年12月、海軍のエニグマのインジケーターシステムの基本部分を解明。海軍以外が使っているインジケーターシステムよりも複雑だった[44][45]。そしてある夜、Banburismus のアイデアを思いつく。これは逐次的かつ統計的な技法で(後にエイブラハム・ウォールドは sequential analysis と呼んだ)、海軍版エニグマの暗号解読を助けるものだった。「私はそれが現場でうまく機能するか確信を持てず、何日かかけて具体化してやっと確信した」[44] このために彼は証拠を重み付けするための測度を考案し、それを Ban と呼んだ。Banburismus はエニグマの特定のローターの並びを除外することができ、bombe の設定をテストする時間を大幅に減らすことに寄与した。
1941年、チューリングは Hut 8 の同僚で数学者・暗号解読者のジョーン・クラークに結婚を申し込んだが、婚約期間は短かった。同性愛者であることをフィアンセに告白しても、彼女は動じなかったといわれているが、チューリングのほうがこのまま結婚はできないと別れることを決心した[46]。
1942年11月には暗号に関する情報交換の一環としてアメリカを訪れ[47]、ワシントンでアメリカ海軍の暗号解読者に海軍版エニグマと bombe の構造について伝授し、英米間の盗聴不可能な音声通信手段としてベル研究所で当時開発中だった秘話装置SIGSALYの情報提供を受け暗号化方式の安全性についての評価作業を行った[48]。ベル研究所では同じようにSIGSALYの評価を行っていたシャノンにも会っている。1943年3月、ブレッチリー・パークに戻る。この間に Hut 8 の責任者がヒュー・アレクサンダーに変わり、チューリング自身は部門の日常業務の運営に興味を持たなくなっていたため、ブレッチリー・パークの暗号解読コンサルタントのような立場となった。
アレクサンダーは次のように書いている。
チューリングの仕事が Hut 8 の成功の最大の要因であることは誰もがわかっていた。当初、暗号解読者としては彼だけがこの問題に取り組む価値があると考え、彼1人ではないものの Hut における理論的成果の最大の功績者であり、彼に次いでウェルチマンとキーンが bombe の発明に貢献した。全員が不可欠だったというのは難しいが、Hut 8 で誰が一番不可欠だったかといえば、それはチューリングだ。経験と日常がすべてを簡単なように見せるので、先駆者の業績は忘れられがちだが、Hut 8 の多くの者がチューリングの功績の大きさが外の世界に完全に伝わることは決してないだろうと感じていた。[49]
Turingery
1942年、チューリングは Turingery(冗談で Turingismus とも)と名付けた技法を考案[50]。ドイツが新たに開発した暗号生成ローターつきのテレタイプ端末で生成されるローレンツ暗号を解読するための技法である。この暗号機械をブレッチリー・パークでは Tunny と呼んでいた。Turingery は Tunny のホイール群のカム設定を解明する手続きである[51]。彼は Tunny のチームにトミー・フラワーズを紹介し、フラワーズがマックス・ニューマンの指導下で世界初のプログラム可能な電子式デジタル計算機 Colossus を構築することになった。Colossus は当時としては極めて高性能で、総当り的な統計的暗号解読技法を適用しても十分な性能を発揮した[52]。なお、チューリングがColossusの設計に重要な役割を果たしたと間違って主張している文献などがある。Turingery と Banburismus の統計的暗号解読法は間違いなくローレンツ暗号の解読技術に影響を与えているが[53]、チューリング自身がColossus開発に直接関与した事実はない[54]。
秘話装置 Delilah
アメリカのベル研究所で提供を受けたSIGSALYの情報を元に[55]、よりシンプルな形で電話の音声信号を電子的に暗号化するというアイデアを追求し、戦時中の後半はハンスロープ・パークにあるイギリス情報局秘密情報部のラジオセキュリティサービス(後のHMGCC)で働いた。そこで彼は技術者ドナルド・ベイリーの助けを得て、電子工学への造詣を深める。2人は携帯型の秘話装置 Delilah を設計・構築[56]。Delilah は様々な応用が意図されていたが、長距離の無線通信ができず、いずれにしても完成したのは終戦間近で遅すぎた。それでも役人の前でウィンストン・チャーチルの演説を暗号化してさらにそれを元に戻すデモンストレーションを行ったが、実際には使われなかった[57]。
初期のコンピュータに関する仕事とチューリングテスト
1945年から1947年まで、チューリングはロンドンのリッチモンドに住み[58]、イギリス国立物理学研究所 (NPL) にてACE(Automatic Computing Engine)の設計を行う。1946年2月の論文では、プログラム内蔵式コンピュータの英国初の完全なデザインを発表している[59]。フォン・ノイマンの First Draft of a Report on the EDVAC はチューリングの論文より先に存在したが、チューリングの論文の方が詳細であり、NPL数学部門の責任者だった John R. Womersley は「チューリング博士の独自のアイデアがいくつか含まれていた」と記している[60]。ACEは実現可能な設計だったが、ブレッチリー・パークで軍事機密に関わる仕事をしていたことが原因でプロジェクトは遅々として進まず、1947年サバティカル休暇でケンブリッジに戻る。彼がケンブリッジにいる間にACEを縮小した Pilot ACE が作られた。1950年5月10日に初めてプログラムの実行を達成している。
