A寝台

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A寝台(Aしんだい)とは、JR及びそこから乗り入れる私鉄における寝台車の区分の一つ。座席車グリーン車に相当する。

車体の種別記号は等級記号であるイロハのと、寝台車を表すを組み合わせたロネである。三等級制時の一等・二等寝台車、2等級制時の1等寝台車にあたり、これらについても本項で記述する。

個室寝台車と開放式寝台車の2種類があるが、21世紀初頭現在のA寝台においては個室寝台が主流となっており、2013年現在開放式A寝台を備えた列車は定期・臨時を含めて存在しない。

等級制時代

戦前

日本の鉄道における寝台車は、1900年明治33年)に山陽鉄道神戸 - 三田尻(現・防府)間急行に連結した一等寝台車[1]が最初である。寝台は車両長手方向の上下2段で、下段は昼はロングシートとし、夜は背ずりを引き下げて寝台幅を拡張した[2]。山陽鉄道はさらに1903年(明治36年)には2等寝台車も開発している[3][4]。なお日本初の食堂車は、1899年(明治32年)5月25日に山陽鉄道が運行したが、このときの食堂一等車の車両が食堂付一等寝台車だったとの説もある[5]

以後、官営鉄道[6]日本鉄道が追随し、鉄道国有化後には長距離列車に欠かせない存在となった。地方の長距離普通列車にさえも、車体の半分が二等寝台となった合造車が連結されていた時期がある。

戦前の三等級制時代には、一等寝台車(記号「イネ」)は室内に折畳み洗面台を備えた2人又は4人用区分寝室、二等寝台車(記号「ロネ」)は2段のツーリスト式開放寝台(舟形寝台)を標準とした。ツーリスト式とは、窓を背にしたソファー形式の座席(一種のロングシート)が、夜間はそのまま下段寝台として使われる構造である。なお、上段は折り畳み式の寝台を使用した。ただし1934年(昭和9年)以降は、合理化のため東海道・山陽本線を除いては通常の営業列車で一等寝台車の連結はなくなったが、一等寝台車が折畳み洗面台を備えた区分寝室であることは、当時の政府や軍の高官の旅行に際してプライベートな姿を他に見せない配慮の結果であった。したがって、一等寝台車の連結廃止後他の線区で高官の乗車が想定される区間用には二等ながら区分室を備えた寝台車が作製されたりもした[7]

走り装置には、種々の艤装によって増加した車両重量に対応するため、3軸ボギー式台車が用いられ、軸重の軽減を図った。

当時の優等寝台車は多車種少量製作で変形車が多く、二等寝台車ではあるが、例外的に4人用区分寝室コンパートメント)を備えた車両(マロネ37480形。後のマロネ38形[8]や、定員2名の特別室[9]を備えた一等寝台車等も存在した(マイネ37130形。後のマイネ38・マロネ49形)。マイネ37130形には、当時の鉄道大臣の発案で、改造のうえシャワー室を装備したものが1両存在し、特急「富士」に運用されたが、シャワー自体当時の日本人に馴染みがなく、同じスジに入るのが4日に一度と言う頻度であったことから利用も伸びず、短期間で消滅している。

変わった存在としては、ダブルベッドを備えた寝台車が、明治末期から大正中期に存在した。1910年(明治43年)9月より、旧新橋 - 神戸間の急行列車に連結された二等寝台車「ロネ9140形」に、「二等寝台二人床」と呼ばれる寝台が設けられた。これは大人2人が寝ることができるダブルベッドを備えたもので、夫婦での利用を考慮したものとされる。1912年に運転開始した日本初の特別急行列車1・2列車(後の「富士」)に連結されたスロネ10055形のプルマン式寝台の下段も同様である[10]。この「二等寝台二人床」は、1918年(大正7年)11月に「二等寝台大型」と改称され、大人2人での利用は禁止された。その理由としては、当時、第一次世界大戦で巨額の富を得た成金が、芸者を連れて「不純な行為」をするなど、本来の目的からは離れた利用実態が、世間の猛烈な批判を招いたことにあるとされる。日本の寝台車においてダブルベッドが復活するのは、70年以上が経過したJR発足後のこととなる。

