トーマス・オマリー
テンプレート:Infobox baseball player トーマス・パトリック・オマリー(Thomas Patrick O'Malley , 1960年12月25日 - )は、アメリカ合衆国ニュージャージー州出身の元プロ野球選手(内野手)。アメリカ球界での登録名はトム・オマリー(Tom O'Malley)。
元阪神タイガース駐米(アメリカ駐在)スカウト。アイルランド系アメリカ人である。
目次
来歴・人物
MLB時代
テンプレート:By5月8日にサンフランシスコ・ジャイアンツでメジャーデビューを果たし、以後9年間プレーするもののメジャーには定着できず、以後、シカゴ・ホワイトソックス - ボルチモア・オリオールズ - テキサス・レンジャーズ - モントリオール・エクスポズ(現:ワシントン・ナショナルズ) - ニューヨーク・メッツと複数の球団を渡り歩くも、テンプレート:Byのシーズンを除いてレギュラー選手としての成績は残せなかった。
阪神時代
テンプレート:Byに阪神タイガースに入団し、来日。初の春季キャンプでは川上哲治から『今年の外国人選手では一番すばらしい』と評価される。
ビジターの試合で球団カラーの黒ではなくグレーのアンダーシャツを着ていた。これはアメリカ時代[1]のシャツをそのまま愛用していたためである。また、ベンチで帽子を前後逆に被る、メジャーリーグにある『逆転のおまじない』をベンチに持ち込んだ。翌テンプレート:Byから亀山努らナインがオマリーに倣って帽子を逆にする姿が恒例となった。
1992年、前年オフに大洋を解雇されたジム・パチョレックが阪神に入団する。このパチョレックとのコンビで、新庄剛志、亀山努ら若手選手と共に低迷していた阪神の2位躍進に貢献。同年はパチョレックの入団に伴い三塁に転向し、ゴールデングラブ賞を獲得した。
テンプレート:Byは、オールスターゲーム第2戦でMVPを獲得した。ヒーローインタビューの時の『ハンシンファンワ、イチバンヤァー!(阪神ファンは一番やー!)』を決まり文句とした。また、オマリーと共に在籍した外国人選手のパチョレック(同年退団)と郭李建夫が好調の時、当時の日本野球機構の規定では外国人選手が2人までしか出場できないことから『PKO問題』と呼ばれていた。
さらに同年は、首位打者のタイトルを獲得した。タイトル争いに際しては、横浜のロバート・ローズと最終戦まで競り合い、執念を見せた。10月20日終了時点で、ローズは2試合残して480打数157安打で打率.3271、オマリーは1試合残して432打数141安打で打率.3264であり、10月21日に阪神が全日程を終了し、10月22日にダブルヘッダーで横浜が全日程を終了する予定だった。オマリーは最終戦、1打席目にヒットを放って打率.3279とローズを逆転したが、試合の日程上再逆転の可能性もあったため、ベンチに退かずに第2打席も登場して意表を突くセーフティバントを決めて打率を.3294に伸ばしてベンチに退いた。翌日、横浜は最終ダブルヘッダーを迎え、1試合目にローズは4打数1安打で打率を.3264に下げ、2試合目は再逆転を狙って1番打者で登場するも、2打席凡退して再逆転がほぼ不可能になって(残り3打席連続安打でも.3292で逆転不可能)ベンチに退いたため、オマリーが首位打者を獲得した。
しかし、助っ人としては本塁打が少ないことで球団の方針から外れ、テンプレート:Byオフに自由契約となった。オマリー自身も、オールスターゲームで当時巨人監督の長嶋茂雄に対し「ライネンキョジン(来年、巨人)」と移籍をアピールするなど、阪神のフロントに不信感を募らせていた。
阪神時代は神戸の自宅には当時100万円相当のFAX機器を設置し、アメリカに住む両親と毎日のように連絡を取り合っていた[2]。
ヤクルト時代
テンプレート:By、オリックスとの争奪戦の結果、ヤクルトスワローズに入団。同年は打率.302、打点87を記録、自己最多の31本の本塁打を放ちチームのセントラル・リーグ優勝に大きく貢献した。ヒーローインタビューの決め台詞も「ヤクルトファンノ、オウエン、クダサーイ!(ヤクルトファンの応援ください)」に変わった。
オリックスとの日本シリーズでもMVPに輝き、チームの日本一にも大きく貢献。この時の小林宏投手との14球にわたる対戦は、「小林-オマリーの14球」として同年日本シリーズの名場面として語り継がれている。同年のシーズンMVPを獲得。日本プロ野球史上外国人選手としては初(2013年シーズン終了時現在で唯一)の、ペナントレース・日本シリーズ・オールスターゲームの3つでMVPを獲得した選手となった。