1948年、マンチェスター大学数学科の助教授に招かれる。1949年、マンチェスター大学のコンピュータ研究室に移り、そこで初期のコンピュータ Manchester Mark I におけるソフトウェア開発に従事。この時期はより概念的な仕事にも取り組み、Computing Machinery and Intelligence(「計算する機械と知性」、1950年10月、「Mind」誌)という論文では人工知能の問題を提起、今日チューリングテストとして知られている実験を提案している。すなわち、機械を「知的」と呼ぶ際の基準を提案したもので、人間の質問者が機械と会話をして人間か機械か判別できない場合に、その機械が「思考」していると言えるというものである[61]。その中で、最初から大人の精神をプログラムによって構築するよりも、子どもの精神をプログラムして教育によって育てていくのがよいと示唆している。
1948年、当時まだ存在していなかったコンピュータチェスのプログラムを書き始める。1952年、当時のコンピュータは性能が低くそのプログラム実行には適さなかったため、自分でコンピュータをシミュレートしてチェスの試合を行ったが、一手打つのに30分かかったという。その対戦の棋譜が残っている[62]。同僚との対戦ではプログラムが負けているが、別の同僚の奥さんにはプログラムが勝利している。
チューリングテストは独特の挑発的特徴があり、人工知能に関する議論で半世紀にわたってよく引き合いにだされ続けた[63]。
1948年にはLU分解も考案しており、今でも方程式行列の解法として使われている[64]。
形態形成と数理生物学に関する仕事
1952年から、亡くなる1954年まで数理生物学、特に形態形成について研究を行う。"The Chemical Basis of Morphogenesis"(形態形成の化学的基礎)と題する論文を1952年に発表、形態形成について仮説を提唱した[65]。この分野での関心は、フィボナッチの葉序研究、すなわち植物の葉のつき方に現れるフィボナッチ数の存在である。これに反応拡散方程式を用いたが、これは形態形成の分野で現在よく使われる手法である。その後の論文は 1992年の Collected Works of A.M. Turing の出版まで未発表だった。近年再評価が著しい仕事である[66]。
同性愛の告発
Anthony Cave Brown の著書 "C": The Secret Life of Sir Stewart Menzies, Spymaster to Winston Churchill には次のような記述がある。 テンプレート:Quote 1952年1月、チューリングはマンチェスターの映画館のそばでアーノルド・マレーと出会う。ランチデートの後、週末を一緒に過ごそうとマレーを自宅に招いたが、マレーはその誘いを断わっている。次の月曜日、2人は再びマンチェスターで会い、今度はチューリングの自宅を訪問している。数週間後、マレーは再びチューリング宅を訪れ、一夜を共にしたとみられている[67]。
間もなく自宅に泥棒が入り、事件を警察に報告したが、捜査の過程で、泥棒の手引きをした19歳の青年(マレー)と同性愛関係にあったことが警察の知るところとなった。同性愛は当時のイギリスでは違法であり[68]、2人とも逮捕された[69]。
チューリングは有罪となり、入獄か化学的去勢を条件とした保護観察かの選択を与えられ、入獄を避けるため、同性愛の性向を矯正するために、性欲を抑えると当時考えられていた女性ホルモン注射の投与を受け入れた[70]。
結果としてセキュリティ・クリアランスを剥奪され、GCHQで暗号コンサルタントを続けることができなくなった。当時、ケンブリッジ・ファイヴの最初の2名ガイ・バージェスとドナルド・マクリーンがKGBのスパイだと露見した事件があり、スパイについて大衆の不安が増大し、ソ連のエージェントが同性愛者を罠にかけるという噂があった[71]。スパイ活動で告発されたわけではないが、ブレッチリー・パークで働いていた全員と同様、戦時下の業績について論じることは禁止された[72]。
死
1954年6月8日、清掃業者がチューリングが自宅で死んでいるのを発見した。検死の結果、死亡したのは前日で、青酸中毒による死であることが判明。ベッドの脇には齧りかけのリンゴが落ちていた。リンゴに青酸化合物が塗ってあったのかの分析はなされなかったが[73]、部屋には青酸の瓶が多数あった。死因審問で自殺と断定され、1954年6月12日に火葬された[74]。母は、実験用化学物質を不注意に扱ったために起こった事故であると主張している[75]。あるいは、母に事故だと思わせるようにして自殺したという説もある[76]。同僚によれば、映画『白雪姫』を見た直後の彼が「魔法の秘薬にリンゴを浸けよう、永遠なる眠りがしみこむように」と言っていたのを耳にしており、白雪姫のワンシーンを真似てこのような死に方をしたのだという[77]。
