短機関銃
短機関銃(たんきかんじゅう)は、拳銃弾を使用し手で保持して射撃する小型の機関銃のことである[1]。サブマシンガン、機関拳銃(きかんけんじゅう)、機関短銃(きかんたんじゅう)とも呼ばれる。
サブマシンガンは、英語の"Submachine gun"(略称:SMG)からきている。ドイツ語では"Maschinenpistole"(略称:MP)であり、逐語訳すると機関短銃、機関拳銃となるが、逐語英訳である"Machine Pistol"(マシンピストル)は、フルオート射撃可能な拳銃を指すため注意が必要である(マシンピストルの項目を参照)
また、銃器メーカーによっては、小銃弾を使用する短銃身のアサルトライフルにサブマシンガンの名称を用いることもある。
概要
短機関銃は、近接戦闘に特化した銃である。
短機関銃の登場は第一次世界大戦に遡る。当時は塹壕戦が戦いの中心であり、浸透戦術によって塹壕に侵入しようとするドイツ突撃隊が新兵器の短機関銃を優先的に装備した。塹壕内の狭い空間での戦いは近接戦闘の連続であり短機関銃が適していた。従来の着剣小銃は長い銃身により射程で短機関銃に優越していたが、塹壕内では取り回しづらく、白兵戦や射撃を行うのが難しかった。一方、短機関銃は携帯性に優れ、狭い空間での取り回しが容易だった、塹壕内の白兵戦にも適していた。また、連射による制圧も行なえた[1]。
その後、連発能力が低いボルトアクション小銃を補完する存在として、各国軍や警察に採用された。
第二次世界大戦が始まると、連射によって弾幕を張ることができる短機関銃は狙撃が必要な小銃に比べて新兵の訓練期間が少なくて済むこと、構造が単純で安価であることなどの理由から大量生産され使用された。第二次世界大戦後は、連射能力を有し、遠距離射撃にも対応できる突撃銃(アサルトライフル)が普及したため、短機関銃は小型・携帯性を生かした護身用途が中心となった。
従来の短機関銃は命中精度がかなり低く、誤射の危険が大きかった。しかし、1960年代にH&K MP5などの高精度の短機関銃が開発されると、特殊部隊や警察においても、それらを近距離戦闘用等に採用するようになった[1]。
犯罪者が利用する短機関銃もまた大変な脅威になるため、多くの国では銃規制の対象である。
歴史
第一次世界大戦
世界で最初に実用化された短機関銃は、第一次世界大戦末期にドイツ帝国軍が開発したMP18である。拳銃弾を使用するフルオートマチックの銃としてはイタリアのビラール・ペロサM1915(1915年)の方がMP18よりも早い[1]。しかしこれは銃の前部に二脚と後部に二個のグリップを持ち、設置して使用することが前提になっていることなど、本格的な機関銃が不足したための代用としての性格が強く、のちの短機関銃的な運用はなされなかったため、通常短機関銃のカテゴリーには入れられていない。1918年3月のドイツ軍最後の大攻勢において、塹壕戦の膠着状態を打開のために編制されたシュトース・トルッペン(Stoßtruppen)に約5,000挺が配備され大戦果を挙げた。しかし、ドイツ帝国軍はこの攻勢を持続できずに敗戦を迎え、戦後のヴェルサイユ体制下でMP18の配備は禁止された[1]。
アメリカ合衆国ではスプリングフィールドM1903小銃に最低限の加工を施し、ボルトを外して「ピダーセン・デバイス(en:Pedersen device) 」と呼ばれるユニットを組み込むと自動小銃のように使用できる、セミオートの短機関銃とでも言うべき兵器(正確にはピストル弾使用のオートカービン)が開発された。この銃は.30口径拳銃弾を使用し、機関部から右斜め上に向かって40発入りの長い弾倉が突き出ているのが外見的特徴であり、制式名称は“US Automatic Pistol, Caliber .30, Model of 1918”とされ、銃器としての機能はシンプル・ブローバック式の自動拳銃と同じ物であった[2]。ピダーセン・デバイスは第一次大戦の塹壕戦で求められた近接戦闘用兵器として500,000個が大量生産され、1918年7月の連合軍最終攻勢で実戦使用されたが、間もなく終戦を迎えた。その後、同デバイスの大部分はスプリングフィールド造兵廠で保管されていたが、M1ガーランドが採用された事で廃棄処分となった[3]。