先述したように連結区間が削減された一等寝台車も1935年(昭和10年)に全線開業した呉線、1942年(昭和17年)に関門トンネルが開通した鹿児島本線・長崎本線で山陽本線からの列車が直通運転することとなったが、太平洋戦争の戦況悪化に伴って1944年(昭和19年)年4月に実施された決戦非常要領により、一等車および寝台車の連結が中止された。寝台車の多くは各地に疎開留置、あるいは三等座席車に改造されたが、二等寝台車の一部は高官・要人等の特殊公用客用として運用された。

戦後の展開

戦後の一時期、疎開によって三等車への戦時改造戦災を免れた数少ない優等寝台車は、進駐軍専用に運用されていたが、1948年(昭和23年)に戦後初の新造一等寝台車マイネ40形が新製され、この時期から日本人も利用できる寝台車が復活した。この車両は製造当初から冷房を搭載した日本で初めての寝台車である。なおこの年11月10日に復活した当初は“特別寝台車”と称し、翌年5月1日に一等寝台車と呼称を改めた。

その後一等寝台車の増備や、進駐軍接収の一等・二等寝台車の返還が進行し、また4人用区分室方式の二等寝台車(マロネ39形スロネ30形等)が新製や在来車改造で登場した。こうして1950年代前半には日本各地の長距離急行列車において、一等、二等寝台車が、ほぼ戦前並みに復活した。

 1955年等級改正対照表[11]
格下前形式 格下後形式 寝台定員 冷房
ABCは2等</br>寝台の等級 ○:全車有</br>△:一部車輌有</br>×:無
マイネ40 マロネ40 A6/B16
マイネ41 マロネ41 B24
マイネ29 マロネ48 A20 ×
マイネ38 マロネ49 A17
マイロネ39 マロネ58 A2/B12 ×[12]
マイネフ29 マロネフ48 A18 ×
マイネフ38 マロネフ49 A16 ×
マロネフ38 マロネフ58 A8/C12 ×
マイロネフ38 マロネフ59 A2/B12 ×[12]

しかし、一等寝台は当時の航空運賃よりも高くなる区間があるなど、その運賃・料金の高さによって利用率が低迷する一方で、二等寝台車は需要が非常に高かったことから、1955年昭和30年)7月1日に一等寝台は廃止され、車両は2等寝台車に格下げ統合された。旧一等寝台の形式称号である「イネ」も廃止され、「ロネ」となった。この際、旧イネの車両形式は「40」以上にまとめられた[11]

このとき二等寝台車のうち、旧一等寝台区分室を2等A寝台、マロネ40のプルマン式寝台等、旧一等寝台開放室冷房付きを2等B寝台、マロネ29のツーリスト式寝台等、従前からの二等寝台開放室で非冷房のものを2等C寝台とした。

ただし、旧一等寝台でも冷房のないものは様々な基準で等級づけされ、実際の整理の経緯は複雑である。

たとえば、右の1955年等級改正対照表でマロネフ58形とされたマロネフ38形は0番台であるが、もと一等区分室をもっていたものの需要が見込めず、これ以前に二等特別室(特ロネ)に格下げされていたものが、このとき2等Aに分類されている。また、マロネフ38形(10番台)は、改正前同様に一等区分室を二等特別室に格下げ改造した際、洗面台を撤去していたので、2等Cとされ、マロネフ38形のままとされた。

従来から2等寝台であった客車は、全室4人用区分室のマロネ39形、スロネ30形も、一部区分室を含むマロネ38形も、ツーリスト式寝台と同様、すべて2等Cとされた。

20系客車登場以降

この頃までの旧1等寝台区分室は、2人または4人用のみであったが、1958年(昭和33年)に開発された20系客車のうち、区分室寝台のみで製造されたナロネ20形に、2等寝台車に初の1人用個室寝台、「ルーメット」が導入された。これは、2等A室扱いとしたが、従来の2等A寝台下段の料金よりも600円高い3360円の「個室」料金が別途設定され、2人用区分室は従来の2等A室として取り扱った。プルマン式開放式寝台であったナロネ21形は従来どおり2等B室とされた。また、1959年(昭和34年)登場したナロネ22形は「ルーメット」とプルマン式開放式寝台との合造車であったため、区分室は2等A個室、開放式は2等B室となった。

なおこの時代には、2人用区分室は単に「2等A」であり、「個室」の名称は1人用についてのみ用いられた。ナロネ20形の2人室を「2人用個室」と呼ぶようになったのは後のことである。

