もんじゃ焼き
もんじゃ焼き(もんじゃやき)は、小麦粉を主体とした、いわゆる「粉もの」料理の一つで、材料を鉄板で調理して食べる。「もんじゃ」と呼ばれる事も多く、「もんじやき」「ぼったら」「おいの」と呼ぶ地域もある[1]。
もんじゃ焼きを食べる地域は日本各地にあり各地の特徴がある。(詳細は、各セクションにて)
目次
概要
もんじゃ焼きの原型は、安土桃山時代に千利休が作らせていた「麩の焼き」である。「麩の焼き」とは、巻いた形が巻物経典を彷彿とさせる事から、仏事用の菓子として使われていたもので、「秋の膳」の和菓子であり、茶会の茶菓子として千利休が作らせていた。
その「麩の焼き」が江戸に伝わり、江戸時代末期に「麩の焼き」に使われていた味噌に替えて餡を巻く「助惣焼」ができた。この「助惣焼」は東京の麹町で生まれ、明治時代には「助惣焼」を原型に「もんじゃ焼き」が生まれた。
もんじゃ焼きは、小麦粉を溶かす水の量が多く、またソースなどの調味料を一緒に混ぜ込んでしまうのが特徴である。鉄板にコテで押さえつけて焼きながら食べるので、鉄板に接する外部は食感がパリッとしているが、押さえつけが足りない部分などはトロッとしている。
現在は、東京の下町と埼玉県南部・東部、群馬県東部と栃木県南部に店が多い。
歴史
起源は、安土桃山時代に千利休が作らせていた「麩の焼き」であるといわれている。その後、麩の焼きを起源として江戸末期から明治にかけ、味噌の代わりに餡を巻いて作る「助惣焼」が生まれる。この食べ物は東京・大阪で大流行し、明治時代には「もんじゃ焼き」「どんどん焼き」が生まれた[2]。1819年刊の『北斎漫画』に、「文字焼き屋」の挿絵があり、この時代既に江戸にもんじゃ焼きに類するものがあったことが分かっている。焼くときにタネで文字を書いて遊んだことから「文字焼き」と呼ばれ、「もんじ焼き」これが「もんじゃ焼き」となったとの説と、豪商の子息で大酒飲みの「門次郎」と呼ばれる男に由来する説とがある。東京都台東区浅草近辺が発祥地とされる事が多いようである。過去に盛んであった隅田川の物流、近代開通した地域の大動脈である東武伊勢崎線、旧奥州街道である国道4号などの集積地であるこの付近を基点に、関東の他の地域に伝播したと言われている(異説もあり。群馬のもんじゃ焼き参照。)。後に、このもんじゃが変化して「お好み焼き」「どんどん焼き」が出来上がった[2]。
駄菓子屋ともんじゃ焼き
東京・下町の駄菓子屋には、昭和初期から昭和40年代ころまでは大抵、もんじゃ焼きの鉄板があった。昭和20年代は物資が欠乏していたため、単にうどん粉を水で溶き、味付けしただけのものが多かったが、昭和30年代も中頃をすぎると、キャベツはもちろん、切りイカなど具の種類も増えていった。もんじゃ焼きはかつて、下町を中心とした子供達に親しまれていたが、近年は食文化の変化、駄菓子屋の減少から子供達に食べられなくなってしまった。
近年、もんじゃ焼きは東京下町の伝統的な食べ物として全国的に認知されるようになった反面、その客層が観光客やサラリーマンなどに代わり、酒のお供として食されるようになった。駄菓子屋自体が激減している昨今ではあるが、相変わらず現存する駄菓子屋もんじゃもあり、1杯あたり80円〜300円といった昔ながらの価格で提供されている。店によりけりではあるが、価格差は量の違いであり、種類は上記昭和30年代のタイプの1種類というのが基本である。
東京のもんじゃ焼き
東京のもんじゃ屋は、東京都全域に分布しているわけではなく、比較的特定の区域に集中する傾向にある。特に下町地区に多く、今でも一般的に食べられる。古い店があるのは墨田区・江東区・台東区・北区・葛飾区・足立区・荒川区・練馬区等。もんじゃに必要とも言われるラメック[3][4]だが、ベビースターラーメン(初期は、松田産業のベビーラーメン[5])小売としては販売していない業務用のそれを用いて、ソースはユニオンソースを使用し、当時と同じ味を提供している。観光地として有名なのは、月島と浅草である。
山の手地区においても、繁華街でもんじゃ焼きの店は確認できるが、同じ東京都内でもこれらの地域への浸透は低い。
月島
東京都中央区月島の「西仲通り商店街」は「もんじゃ焼きの街」の「もんじゃストリート」と呼ばれ観光客で賑わう。 月島も発祥当時は駄菓子屋もんじゃ3店程度であったが現存していない。土手を作らない店もある。なお、葛飾区、足立区等の下町の駄菓子屋で提供されていたもんじゃ焼きは具が少なかった為、土手を作らずにそのまま焼く事が多い。現在もんじゃ屋が75店ほどあるが、歴史のある店は数店であり、他の店は1980年代後半の「もんじゃブーム」で他の商店からもんじゃ屋にくら替えしたケースが多い。もんじゃ焼きの店舗でも、お好み焼きをも供するのが一般的である。「いちごみるくもんじゃ」などアレンジされたもんじゃを提供している店もある。