テンプレート:By、外国人選手初の6年連続打率3割を達成。しかし、同年オフに監督の野村克也が巨人を退団した落合博満の獲得を強く望んだため(落合の入団は日本ハムファイターズとの争奪戦に敗れて実現せず)、契約上の問題が生じたとしてこの年限りでヤクルトを退団した。その後テキサス・レンジャーズに招待選手としてキャンプ参加するが解雇されそのまま現役を引退。
現役引退後
テンプレート:Byからテンプレート:Byまでアメリカ独立リーグのニューアーク・ベアーズ初代監督を務めた。
テンプレート:By、阪神春季キャンプにヤクルト時代の監督でもあった野村を表敬訪問し、その際に外国人選手へのアドバイスが高く評価されて翌年の阪神コーチ就任が濃厚となるが、野村の退団に伴い白紙に。しかし、その際の口約束のためにベアーズ監督を辞任していたことから、翌テンプレート:Byの春季キャンプの臨時打撃コーチとして阪神に復帰。そのキャンプ中の熱心な指導が監督の星野仙一にも評価され、そのまま特命コーチとしてシーズン中もチームに帯同した。2002年からテンプレート:Byまでの特命コーチ時代はジョージ・アリアス、トレイ・ムーア、ジェフ・ウィリアムス、ジェロッド・リガンらを指導するなど外国人選手の支えとなり、2003年のリーグ優勝に貢献した。岡田彰布の監督就任によりコーチを退任。
テンプレート:By、阪神の駐米スカウトに就任。同年10月、ライブドアベースボールの監督就任を要請され受諾したが、同球団の日本プロフェッショナル野球組織への参入が無くなったため白紙に。その後も阪神の駐米スカウトとして活動したが、シェーン・スペンサー、ルー・フォード、ケビン・メンチと獲得に携わった外国人選手がスペンサー以外は結果を残せなかった(そのスペンサーもあくまで及第点レベル)。そのため、テンプレート:By11月、阪神との契約を解除された。早くから、オマリーのスカウティング能力には疑問の声があがっていた。実際に岡田が監督を務めていた2005年オフには契約解除が内定しながらもオマリーへの通告が行われず、翌春キャンプに来日。結果的に契約が延長されるという事態となった。阪神スカウト解任後は、プロ野球交渉代理人アーン・テレムの事務所に所属し、日本人選手のメジャーリーグ進出への橋渡し役として活躍していた[3]。
テンプレート:By10月に、阪神の一軍打撃コーチ補佐として、9年振りに現場へ復帰した[4]。ただし、一軍の打撃コーチが同年に続いて(関川浩一・高橋光信との)3人体制になったことから、オマリーはテンプレート:Byの公式戦に(ユニフォームを着用しない)スコアラー扱いでベンチに入る予定[5]。
プレースタイル
非常に選球眼が優れ、また投手の配球を読むことに長けた選手で、外国人選手初の6年連続打率3割を達成するなど、打撃面では安定した好成績を残した。しかし、守備中にバントシフトをとらないなど怠慢な姿勢も見られた。長嶋茂雄に憧れており、小さなヘルメットを浅く被っていた(長嶋のように、スイングを行った際メットが飛ぶようにするため)。また、よくガムを噛みながらオープンスタンスで打席に立っていた。
詳細情報
年度別打撃成績
テンプレート:By2 | SF | 92 | 327 | 291 | 26 | 80 | 12 | 4 | 2 | 106 | 27 | 0 | 3 | 1 | 1 | 33 | 9 | 1 | 39 | 11 | .275 | .350 | .364 | .714 |
テンプレート:By2 | 135 | 473 | 410 | 40 | 106 | 16 | 1 | 5 | 139 | 45 | 2 | 4 | 4 | 3 | 52 | 4 | 4 | 47 | 12 | .259 | .345 | .339 | .684 | |
テンプレート:By2 | 13 | 27 | 25 | 2 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 2 | 0 | .120 | .185 | .120 | .305 | |
CHW | 12 | 16 | 16 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 1 | .125 | .125 | .125 | .250 | |
'84計 | 25 | 43 | 41 | 2 | 5 | 0 | 0 | 0 | 5 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 7 | 1 | .122 | .163 | .122 | .285 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
テンプレート:By2 | BAL | 8 | 14 | 14 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1 | 4 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | .071 | .071 | .286 | .357 |