また、在来客車の置き換えでもあった10系客車のうち、1958年より増備されたナロハネ10形の2等部分はプルマン式寝台であるが、非冷房のため2等Cとしたが、1964年(昭和39年)に行われた冷房改造により1等B室へ変更となった。1959年(昭和34年)のオロネ10形は当初から冷房設備があり、2等Bとされた[13]

1960年(昭和35年)に国鉄の等級制の整理が行われ、従来の2等を1等に、従来の3等を2等として2等級制になった。これに伴い優等寝台は1等寝台となったが、ABCおよびA「個室」の区分は継承された。

1961年にかつての2等寝台車の標準とされたツーリスト式寝台車が廃止され、事実上開放式の1等寝台はB寝台のみとなる。

1967年(昭和42年)に登場した寝台電車581・583系においては、2等寝台のみの編成となり、1等寝台を製作しなかった。これは昼夜兼帯で使用されることが前提となっており、昼行列車1等車で標準のリクライニングシート車に比肩できる水準の1等寝台・座席両用の設備を開発することが困難と考えられたためである。なお、583系寝台電車に登場したA寝台車、「サロネ581形」は、後年の「サハネ581形」からの改造によるもので、昼夜兼用しないこと(寝台のみでの運用)が前提のため、これが可能となった。

等級制廃止後から民営化まで

1969年(昭和44年)等級制廃止により、従来の1等寝台をA寝台、2等寝台をB寝台と呼称するようになる。また、従来の1等寝台車の等級は廃止され、料金上は「ルーメット」にのみ適用する「個室」と上下段による区別のみとなった。このため旧1等Aの2人用個室も、旧1等Bの開放式寝台と同じ料金となった。

その後、特急用として製造された14系寝台車では編成の自由度と輸送力を重視したことから、A寝台になる「オロネ14形」や、3段式B寝台車とともに製造された24系24形までの新製車「オロネ24形」についても開放式寝台のみを製作した。なお、これらは開放式A寝台車はレール方向に寝台を並べる「プルマン式」を採用したため、車両の中央に通路が設けられている。

ただし、1970年代後半より1980年代前半にかけて、寝台料金の上昇による利用率の減少や車両の老朽化から、開放式寝台は急行列車をはじめとして連結を終了する事例も出てきたうえ、2段式寝台で製作された24系25形客車への車種変更に際して、特急列車でも連結を行わない事例が増えてきた。

そのため、個室寝台車として久々に新製されたのは1976年(昭和51年)の24系客車に属する「オロネ25形」である。

個室寝台車は20系客車以降製作されなかった上、運用がごく限られたものであったが、同車は2段式寝台で製作されたB寝台車に対して、A寝台を個室とすることでこのクラスの品質を確保する意図があったとされる。

内装は、寝台を枕木方向に配置し、片側通路とした1人用個室寝台車である。後にこの個室は、後年改造によって登場したものとともに、「シングルデラックス(DX)」と名付けられた。

この新製車による初期の「シングルデラックス」は、当初より東京駅発着の九州特急の25形使用列車「はやぶさ」、「富士」、「あさかぜ1・4号」および、車両を共通で運用していた「出雲」に使用され、ほぼ原形を保ちながら2009年平成21年)まで運行の「はやぶさ」・「富士」に連結されていた。

民営化以降の展開

1980年代中盤以降、とりわけJR分社化後に有力な資源とされた寝台列車の利用促進のため、寝台車の個室化が進行する。A寝台の場合、JR分社化を目前にした1987年昭和62年)に登場した「ツインデラックス(DX)」と、「あさかぜ1・4号」、「出雲1・4号」用の「シングルデラックス」の改修が緒となった。

なお、前者は「北斗星」となる「青函ブルトレ」用として改造されたものを「ゆうづる」に連結して運用を開始した。

また、1人用A寝台「シングルデラックス」は従来開放式B寝台のみないし開放式A寝台連結列車への設定が進んだ。その際、改造の種類により原型の片廊下式の個室のほか、上下の寝台の位置を半分ずつずらし、上段寝室内に階段を設け2層式としたものや、中央に廊下を配したものも現れている。なお、1998年(平成10年)に新造された285系寝台電車でも同様の名で最新型個室が登場している。

なお、2012年(平成24年)3月17日のダイヤ改正で、開放型A寝台を連結していた寝台特急「日本海」及び急行「きたぐに」の定期運行を廃止。臨時列車化に際して、両列車とも開放型A寝台を連結されなくなったため、同型の寝台を連結する寝台列車は全廃された。また、2014年までに開放式A寝台車は全て廃車となり、ここに旧山陽鉄道一等車から数えれば100年以上にも及んだ開放式A寝台の歴史が幕を閉じた。