再評価
チューリングの死後まもなく(戦時中の業績が機密扱いだったころ)、王立協会が伝記を出版しており、以下のように記されている[1]。
3つの多様な数学的主題について、戦前に3つの特筆すべき論文を書いており、この重要な時期(戦時のこと)に何らかの大きな問題にとりかかっていたら重大な業績を残していただろうということがわかる。外務省での業績により、OBEが授与された。
国立物理学研究所の同僚で、後にチューリング賞を受賞したジェイムス・H・ウィルキンソンも、受賞講演で、外務省時代に別の環境にチューリングがいたなら、もっとも生産的な時期たりえた可能性が大きい、としている。しかし、問題やパズルといったものであれば種類を問わず大好きであったから、外務省での仕事にも興味をもって取り組んだであろうし、電子工学について知識を獲得したのもその時であった、と指摘している[78]。
1966年からACMは、コンピュータ社会に技術的に貢献した人物にチューリング賞を授与している。これは、コンピュータ関係者のノーベル賞と考えられている[79]。
1974年夏、ブレッチリー・パークの活動について書かれた「ウルトラ・シークレット」出版[80]、チューリングらの功績について世間の知るところとなる。
1986年、ヒュー・ホワイトモアの戯曲「ブレイキング・ザ・コード」でチューリングが描かれた。1986年11月からロンドンのウェストエンドで公開され、1987年11月15日から1988年4月10日までブロードウェイで興行。1996年にはBBCでテレビドラマ化されている。いずれもチューリング役はデレク・ジャコビ。ブロードウェイでの公演はトニー賞3部門にノミネートされている。
1998年6月23日、86回目の誕生日に、伝記作者にして数学者のアンドリュー・ホッジスは公式の英国遺産としてブルー・プラーク(記念銘板)をチューリングの生まれた病院であったロンドンのウォーリントン・クレセントにあるコロネードホテルに掲げた[81][82]。2004年6月7日には、死去50周年を記念して、ウィルムズロウ・ホリーミードの家にも記念のプラークが設置された[83]。
1999年、タイム誌の「タイム100: 20世紀の最も影響力のある100人」で、コンピューター創造に果たした役割からチューリングを選んでいる[2]。1999年のニール・スティーブンスンの小説『クリプトノミコン』にはチューリングが登場している。2000年3月13日、セントビンセント・グレナディーンにて20世紀の偉人を集めた切手セットが発行された。その中にチューリングの肖像が描かれた切手もあり、「1937: アラン・チューリングのデジタルコンピュータ理論」と記されている。2002年、BBCが行った「偉大な英国人」投票で第21位にランクインした[84]。
晩年に働いていたマンチェスターでは、様々な方法でその栄誉を称えている。1994年、マンチェスターの環状道路が "Alan Turing Way" と名付けられている。またこの道路には Alan Turing Bridge という橋もある。2001年6月23日(誕生日)には、マンチェスター大学に隣接するサックビル・パークにベンチに座っている形の銅像が設置された。
この銅像はリンゴを持っている。リンゴは古来「禁じられた愛」の象徴であり、アイザック・ニュートンの万有引力の法則も思い起こさせるし、チューリングの死の状況も思い起こさせる。また、ブロンズ製のベンチにはレリーフで 'Alan Mathison Turing 1912–1954' と書かれていて、その下には 'Founder of Computer Science' をエニグマで暗号化した文字列が書かれている。台座には「計算機科学の父、数学者、論理学者、戦時中の暗号解読者、偏見の犠牲者」と記されている。バートランド・ラッセルの言葉も引用されていて「正しく見た数学は、真実だけでなく最高の美 - 彫刻のように冷たく厳しい美も有している」とある。台座の下には彫刻家が所有していた古いアムストラッド製パソコンが「あらゆる現代のコンピュータのゴッドファーザー」への捧げ物として埋められている[85]。
没後50年を記念して、2004年10月28日には、幼少時に住んでいた町にあるサリー大のキャンパス内に銅像が置かれる[86]。
プリンストン大学の発行する Princeton Alumni Weekly では、チューリングをジェームズ・マディスン大統領に次ぐ偉大な卒業生だとしている。
2007年6月19日、ブレッチリー・パークに1.5トンの等身大の石像が立てられた。ウェールズの粘板岩を多数使用したもので、億万長者の Sidney Frank が彫刻家 Stephen Kettle に制作を依頼したものである[87]。
2011年2月、チューリングの第二次世界大戦中の論文がオークションで買い取られ、ブレッチリー・パークに戻された[88]。
2013年夏、人気俳優ベネディクト・カンバーバッチがチューリングを演じる映画「テンプレート:仮リンク」の撮影がスタートした[89]。