テンプレート:By2 | 56 | 200 | 181 | 19 | 46 | 9 | 0 | 1 | 58 | 18 | 0 | 1 | 1 | 1 | 17 | 1 | 0 | 21 | 4 | .254 | .317 | .320 | .637 | |
テンプレート:By2 | TEX | 45 | 134 | 117 | 10 | 32 | 8 | 0 | 1 | 43 | 12 | 0 | 0 | 0 | 2 | 15 | 1 | 0 | 9 | 7 | .274 | .351 | .368 | .718 |
テンプレート:By2 | MON | 14 | 31 | 27 | 3 | 7 | 0 | 0 | 0 | 7 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 1 | 0 | 4 | 0 | .259 | .323 | .259 | .582 |
テンプレート:By2 | NYM | 9 | 11 | 11 | 2 | 6 | 2 | 0 | 0 | 8 | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .545 | .545 | .727 | 1.273 |
テンプレート:By2 | 82 | 133 | 121 | 14 | 27 | 7 | 0 | 3 | 43 | 14 | 0 | 0 | 0 | 1 | 11 | 1 | 0 | 20 | 1 | .223 | .286 | .355 | .641 | |
テンプレート:By2 | 阪神 | 130 | 537 | 476 | 61 | 146 | 29 | 0 | 21 | 238 | 81 | 0 | 1 | 0 | 2 | 57 | 1 | 2 | 83 | 10 | .307 | .382 | .500 | .882 |
テンプレート:By2 | 111 | 478 | 381 | 55 | 124 | 30 | 2 | 15 | 203 | 62 | 3 | 1 | 0 | 1 | 94 | 7 | 2 | 70 | 8 | .325 | .460 | .533 | .993 | |
テンプレート:By2 | 125 | 515 | 434 | 60 | 143 | 32 | 1 | 23 | 246 | 87 | 1 | 1 | 0 | 4 | 75 | 10 | 2 | 71 | 10 | .329 | .427 | .567 | .994 | |
テンプレート:By2 | 124 | 524 | 430 | 61 | 135 | 18 | 2 | 15 | 202 | 74 | 2 | 1 | 0 | 4 | 89 | 17 | 1 | 74 | 15 | .314 | .429 | .470 | .899 | |
テンプレート:By2 | ヤクルト | 125 | 524 | 421 | 83 | 127 | 20 | 0 | 31 | 240 | 87 | 6 | 6 | 0 | 5 | 96 | 23 | 2 | 57 | 8 | .302 | .429 | .570 | .999 |
テンプレート:By2 | 127 | 541 | 461 | 56 | 145 | 23 | 0 | 18 | 222 | 97 | 3 | 4 | 0 | 5 | 74 | 8 | 1 | 70 | 19 | .315 | .407 | .482 | .888 | |
MLB:9年 | 466 | 1366 | 1213 | 117 | 310 | 54 | 5 | 13 | 413 | 131 | 2 | 8 | 6 | 9 | 133 | 17 | 5 | 151 | 37 | .256 | .329 | .340 | .670 | |
NPB:6年 | 742 | 3119 | 2603 | 376 | 820 | 152 | 5 | 123 | 1351 | 488 | 15 | 14 | 0 | 21 | 485 | 66 | 10 | 425 | 70 | .315 | .422 | .519 | .941 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別監督成績
- アメリカ独立リーグ
年度 | チーム | 前・後期 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | 順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