個室A寝台

先述の通り、A寝台においては戦後も個室寝台車が設置されてきたが、数は少なく、国鉄時代は開放式が主流であった。

その後、プライバシーの重視と居住性の改善の見地から、寝台車の個室化が進展した。従来からの個室も洗面台などが設けられている点がB寝台との差異となっていたが、国鉄末期以降は、在来車の改造によりB寝台個室が登場、これに対し差別化を図るため、同じく改造により登場したA寝台個室の大半は室内テレビやオーディオ機器などが設けられている。

国鉄民営化後には、寝台特急「北斗星」において「コンパート」廃止以来10数年ぶりとなる2人用A寝台個室「ツインDX」が登場、また豪華個室「ロイヤル」が設定され、先述の機器に加え合造式のトイレ・シャワールームやベッドとは異なるリビングスペースが登場し、戦前の一等区分室をも上回る豪華さとなった。

さらに北海道直通の寝台特急「トワイライトエクスプレス」では、このロイヤルルームを北斗星以上に設置し、更にセミダブルベッドの二つ配置や、最後部展望スペース(またはトイレ・洗面台ユニットと独立したシャワールーム)などを兼ねた二人用個室「スイート」を設置。質の高いサービスを提供し、ブランドイメージの構築に成功している。

またJR東日本で試作された夢空間では、オロネ25 901「デラックススリーパー」においてバスルーム付きの個室が3室のみ設定された。2室が設定された「スーペリアツイン」の料金は、「トワイライトエクスプレス」のスイートや、後のカシオペアにおける「カシオペアスイート」と同額である。また最上級個室である「エクセレントスイート」は、居間と寝室の間に扉があり、一般的なホテルにおけるスイートルームの概念に近い間取りである。一室67,320円と、スイート等より高額な料金が話題となったが、2008年に夢空間編成の廃車とともに廃止された。

これを更に推し進めた寝台特急「カシオペア」で使用されているE26系客車では、個室A寝台車のみで編成を組むという試みを行っている。また同車では全ての寝台にトイレ・洗面台を設け、上級客室である「カシオペアDX」「カシオペアスイート」では個室シャワーも設置されており、「トワイライトエクスプレス」の2号車スイート以来となる、トイレとシャワースペースの分離を行い、トイレの折り畳み動作を省略している。

2013年に登場した「ななつ星in九州」用の77系客車では「クルージングトレイン」として更に豪華な内装を求め、全室にシャワーを設置するなど設備の充実化を推し量っている。ただし同車では運行上の戦略から、これまでの上級A寝台個室と異なり室内テレビは敢えて設けていない。

「トワイライトエクスプレス」「カシオペア」「ななつ星in九州」とも、客車列車の性質を利用し、最後部は通路部分を廃し丸々個室スペースに利用した「展望式スイート」が設置されている。なお、夢空間を除き、室内にバスタブを配備した車両は現在のところ日本では走行していない。