政府による謝罪
2009年8月、テンプレート:仮リンクがイギリス政府に対して、アラン・チューリングを同性愛で告発したことへ謝罪するよう請願活動をはじめた[90][91]。これに対して数千の署名が集まった[92][93]。 イギリス首相のゴードン・ブラウンはこの請願を認め、2009年9月10日に政府として正式な謝罪を表明し、当時のチューリングの扱いを「呆れたもの (appalling)」と表現して[8][92]、次のように声明を発表した。
数千の人々がアラン・チューリングのための正義と彼がぞっとする扱われ方をしたという認識を求めて集まった。チューリングは当時の法律に則って扱われ、時計の針は戻すことはできないが、彼に対する処置はまったく不当であり、深い遺憾の意を表す機会を得たことを我々全てが満足に思っている… イギリス政府とアランのおかげで自由に生活している全ての人々を代表し、『すまない、あなたは賞賛に値する』と言えることを非常に誇りに思う。[92]
2011年12月、William Jones はイギリス政府に対してアラン・チューリングの罪を免罪(名誉回復)してほしい[94]という電子請願を申請した[95]。
この請願には21,000以上の署名が集まったが、法務大臣はチューリングが有罪宣告されたことは遺憾だが、当時の法律に則った正当な行為であったとしてこれを拒否した[96][97]。
その後、2012年に英国貴族院に正式な恩赦の法案が提出され、2013年12月24日にエリザベス2世女王の名をもって正式に恩赦[98]が発効した[99]。キャメロン首相は、彼の業績をたたえる声明を発表した。
各大学における顕彰
生涯と業績に関する催しが英国論理学会議と英国数学史学会主催で2004年6月5日にマンチェスター大学で行われた。
- エディンバラ大学情報学科には 'Turing Room' と呼ばれる部屋があり、エドゥアルド・パオロッツィ作の胸像がある。
- サリー大学の主広場には銅像がある。
- Istanbul Bilgi University では計算理論の会議が毎年開催されており、その期間を "Turing Days" と呼んでいる[100]。
- マンチェスター大学、オープン大学、オックスフォード・ブルックス大学、オーフス大学(デンマークオーフス)には、それぞれチューリングの名を冠した建物がある。
- オレゴン大学計算機科学科の建物のそばにはチューリングの胸像がある[101]。
- スイス連邦工科大学ローザンヌ校にはチューリングの名を冠した道路と広場(Chemin de Alan Turing と Place de Alan Turing)がある[102]。
生誕100周年
テンプレート:更新 生誕100年を記念して、Turing Centenary Advisory Committee (TCAC) は2012年を Alan Turing Year とし、一年を通して世界各地でチューリングの功績を称えるイベントを行う予定である。TCACには、マンチェスター大学、ケンブリッジ大学、ブレッチリー・パークなどの関係者が協力しており、数学者のテンプレート:仮リンクが議長を務め、甥のジョン・ダーモット・チューリングが名誉会長を務めている。
イベントはアメリカ、ブラジル、中国、チェコ、フィリピン、ニュージーランド、イスラエル、スペイン、スイス、ノルウェー、イタリア、ポルトガル、ドイツなど各国で予定されている。最大のイベントはマンチェスターで6月に開催予定の3日間の会議で、チューリングの数学や暗号解読における業績について議論する。キングス・カレッジ (ケンブリッジ大学) でもチューリング100周年会議が開催される[103]。
2012年初めにはイギリスでチューリングの切手を発行することが発表された[104]。
2012年6月23日には、Googleトップページのロゴがチューリングマシンを模したデザインに変更された。アルゴリズムを設定するミニゲームが遊べるようになっている[105]。
脚注・出典
参考文献
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関連文献
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- テンプレート:Cite encyclopedia
- テンプレート:Cite journal
- Gleick, James, The Information: A History, A Theory, A Flood, New York: Pantheon, 2011, ISBN 9780375423727
- Leavitt, David, The Man Who Knew Too Much: Alan Turing and the Invention of the Computer, W. W. Norton, 2006
- テンプレート:Cite book
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- テンプレート:Cite journal、(通巻609号、2012年7月号)