テンプレート:By2 | ニューアーク・ベアーズ | 前期 | 50 | 18 | 32 | 0 | .360 | 5位 |
後期 | 50 | 17 | 33 | 0 | .340 | 6位 | ||
テンプレート:By2 | 前期 | 59 | 24 | 35 | 0 | .406 | 5位 | |
後期 | 60 | 31 | 29 | 0 | .516 | 3位 | ||
テンプレート:By2 | 前期 | 70 | 38 | 32 | 0 | .542 | 3位 | |
後期 | 70 | 36 | 34 | 0 | .514 | 4位 | ||
テンプレート:By2 | 前期 | 63 | 38 | 25 | 0 | .603 | 1位 | |
後期 | 63 | 37 | 26 | 0 | .587 | 2位 |
- 2001年はプレーオフ進出。初戦はナシュア・プライドを2勝1敗で破るも、決勝ではサマセット・パトリオッツに2勝3敗で敗退。
タイトル
- NPB
表彰
- NPB
- MVP:1回 (1995年)
- ゴールデングラブ賞:1回 (1992年)
- ベストナイン:1回 (1995年)
- オールスターゲームMVP:1回 (1993年 第2戦)
- 日本シリーズMVP:1回 (1995年)
- 月間MVP:3回 (1994年5月、1995年4月、1995年8月)
- 優秀JCB・MEP賞:1回 (1995年)
記録
- NPB
- 初出場:1991年4月6日、対横浜大洋ホエールズ1回戦(横浜スタジアム)、3番・一塁手として先発出場
- 初安打・初本塁打・初打点:同上、4回表に中山裕章から右越先制ソロ
- 100本塁打:1995年8月12日、対中日ドラゴンズ17回戦(ナゴヤ球場)、7回表に古池拓一からソロ ※史上183人目
- オールスターゲーム出場:3回 (1993年 - 1994年、1996年)
背番号
- 35 (1982年 - 1984年途中)
- 26 (1984年途中 - 同年終了)
- 17 (1985年 - 1986年)
- 41 (1987年)
- 23 (1988年)
- 27 (1989年 - 1990年)
- 1 (1991年 - 1994年)
- 3 (1995年 - 1996年)
- 89 (2002年 - 2003年)
- 80 (2014年 - )
関連情報
出演番組
- 1993年・1994年に、CM明けのジングル音声を担当(デーゲーム中継や阪神戦以外の試合も含む)。
- 選手引退後に出演。後述する阪神タイガースの球団歌「六甲おろし」を歌唱した。
広告出演
- 阪神特命コーチ及び駐米スカウト時代(2003年 - 2009年)にテレビCM出演。阪神甲子園球場(同社運営)に駐車場がない事への告知および阪神電車での来場を促すCMであり、日本語(関西弁まじり)で「コウシエンキュウジョウニハ、チュウシャジョウハ、アリマヘーン(甲子園球場には、駐車場はありまへーん)。」「ハンシンデンシャガ、イチバンヤー(阪神電車が、一番やー)!」としゃべるCMだった。2007年・2008年は、当時阪神投手のライアン・ボーグルソンの夫人ニコール・ボーグルソンと共演した(ニコールが英語でしゃべり、それをオマリーが日本語訳する形式だった)。駐米スカウト契約解除により2009年度を以って降板。翌年からのCMは川藤幸三が引き継いだ。
CD
- 「オマリーのダイナミック・イングリッシュ」(1994年5月25日発売)
- シングルCDとして6万枚を売り上げた。このCDに収録されている「六甲おろし」(CDでの曲名は「オマリーの六甲おろし」)があまりに音痴であるとして一部で注目を集め、ラジオ番組「コサキンDEワァオ!」でも取り上げられた。
- また、引退後には先述のテレビ番組「LOVE LOVEあいしてる」にもゲストとして招かれ、生歌で六甲おろしを披露した。このオマリーが歌った六甲おろしは、1番の歌詞が日本語、2番の歌詞が英語である。後日、番組のバックバンドでギターを演奏していた吉田拓郎はこの回の演奏について「人生で一番音楽を辞めたくなった瞬間だった」と発言している。
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:Navboxes- ↑ ミネソタ・ツインズ在籍時という説があったが、在籍経験がないため他球団である可能性が高い。
- ↑ ベースボールマガジン、2011年9月号 P63
- ↑ オマリー氏、虎視眈々 日本人メジャーリーガー発掘を目指す - スポーツ - ZAKZAK(2010年5月14日付)
- ↑ [1]
- ↑ オマリーコーチ補佐 ユニホーム着ずベンチ入りへ- スポーツニッポン(2013年12月27日付)