ちなみに、個室の施錠方式は、鍵・錠前によるものと暗証番号を入力する方式がある。

名称

時刻表等では「A」と表示される通常タイプのものと、「SA」「SSA」と表示される特別タイプのものに分かれる。

また、同じ「SA」でも「ロイヤル」、「カシオペアデラックス(ロイヤル2人分の値段)」と、「スイート」「カシオペアスイート」では料金体系が分かれる。

それぞれ、以下の名称が与えられている。なお、本表で「SA2」に該当する個室で定期列車としての運用されるものは現在まで一度も存在していない。

定員 記号 名称 備考
1人 A1 シングルデラックス
(シングルDX)
A個室寝台料金計算上の基礎となる。
1976年昭和51年)登場の「オロネ25形」車両が上記にあるように直接的な祖となるが、JR化以降A寝台で設定が増加した。
SA1 ロイヤル 「北斗星」、「トワイライトエクスプレス」のみに設定されている。
2人 SSA2 DXスイート 「ななつ星in九州」のみ設定されている最高額個室。2室のうち1室は展望室となる。
SA2 カシオペアデラックス 「カシオペア」のみ設定されている。
カシオペアスイート 「カシオペア」のみ設定されている。一部は展望室となる。
スイート 「トワイライトエクスプレス」「ななつ星in九州」に設定されている。
「トワイライトエクスプレス」の一部は展望室となる。
スーペリアツイン JR東日本が試作した「夢空間」に2室設定された専用個室。2008年廃止。
臨時列車運用時でも「デラックススリーパー」などと説明が行われ、必ずしも「SA2」の記号が用いられたことがなかった。
エクセレントスイート 「夢空間」において1室のみ導入された最高額個室。2008年廃止。
臨時列車運用時でも「デラックススリーパー」などと説明が行われ、必ずしも「SA2」の記号が用いられたことがなかった。
A2 ツインデラックス
(ツインDX)
「北斗星」のみに設定されている。
カシオペアツイン E26系客車を使用する「カシオペア」のみ設定されている。
カシオペアコンパート 「カシオペア」のみ設定されており、車椅子利用客専用である。

ギャラリー

A寝台を設ける夜行列車

2013年3月16日現在のA寝台を設ける夜行列車は、以下のとおり。また、は、臨時列車

寝台特急

過去

旧1等寝台車の保存車両

大阪市交通科学博物館に、1938年(昭和13年)に製造されたマイロネフ38 3(→マロネフ59 1)が保管されている。内装は当時のままで、車内に入ることも可能である。

脚注

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参考文献

  • 鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション10 国鉄客車開発記1950』(電気車研究会、2006年)
星 晃「寝台車戦後版 -戦後における寝台車復活事情について-」(初出:『鉄道ピクトリアル』1953年9-11月号 No.26-28) p.61-72
平林喜三造「1等寝台車の廃止」(初出:『鉄道ピクトリアル』1955年8月号 No.49) p.116-117
齋藤雅男「『イネ』を始末する」(初出:『鉄道ピクトリアル』1955年8月号 No.49) p.118-120
  • 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1982年1月号 No.399 特集 ブルートレィン概史 (RP 399 と略す)
金野智「ブルートレィン前史」 p.57-62
  • 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1999年4月号 No.667 特集 国鉄形(10系)軽量客車・寝台車編 (RP 667 と略す)
齋藤雅男「昭和30年代前半の寝台客車事情」 p.10-14
三宅俊彦「オロハネ10形 活躍の軌跡」 p.15-24
勝村彰「国鉄形(10系)軽量客車 車両のあゆみ」 p.41-56
  • 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』2008年11月号 No.811 特集 1等寝台車
岩成政和「イネロネに憧れて」p.10-17
  • 長船友則『山陽鉄道物語 先駆的な営業施策を数多く導入した輝しい足跡』(JTBパブリッシング、2008年) ISBN 978-4-533-07028-0
  • かわぐちつとむ『食堂車の明治・大正・昭和』(グランプリ出版、2002年) ISBN 4-87687-240-6

関連項目

テンプレート:国鉄・JRの客車

  1. 「寝台車 山陽鉄道に施設」1900年3月14日報知新聞『新聞集成明治編年史. 第十一卷』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  2. RP 399 p.57(写真あり)。
  3. 長船、p.174。(寝台使用法の解説図あり)。
  4. 「三等寝台車製造の計画」1902年2月6日大阪朝日新聞『新聞集成明治編年史. 第十一卷』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  5. かわぐち、p.10,14では、卯之木十三、小熊米雄の説を引き、山陽117・1227・1229号がこれとする(117の図面あり。1227・1229の図面は長船とほぼ同一のものの簡略化)。一方、長船、p.143-144では山陽1227-1229号、国有後のホイシ9180形3両で一等合造車と考えられている。営業報告書からの定員の記述と、出典の明らかな国有後の図面がある。117の図面ではかわぐちに、定員の記述では長船に説得力があり、現状ではどちらにも定めがたい。
  6. 「官線に寝台車」1900年6月9日読売新聞『新聞集成明治編年史. 第十一卷』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  7. 岩成政和 2008。
  8. 上述の通り、東北・北海道地方と行き来する高官への配慮によるが、二等であるため折畳み洗面台は省かれている。
  9. 後年に定員は3名とされた。また、特別室には専用の便洗面所が併設されていた。
  10. RP 399 p.58。
  11. 11.0 11.1 齋藤雅男「『イネ』を始末する」参照。
  12. 12.0 12.1 過去の接収時には冷房が取り付けられ、この当時も冷房搭載可能だったが、実際には機器を取り付けていなかった。
  13. RP 667 p.16以下、p.42以下。