関連項目
テンプレート:ウィキポータルリンク テンプレート:ウィキプロジェクトリンク テンプレート:Refbegin
外部リンク
- Alan Turing Year
- CiE 2012: Turing Centenary Conference
- Visual Turing
- Alan Turing テンプレート:仮リンクの運営するサイト。short biography もある。
- AlanTuring.net – Turing Archive for the History of Computing テンプレート:仮リンク
- The Turing Digital Archive – ケンブリッジ大学キングス・カレッジ所有の出版されていない資料のスキャンなどがある。
- テンプレート:Cite journal
- Sherborne School Archives – シャーボーン学校時代のチューリング関連資料がある。
- Alan Turing plaques on openplaques.org
- テンプレート:SEP
論文
- チューリングの論文、報告書、講義、翻訳版など BibNetWiki
- テンプレート:AcademicSearch
- テンプレート:Citation
- Oral history interview with Donald W. Davies, Charles Babbage Institute, University of Minnesota
- Oral history interview with Nicholas C. Metropolis, Charles Babbage Institute, University of Minnesota
テンプレート:心の哲学 テンプレート:Logic テンプレート:Normdaten
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- ↑ Paul Gray, Alan Turing Time Magazine's Most Important People of the Century, p.2
- ↑ The Inspiration of Life and Death, 1928–1932 Alan Turing Scrapbook
- ↑ See Section 3 of John Aldrich, "England and Continental Probability in the Inter-War Years", Journal Electronique d'Histoire des Probabilités et de la Statistique, vol. 5/2 Decembre 2009 Journal Electronique d'Histoire des Probabilités et de la Statistique
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- ↑ 食器を自身で金メッキ・銀メッキする趣味を持っており、メッキに使用する青酸が常時、家にあった。母はメッキ作業をした後は手を良く洗うようにと息子にいつもいっていたという。すなわち、作業後に手に残存していた青酸を誤って口にした事故とする。
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- ↑ ジェイムス・H・ウィルキンソン「一数値解析研究者の回顧と展望」、『ACMチューリング賞講演集』 pp. 289-290
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- ↑ テンプレート:Citation 機密解除になる以前に関係者の記憶を元に書かれたノンフィクションで、若干正確性に欠ける。
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- ↑ Bletchley Park Unveils Statue Commemorating Alan Turing, Bletchley Park press release, 20 June 2007
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- ↑ ベネディクト・カンバーバッチ、同性愛者の天才数学者を演じる新作クランクイン
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- ↑ 92.0 92.1 92.2 テンプレート:Cite news
- ↑ 請願活動はイギリス市民のみを対象として行われた。
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- ↑ 同性愛行為(gross indecency)に対する刑罰が削除されたのは1967年。
- ↑ Royal Prerogative of Mercy
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