第一次大戦直後にトンプソンM1921が完成し、アメリカ陸軍が興味を示したが、戦後の大軍縮の影響で大量配備には至らなかった。当時、短機関銃にもっとも興味を示したのは、禁酒法下で密造酒の製造や酒類の密輸で急成長し、相互の抗争のエスカレートから武装強化を図っていたギャング(マフィア)たちと、それを取り締まる司法組織(FBI、IRSなど)であり、ロシア革命の影響で勢力を拡大した労働組合のストライキを主とする実力闘争を鎮圧する需要から成長していた民間の警備会社や、組合側が自衛のために雇ったマフィアなどの武装集団も格好の武器として多用した。
また、国外に輸出されたトンプソンM1928は中国・欧州・中東・中南米など全世界で使用され、ニカラグア革命では鎮圧のため同国へ侵攻したアメリカ海兵隊がジャングル戦で同銃を活用したサンディーノの革命軍に返り討ちにされる事件なども発生し、戦間期を代表する短機関銃となった。
1930年代のギャング映画では「シカゴ・ピアノ」「シカゴ・タイプライター」「トミーガン」の通称でトンプソンM1928(しかも50連ドラムマガジン付きの)が派手な小道具として頻出し、「ギャングの武器」というイメージを世界中に印象づけることになった。
第二次世界大戦
ドイツではヒトラー政権下で再軍備が始まると、戦車に随伴する歩兵の火器として短機関銃が見直され、スペイン内戦に派遣されたドイツ義勇軍のコンドル軍団はMP18の改良型であるMP28短機関銃を使用し、その価値が実証された。
大戦初期の電撃戦の成功にも、短距離ながら濃密な弾幕を簡単に形成できる短機関銃は大きく貢献した。これは当時の歩兵が通常装備したボルトアクション方式の手動ライフル銃は、速射が利かず、また、リーチの短い銃剣に比べ、近接戦闘における短機関銃の制圧火力が圧倒的だったためである。
同時に、ピストルを装備していた下級将校の防御力不足が判明すると、一般の歩兵と同じく小銃装備だった下士官達ともども短機関銃の配備が計画され増産が図られたが、MP28は小銃と同形態の削り出しレシーバーや木製ストックで製造された銃器であり生産性は良くなかったため、レシーバーなどを鋼板プレスで生産し、ショルダーストックも金属製とし、ベークライト部品を導入するなど新しい製法を導入して生産性を著しく高めたMP38やその改良型であるMP40が造られた。MP40の評価は特に高く、敗戦まで大量生産され総生産数は100万丁に達した。戦後もイスラエル国防軍の主力銃器のひとつとなり、南アメリカやアフリカといった過酷な環境でも長年使用されている。
同じ頃にフィンランドへ侵攻したソ連赤軍はスオミ KP/-31を装備したフィンランド軍に苦戦した経験から、これを参考に製造されたPPSh-1941が採用され、独ソ戦やその後の満洲侵攻で大量に使用され、当時これを見た日本人の間では“マンドリン”の通称で記憶されている。
短機関銃の運用でドイツに遅れを取ったイギリスでは、ダンケルクからの敗走で装備の多くを失った数十万の自軍兵士のために、生産コストを重視した設計のステン短機関銃が開発され、玩具メーカーまで動員しての大量生産が行われた。同銃はイギリス軍や植民地軍の他にもドイツ国防軍や日本軍の占領下各地で活動するレジスタンス勢力へパラシュート投下される援助兵器としても広く用いられた。
米国ではトンプソンが第二次世界大戦の開始とともにイギリス軍やアメリカ軍で本格的に使用され、中国大陸やフィリピンでは鹵獲された同銃を日本兵も使用するなど敵味方を超えた絶大な人気を誇ったが、生産性が悪いため代わって開発されたM3(通称:「グリースガン」)が1943年に採用されることになる。自動車メーカーの鋼板プレス技術を用いて開発されたこの銃は、MP40やステン短機関銃の影響が明白であった。
第二次世界大戦後も多くの国では短機関銃の配備を続けた。しかし戦後に超大国として出現したソ連は、戦中にドイツが開発したStG44の流れを汲むAK-47を短機関銃と小銃を兼ねる存在として採用したため、ソ連の影響下にあった東側ブロック諸国では大量の短機関銃が退役し、冷戦下で勃発した世界各地での紛争に安価な援助兵器として大量投入された。