群馬のもんじゃ焼き
キャベツ以外の具の量は少なく、焦がして食べる事も少ない。「発祥地は群馬であり特産品のうどんを作った際の余りのうどん粉を水で溶いて焼いたのが起源」としているが、東京の浅草を基点とする東武伊勢崎線により、途中埼玉に伝播しつつ、群馬に伝わったともされている。伊勢崎市では、こどもがおやつ代わりにうどんの打ち粉を水で溶き醤油を加え鉄板で焼いたものが「伊勢崎のもんじゃ焼き」のルーツとされる[6]。その当時は貧しい家が多くソースが家庭に無かったため、醤油以外にかき氷に使われるイチゴシロップやカレー粉を入れることがあり、それが現在も隠し味としてイチゴシロップを入れた「あま」、カレー粉を入れた「から」として存在する。
足利もんじゃ(栃木のもんじゃ)焼き
駄菓子屋のもんじゃと同様に、小麦粉と水のみの水気の多いネタを使いクレープのように薄く焼いて食べる。焦がすことはないが、食べた跡を放置して「せんべい」として食すこともある。もんじゃ焼きの語源の一つと言われる「文字焼き」の逸話として「寺子屋で文字を教える際に、薄く焼いた小麦粉の生地に文字を書いた」がある。しかし日本最古の大学、坂東の大学と評された足利学校と関連付けた資料はほとんどない。足利もんじゃには醤油味・ウスターソース味があるが、月星ソースの本社が足利市にあり、昭和後期の太田・佐野・足利周辺のイモ・小麦粉+ウスターソース文化(シュウマイにもウスターソース)の影響により、醤油味からウスターソース味が派生したとも考えられる。現存するもんじゃ焼屋は少なく、その中でも多くは「月島もんじゃ」も扱うが、今でも地域由来の家庭ではこの足利もんじゃをおやつとして出すこともある。
埼玉のもんじゃ焼き
久喜市をはじめ各地で食べられており、1970年(昭和45年)頃の川越では駄菓子屋に鉄板のテーブルがあり、もんじゃ焼きは子供たちのおやつであった。
また、川口市の幸町、青木町あたりを中心として、1980年代(昭和年間)くらいまでは数店の駄菓子屋で提供されていた。川口においても呼称は『もんじゃ』ではなく、もっぱら『ぼったら』と呼ばれていた。 しかし、店主の高齢化などにより駄菓子屋じたいが減少し、今ではほとんど見られなくなった。
讃岐のもんじゃ焼き
讃岐うどんで有名な香川県には「讃岐のもんじゃ焼き」などと呼ばる料理がある。具としてご当地グルメの讃岐うどんが入っている事が大きな特徴である。「第二次世界大戦後の食糧難の時期に少量の讃岐うどんでボリュームある料理を作ろうと高松市内の居酒屋が考案した」などとされているが根拠に乏しく、また香川県内での知名度も殆ど無い[7]ことから、近年のB級グルメブームに乗って創作されたものと思われる[8]。
作り方
一般的な作り方。
汁と具をすべて混ぜる。鉄板にまず具を入れて温まったあとに汁を入れ、水分が蒸発したあと、ヘラで鉄板に具を押し付けて焦がしながら一部カリカリした状態にして食べる。
材料
汁や具材に好みの物を追加する場合が多い。
道具
もんじゃをはがすための「へら」は、「はがし」とも呼ばれる事があり、テコとかコテと呼ばれる事もある。幅20mm〜30mm、長さ10cm〜15cm(お好み焼き用のヘラは同じ形だが、それよりかなり小さい)のステンレス製。東京・合羽橋道具街などの問屋街や100円ショップなどで販売されている。 ホットプレートで調理する場合は、ステンレスのヘラを使うとテフロンなどのコーティングを剥がしてしまうことがあるため、竹製や木製の道具を使用する場合がある。
関連商品
- ユニオンソース - この銘柄の商品を使用するもんじゃ屋が比較的多い。
- ラメック - 東京の下町ではラーメン菓子の代名詞ともなっているトッピングの定番。個人消費者向けの製品は製造されていないが、一部の業者ではそのままの味で扱われており、一部のもんじゃ屋でそれが用いられている。
- ベビースターもんじゃ焼き - おやつカンパニーの地域限定商品。袋麺の様なパッケージに、発泡スチロールのトレイと食品が入っており、湯または水で練って食べる。
- ベビースターもんじゃ焼きせんべい - おやつカンパニーの地域限定商品。そのまま食べる菓子。
脚注
関連項目
- どんどん焼き、一銭洋食、お好み焼き - もんじゃが変化したもの。
- 瞳 - 東京都中央区月島が舞台。主要な登場人物にもんじゃ屋を営む兄弟がおり、劇中、主人公たちがもんじゃ焼きを食するシーンが頻繁に登場する。