逆に西側陣営では、高威力長射程だが反動も強い7.62x51mm NATO弾がアメリカの強い後押しでNATOの共通新型小銃弾として採用された結果、AK-47と同世代の西側製突撃銃であるFN FALやH&K G3、スプリングフィールドM14はどれもフルオート連射時の反動制御が難しいうえに全長も概して長い(3種類とも1mを超える)ため、戦車兵やヘリコプター搭乗員などの自衛用に短機関銃の配備と運用が続けられた。
拳銃弾は小銃弾に比べて発射ガスの量が少なく低圧で、初速も遅いためにサプレッサーの効果が得やすい利点があったため、発射音を抑制した短機関銃はゲリラ戦やテロ活動には格好の武器であった。特に中国は様々な改良を繰り返し、「微声」とよばれる独自の消音短機関銃を発展させており、朝鮮戦争やベトナム戦争では、共産側勢力がサプレッサー付短機関銃を投入して、山岳地帯やジャングルでのゲリラ戦で多用し、アメリカ軍を苦しめた。
戦後に出現した短機関銃であるイスラエルのUZIサブマシンガンは、L型ボルトと呼ばれるアイデアで全長を短くして携帯性を向上させたものだったが、このアイデアを取り入れた小型の短機関銃は以降の主流となり、イングラムM10や日本の陸上自衛隊が採用した9mm機関けん銃なども、この系統に属している。
第二次世界大戦以降
その後、1977年のルフトハンザ航空181便ハイジャック事件では、GSG-9がドイツ製短機関銃H&K MP5を用いて鎮圧に成果を挙げ、その名は一挙に広まった[1]。
MP5シリーズはローラー遅延式ブローバックを用いた独特の構造により良好な命中精度と集弾性を実現した「拳銃弾を使用するアサルトライフル」とでも言うべき短機関銃だった。精密な構造から従来の短機関銃よりずっと高価で整備に手間がかかるという欠点があったものの、警察・特殊部隊を中心に広く採用された。
また、近年ボディアーマーが進化・普及し、従来の拳銃弾ではこれを貫通するのが困難となったため、FN P90やH&K MP7のようにライフル弾を小型化して貫通力に優れた新しい弾薬が開発され、近距離でアサルトライフル並の貫通力を実現した存在である「PDW(Personal Defence Weapon:個人防衛兵器)」と呼ばれる新ジャンルの火器が登場している。
PDWは車両などの搭乗者や後方勤務の兵士が自衛のために持つことを想定したものであり、短機関銃を後継する存在と考えられている(PDWとは元々H&K MP7に付けられていた開発コードだった)が実際の採用例はまだ少なく、多くの軍隊ではPDW用途として銃身やストックを短縮化した小型のアサルトライフルを用いている。 テンプレート:-
日本での呼称
兵器の分類と呼称は、技術の進歩や戦術の変化、しばしば政治的な理由により、時代や国により異なる。日本では軍隊と警察、陸軍と海軍といった組織間で訳語が異なる。特に短機関銃ではその傾向が強い。公式な名称がどうあれ、日本兵一般の間では、一般に自動小銃と短機関銃が峻別されていなかった。旧軍兵士の回顧録や戦記文学では、交戦国の兵士が使用していた短機関銃が自動小銃と形容されることが多い。
陸軍では落下傘部隊用に制式採用した一〇〇式機関短銃から解る通り、サブマシンガンを機関短銃と呼んでいた。しかしそれ以前には自動短銃と呼んでいた時期や、自動小銃と呼んでいたことさえあった。また、海軍では輸入して装備したMP18などを自動拳銃と呼んでいる。
日本陸軍も他の列強諸国と同様に、第二次世界大戦の開戦まで機関短銃を重要視していなかったが、連合国軍との交戦を通じてその価値を理解した戦争後期には一〇〇式機関短銃の配備を進め、フィリピン戦や沖縄戦では多数が使用されている。
陸上自衛隊では米国製のM3サブマシンガンを11.4mm短機関銃M3A1の名称で制式化していたが、1999年に導入されたミネベア社製の短機関銃は9mm機関けん銃の制式名で採用した。
なお、防衛省では短機関銃、機関短銃、機関けん(拳)銃、マシンピストルの4つをいずれも区別なくsubmachine gunあるいはmachine pistolの訳語に充て、「けん(拳)銃弾を連続射撃する銃。半自動及び全自動の切り換えが可能なものが多い。」としている[4]。
また、日本警察の特殊部隊(SAT)、銃器対策部隊、成田国際空港警備隊、原子力関連施設警戒隊、特殊犯捜査係、海上保安庁の特殊警備隊(SST)、海上自衛隊の特別警備隊(SBU)には、「機関けん銃」と称してドイツ,ヘッケラー&コッホ社のMP5短機関銃が導入されている。